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高校生のためのおもしろ歴史教室>余話の部屋

63.ルーズベルトの開戦責任

「歴史認識の問題 その14」は、戦勝国アメリカから見た「ルーズベルトの開戦責任」です。

 第二次世界大戦の責任は、ヒトラーと日本にあるというのが、アメリカなどの公式な、戦勝国史観である。日本を誹謗中傷する中国や韓国もその歴史観に力をえて、歴史の捏造をやめることはない。隠れ共産主義者として日本の破壊にいそしむ日本の歴史学者やマスコミも同じである。
 それに対して、ルーズベルトとチャーチルがいなければ、第二次世界大戦は起きなかった。特に、ルーズベルトの責任が重いという主張がアメリカにはある。歴史修正主義者のレッテルを貼られ、非難されている史観である。少数であるが、真実の歴史を述べる勇気ある人々もいるのである。
 歴史観の修正が受け入れられると、戦後に共産主義が世界を席巻し、世界中に災いをもたらしつづけている原因を作り国益を毀損した原因がルーズベルトにあることがアメリカの国民に知られることになる。特に、スターリンを助けて東ヨーロッパと中国が共産化することの原因をつくったのがルーズベルトであることが白日の下に晒されてしまうことになるので、冷戦の時代には決して受け入れられない歴史観であった。1991年にソ連が崩壊した後には、中国がソ連の役割を担い、世界共産主義革命をもくろんでいる。最近では、その野望を隠そうともしない中国である。そうなるとやはり戦勝国としては、従来の戦勝国歴史観を守らざるを得ないのかもしれない。しかし、いつまでの戦勝国史観(東京裁判史観、自虐史観)のままの教育が日本で行われていれば、捏造された事実無根の主張の根拠を韓国、中国に与えてしまうので、日本の誇りを取り戻すことはできない。

 歴史修正主義者の歴史書とされる
 「ルーズベルトの開戦責任」ハミルトン・フィッシュ著(1976年原著出版)
 「裏切られた自由(上)(下)」フーバー著ナッシュ編(1964年頃完成2011年原著出版)
 「裏口からの参戦(上)(下)」チャールズ・カラン・タンシル著(1952年原著出版)

は、渡辺惣樹によってようやく翻訳され、それぞれ2014年、2017年、2018年に日本で出版された。
 これらの著作は、下記にあげる二冊の日本人による自虐史観を払拭しようとする著作と共に未来に読み継がれるであろうと信じて疑わない。事実は必ず表にでるものであるので、是非、手にとって読んでいただきたいと願っている。

 「大東亜戦争肯定論」林房雄著(夏目書房 2001年)
 「日本人の誇り」藤原正彦著(文春新書 2011年)

 いかに東京裁判史観(自虐史観、戦勝国史観、コミンテルン史観、中国や韓国の主張)は、悪意をもって歴史事実を捏造しているかが分かる。事実無根の事柄を捏造するのが、それらの史観であり、共産主義思想に染まった歴史家の歴史捏造であることが、危機感をもって心の底から理解できる。
 フィッシュは元下院議員で、ルーズベルトのライバルであった共和党の重鎮、フーバーはルーズベルトの前任の大統領であり、両者ともルーズベルトをはじめイギリス、ドイツなどの同時代の政治家との交流もあり、貴重な資料や証言にアクセスできる立場でもあった。
 タンシルは、ジョージタウン大学の歴史学者であるが、この著作をもってルーズベルトの戦争責任を証明したが故に迫害された。フーバーの遺族は、フーバーに対する中傷を恐れて出版を2011年まで出版をためらった。真実を述べれば迫害されることは、アメリカでも同じであることがわかる。

