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高校生のためのおもしろ歴史教室>余話の部屋

45.コミンテルン史観について

 「歴史認識の問題 その7」は、獅子身中の虫である隠れ共産主義者の暗躍の始まりである「コミンテルン史観」についてです。今なお日本の歴史学会の主流がこのコミンテルン史観(発展史観)です。したがって、日本の歴史教科書もほとんどこの主張でつらぬかれています。マスコミや政治家もこの思想に洗脳されています。
 
  マルクスとエンゲルスによる共著「共産党宣言(1848年) 」や、マルクスによる「資本論」 は、魅力的な主張であり多くの支持者をインテリ達の中に獲得しました。日本では三木清[1897~1945]がマルクス主義者の草分け的存在であり、京都大学経済学部の教授でした。また、共産主義者として生涯を終えた「貧乏物語」で有名な川上肇は、経済学部の学部長までつとめました。この川上肇をしたって近衛文麿は東京帝国大学をやめて京都帝国大学に入り直して師弟関係を結んでいます。
 近衛文麿の下にもゾルゲ事件で有名な尾崎秀実がいました。彼は、東京帝国大学の出身で、朝日新聞の記者として出発し、コミンテルン(ソ連の国際共産主義謀略推進機関)のエージェントとして近衛文麿の「隠れ共産主義者」としての行動を助けました。尾崎や近衛の例にみられるように、東京大学や京都大学の出身者に多くの共産主義者がいました。
 
 マルクスはユダヤ人です。ユダヤ人は、キリスト教の世界となったヨーロッパで、キリスト殺しの汚名を背負って生きていました。ユダヤ人達は、生き延びるためには、それぞれの国家の愛国心を解体する以外にないと考えました。フランス革命を指導したのもユダヤ人です。自分たちを迫害する王政を倒すことが自分たちが生き残る方法でした。

 そこでマルクスが登場します。マルクスは、労働者の不平不満を引き出して対立闘争のイデオロギーを打ち立て、それぞれの国に争いを持ち込んで、混乱させることによってユダヤ人を迫害する国を崩壊させようと考えました。不平不満は物事を引き裂いて対立させ崩れさせる働きがあります。
 マルクス主義の何処が魅力的な思想かというと、人類の歴史を階級闘争の歴史であるという史的唯物論が、人類歴史の発展を上手く説明していると思えるからです。
 支配者=悪玉。被支配者=善玉というトリックは巧みです。現代の支配者は資本家。被支配者は労働者。資本家達たとえば、パナソニックの創始者の松下幸之助、ホンダの創始者の本田宗一郎、京セラの稲森和夫などの創始や大企業の後継者は資本家ゆえに悪玉。企業精神を持たずに労働者で終わるもの。低賃金で喘ぐものが善玉。搾取されているから這い上がれないという論理も虚構。松下幸之助、本多宗一郎、稲森和夫は、極貧の中小企業主か、労働者をルーツとする。出自は善玉である。時代を過去にとると、善政を施しても上杉鷹山(大名)は支配者ゆえに悪玉。農業改革にとりくんだ二宮金次郎(尊徳)は地主ゆえに悪玉。一般の農民や小作人は、支配されているから善玉。

 冷静に考えればおかしいと思いませんか?マルクス主義は人間の持つ劣等感や妬み心を満して良きもの―伝統文化など―を破壊する悪魔の思想です。
 なぜ、悪魔の思想なのか。ロシア革命は粛正につぐ粛正で皇帝一家はもとより大量虐殺を成立過程でおこないました。大量のシベリア抑留者を出しました。毛沢東の中国革命も同様です。30年前に中国旅行したときに年配の同行者から興味深い話を聞きました。共産党が政権を取ってから農村で映画上映をしました。集まってきた農民を取り囲んで逃げられないようにして、手を一人ひとりチェックしてきれいな手の人がいると、地主だとして全員トラックで連れ去ったそうです。虐殺記念館の遺骨は、共産党政権みずからの虐殺あとであると言えるのではないかと密かにおもっています。チベット族やウイグル族にたいする非人道的扱いも人命軽視も甚だしいと思います。マルクス主義に陶酔すれば、人民の敵と決めつければ何をしても良いのです。中国の支援を受けていたカンボジアのポルポト政権は自国民を4年間で170万を大量虐殺しました。理由は、教育を受けている、インテリだとうだけで反革命分子であると断定したからです。ロシア、中国、カンボジアの共産党政権が間違っていたのだと共産党の支持者は抗弁しますが、共産主義思想自体に、大量虐殺、伝統文化破壊の要素が含まれているからに他なりません。なぜなら、富者にたいする妬み、そねみ、うらみが思想の根底にあるからです。対立と闘争を煽って伝統を破壊して、労働者政権を作るというコンセプト自体に問題があります。

