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  聖徳太子と西突厥の達頭(タルドゥ)可汗は同一人物であった。
 古代において、日本の国家形態、あり方の基礎を築いた英雄としての「聖徳太子」の存在は、誰も否定することができないと思います。
「隋書倭国伝」に「日出ずる処の天子が、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)はないか」(石原道博訳)とあります。物怖じせず、隋に対して堂々と国交を主張しました。また、十七条憲法の冒頭には、「和を大切にし、いさかいをせぬようにせよ」(宇治谷孟子訳)とあり、日本の官僚国家体制のあり方を規定しました。仏教の教義にも精通していました。日本仏教の基礎も築きました。

 しかし、その英雄の尊称である聖徳太子が歴史から消されようとしています。教科書改訂において聖徳太子を厩戸皇子に変えるという主張がそれです。また、壱万円札からも聖徳太子は消えました。

 聖徳太子の存在を消してしまいたい一族がいるのです。この一族は隠然たる力を今日も持っています。645年大化の改新で指導権を握った藤原鎌足の一族がその後天皇の外戚として昭和の御代まで皇后を輩出してきました。鎌足の子供の藤原不比等が主導で日本書紀が作られました。日本書紀は、藤原氏の政権を正当化するために作られました。聖徳太子の真実が記録では、720年の日本書紀から改ざんされているのです。
 また、明治維新まで五摂家となり宰相の地位を独占し、権威を持ち続けました。明治維新までの権威であり、明治維新後も華族として権威をもちつづけたのが、この藤原氏です。

 日本を壊滅させ共産主義革命を起こすために、太平洋戦争を企図し、日本を敗北に導いた最大の戦争犯罪者である近衛文麿(※ 1 )も五摂家の筆頭の家柄にあたります。

  この藤原氏は藤氏であり、「藤」=「唐」です。つまり、藤原氏は中国系(盤古系)であり、中国系が日本をズーと今日にいたるまで、政財界に隠然たる力を蓄えて日本を支配してきています。日本の国家体制の礎を築いたのは藤原氏であるということにしたいために、藤原氏にとって、聖徳太子の存在はどうしても歴史から抹殺してしまいたい存在なのです。日本の古代国家の礎を築いたのは、聖徳太子を筆頭とするイスラエル・ユダヤ系であったことを消したかったのかもしれません。
 聖徳太子の活躍した飛鳥時代の政権の中枢は、蘇我氏と物部氏で藤原氏は存在していませんでした。なお、藤原氏につてもユダヤ系であったが大化の改新・壬申の乱の動乱の結果、唐のバックアップにより中国系(盤古系)の天皇となり、ユダヤ系中臣氏から「唐」を意味する「藤(原)氏」に改名させられたのかもしれません。この場合は、藤原氏は、唐にすり寄って、ユダヤ系の立場を捨ててしまったということになります。

 隠滅抹殺されようとしている聖徳太子はいかなる人物なのか。「聖徳太子の正体 英雄は海を渡ってやってきた」小林惠子著(1990年 文藝春秋)をヒントに解明してゆきたいと思います。

 小林惠子らによれば、聖徳太子(日本書紀の記述では、574年〜622年)は、西突厥の達頭(タルドゥ)可汗(可汗は王の称号)という国際人であったというのです。

 日本の古代国家の建設にあたり、イスラエル・ユダヤ系の人々が重要な役割をはたしました。イスラエルの失われた10支族(※2)は、まず出雲に上陸し、神在月の伝説に見られるように日本各地に散っていきました。年に1度10月に出雲に集合してそれぞれの地域の様子を報告しあいました。また、建国の中心であった出雲の地よりより次年度の方針が伝えられました。大国主命の王国です。

 次に、ユダ族など2支族(※3)がダビデの王統を伴って九州の宇佐に上陸し、東征によって大国主の王国を接収して日本国家の基礎を築きました。あとから来たユダヤ系が政権を奪取しました。敗北をきっしたイスラエル系の大集団を代表するのが物部氏です。587年に物部氏が中央政界から追放されイスラエル系の日本における立場が危うくなります。神道とユダヤ教の祭祀は、偶像を崇拝しないなど、共通点が多く シルク=ロードの商業ルートを支配していたのは、イスラエル・ユダヤ系の人々です。
 『ユダヤと日本 謎の古代史』マーヴィン・トケイヤ著(産業能率大学出版部、1975年)に詳しく書かれてあります。
 シルク=ロードの治安を維持し、隊商を守っていたのが騎馬民族です。 騎馬民族は、シルク=ロードを利権として支配していたといえるかもしれません。
 ユダヤ隊商と騎馬民族の二人三脚の協力なしにはビザンツ帝国のコンスタンティノープル(イスタンブル)から奈良の正倉院までのシルク=ロードの隊商の安全は維持できなかったでしょう。