 以下、フーバー、フィッシュ、タンシルの主張の要約していきたい。
 ルーズベルトとその側近の政治判断は、1933年以来一貫していた。
 極東においては、スターリンの侵略を容認する一方、日本に対しては、あらゆる事を侵略行為として断罪することである。
 ソ連が、新疆、モンゴルを支配し、さらには、満州や中国本土を共産主義化しようとしていることには目をつぶり、満州や中国本土で日本が進出している地域での毛沢東率いる共産党や蒋介石政権に潜んでいた共産主義者や反日暴力主義者のテロ活動や破壊活動を容認した。日本の主張を一顧だにせず、ソ連の主張を無条件に受け入れた。なお、毛沢東の率いる中国共産党は、世界共産主義革命をめざすコミンテルンから資金援助と指令を受けるコミンテルンの支部であった。

 一方日本に対しては、テロ活動や破壊活動を抑え、平和的解決をめざす努力に対してことごとく邪魔をしていった。共産主義の防波堤としてやむなく満州国を建国したという日本の立場を理解していたならば、共にソ連に対抗することもできた。満州の地は、日露戦争以前はロシアの支配が予定されていた土地であり、その土地に満州国を建国することは、中国から領土を奪ったものではないのである。
 蒋介石に日本との和平交渉をさせず、泥沼の日中戦争に追い込んだのは、中国において共産主義革命を目指すスターリンとそのスターリンの活動を容認し、あるときは支援するルーズベルトであった。
 最後には、ヤルタ会談で必要のない対日参戦をソ連に求め、満州や中国を共産化を許す密約までルーズベルトはしていたのである。日本の固有の領土であった千島列島まで、スターリンに与える約束をした。
 スターリンは、方針として資本主義諸国が二大陣営に分かれてお互いを潰し合うことでそれぞれの国を破壊し、その焼け跡から共産主義革命を起こそうとしていた。中国でもその実践をしていたが、スターリンを助けたルーズベルトとその側近である共産主義者たちは、蒋介石の和平工作を認めず日本人に対するテロ活動をやめず、日本と蒋介石が共に倒れるように圧力をかけた。日本敗北後ルーズベルトは蒋介石に毛沢東との連合政権樹立をもとめづづけ、必要な武器援助もせず共産党政権を中国に誕生させた。一方の毛沢東は、スターリンからアメリカが対独戦のために与えた大量の武器までも受け取り有利に戦いを進め、政権を奪取した。一般に言われている蒋介石政権の腐敗、潔癖な共産党が蒋介石の敗北をもたらしたといわれているのは事実ではないのである。スターリンとルーズベルトの支援により共産党が政権を奪取したのである。