 このことを教えてくれたのは「日本人に謝りたい」モデルカイ・モーゼ著久保田政男訳(新版1999年 日新報道)でした。日本は大好きでしたが、史的唯物論の虚構に完全に気づいたのは、この本を読んだ2011年の事ですから、ずいぶん長い間マルクス主義に幻想をいだいていました。モデルカイ・モーゼは実在の人物ではなく、久保田政男が真の著者であるという説もありますが、内容は「目からウロコ」でした。結論のみを記しましたのでとまどうとおもいます。
 
 これも、自虐史観と同じで自ら探求・研究してもらいたいテーマです。洗脳は自ら解くしか解決方法はないのです。
 元外交官だった馬渕睦夫、元高校教師であった若狭和明、元筑波大学の教授であった中川八洋などの著作を読めば、いかに政治家、マスコミ、ジャーナリストに隠れマルキストが潜在し、日本をリードしているかがよくわかります。と同時にマルクス主義の虚構についても理解がすすむと思います。

 私も実は、三木清、川上肇などが教鞭をとった大学の経済学部の学生でした。時代はマルクスのいう資本主義の崩壊と社会主義・共産主義の方向に向かっていると感じていました。しかし、ロシア革命における大量虐殺や赤い貴族(中国やロシアなどの共産主義政権の共産党員)の存在に違和感を感じていたのも事実でした。その違和感を最終的に晴らしてくれたのが、「日本人に謝りたい」という本でした。
 日本における共産主義者たち・隠れ共産主義者の主たる目標は、戦前から、支配階級の象徴であり、日本封建制の遺制である天皇を打倒することです。このことは今も変わりません。天皇あっての日本のアイデンティティであると思うのですがいかがですか?
 隠れ共産主義者の誕生は、国際共産主義運動を主導したコミンテルン(一国で共産主義革命をなしとげたソ連が世界革命をすすめるための組織)の1935年の指令です。

    1928(昭和3)年のコミンテルン第6回大会
      1.自国の敗北を助長すること
      2.帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
      3.戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること
    1935(昭和10)年のコミンテルン第7回大会
      「人民戦線戦術」を決議し、共産党は表にでないで「民主勢力を利用し
       て反ファシズム人民戦線(フロント)」を結成する
 
 若狭和朋著「日本人に知られては困る歴史 日露戦争と世界史に登場した日本」より部分抜粋しました。ちなみに、今の(2015年)安倍政権にたいする日本共産党の主張もこの「人民戦線戦術」です。ひさしを借りて母屋を乗っ取ろうという戦略です。ロシア革命も二段階革命つまりこの方法で政権を暴力で奪い取りました。中国革命も同じです。西安事件で国民党の蔣介石を張学良に捕まえさせ、国共合作を強いました。つまり、強制的な人民戦線の構築です。さらには、国民党の蔣介石と居留民をまもる日本軍との闘争を画策し、見事に両者を消耗させ、漁夫の利を得て1945年の日本の敗戦後の1949年に中華人民共和国を成立させました。コミンテルン第6回大会及び第7回大会の指令どおりです。

 日本の近衛文麿を筆頭とする隠れ共産主義者たちは、陸軍及び海軍の隠れ共産主義者の協力を得て、この指令どうりに日中戦争や太平洋戦争を引き起こし、そして予定どうり敗北しました。国家総動員法は、疑似共産主義体制の構築です。近衛文麿は息子を共産主義ロシアに留学させていました。山本五十六の率いる海軍が戦争に突入したのも日本を敗北させるため。戦後のWGIPで海軍が糾弾されていないのは何かうらがあると思いませんか?
 戦争末期の一億玉砕や本土決戦のスローガンもソ連の侵攻をまって、日本に共産革命を成し遂げるためでした。そう考えれば戦争末期の和平交渉にスターリンを頼ろうとしたのもすっきりと筋が通るとおもいませんか?

