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高校生のためのおもしろ歴史教室>余話の部屋

17.シルクロードより来た秦氏

 「新撰氏姓録」によれば、第14代仲哀天皇の8年(199年、実際は4世紀後半のことされている)秦氏の先祖、功満王の来日の記事があります。次の第15代応神天皇の14年(一説によると372年)功満王の息子の融通王が18670人の127県の民を率いて来日したという記事があります。日本書紀にも同年秦氏の先祖の弓月君が120県の民を率いて来日したと記されています。
 秦氏は、秦の始皇帝の子孫を称していますが、どうも違うようです。佐伯好郎によれば、中央アジアのバルハシ湖の南にある「弓月」国(中国語でクンユエ)が、故郷ではないかということです。1世紀から2世紀に存在し、小国ながらキリスト教国であったとのことです。
 秦氏の故郷である、クンユエには、「ヤマトゥ」(英語読みで「ジャマティ」)という地名があるとのことです。アラム語でもヘブル語でも「ヤマトゥ」(「ヤ」は、ヤハウェ、「ウマトゥ」は、民の意味)は、「神の民」を示すということです。明治時代に日本に来て、日本に失われた十支族が来ていると直感して記録を残したヨセフ・アイデルバーグは、これが「やまと」の国の語源になったのではないかといっています。
 後の秦氏になったこの弓月の民は、431年エフェソス公会議で異端とされたイスラエル人のネストリウス派キリスト教徒(景教徒)ではなかったかとも、エルサレムをおわれた、初期のユダヤ人キリスト教徒のことではないかという説もあります。ネストリウス派キリスト教は、ユダヤ教的な色彩の強いキリスト教であるとのことです。

 南部インドのケララ州のあたりには、52年にイエスの12使徒のひとりトマスが、キリスト教を伝道したという言い伝えがあり、今もキリスト教徒が存在します。トマスは、中国にも伝道したという伝説があります。この南インドとソロモン王(前10世紀)が交易をしていたという証拠もあります。想像するより古代の交流は活発であったといえます。
 シルクロードと一口にいっても、北の遊牧地帯の「草原の道」、中央アジアのオアシスをつなぐ「絹の道(狭義)」又は「オアシスの道」、メソポタミア・エジプトとインド、東南アジア、中国をつなぐ「海の道」があります。
 シルクロードの西の端は、イギリスで、東の端は日本です。
 東大寺の正倉院の御物をみると、8世紀にはペルシアと奈良との交流の跡が明らかに見られます。この時代の記録である「続日本紀」には、ネストリウス派の高位の聖職者などもシリアから訪問しており、奈良はシルクロードを最終地点の国際都市であったことがわかります。
 実際はそれ以前も盛んに行き来していました。縄文時代から日本と中国の交流がありました。中国と西アジアの交流も同時代にあったことが証明されています。ということは縄文時代には、すでに西アジアと日本はつながっていたと見るのが自然ではないでしょうか。
太秦の広隆寺 いさら井(右:拡大)  大酒神社
 マーヴィン・トケイヤーは、古代に絹織物を作り、商人として行き来して2700年以上前にシルクロードを開拓したのは、広義のユダヤ人(失われた十支族のイスラエル人と南王国ユダの二支族のユダヤ人)であるとのことです。さらにネストリウス派キリスト教は、シルクロード上の失われた十支族に受け入れられ広まったのではないかと述べています。
 秦一族は、養蚕と絹織物の技術をもたらしたとされます。「機織り(ハタ織り)」ということばまであります。当にトケイヤーの云うシルクロード上で活躍したユダヤ人といえます。
 シルクロードには、六日毎の行程に宿泊施設が整備され、シナゴク(ユダヤ教の礼拝堂)があったということです。七日毎の安息日には、行動してはいけないからです。