 突厥は、トルコ(テュルク)民族の国です。現在のトルコ民族はコーカソイド(白人)の特徴を備えていますが、唐の時代の突厥民族は、黒髪、黒目でモンゴロイド(黄色人種)の特徴を持っていたようで、混血により、コーカソイドの特徴を多く持つようになりました。ちなみに、突厥は、現在のトルコ共和国によってトルコ民族の国家のルーツとされています。 歴史をたどりますと、突厥の建国は552年。柔然を滅ぼしシルクロードに覇を唱え、582年に東西に分裂しました。西突厥は742年に滅び、東突厥は745年同じトルコ民族のウイグルによって滅亡しました。ユダヤと突厥のつながりについて、突厥のルーツは、「西海の北にあったが、国が滅んだ時に1男子が生き延び、雌オオカミに食料を運んでもらい、生き延びた。やがて男子は殺されたが、男子の子を孕んだ雌オオカミが10人の子を産み、これが突厥民族の始祖となった」、という伝説が「隋書」にあるようです。突厥の中心氏族の阿史那氏もその1人でした。  オオカミに育てられた子供が建国したというローマ建国神話を彷彿させる建国神話であり、西側からやってきたことが推測されます。またユダヤ12支族のベニアミン族のシンボルはオオカミでした。また、ユダヤ12支族は、日本人と同じアジア系です。突厥とも一致します。552年突厥を建国した可汗を「ブミン」といいます。突厥の始祖が、ブミンなのです。ブミンは、ユダヤ12支族のベニヤミン族に音が通じます。
 竹内和夫によれば、突厥は、「9」を意味する「Tokkuz」の可能性があるということです。 ヤコブの子供がイスラエル12支族となりました。創世記35章23節から26節によると、「ヤコブの子は十二人だった。レアの子は、ヤコブの長男ルベン、そしてシメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ザブロンである。ラケルの子は、ヨセフとベニヤミンである。ラケルの女奴隷ビルハの子は、ダンとネフタリである。レアの女奴隷ジルパの子は、ガドとアシェルである。」とあります。ベニヤミンは、8番目。 ヨセフの子供エフライムとマナセは、ヤコブの養子として祝福されますので、ベニヤミンは9番目になります。突厥の「9」は、ベニアミン族をさすことになりはしないでしょうか。ちなみに、ベニヤミンに対するヤコブの祝福の言葉は『ベニヤミンは略奪のおおかみ、朝に奪った物を食い、夕べには獲物を分ける』(創世記49章27節)でした。遊牧騎馬民族としての特徴を言い当てているように思います。
 
 西突厥の達頭(タルドゥ)可汗は、聖徳太子としての日本における足跡からユダヤ系騎馬民族の王であった推定されるのです。
 
 達頭は隋の煬帝とも戦いながら高句麗をへて、601年頃、斑鳩寺のある兵庫県の太子町に拠点を築き、そこから奈良県明日香村の斑鳩宮に入り、日本書紀では推古天皇の皇太子、摂政として日本の古代国家の基礎を築きました。

 兵庫県の太子町の斑鳩寺に伝わる宝物に「地球儀」があります。古代のギリシアでは大地は球体であることが知られてました。しかし、中世キリスト教世界では、大地は平らであるとされていました。さて、シルク=ロードを駆け巡った騎馬民族にとっては地球球体説は自明の理であったと思われます。聖徳太子伝来であるということであれば、納得のできる宝物です。ちなみにこの地球儀には、アメリカ大陸やオーストラリア大陸がありません。日本列島も北海道がなく、くの字型の本州島と九州島、沖縄島が書かれています。
 太子町の斑鳩寺。1400 年の歴史を持つということですが、1541年尼子政久の侵入によって悉く焼失し、江戸時代以降の建物しか残っていませんでした。聖徳太子伝来と小林恵子のいう地球儀は宝物殿にありましたが、説明では江戸期のものあると思うということでした。焼失を免れたという聖徳殿にある16歳の太子像は、神道の笏(しゃく)と仏教の香炉のようなものを持っておられました。まさに、日本仏教の祖としてふさわしいと思いました。(令和元年11月27日訪問)