 予定外は昭和天皇の終戦の詔勅によって、本土決戦は回避され、共産主義政権ができなかったことです。

 太平洋戦争のもう一方のリーダーであるルーズベルト大統領も隠れ共産主義者でした。ブレーンにも多くの共産主義者がいました。「戦争犯罪宣伝計画(WGIP)」を企画実行した多くも隠れ共産主義者でした。このことはアメリカでは事実であると確認されていますが、日本の歴史学者もマスコミも触れることはほとんどありません。

 戦前の日本は一枚岩ではもちろんありませんでしたが、トップを握れば、近衛文麿のように共産主義革命直前まで導くことができます。したがって、WGIPがなぜやすやす日本に定着してしまったか。いまなお、発展史観という美名に惑わされ、共産主義の魅力に取りつかれて、天皇を廃止し、個人がきらきら輝く国家をつくるという幻想をいだいている隠れ共産主義者がマスコミにも、政治家にも、学者にもたくさんいるということではないでしょうか。表の共産党、社民党の支持者のことではありません。隠れ共産主義者(ここでは触れないフランクフルト派を含む)のことです。批判されている河野洋平元官房長官や村山富市元首相、鳩山由紀夫元首相だけではありません。

 そして、東大、京大などを頂点とする歴史学者たちが編纂した教科書で学ぶほとんどの日本人もしらずしらずのうちに無血の共産主義革命をめざすために秩序を破壊することが主目的である自虐史観や伝統文化を破壊する思想潮流に加担しているのではないでしょうか。私もその最近までその一人でした。

 だからこそ、日本の古き伝統をまもることが大切であるとしみじみ感じ危機感を感じてこのホームページを立ち上げました。日本に対する誇りをもってください。こんな素晴らしい国はありません。縄文文明の輝き、天皇について、世界標準と日本標準、神国日本、ユニークな「日本文明」、大和魂について、八紘一宇、天壌無窮の神勅、日本の国体などのページを訪問してみてください。

参考図書

9.発展史観について

○「裏切られた自由 フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症(上)」 ハーバート・フーバー著ジョージ・H・ナッシュ編渡辺惣樹訳(草思社 2017年)
 

 フーバー元大統領が死の直前の1964年まで心血を注いだ著作が2011年にようやく出版された。遺族は、ルーズベルト神話に配慮してなかなか出版に踏み切れなかった。表現は、控えめであるが、ルーズベルトこそ第二次世界大戦を始め、スターリンを助けて悲惨な共産主義国家群を誕生させた悪の権化だという内容を資料をもって語っている。全世界を共産主義国家にしようとするソ連の独善的な野望は、共産党の支配する中国に受け継がれている。
 共産主義者は、宗教をアヘンであると断言し、無神論者であると自ら告白しているが、一種の排他的な宗教であるといえる。排他的な宗教は、他の宗教の存在を一切許さない。邪教として断罪する。共産宗信者は、権力を握ると反対者や従わない者を虐殺する。
 共産党の支配する中国は、国際的なルールを守るつもりも、条約を守るつもりも、民主主義国家と連繋する意志もない。ただ、世界を共産主義国家に染め上げたいだけである。そのような共産主義国家について、分かりやすく包括的に解説した冒頭部分は、共産主義の本質がよくわかる。これを読むと中国共産党、コミンテルンの支部として1922年に結党された最古の歴史を誇る日本共産党の本質がよくわかる。近代化の顔をしていても本質は、暴力による一党独裁、世界共産革命をめざす狂信的な組織であることに変わりはない。そうなれば、現状の中国のように共産党員貴族以外の人類奴隷化である。一つの章をそのまま、資料として提供したい。

第1部第1編 自由人が苦しむことになる知的頽廃と倫理的背信
 第1章 共産主義思想の教祖、指導者、主義・主張およびその実践

 共産主義とは何かを語る前に、まず人類に大きな惨禍をもたらしたこの思想が、どのように発生し勢いを得てきたかについて書いておきたい。共産主義になじみのない読者にも役立つものと思う。
 共産主義思想というものは必ずしも新しい考えではなかったが、それが経済制度、社会制度との関連性の中で、明確に提示されたのは『共産党宣言』(Manifest der Kommunistischen Partei)によってであった。一九四八年に二人のドイツ人社会経済学者(カール・マルクス、フリードリッピ・エンゲルス)が発表した著作である。マルクスはこの頃ロンドンに住んでいて、ニューヨークのホレス・グリーリーが編集していた『ニューヨーク・トリビューン』紙への寄稿によって、生活の糧の一部を得ていた。いまから思うと皮肉なことである。
 二十世紀に入ってから共産党宣言を主唱した立役者はニコライ・レーニン(本名ウラジミール・イリイチ・ウリヤノフ)だった。彼はロシアから追放されていたが、第三インターナショナルの組織に参加した。一九一七年四月、彼を密かにロシアに戻したのはドイツだった。当時ロシアには、民主的なケレンスキー政権ができていたが、同政権に対する革命を起こすためであった。もう一人の共産主義者レオン・トロツキーはアメリカに暮らしていたが、彼もレーニンのもとに馳せ参じた。
 