 迫害をおそれ、あるいは新天地を求めて「オアシスの道」を東に移動してきた秦氏は、中国の秦の始皇帝が万里の長城をつくる労役からのがれるために、朝鮮半島に逃れ、秦韓諸国の一部を形成し、さらに日本にやってきたということです。
 秦氏が最初に定住したとされるところに建てた神社が赤穂の坂越にある大避神社があり、そこから移って本拠地としたところが京都の太秦です。太秦には秦河勝が建立したとされる広隆寺があります。広隆寺の境内といっていいところにひっそり大酒神社があります。大酒神社は、もと大辟神社といったとあります。

景教(ネストリウス派キリスト教)の教典では、ダビデのことを大闢と書きました。門構えを省略してダビデのことを「大辟」と書いたのでしょう。大辟大明神は秦氏の氏神でした。
 「機織管弦楽舞之祖神」という門柱もあります。聖書によるとダビデは竪琴の名手でした。また、ダビデが秦氏の先祖だとすると秦氏は、南王国ユダ出身のダビデ王族の子孫ということになります。
 坂越にある大避神社に残されている秦河勝がもたらした胡面も中東系の顔をしていています。イエス=キリストはダビデの子孫で、「ダビデの子」とも呼ばれていましたので、イエスを祭ったのかもしれません。

 また、「太秦」と書いて「ウズマサ」とは読めません。中国では景教の教会のことを「大秦寺」と呼んでいました。さらに、「大秦」は「ローマ帝国」を指します。また、「ウズマサ」の由来については、イエス=キリストをさすアラム語(景教徒がつかっていたシリア語)「イシュ・マシァ」が、東に行くにつれて訛りが出て、インド北部あたりでは「ユズ・マサ」になり、「ウズマサ」と変化したのだろういう説があります。
 広隆寺あるいは大酒神社の境内だっただろうとされる民家に「いさら井」と外枠の石に彫り込まれた井戸があります。873年の広隆寺縁起流記資材帳にも出てくる古い井戸で、以前には十二あったそうです。秦氏=イスラエル民族を示しているのかもしれません。

宇野正美によれば、「イスラエルの失われた十支族」(前8世紀末)は、「草原の道」を騎馬民族のスキタイ民族に伴われて東北地方に住み着いたということです。 また、イザヤ(前8世紀末)は、ユダヤの二支族とダビデの子孫ヒデキヤ王の王子を伴って「契約の箱」をシュメールの籠船にのせてペルシア湾から海の道をたどり、日本の四国の剣山にもたらしたという。川守田英二によれば、イザヤは、「絹の道」3・4世代かけて、東漸し日本にたどり着いたという。 ケン・ジョセフによれば、弓月王国にいたユダヤ人キリスト教徒(景教徒)の秦氏は、4世紀に来日して赤穂の坂越にまず上陸し、のち京都の太秦に移ったという 
 また、広隆寺の弥勒菩薩像の手の形は、親指と中指で三角をつくり、あと三本はまっすぐなっていますが、これと同じ物が中国の敦煌の景教の大主教の壁画にあります。三位一体の信仰をあらわしたものであるとされています。
 また、広隆寺の近所の「蚕の社」と呼ばれる神社の鳥居は三本柱になっており、これも景教の教えである三位一体を表現したものであるとされています。「元糺の池」と呼ばれる所に建ててあり、イスラエルにある穢れを浄めるバプテスマ(洗礼)の儀式につかう池そっくりであるとのことです。
 坂越の大避神社 大避は中国語でダビデのこと。この地域に大避神社は20数か所あった。合祀等により現在は4ヵ所のこっているということ。参道より坂越湾を見下ろすと、秦河勝の御陵である生島(いきしま)が見える。(令和元年11月27日訪問)  
大避神社の神宮寺妙見寺の参道にある南朝の功臣児島高徳の墓

 秦氏の全てが、ユダヤ系であるとは断言できないとのことで、一部中国系の秦氏もいるようではありますが、書き尽くせないくらい古代の秦氏にはイスラエル・ユダヤ系キリスト教徒であった可能性を示す証拠があるというのが結論となります。