「大業三年(607年)、その王多利思比孤、使(小野妹子)を使わして朝貢した。」と隋書倭国伝にあります。日本書紀による当時の王は、推古天皇で女帝です。しかし、この王タリシヒコは男性です。実は聖徳太子は、皇太子(東宮)ではなく、王であったするとすっきりと読めます。この場合、推古天皇(豊御食炊屋姫尊)は、祭祀を司り、上宮法王(聖徳太子)は、摂政として政治を司り、対外的には王としてふるまったのではないでしょうか。

 兵庫県の太子町の西には、ユダヤ系景教徒の代表とされる秦河勝( ※4 )の本拠地ではないかとされる赤穂市坂越があります。坂越にはダビデ王をまつったとされている大避神社があります。この秦河勝は、聖徳太子に献身的に仕えました。聖徳太子がユダヤ系であった傍証ではないでしょうか。

 さて、謎につつまれた聖徳太子と達頭が同一人物である証拠・痕跡について述べてゆきます。

 日本書紀と隋書、突厥の歴史に出てくる年号に若干のずれがあります。日本書紀による聖徳太子の生涯(574年〜622年)の記述を絶対であるとすると矛盾が生じます。しかし、藤原不比等プロデュースによる藤原氏の祖の藤原の鎌足以来の藤氏政権と壬申の乱に勝利した天武天皇政権を正当化するための歴史書が日本書紀であると見破れば、越えられないギャップではありません。

 聖徳太子の生誕の伝説に「母の間人皇女は、西方の救世観音菩薩が黄金の光となって皇女の口から体内に入り、厩戸皇子を身ごもった」「厩戸(うまやど)の前で産気づき産屋につれてゆき、太子が生まれると西方よりの黄金の光が産屋を覆った」とあります。 西方の救世観音菩薩の生まれ変わりは、キリストの誕生伝説を彷彿させます。イエスは馬小屋で生まれました。また、シルク=ロード上には、イスラエルから東方に移動して、ユダヤ系ネストリウス派キリスト教徒が多くいたことを思い出させます。西方とは西突厥で生まれたことを指し示していると考えれば説明がつきます。
ありますが、物部氏=イスラエル10支族説については、ここではふれません。

 
  達頭可汗(在位576-603)は、西突厥の可汗(=王)としてシルクロードを往来して、ユダヤ人の隊商を保護していた。そして、同胞の多くいる日本にも渡来して聖徳太子(厩戸皇子)となった。最後は、子供達を残して、大陸に帰って行ったとのことです。シルクロードの通商をユダヤ人が支配していたことは、『ユダヤと日本 謎の古代史』マーヴィン・トケイヤ著(産業能率大学出版部1975年)に詳しい。
  シルク=ロードの商業ルートを支配していたのは、イスラエル・ユダヤ系の人々です。
 『ユダヤと日本 謎の古代史』マーヴィン・トケイヤ著(産業能率大学出版部、1975年)に詳しく書かれてあります。
 シルク=ロードの治安を維持し、隊商を守っていたのが騎馬民族です。 騎馬民族は、シルク=ロードを利権として支配していたといえるかもしれません。
 ユダヤ隊商と騎馬民族の二人三脚の協力なしにはビザンツ帝国のコンスタンティノープル(イスタンブル)から奈良の正倉院までのシルク=ロードの隊商の安全は維持できなかったでしょう。