 初期の段階でのロシアの共産主義者は、二つのグループに分裂した。ボルシェビキは暴力革命を指向し、メンシェビキはむしろ非暴力的な革命を指向した。結局レーニンの指導するボルシェビキが勝利し、一九一七年十一月、権力を掌握した。メンシェビキの多くはボルシェビキに加わり、そうでない者は粛清された。
 レーニンは人民委員会議議長として、ロシアの独裁者の地位に就いた。その体制は彼の死まで続いた(一九二四年一月)。スターリンが彼の後継者となり、独裁が彼の死まで続くことになる(一九五三年三月)、スターリンの亡骸、レーニン廟に葬られた。
 スターリンの死後は、不安定な三頭体制となった。その三人は、ラブレンチー・ベリヤ、ゲオルギー・マレンコフ、ヴャチェスラフ・モロトフである。この後ニコライ・ブルガーニンが指導した。一九五八年にはニキータ・フルシチョフが権力を握った。彼はスターリンとその業績を批判した。スターリン批判は一九六一年十月三十日に最高潮に達した。この日、レーニンのヨコに葬られていた彼の亡骸は撤去されたのである。
 フルシチョフ以降の指導者も、マルクスとレーニンに対する尊崇の念には変わりはなかった。二人の肖像はロシア(ソビエト)のどこにあっても見ることができた。赤の広場で行われる毎年十一月の革命記念日には、ソビエトの指導者はあらためて二人(の思想)への忠誠の心を表するのである。
共産主義の本質とその実践
 共産主義思想は第一に、人々の心を燃え立たせる病の思想である。信じる者の熱情は、キリスト教徒やイスラム教徒のそれと同じである。共産主義思想は、救済思想であるが、それに反抗する者を許さない。時とともにその思想体系、(拡散の)手段、組織体系を進化させてきた。その本質は強烈な拡張意識と、人間の感情(たとえば信仰心)の徹底的な抑圧である。その思想は残酷でサディスティックでさえある。
独裁について
 この問題についてレーニンは次のように書いている。
「独裁とは、科学的に解釈すれば、制裁なき絶対的権力である。法的規制に制裁されることなく、力だけに頼る権力である。それ以外に定義できない」
 スターリンはこの考えに同意している(一九二四年)。
「レーニンのプロレタリアート独裁の理論は決してロシア独特のものではない。レーニンが言うように、『どこにでも適用可能なモデルとなる方法論』である」
宗教とモラルについて
 レーニンはカール・マルクスの無神論について次のように述べている。
「宗教は人々にとって阿片である。宗教は精神的なジン(酒)のようなもので、資本の奴隷となった人々が、人間らしく生きたいという望みから逃避するためのものである」
「宗教は人々にとっての阿片である」という言葉は、赤の広場の近くにある政府の建物にしっかりと刻まれている。
国際関係について
 レーニンは一九一八年三月八日に次のように語っている。
「戦争にあっては、(法的な)手続きに拘泥するようなことがあってはならない。歴史をしっかりと認識しておくことである。条約は、力を獲得するための手段である。歴史がはっきりと疑いの余地なく示しているのは、敗者が条約を結ぶのは、力を回復するための手段としてそうするのである」
一九一三年の初めには、スターリンもまた国際間の条約について軽視する考えを明白にしていた。
「外交官の言葉は行動と裏腹でなければならない。そうでなければ外交官の価値などない。言葉は言葉、行動は行動。違っていてもよいのである。洗練された言葉こそが、汚い行為を隠してくれる。真面目な外交官は、涸(か)れた水であり、あるいは木偶(でく)の坊の役立たずである」
共産主義革命は暴力による
 レーニンは次のように書いている。
「大国間のありようは、力によってのみ決まる。
社会主義の勝利は可能である。数ヵ国で、いやたった一ヵ国でも勝利することはできる。勝利した国の労働者(プロレタリアート)が、資本主義国との戦いの先頭に立つ。彼らは、すでに資本主義の生産手段を手中にし、社会主義者としての生産が可能になっているからである。他国の抑圧された人民を惹きつけ、資本に対する反乱を煽る。必要であれば、労働者を収奪する階級や国に対する暴力も厭わない」
 これに続いてスターリンも次のように書いている(一九二四年)。
「ある一国で社会主義が完全に勝利するには、他国のプロレタリアートと力を合わせなくてはならない。また、最初に勝利した国のプロレタリアートが他国の革命を支援することで、革命はより迅速かつ完全なものになる。