 ダブルスタンダードで、ソ連のスターリンに対しては、どのような侵略行為をしようとも目をつぶり、日本やドイツに対しては、利害の調整について一切妥協せず、あらゆる手段を通じて戦争を行うように誘導していった。
 ドイツは、ベルサイユ条約によって理不尽に奪われたダンチヒとポーランド回廊をポーランドに要求したが、フランスやイギリス、ましてやアメリカとの戦争は望んでいなかった。ヒトラーの当然の要求をポーランドに拒否させたのは、ルーズベルトの意向による。
 イギリスとフランスには、いざ戦争となったときにはアメリカは、すぐ対独参戦をすると思わせた。イギリスとフランスに、実際は不可能なポーランドの独立保証をさせたのもルーズベルトである。ポーランドは返してもよいと思っていたダンチヒとポーランド回路に対する要求を拒否することにより、ヒトラーの侵略を許して国を失ってしまった。
 ヒトラーに対しては、宣戦布告なしの攻撃をおこなってアメリカと交戦させようとしたが、その誘いに乗らないので、ドイツと日本、イタリアの枢軸国の同盟を利用して、日本にアメリカを攻撃させるように全力で誘導していった。
 日本に対して一切の交渉、妥協を受け入れず、経済封鎖を行い、ABCD包囲陣を構築して、誇りのある国であれば立ち上がらざるを得なくした。ヒトラーに対しては偽情報をマスコミを通じて流し、1943年までにアメリカは対独参戦すると信じさせた上で、日本の真珠湾攻撃を誘導し、ドイツがアメリカに宣戦布告するように仕組んだ。まさに、「裏口からの参戦」(ドイツと交戦するために日本の先制攻撃を仕組んだ)に成功した。
 これらのことをフーバー、フィッシュ、タンシルは、時系列的に具体的な証拠をあげて、細かく、正確に論証しているので、反論の余地がないものだが、自虐史観に洗脳されてしまっているので、歴史学者たちはなかなか認めることができない。自分でこれらの著作を読んで確かめて戦勝国史観という幻想から一人でも多く目覚めてもらいたいと願っている。
 本来、ヒトラーが目指したものは、ドイツ人の統合と東方への生活圏の拡大であった。戦後ソ連に奪われて共産主義国家となったバルカン半島諸国やソ連への領土の拡大はあっても、イギリスやフランスに向かう意図も必要もなかったのである。アメリカとの戦争などさらにありえなかった。ドイツとの戦争をルーズベルトは画策し見事にアメリカは参戦し、結果として多くの血を流し、ソ連に東ヨーロッパと中国を献上したのである。 
 一方ドイツのヒトラーとソ連のスターリンはお互いに不倶戴天の敵と認識していた。イギリス、フランス、ポーランドのかたくなな姿勢に憤慨して、ダンチヒとポーランド回廊を力で回復することを決意して、スターリンとの一時的な不可侵条約を結んだが、ヒトラーのナチズムと世界革命を目指す共産主義は、不倶戴天の敵としてデスマッチを繰り広げるしかなかったのである。そうなれば、ドイツもソ連も弱体化し、戦後の共産主義諸国の台頭もなかったはずである。
 独善的な悪魔の思想である共産主義の侵略者スターリンの行為に目をつぶり、ヒトラーがスターリンのソ連に侵入すると時を移さず、チャーチルもルーズベルトも直ちにスターリンに莫大な武器援助を行いさらには、ソ連を助ける軍事行動を起こした。ソ連が、ポーランドを分割し、バルト三国を併合しフィンランドに侵略したことをイギリスのチャーチルもアメリカのルーズベルトも不問にしたのである。甚だしいダブルスタンダードと言わざるをえない。さらには、ヤルタ会談などの一連の会談で東ヨーロッパをスターリンに献上することまでルーズベルトやってのけた。
 ルーズベルトは、世界共産主義革命を目論むスターリンを全力で助け、それを東西か押さえていたドイツと日本を滅ぼすことによって、東ヨーロッパ、中国、東南アジアの共産化を招いていてしまった。ルーズベルトはロックフェラーなどの国際金融資本がソ連を支えていたことも踏まえてみると、初めから国際金融資本の手先として世界を共産主義化する目的で、日本とドイツを滅ぼすことを決意したと思わざるを得ないのである。

参考図書

9.発展史観について 
45.コミンテルン史観について  

○「裏切られた自由 フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症 [上][下]」 ハーバート・フーバー著ジョージ・H・ナッシュ編渡辺惣樹訳(草思社 2017年)

ヒトラー訪問
 ヒトラーが政権を奪取してから五年が経っていた。私は彼の演説、行動、あるいは書いたものを通じて、ヒトラーには三つの固い信念があることに気づいていた。第一はベルサイユ条約でばらばらになったドイツを再統一すること、第二は資源確保のためにロシアあるいはバルカン半島方面に領土を拡張すること、第三はロシアの共産主義者を根絶やしにすることである。第二の狙いは「生存権(Lebensraum)」の概念として知られている。
 三つの目標はヒトラーのエゴイズムの集大成とも言える。彼の考えはドイツ国民にも支持されていた。ドイツ国民は第一次大戦の敗北がもたらした屈辱を晴らしたかった。国をばらばらにされ、非武装化された。降伏後も港湾封鎖は解かれず、その結果多くの国民が餓死した。また休戦後、ドイツの多くの都市で(共産主義者の)反乱があったが、それは残虐なものだった。国民はそれを忘れていなかった。べルリンにはチェコスロバキア経由で車で入った。」(上巻 p232 1938年3月8日ヒトラーと会談)

「セン・W・ボールドウィンは『ニューヨーク・タイムズ』紙の軍事評論家だった。彼は自著『戦争の過ち』(Great Mistakes of War)の中で、次のように書いている。