 突厥は、トルコ(テュルク)民族の国です。現在のトルコ民族はコーカソイド(白人)の特徴を備えていますが、唐の時代の突厥民族は、黒髪、黒目でモンゴロイド(黄色人種)の特徴を持っていたようで、混血により、コーカソイドの特徴を多く持つようになりました。ちなみに、突厥は、現在のトルコ共和国によってトルコ民族の国家のルーツとされています。 歴史をたどりますと、突厥の建国は552年。柔然を滅ぼしシルクロードに覇を唱え、582年に東西に分裂しました。西突厥は742年に滅び、東突厥は745年同じトルコ民族のウイグルによって滅亡しました。ユダヤと突厥のつながりについて、突厥のルーツは、 「西海の北にあったが、国が滅んだ時に1男子が生き延び、雌オオカミに食料を運んでもらい、生き延びた。やがて男子は殺されたが、男子の子を孕んだ雌オオカミが10人の子を産み、これが突厥民族の始祖となった」、という伝説が「隋書」にあるようです。突厥の中心氏族の阿史那氏もその1人でした。  オオカミに育てられた子供が建国したというローマ建国神話を彷彿させる建国神話であり、西側からやってきたことが推測されます。またユダヤ12支族のベニアミン族のシンボルはオオカミでした。また、ユダヤ12支族は、日本人と同じアジア系です。突厥とも一致します。552年突厥を建国した可汗を「ブミン」といいます。突厥の始祖が、ブミンなのです。ブミンは、ユダヤ12支族のベニヤミン族に音が通じます。
 竹内和夫によれば、突厥は、「9」を意味する「Tokkuz」の可能性があるということです。 ヤコブの子供がイスラエル12支族となりました。創世記35章23節から26節によると、「ヤコブの子は十二人だった。レアの子は、ヤコブの長男ルベン、そしてシメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ザブロンである。ラケルの子は、ヨセフとベニヤミンである。ラケルの女奴隷ビルハの子は、ダンとネフタリである。レアの女奴隷ジルパの子は、ガドとアシェルである。」とあります。ベニヤミンは、8番目。 ヨセフの子供エフライムとマナセは、ヤコブの養子として祝福されますので、ベニヤミンは9番目になります。突厥の「9」は、ベニアミン族をさすことになりはしないでしょうか。ちなみに、ベニヤミンに対するヤコブの祝福の言葉は『ベニヤミンは略奪のおおかみ、朝に奪った物を食い、夕べには獲物を分ける』(創世記49章27節)でした。遊牧騎馬民族としての特徴を言い当てているように思います。
 
 西突厥の達頭(タルドゥ)可汗は、聖徳太子としての日本における足跡からユダヤ系騎馬民族の王であった推定されるのです。
 
 達頭は隋の煬帝とも戦いながら高句麗をへて、601年頃、斑鳩寺のある兵庫県の太子町に拠点を築き、そこから奈良県明日香村の斑鳩宮に入り、日本書紀では推古天皇の皇太子、摂政として日本の古代国家の基礎を築きました。

 兵庫県の太子町の斑鳩寺に伝わる宝物に「地球儀」があります。古代のギリシアでは大地は球体であることが知られてました。しかし、中世キリスト教世界では、大地は平らであるとされていました。さて、シルク=ロードを駆け巡った騎馬民族にとっては地球球体説は自明の理であったと思われます。聖徳太子伝来であるということであれば、納得のできる宝物です。ちなみにこの地球儀には、アメリカ大陸やオーストラリア大陸がありません。日本列島も北海道がなく、くの字型の本州島と九州島、沖縄島が書かれています。

 「大業三年(607年)、その王多利思比孤、使(小野妹子)を使わして朝貢した。」と隋書倭国伝にあります。日本書紀による当時の王は、推古天皇で女帝です。しかし、この王タリシヒコは男性です。実は聖徳太子は、皇太子(東宮)ではなく、王であったするとすっきりと読めます。この場合、推古天皇(豊御食炊屋姫尊)は、祭祀を司り、上宮法王(聖徳太子)は、摂政として政治を司り、対外的には王としてふるまったのではないでしょうか。

 さて、謎につつまれた聖徳太子と達頭が同一人物である証拠・痕跡について述べてゆきます。

 日本書紀と隋書、突厥の歴史に出てくる年号に若干のずれがあります。日本書紀による聖徳太子の生涯(574年〜622年)の記述を絶対であるとすると矛盾が生じます。しかし、藤原不比等プロデュースによる藤原氏の祖の藤原の鎌足以来の藤氏政権と壬申の乱に勝利した天武天皇政権を正当化するための歴史書が日本書紀であると見破れば、越えられないギャップではありません。

