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 発展史観は、18世紀の啓蒙思想の普及さらに、19世紀後半の科学技術の革新によって人類の無限の発展への確信から生まれた楽観論である。
 本来は、人類の進歩を神の計画の発現の結果と考えていたが、カール=マルクスとエンゲルスによって神を否定する史的唯物論として、社会主義(共産主義)の基礎理念となった。 この楽観論は、キリスト教のメシア(救世主)降臨による天国完成の思想を、置き換えたものであることが明らかになっている。
 時代区分  政治体制(上部構造)   下部構造
 支配階級  被支配階級
原始共産制社会   原始共産制 なし
古代奴隷制社会   専制君主制  専制君主 奴隷(国民大多数)
中世農奴社会   封建制  領主  農奴(農民)
近代資本主義社会   民主主義社会  資本家  労働者
共産主義社会   プロラタリア独裁  なし

 史的唯物論によれば、人類の歴史は、階級闘争の歴史であり、上部構造である政治体制は、下部構造である生産力とそれに従属する生産関係によって規定される。

 つまり、物質的豊かさを享受する支配者と、奴隷的支配を受ける被支配者との闘争の歴史である。人類歴史の進展にともない、原始共産制社会→古代奴隷制社会→中世封建制社会→近代資本主義社会(産業資本主義→帝国主義)と必然的に発展してきた。
 原始共産制社会は、まだ人類は食べ物に追われていたので、すべてを分け合う平等社会で、まだ階級闘争はなかった。
 古代奴隷制社会は、支配階級は専制君主と貴族たち。被支配者は奴隷の立場であったとされる一般民衆。
 中世封建制社会では、支配者は、地主たる領主で、被支配者は奴隷の立場に置かれた農民(農奴)。 
近代資本主義社会では、支配者は、資本家で、被支配者は労働者。このような歴史を必然的にたどってきた。
 歴史の必然としてこのあとには、必ず楽園である共産主義社会が出現する筈であるという信念の思想である。そこでは支配者も被支配者もない。今までの社会が、支配者を倒して新しい時代を切り開いたように、労働者は資本家階級を打倒しなければならない。資本家階級を打倒することにより、人類の楽園の時代を迎えなければならないという思想である。

言い換えると、今や、工業生産力の革新によって、豊かな物質的な富を人類は獲得するにいたった。そして、最後の段階である支配者と被支配者のない社会主義から共産主義への歩みを進めるべき楽園の社会を迎えつつあるというのが現代であるという思想である。
 歴史は被支配者である一般大衆がつくるという考え方でもある。本当にそうであろうか? トインビーのいう、信長のような創造的個人が社会の進歩をもたらしてきたのではないか。

 しかし、日本の歴史学、歴史教育は基本的にはこの唯物史観をベースに構成されている。これでは夢も希望ももてない世界観になってしまう。人は経済的な条件をもとにした社会構造つまり、物欲だけで社会を構成し政治体制がなりたっているという考え方である。極端に言えば、このような考えたでは、社会の上層にいる人々や権力を持っている人々は、悪人であるという前提に立った「ねたみ」と「そねみ」をベースとした平等運動を展開した人こそ、偉人であり、英雄である。社会的な規範となる人物も、被支配者とされる社会の底辺の人々に限定される。
逆に、社会の仕組みをよき方に変化させ、民衆の救いに精進した為政者は、単なる独裁者か支配階級の特権維持のためにはたらいた自己保全者として悪者とされてしまう。同時に、このような世界観では、国家百年の計を考えるべき政治家が、排斥され、矮小化(わいしょうか)され失脚させられてしまう。逆に、清廉潔白のみの小人物が国家を担うことになる。
 歴史教科書をみれば、このような取扱になっていることがわかるであろう。このような歴史観では、国家社会の崩壊以外にないのではないか?日本の歴史教育から本当の偉人やその人たちに業績を消してしまってから久しい。このことを意識して歴史の勉強をしてほしいと切に願っている。
 
 階級闘争で楽園が来るのであろうか? 「ねたみ」や「そねみ」による悪平等観の卑しい想念こそが、社会悪化の原因ではないか。史的唯物論は、1993年の最初の共産主義国家であるソ連邦の崩壊によって幻想であることが証明されたが、まだまだこの思想にもとづき運動を展開している人々が多くいる。オブラートに包んで判らないように行動しているが、本人すら意識していなくても、結果として、現代の支配者である資本家階級の打倒し、労働者階級の独裁(あるいは特定の人びとの集団)による支配者以外の人びとの平等社会の実現をめざす運動に荷担し、その前段階として社会を混乱させ崩壊させる運動に善意で邁進している人の如何に多いことか。
 労働者のみの政権をつくっても、その労働者が善想念一途の神のような人格者にならなければ、特権階級が出現し、富を独占し、今よりも悲惨な国家になることは、現実の共産主義国家を見ると明らかである。よい社会をつくるためには、一人一人が人格の陶冶(とうや)を図るべきであろう。しかし、史的唯物論は、社会の一面を鋭く分析し、現代社会の矛盾点を鋭く追求し、弱点を補ってきたことも事実である。資本主義と共産主義という相反するものを止揚し、よりよい社会を追究するあたらしい発想が必要ではないか。秩序と国家のあっての国民の幸せである。対立闘争ではなく、他人のことを思いやる日本古来の「和の精神」をみなおさなければならない。