〈英国にとっても我が国(アメリカ)にとっても、世界最悪の独裁者の二人がボロボロになるまで戦うことは好ましいことであった。この点については疑う余地はない。両国の戦いで共産主義もナチズムも弱体化する。そうなれば恒久的和平をもたらす可能性も高まり、民主主義を世界に確立できることになる。どちらかの独裁を支援してもう一方の独裁者を潰すことは、民主主義を潰すことにもなる。一九四一年六月二十二日は、民主主義にとってチャンスが訪れた日なのだ。〉」(上巻 p446)

「この日、大統領は会議を招集した。出席したのは、ハル国務長官、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル参謀総長、スターク海軍作戦部長である。会議を記録したスチムソンの議事録が真珠湾攻撃調査委員会に提出されている。
 〈問題は、いかにして彼ら(日本)を、最初の一発を撃つ立場に追い込むかである。それによって我々が重大な危機に晒されることがあってはならないが。〉」(上巻 p502 1941年11月25日・日本に対する最後通牒ハル・ノート発出の前日)

「「真珠湾事件」について、一九四七年にジョージ・モーゲンスターンが『パール・ハーバー――秘密の戦争の内幕(Pearl Harber:The Story of the Secret War)』を出版した。徹底的な検証の上に立った著作だった。モーゲンスターンは次のように結論づけた。
〈疑わしき者は有利に解釈したとしても、ワシントンの(疑われている)高官はまだ多くの疑問に答えてはいない。彼らは戦争になる可能性をよくわかっていた。それにもかかわらず、その情報を(ハワイの司令官に)伝えようとしなかった。その情報を明確に、遅滞なく、(日本の)一撃が加えられる可能性のある現場に伝えようとしなかった。
 真珠湾の事件は、我が国の参戦を狙う勢力にとっては、参戦を渋る議会の束縛から解放され、戦いに消極的な国民を戦争に導くための口実となった。
 真珠湾事件は、目に見える最初の日本との戦いだった。しかし(ルーズベルト)政権が仕掛けていた秘密の戦争という視点からすれば、その(日本に対する)秘密の戦争の最後の戦いであったと言える。秘密の戦争は、我が国の指導者が敵と決めた国との戦いである。どの国が敵かは、宣戦布告によって公式に敵国となるずっと前から決められていた。秘密の戦争は、敵国に仕掛けられるだけではない。プロパガンダや嘘の情報を流し、国民世論を操作しようとする。つまりアメリカ国民に対しても仕掛けられているのだ。我が国の(日本に対する経済制裁などの)外交は、実際には戦争行為と変わらないものであっても、我が国が戦争しないための方策だと言い換えられた。戦争するためには憲法の制約があるが、その制約も上手に回避した。日本に対する宣戦布告は議会が行ったが、この時点では戦争になっている状況を追認するだけの意味しかなくなっていた。〉

 ウィリアム・ヘンリー・チェンバリンもその書『アメリカ第二の聖戦(America's Second Crusade )』の中で次のように結論づけている。
「スターク提督の証言(ルーズベルト大統領は海軍戦艦に対して、ドイツ船への攻撃命令〔一九四一年一〇月八日付〕を発した)などを鑑みれば、ルーズベルト政権は、長いこと戦争をもくろんでいて、その始まりが真珠湾であった、と言う結論にならざるを得ない。武力衝突にになるための仕掛けは、真珠湾攻撃のずっと前からすすめられてきた」
 ジョージ・F・ケナンはアメリカ外交に長く関わった外交の専門家であり、ロシア文化や歴史に詳しい人物だが、彼はこう結論づけている。

〈日本との戦いを避けるという方針が、入念に現実に則して(ルーズベルト政権によって)実施されていたら、アメリカ外交はかなり違うものになっていただろう。その外交の結果もまた違っていたにちがいない。〉