 聖徳太子の生誕の伝説に「母の間人皇女は、西方の救世観音菩薩が黄金の光となって皇女の口から体内に入り、厩戸皇子を身ごもった」「厩戸(うまやど)の前で産気づき産屋につれてゆき、太子が生まれると西方よりの黄金の光が産屋を覆った」とあります。 西方の救世観音菩薩の生まれ変わりは、キリストの誕生伝説を彷彿させます。イエスは馬小屋で生まれました。また、シルク=ロード上には、イスラエルから東方に移動して、ユダヤ系ネストリウス派キリスト教徒が多くいたことを思い出させます。西方とは西突厥で生まれたことを指し示していると考えれば説明がつきます。
 
 聖徳太子を写した救世観音を祀る法隆寺の夢殿は、騎馬民族の住居であるパオを木造化であるともいえます。天平11年(739)ころ行信の創建になる八角堂。
日本書紀には、「壮年になり、一度に十人の訴えを聞かれても、誤られなく、先のことまでよく見通された。」とあります。「一度の十人の訴えを聞かれた」とあるのは、10カ国語を理解したするならば、シルク=ロードを支配し、日本まできた西突厥の王にふさわしい国際人であることを示しています。

 西突厥の達頭可汗は、598年に東ローマ帝国マリウスに送った書簡の冒頭の語は「世界の七人種の大首領、七国土の君長たる可汗は敬いてローマ皇帝に曰す」であったといいます。この言葉は、「日出ずる処の天子……」と隋の煬帝に対等の外交を主張する気宇壮大さに低通すると共に「七人種の大首領」は、7カ国語を話せるバイリンガルを示唆しているのではないでしょうか。

 「先のことをよく見通された」ということについては、楠木正成が、後醍醐天皇の許可をえて聖徳太子創建の四天王寺(の伏蔵)に収蔵されていた聖徳太子の預言書である「未来記」を見たという記述があります。預言の内容まで太平記に残されています。この「未来記」は、楠木正成に後醍醐天皇をはじめとする天皇の絶対性について認識させました。
 四天王寺と法隆寺には伏蔵がそれぞれ3つあるということです。開かずの伏蔵には何がかくされているのか非常に興味のあるところです。また、預言者として聖徳太子をみるならば、古代ユダヤの預言者が思い出されます。

 中山市朗によると、聖徳太子の建てたという四天王寺には、物部氏ゆかりの土地に、587年の戦に敗れた物部守屋を祭る祠があり、生駒山をご神体山とする物部神道をひそかに伝えるための鳥居やなぞの石などがあるということで、今でも物部氏ゆかりの人々が、四天王寺の様々な秘密の祭祀を支えているということがあるようです。
 そうすると、仏教を押す蘇我系の皇子として、神道を奉じる物部氏と戦ったという日本書紀の記述が怪しくなります。摂政になるまえの逸話の前提が大きな鳥居のある四天王寺によってくずれてしまうのです。

 聖徳太子の斑鳩宮についてです。斑は「まだら」を表します。聖徳太子の愛馬は烏斑であったと『補闕記』にあります.斑の鳩は、ササン朝ペルシアで信仰されたゾロアスター教の水の女神アナーヒターの使いの鳥であるとされます。斑鳩の名からも西アジア出身であったことの痕跡が見て取れます。

 聖徳太子の死後、斑鳩宮にいた子の山背大兄皇子は、743年蘇我入鹿に攻められ、一族もろとも自害して果てます。日本の古来の習わしでは必ず子孫を残し、怨霊とならないように祭祀させます。しかし、山背大兄皇子の一族の死をもって聖徳太子の一族は死に絶えます。遠く西アジアにルーツをもつ聖徳太子一族を排除せざるを得なかったのでしょう。

 しかし、死の絶えた聖徳太子の一族は、怨霊となりました。

 怨霊を鎮めるために厩戸皇子は、聖徳太子と平安初期に尊称されるようになりました。また、怨霊を鎮めるために法隆寺が建てられました。法隆寺の夢殿のあたりは斑鳩宮の跡地とされています。夢殿は八角形をなしており、遊牧騎馬民族の家であるパオの形をしています。このパオに聖徳太子は居住していたと考えられます。推古天皇の住居は小墾田宮(奈良県明日香村)で少し離れています。聖徳太子は騎馬民族であるからこそ、馬をはしらせて推古天皇の政庁に出仕することができました。