 4回にわたって、古代日本に来ていたイスラエル・ユダヤ人というテーマで記述しましたが、前8〜前7世紀に、失われたイスラエルの十支族とイザヤに率いられたユダ王国の二支族が、お互いに知らずに来日し、さらに4世紀に入ってユダヤ系キリスト教徒の秦氏が来日したことは、三つの偶然ではなく、シルクロード上を行き来して交易していたユダヤ・イスラエル人にとっては、日本にユダヤ人又はイスラエル人がいることは、よく知られた事実ではなかったろうかと思えます。
 しかし、このことが日本人自身にもよくわからなくなってしまったのは、ユダヤ・イスラエル民族を含む多民族による日本を統一したのが、中国系であることによるのではないかと思える節があります。次回よりは来日したイスラエル・ユダヤ人の国内における痕跡について記述を進めてゆきたいと思います。

参考図書

○ 「ユダヤと日本 謎の古代史」 マーヴィン・トケィヤー著 箱崎総一訳(昭和50年)
  私は、ユダヤの大旅行者たちの動機について調査してみた。未知の国へ旅行するユダヤ人の心理についてである。…私は、その論文(大学時代に書いた論文)で、ユダヤ人たちが未知の国へ大旅行した目的は、地上の楽園を求めることにあったのだと、結論した。その地方の人たちと文化をわかち合い、平和に暮らすことができる土地を見つけることが、その大旅行の目的だったのである。
  古代アッシリア帝国の圧迫のもとで、あるいは古代バビロニア帝国の圧迫のもとで、古代ユダヤ人たちはこのような大旅行を何度となく企てたのである。
  その後、ローマ帝国の圧迫、キリスト教会による圧迫、回(イスラム)教徒たちによる弾圧がわれわれユダヤ民族にふりかかってきた。
  そこで、われわれの先祖たちが考えたことは、強制的に改宗をせまる圧迫のない土地をもとめること、虐殺の行われない居住地を探すこと、どこに地上のシャングリラがあるのだろうか、どこに楽園が存在するのだろうか、ということであった。
  そこでユダヤ人たちは、世界各地に旅行したが、どこにもそのような土地は発見できず、彼らの旅行はますます遠距離にわたるようになった。
  このような幾多の経験から発見されたことは、アジアの奥地深くに行けば行くほど、そこの人たちは寛容であるということだった。より理解し合える広い心があった。
  ヨーロッパのキリスト教徒たちは、クリスチャンでないものを愛することはできず、憎しみがあるだけだったが、インドに行けばヒンズー教はユダヤ人に対しては何らの迫害も加えることがないということがわかった。
  この関係は、回教圏においても同様であった。回教徒は、その敵を彼らの剣で切り倒したが、ユダヤ人たちに対してはその宗教をとやかくいうことはなかった。
  シルクロードを東へ行くほど、寛容度が深まり、平和な土地が出現してくるのであった。そこでは、友好的な雰囲気さえ感じられたのである。
  このようにより東方へ行くほど平和があったが、しかしユダヤ民族にとってはその魂のふるさとであるイエルサレムとの連絡を欠くことはなかった。
 そこで古代ユダヤ民族の行ったことは、教師やメッセンジャーをアジアの中央にあるユダヤ人居住区へ送り、ほぼ一年か二年滞在させたのち、ヨーロッパへ呼び戻すという方法であった。(p4〜p6)  

○ ・「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史2〈仏教・景教篇〉」久保有政 ケン・ジョセフ著徳間書 2000年
○ ・「失われた原始キリスト教徒「秦氏」の謎 飛鳥昭雄・三神たける著 学習研究社 1995年
○ ・「大和民族はユダヤ人だった」ヨセフ・アイゼルバーグ著中川一夫訳 たま出版 昭和59年
○ ・「古代ユダヤは日本に封印された」宇野正美著 日本文芸社 平成4年

平成20年01月28日作成  令和元年12月16日更新 第044話