 客観的な視点を持つ英国の歴史家ラッセル・グレンフェル大佐は、次のように書いている。

〈ある程度の事情がわかっている者は、日本が悪辣な奇襲攻撃をアメリカに仕掛けたなどとは考えない。真珠湾攻撃は、予期されていただけでなく期待されていた。ルーズベルト大統領がアメリカを戦争に導きたかったことに疑いの余地はない。ただ、政治的な理由で、最初の一撃は相手側から発せられる必要があった。だからこそ日本に対する締め付けを強めていったのである。その締め付けは、自尊心のある国であれば、もはや武器を取るしかないと思わせるところまでいっていた。アメリカ大統領によって日本は、アメリカを攻撃させられることになっていた。オリバー・リトルトンは英国の戦時生産大臣であったが、一九四四年に、「日本は真珠湾を攻撃するよう挑発されたのである。アメリカが戦争に無理やりに引きずり込まれた、などと主張することは茶番以外の何物でもない」と述べている。〉

 我が国はあの戦争に参入し悲惨な戦いを経験した。我が国の参戦によって生まれた惨禍を、いまや人類全体が味わうことになった。この悲惨な状況に到る最初の事件はおよそ三〇年前にすでに始まっていたのである。真実の歴史がしっかりと語られること、そして、多くの戦争の犠牲(者)から教訓を学ぶことが重要である。たくさんの人が亡くなった。その原因は、指導者の拙い政治指導にあった、そのことが忘れられるようなことがあってはならない。だからこそ私はこの回想録を執筆した。
 そうでなければジョージ・サンタヤーナの言うように、「歴史を忘れる者はそれ(過ち)を繰り返してしまう」ことになるのである。」(上巻 p528ーp530)

資料9 マッカーサー将軍との会談(1946年5月4,5,6日)
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 私(※フーバー元大統領)はマッカーサーに、一九四五年五月にトルーマンに宛てた覚書の内容を話した。我が国は、この戦いの重要な目的を達成して日本との講和が可能である、と伝えたのである。マッカーサーもこの考えに同意した。(早い時期に講和していれば、その後の)被害はなかったし、原爆投下も不要だったし、ロシアが満洲に侵入することもなかった。私は、日本との戦いは、狂人が望んだものだと言うと、彼はそれに同意した。また一九四一年七月の日本への経済制裁は、ただ日本を挑発するだけであり、日本は戦うしかなかった。あの経済制裁は、現実の殺戮や破壊ではなかったが、それ以外の点では戦争行為であった。いかなる国であっても、誇りがあれば、あのような挑発に長いこと耐えられるものではない。」(下巻 p472)