 1886年に秘仏とされていた聖徳太子を模したといわれる法隆寺夢殿の救世観音を開帳したのは、フェノロサです。開帳すれば天変地異が起き、夢殿が大地震で壊れると僧侶たちは恐れていました。フェノロサによれば、500ヤードの布でぐるぐる巻きにされていたとあります。500ヤードは約457.2メートルになります。まさに怨霊と化した聖徳太子を閉じ込めていたのです。さらに、光背にも注目すると、光背は後頭部に釘で刺されて留められています。これもまた、怨霊封じのため釘で打ち付けたのではないかと思われます。法隆寺が怨霊を封じるために創建された寺であることは、「隠された十字架−法隆寺論−」梅原猛著(昭和47年 新潮社)に詳しく論証されています。

 夢殿の救世観音は月日紋(三日月の上に太陽の○)の王冠(写真)をかぶっていました。月日紋は、ササン朝ペルシアの王冠の象徴です。ササン朝のホスロー1世と西突厥の達頭可汗は、ともに共に西突厥の室点密可汗の娘を娶っていました。聖徳太子がペルシア(中央アジア)の王であった決定的な証拠です。

  日本書紀には、「壮年になり、一度に十人の訴えを聞かれても、誤られなく、先のことまでよく見通された。」とあります。「一度の十人の訴えを聞かれた」とあるのは、10カ国語を理解したするならば、シルク=ロードを支配し、日本まできた西突厥の王にふさわしい国際人であることを示しています。

 西突厥の達頭可汗は、598年に東ローマ帝国マリウスに送った書簡の冒頭の語は「世界の七人種の大首領、七国土の君長たる可汗は敬いてローマ皇帝に曰す」であったといいます。この言葉は、「日出ずる処の天子……」と隋の煬帝に対等の外交を主張する気宇壮大さに低通すると共に「七人種の大首領」は、7カ国語を話せるバイリンガルを示唆しているのではないでしょうか。

 「先のことをよく見通された」ということについては、楠木正成が、後醍醐天皇の許可をえて聖徳太子創建の四天王寺(の伏蔵)に収蔵されていた聖徳太子の預言書である「未来記」を見たという記述があります。預言の内容まで太平記に残されています。この「未来記」は、楠木正成に後醍醐天皇をはじめとする天皇の絶対性について認識させました。
 四天王寺と法隆寺には伏蔵がそれぞれ3つあるということです。開かずの伏蔵には何がかくされているのか非常に興味のあるところです。また、預言者として聖徳太子をみるならば、古代ユダヤの預言者が思い出されます。

 中山市朗によると、聖徳太子の建てたという四天王寺には、物部氏ゆかりの土地に、587年の戦に敗れた物部守屋を祭る祠があり、生駒山をご神体山とする物部神道をひそかに伝えるための鳥居やなぞの石などがあるということで、今でも物部氏ゆかりの人々が、四天王寺の様々な秘密の祭祀を支えているということがあるようです。
 そうすると、仏教を押す蘇我系の皇子として、神道を奉じる物部氏と戦ったという日本書紀の記述が怪しくなります。摂政になるまえの逸話の前提が大きな鳥居のある四天王寺によってくずれてしまうのです。

 聖徳太子の斑鳩宮についてです。斑は「まだら」を表します。聖徳太子の愛馬は烏斑であったと『補闕記』にあります.斑の鳩は、ササン朝ペルシアで信仰されたゾロアスター教の水の女神アナーヒターの使いの鳥であるとされます。斑鳩の名からも西アジア出身であったことの痕跡が見て取れます。

 聖徳太子の死後、斑鳩宮にいた子の山背大兄皇子は、743年蘇我入鹿に攻められ、一族もろとも自害して果てます。日本の古来の習わしでは必ず子孫を残し、怨霊とならないように祭祀させます。しかし、山背大兄皇子の一族の死をもって聖徳太子の一族は死に絶えます。遠く西アジアにルーツをもつ聖徳太子一族を排除せざるを得なかったのでしょう。