参考図書

○「歴史の研究」トインビー著 長谷川松治訳(「世界の名著 61」所収 1967年 中央公論社)

 「マルクス派共産主義こそまさに、われわれのただ中ある、わずか人間の一生のあいだに近代西洋哲学の一つがまったく姿を変えて。プロレタリアートの宗教になった周知の例であって、共産主義は暴力の道を選び、ロシアの平原の上に剣でその「新エルサレム」を造りだしつつある。…
  マルクスはヤハウエのかわりに「歴史的必然性」という女神を彼の神とし、ユダヤ民族のかわりに西欧世界の内的プロレタリアートを彼の選民とし、彼のメシア王国はプロレタリアート独裁制という形で構想されている。しかし、この地はだのすけて見える薄い偽装の下から、ユダヤ教黙示録の特色がのぞいている。」(291頁上後7行〜後2行・291頁下後3行〜292頁上前3行)
 「個人の自由と社会正義との両方がある程度づつなければ、人間は社会生活を営むことができない。個人の自由は、善悪いずれにせよ、人間がなにごとかをなすために欠くことのできない必須条件であるし、また社会正義は人間の交際を律するもっとも大切な規則である。無制限な個人の自由はいちばん弱い人間を窮地に追いこむし、社会正義を徹底的に行えば、人間性が想像力を発揮するのに必要な自由を抑圧することになる。
 既知の社会組織はすべて、この二つの理論的極限の中間のどこかに位置を占めている。たとえば、現に行われているソビエト連邦の組織とアメリカ合衆国の組織はどちらも、個人の自由と社会正義の両要素を含んでおり、ただ二つの要素が異なった比率で組み合わせっているだけである。
 そして、二十世紀中葉の西欧化しつつある世界において、この組合せはどんな組合せであっても、一律に「デモクラシー」の名で呼ばれている。この、ヘレニック社会ではしばしば悪口として用いられたのであるが、いまでは自尊心のある政治的錬金術師が例外なく用いる必須の合言葉になっている。
 こんなふうに用いられる「デモクラシー」という名称は、「自由」と「平等」の理想の衝突する現実をおおい隠す煙幕にすぎない。この二つの相争う理想を真に和解させる道は、両者の仲介をする「友愛」の理想をおいてほかに発見できない。そして、もし人間の社会的救済がこのような高い理想を実現するかどうかにかかっているとすれば、政治家の創意にそう多くの期待をかけられないということになる。なぜなら「友愛」の実現ということは、人間がただ自己の能力だけに頼っているかぎり、とうてい人間にできないことであるからである。神を父とすることによってはじめて、人類は同胞として結ばれるのである。」(341頁上後3行〜342頁上9行)

○「日本人に謝りたい」モデルカイ・モーゼ著 久保田政男訳(1999年 日新報道)  