資料13 第二次世界大戦はアメリカに何をもたらしたか、フランクリン・ルーズベルトの外交政策の評価(一九四七年)
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 ルーズベルト氏の戦争欲求
 ルーズベルト氏が戦争を欲していた最初の徴候は、国内に戦争気分を煽ったことであった。一九三九年から四一年までを振り返ると、彼のスピーチは常に、憎しみ、恐怖を煽り敵国を貶めるものであった。彼は自身でそうした気分を煽るだけではなく、政府機関、民間の団体あるいはイギリスをも利用した。
 彼は、我が国を参戦させないでおくことはできた。また、彼が戦争に向かって突き進んでいる時期にあっても、世界情勢の変化に応じて、その道を引き返すこともできた。和平を探る道を模索できた。方向転換することで、イギリスの安全保障も我が国の安全も損なう危険などありはしなかった。
 世界情勢の変化とは次のことを意味する。
 第一に、ポーランド、イギリス、フランスに、アメリカが必ず参戦すると思わせるような外交をしてはならなかった。そんなことをしなければ、イギリスもフランスの、ポーランドの独立保証をするような愚かなことはしなかった。このことはまだ推測を交えた結論だが、時が経てばわかってくるであろう。結局彼らはその愚かな決定のために、スターリンに向かうはずであった牙を自らが被ってしまったのである。
 第二に、一九四〇年末にはイギリスは航空戦(バトル・オブ・ブリテン)に勝利した。ヒトラーはイギリス海峡は渡れないと確信した。ダンケルクの戦いの後の半年間の空の戦いは失敗だった。より重要なことは、米国諜報機関から、ヒトラーはその軍を東部ヨーロッパに向けロシア攻撃を目論んでいるとの情報が入っていたことだった。この情報だけでも、イギリスも我が国もヒトラーの脅威などに晒されていないことがわかる。
 第三に、ワシントン議会が武器貸与法についての議論をしている時期には、ルーズベルト氏は状況がすでに好転していることがわかっていた。その時点で、この法律を利用したドイツに対する宣戦布告なき戦争の方針をあらためることができたのである。法律の内容も、英国に対する単純な金融支援、武器や船舶の供給だけに留め、国際法にも違反しないやり方に変更できた。
 第四に、ヒトラーがソビエト攻撃を始めた一九四一年六月、これ以降において英国と我が国がドイツの脅威にさらされないことは自明であった。この時に、ルーズベルト氏はドイツに対する宣戦布告なき海上攻撃をやめ、イギリスには物資、弾薬、船舶の支援を続ければよかった。イギリスがソビエトを支援したいのであれば、彼らの判断で実施することは可能である。
 第五に、ルーズベルト氏は経済制裁(一九四一年七月)を通じて、宣戦布告なき戦いを始めたが、太平洋方面での日本との講和はできたのである。一九四一年九月に日本は、妥協案を提示している。在東京の英米両国の駐日大使はそれを受けるようにルーズベルトに促した。和平維持のためにその提案を受けるべきであった。(仮に結果的に戦いが避けられないとしても)両面での戦いの回避のためにもそうするべきであった。それが正しい方向に方向転換できた最後のチャンスだった。日本からの妥協案が、アメリカ国民に秘密にされていなかったら、世論はそれを受けるように要求したに違いないのである。
 一九三八年から四一年までの出来事を客観的に観察すれば、そしてこれまでに明らかになった事実を見れば、我が国を戦争に導いたのはルーズベルト氏だということは明白である。彼の日本に対する挑発が戦争を起こしたのである。それによって大英帝国はその領土と資源を失った。それはヒトラーが英国に与えただろう損失を大きく上回るものであった。
 戦いを欲した理由
 彼(ルーズベルト)は、いったいなぜそれほど戦争を欲したのだろうかという疑問は湧いてくる。
 我が国は参戦する必要はなくなった。党派性を持たない多くの真面目なジャーナリストは、少なくとも、ルーズベルト氏はニューディールの失敗を隠したかったかもしれない程度の疑問を持つであろう。ニューディールの六年間で、一〇〇〇万の失業者が残ったままであった。さらにニューディール政策の遂行の過程で多くのスキャンダルがあった。そうしたことから国民の目を逸らすために、世界のパワーバランスにのめり込んだのではなかったか。パワーゲームへ参画し、国民に安全保障上の恐怖を煽ることで、彼は再選を果たしたのではなかったか。それは自身のエゴイズムを満たし、さらなる野望を刺激したのだろう。」(下巻 p505-507)

○「裏口からの参戦 ルーズベルト外交の正体 1933-1941[上][下]」チャールズ・カラン・タンシル著渡辺惣樹訳(草思社 2018年)