 しかし、死の絶えた聖徳太子の一族は、怨霊となりました。

 怨霊を鎮めるために厩戸皇子は、聖徳太子と平安初期に尊称されるようになりました。また、怨霊を鎮めるために法隆寺が建てられました。法隆寺の夢殿のあたりは斑鳩宮の跡地とされています。夢殿は八角形をなしており、遊牧騎馬民族の家であるパオの形をしています。このパオに聖徳太子は居住していたと考えられます。推古天皇の住居は小墾田宮(奈良県明日香村)で少し離れています。聖徳太子は騎馬民族であるからこそ、馬をはしらせて推古天皇の政庁に出仕することができました。

 1886年に秘仏とされていた聖徳太子を模したといわれる法隆寺夢殿の救世観音を開帳したのは、フェノロサです。開帳すれば天変地異が起き、夢殿が大地震で壊れると僧侶たちは恐れていました。フェノロサによれば、500ヤードの布でぐるぐる巻きにされていたとあります。500ヤードは約457.2メートルになります。まさに怨霊と化した聖徳太子を閉じ込めていたのです。さらに、光背にも注目すると、光背は後頭部に釘で刺されて留められています。これもまた、怨霊封じのため釘で打ち付けたのではないかと思われます。法隆寺が怨霊を封じるために創建された寺であることは、「隠された十字架−法隆寺論−」梅原猛著(昭和47年 新潮社)に詳しく論証されています。

 夢殿の救世観音は月日紋(三日月の上に太陽の○)の王冠(写真)をかぶっていました。月日紋は、ササン朝ペルシアの王冠の象徴です。ササン朝のホスロー1世と西突厥の達頭可汗は、ともに共に西突厥の室点密可汗の娘を娶っていました。聖徳太子がペルシア(中央アジア)の王であった決定的な証拠です。

参考図書

○※1 近衛文麿について → 余話の部屋 45.コミンテルン史観 
○※2 イスラエルの10支族の来日説 →余話の部屋 18.出雲の高層神殿 
○※3 ユダヤの2支族の来日説 → 余話の部屋 15.ユダヤ12支族の来日
○※4 秦氏景教徒説 → 余話の部屋 17.シルクロードより来た秦氏について

○「聖徳太子の正体 英雄は海を渡ってやってきた」小林惠子著(1990年 文藝春秋)
     
  夢殿の救世観音は聖徳太子(574年〜622年)がモデルとされる。宝冠の上部にササン朝の王冠の特徴である月日紋がある。達頭可汗(在位576年-603年)とササン朝のホスロー1世(在位531年 - 579年)は、共に西突厥の室点密可汗の娘を娶っている。聖徳太子がイラン地方(ペルシア)から来た有力な物証ではないか。また、ホスロー2世(在位590〜628)は、突厥と友好関係にあったことがしられています。    法隆寺に伝わるササン朝ペルシアの流れくむ四騎獅子狩紋錦。ササン朝の騎士の上部の宝冠に舟のような三日月の上に日がある月日紋が確認できる。
 正倉院御物に典型的なように、ササン朝ペルシアの文物が日本に多く伝えられている。物がくるということは、人の往来もあったに違いない。ペルシア人と思わしき人名も日本書紀に見られる。
 聖徳太子ゆかりの播磨国斑鳩寺につたわる石製の地球儀。騎馬民族の王建頭(タルドゥ)可汗が日本にもたらしたものか。アメリカ大陸とオーストリア大陸、北海道がない。また、九州及び沖縄、本州島が描かれている。
 ペルシアから日本に来たとすれば、地球が丸いという知識は、当然あったと思われる。  

○「隠された十字架−法隆寺論−」梅原猛著(昭和47年 新潮社)
○「法隆寺を歩く」上原和著(2009年 岩波新書)
○「訳註中国正史日本伝」石原道博著(昭和50年 国書刊行会)
○「女帝の世紀」門脇禎二他5名著(「日本史の謎と発見4」所収 昭和53年 毎日新聞社)
○「ユダヤと日本 謎の古代史」マーヴィン・トケイヤ著(産業能率大学出版部、1975年)
○「全訳現代文日本書紀下巻」宇治谷孟著(1986年 創芸出版)
〇「古代遊牧帝国」護雅夫著(昭和51年 中公新書」
〇「聖徳太子四天王寺の暗号」中山市朗著(平成25年 ハート出版)
○「聖書」フェデリコ・バルバロ訳(講談社 昭和55年)東亜戦争肯定論」林房雄著(夏目書房 2001年) 

平成29年12月09日作成   令和元年12月16日最終更新  第124話