 「マルクスの夢は学者になることであった。そのようなマルクスのことである。単なる予言者では決して満足できなかっただろう。注文によって先ず『共産党宣言』の虚構ハイポセシス(=仮説)を構築したが、この単純な仮説でも満足できない。そこで『経済学批判』を書くのであるが、その第一の目的は現状の変革をより有機的に信じ込ませることである。
 現状、つまり資本主義たるものを共産主義に変革せよと使嗾(しそう=悪事を指図してそそのかすこと)するだけでは十分な説得力あるものとはいえないと考えたわけである。そのためには資本主義を固定したもの、静止したものと考えられてはまずい。これを流動的なもの、必然的に変わる流れの中で一時期であると説くことが有効である。そのために考えたのが「社会発展段階説」なるものである。原始共産社会→古代奴隷制社会→封建社会→資本主義社会→共産主義社会というものである。『資本論』で用いている言葉でいえば"変態"ということになる。
 これはユダヤ神話のパターンである。最初に調和を保った神代があり、これが異教徒により崩されたが最後にまた調和の保たれた自己だけの時代に至るというこのである。これをマルクス波、原始共産制社会と最後の共産主義社会の間に三つの階級闘争のある社会を挟んで「社会科学」として売り出したものである。これだと資本主義社会は階級闘争の渦中に一段階として映り、流動的に映る。したがって、変革は必然と説得しやすい。」(168頁〜169頁)                                  
 「東京裁判の論法はすでにたとえ戦争責任については逆転されたとしても、深甚なる影響をを日本の戦争史に与えられている。
 先ず第一に、日本の社会へ階級闘争を持ち込んだことである。これは、続く日本国憲法へ実態方のカテゴリーに属することによって、確固たるものとして定着させられてしまっている。この階級闘争もさることながら、より大きい病巣は宗教性の呪縛であろう。
 前述の東京裁判式の論法は、善玉・悪玉論理をはぐくむことになる。戦争責任はあげて一握りの支配階級たる天皇制軍国主義者にある、大部分の国民はむしろその被害者であるとする論法は、先ず第一に戦争責任者を国外に求めることを忘れさせる効果をもつ。また、これにより旧敵国がいかにも雅量のあるものわかりのいい寛大なる存在に映り、以後の占領政策をやりやすくする江かをもつ。ここにユダヤ教善玉・悪玉の二価論理が持ち込まれることとなる。
 こうして、悪玉、すなわち「天皇制軍国主義者」に「支配」された戦前の日本はすべて悪であるとする観念が生じる。逆に自分達を被害者=善玉と規定してくれたアメリカ戦将軍の以後の政策をすべて善と感じるであろう。
 さらに、支配階級というものは常に悪であると教え込まされると、戦後の政権担当政党も支配階級の代弁者であるから当然悪玉である。故に、これにことごとく反対することは善玉の崇高なる使命であると信じ込まされることになる。今日みる如く政権担当政府のやることには何でも反対する思潮は、このようにして東京裁判を通じて巧妙に持ち込まれたのである。
 そうして、これらを確固不動のものにするため日本国憲法を作成し、その残地諜者として日本共産党を利用することになるのである。」(86頁〜88頁)
「戦後の日本の混乱に最大の責任があるのはマルクス主義である。マルクス主義の害毒といった場合、普通は表面に現れたもの、例えば安保騒動の如きものとしな捉えず、日本共産党の民主連合政府綱領を視て、革命というマルクス主義の現実的脅威はなくなったと考えるかも知れない。
 だが、問題はそんな生易しいものではない。というのは、マルクス主義とは単なる「革命理論」ではないということである。
 マルクス主義の戦後のおける影響の最たるものは、この稿でとり上げる戦後の病理、虚妄性、日本歴史の真の構築を阻む跛行性をつくりだしたということにあるといわねばならない。
 これらを具体的にいうと、国家・民族意識、愛国心の去勢、道徳観の失墜、拝金主義の培養、家族制度の崩壊、その他、戦前の日本が世界に誇った冠絶した長所を失墜せしめたことにあろう。マルクス主義はこの病理の精神的支柱となっているのである。これは根拠のないことではない。何故ならば、日本共産党は戦前の日本の長所のすべて「絶対悪」として否定するものである。そして、日本共産党はマルクス主義を唯一絶対の世界観として信奉する政党である。」(139頁〜140頁)

○「日本人はいつ日本が好きになったのか」竹田恒泰著(PHP新書 2013年)

「◎教科書の近隣諸国条項を撤廃せよ―――――
 日本とカルタゴは気味が悪いほど一致するところがあるが、本質的に異なるところもある。カルタゴ人は歴史的に教育・外交・軍事を軽んじていたが、日本人は元来、教育・外む交・軍事を重視してきたという点である。いま日本人がこれらを軽んじているのはGHQの占領政策によるものであって、もともとのものではない。
 ならば、日本人がGHQのWGIPによる精神的呪縛から解き放たれ、教育・外交・軍事の重要性を再認識することができれば、それだけで日本は盤石な国に変貌するであろう。
 まず、教育に関しては、そろそろまともな教科書を使うようにならなくてはいけない。一九五〇代初めの、共産主義者たちが武力闘争に励んでいた時期に、共産党幹部の志賀義雄が次のように武力闘争を批判した。

「なにも武力革命などする必要はない。共産党が作った教科書で、社会主義革命を信奉する日教組の教師が、みっちり反日教育をほどこせば、三十〜四十年後にはその青少年が日本の支配者となり指導者となる。教育で共産革命は達成できる」

 この言葉が予告したとおり、おかしな教科書が普及して、日本人はおかしくなってしまったが、その逆も可能であることを知るべきだ。もし真っ当な教科書が普及したなら、真っ当な青年が育ち、将来日本の指導者となって、そのときに本当の日本の復興が実現するのである。
 そのためには、まず教科書の近隣諸国条項を撤廃して、教科書の記述に中韓への配慮をしなくてもよい状況を作り、教科書法を制定して学問的根拠のない記述を禁止すべきである。そして、そろそろ「教育勅語」の廃止決議の無効を確認し、これを復活させるべきではあるまいか。道徳教育が欠如したいまの日本に必要なことと思う。
 また、外交と軍事に関しては、先ほど述べたように、憲法第九条を改正することによって日本人は精神的呪縛から解放される。自立した国の外交と軍事を考える上で、九条改正は必須になる。
 その他、教育・外交・軍事をどのように変えれば日本がよくなるか、多くの国民が日本人であることの自覚を持ち、智恵を出し合って議論を深めていかなくてはならない。そのなかで、日本の将来のかたちが定まっていくであろう。」(228頁3行〜230頁2行)

平成19年03月18日作成   平成27年02月23日最終更新  第020話