「訳者あとがき
 ・・・・・・
 タンシル教授が、第二次世界大戦を指導したフランクリン・ルーズベルトの外交を批判する書「Back Door to War:the roosevelt Foreign Policy , 1933-1941」を発表したのは一九五二年のことであった。主として国務省にのこされた一次資料に依拠した歴史学の正統的手法に則った本格的な研究書であり、「ルーズベルトが日本を刺激することで日本を枢軸国との同盟に追いやり、最終的には経済封鎖により日本に対米戦争を覚悟させた」ことを合理的考察に基づいて論証した。「ルーズベルトの狙いは、枢軸国の一員となった日本に米国領土を攻撃させることで、ヨーロッパ戦争への介入を拒否する八四パーセント世論を参戦やむなしに導くことにあった。つまりアジアというヨーロッパの裏口から対独戦争に参戦することにあった」とする論考は十分な説得力(合理性)があり、専門家の精査にも耐えうる高いレベルに達していた。
 そうでありながら、当時のアメリカはこの書を冷静に受け入れることができなかった。この書の上梓が一九五二年であると書いたが、この年は朝鮮戦争の真っただ中にあった。ルーズベルトは、日独両国には、東西に拡張する爆発的なエネルギーをもったソビエトの共産主義世界革命思想を押さえ込む役割があったことを全く理解しなかった。この無理解は、ルーズベルト自身の無知に起因するものだが、同政権内に密かに跋扈していたソビエトスパイと容共思想をもつ政府高官に助長された結果でもあった。
 いずれにせよ共産主義思想拡大の防波堤の役割をもっていた二つの国をルーズベルトが叩き潰したことによって東欧諸国はたちまち共産化し、一九四九年には中国まで赤化した。」(下巻 p531-p532)

○「ルーズベルトの開戦責任 大統領が最も恐れた男の証言」ハミルトン・フィッシュ著渡辺惣樹訳(草思社 2014年)

「今現在(※1976年の出版当時)においても、十二月七日になると、新聞メディアは必ず日本を非難する。和平交渉が継続している最中に、日本はアメリカを攻撃し、戦争を引き起こした。そういう論説が新聞紙面を踊る。しかしこの主張は史実とは全く異なる。クラレ・ブース・ルース女史(元下院議員、コネチカット州)も主張しているように、ルーズベルト大統領はわれわれを欺いて、(日本を利用して)裏口から対ドイツ戦争を始めたのである。
 英国チャーチル政権の戦時生産大臣(Minister of Production )であったオリバー・リットンはロンドンを訪れた米国商工会議所のメンバーに次のように語っている(一九四四年)。
「日本は挑発され真珠湾攻撃に追い込まれた。アメリカが戦争に追い込まれたなどという主張は歴史の茶番(a travesty on history)である」
 天皇裕仁に対して戦争責任があると非難するのは全く間違っている。天皇は外交交渉による解決を望んでいた。中国及びベトナムからの撤退という、それまでは考えられなかった妥協案まで提示していた。
 米日の戦いは誰も望んでいなかったし、両国は戦う必要はなかった。その事実を隠す権利は誰にもない。特に歴史家はそのようなことをしてはならない。両国の兵士は勇敢に戦った。彼らは祖国のために命を犠牲にするという崇高な戦いで命を落としたのである。しかし歴史は真実が語られなければ、そうした犠牲は無効になってしまう。これからの世代が二度と同じような落とし穴に嵌まるようなことはなんとしても避けなければならない。
 あの事件(真珠湾事件)から既に三十五年の歳月が過ぎた。それにもかかわらず、わが国がいかにしてあの戦争に参加することになったのかについての真実を隠そうとするものがいる。その行為は歴史の否定であり冒涜である。ラテン語のことわざにもあるように「真実は常に偉大であり、最後には必ず勝利する」(magana est veritas et praevalebit)のである。戦争ほど悲惨なものはない(だからこそ真実が語られなければならないのである)。
 ウィストン・チャーチルが(アメリカの参戦を喜ぶ)演説をしたのは、裏口からわが国の参戦が決まってから二ヵ月後のことであった。彼は次のように述べた(一千九百四十二年二月十五日)。
 「私はアメリカの底知れないパワーと彼らの持つ資源をいつも念頭にして外交を考えていた。この戦いがどちらに転ぼうが、彼らはいま大英帝国の側にいる。われわれの力に及ぶ戦力を持つ国は世界にはもはやない。この状態こそが私が夢見てきたものだ。これを実現するために努力してきた。そしてついにそれが実現したのである。」
 ルーズベルトとチャーチルの二人がアメリカをこの戦争に巻き込んだ張本人である。」(p18ーp19)」

○「アメリカはいかにして日本を追い詰めたか」ジェフリー・レコード著渡辺惣樹訳(草思社 2013年) 

令和3年8月15日作成   第163話