それではどのような支援ができるだろうか」
スターリンはこの自問に、レーニンの言葉を利用して答えている。
「まず、はっきりさせておくべきことは、勝利した国は、すべての国に革命を惹起させ、その社会的発展を支援しなくてはならない、ということである(Lenin,Selected Works,Vol.VII、p.182)。
 第二に、(革命に成功した国の)プロレタリアートは、資本家の財産を没収し、それを社会主義的生産に転化させるのであるが、(一国の成功に留まらず)他の資本主義諸国に対しても立ち上がらなければならない。そうした国の抑圧された階級をまとめあげ、資本家に対する反乱を仕掛けなくてはならない。抑圧を続ける階級に対してあるいは国家に対しては、必要とあれば、武器を取ることを厭ってはならない」
 スターリンは、一九三九年三月十日の演説では、訓練された革命家の必要性について訴えている。
「若手の中核となる者に共産主義を叩き込むためには、科学的なアプローチが必要である。また専門的な訓練もいる。科学的思考の中で最も重要なのは、社会の発展に関わるマルクス・レーニン主義の考え方である。社会発展の法則である。プロレタリア革命の法則である。社会発展の最終段階でプロレタリアートが勝利する法則である」
労働組合とストライキによる破壊工作
 レーニンは、一九二〇年四月、支援者に対して次のように語っている。
「最も重要なことは、どのようなやり方を用いてでも、どんな犠牲を払ってでも、またそれが不法行為であっても、労働組合内部に入り込むことが肝要である。その組織内で、共産主義者としての行動をいかなる犠牲があっても取らなくてはならない」
 一九二五年のスターリンの言葉は次のようなものがある。
「我が国の革命は国内全労働者によって支持されなければならない。少なくとも、もう数ヵ国で同じように勝利しなくてはならない。最初に革命を成就させた国が、他国からの干渉や、国内の反動に打ち勝たなくてはならない。社会主義の最終的勝利には必要な要件である」
第六回コミンテルン(一九二八年七月、八月)では、つぎのような決議がなされている。
「資本主義国家の内部にいる共産主義者は、「戦争に対してはゼネストで対抗せよ」という訴えは拒否しなくてはならない。その主張に効用があるというような考えは幻想である。しかしながら、その(資本主義国の)戦争がソビエトに対してなされようとする場合においては、大規模なストライキ乃至(ないし)はゼネストを実施する機会を探らなければならない。それは、ソビエトの対する戦いが始まる前あるいは対ソ戦の動員が始まっている時になされなくてはならない」
議会に対する破壊工作について
 これについてはレーニンが次のように述べている。
「革命的プロレタリアートは、ブルジョア的議会に参加しなくてはならない。それは大衆を教育するためである」
そして再びレーニンはこう述べている。
「ブルジョア的議会あるいは似たような反革命的制度を打倒することができないかぎり、共産主義者はその制度の中で活動しなくてはならない。そうした制度下の労働者の中には、宗教家に惑わされたり、農村の生活の単調さで頭が麻痺している者がいる。そうした制度の中にあっても活動しなければ、ただ単に不平を漏らす小児と同じである」
一九二〇年六月、レーニンはこう述べた。
「コミンテルンは、植民地あるいは後進国におけるブルジョア民主主義と暫定的な同盟を結ばなくてはならない。そうであっても、彼らと同化してはならない。プロレタリア運動の独立性は、それがどれほど未発達な段階にあろうとも、保持しなくてはならない」
 一九三五年には第七回コミンテルンがモスクワで開催された。そこにおいても、どんな国であれじりじりと風穴をあけていくという強固な意志を示す演説がやむことがなかった。コミンテルン書記長ゲオルギ・ディミトロフ(ブルガリア)は「トロイの木馬」の故事を引き、それに倣うことを説いた。一九四〇年、マーチン・ダイズ下院議員は、「トロイの木馬」戦術の危険性を説く本を出版した。
国家間あるいはグループ間抗争の煽動について
一九二〇年十一月、レーニンは次のように述べている。
「我々は資本主義国家間の利害対立を利用しなくてはならない。一方を他方にけしかけるのである。・・・・・・共産主義者は無関心を装いつつ、ひたすら、そうした国において共産主義プロパガンダ工作を進めればよい。ただそれだけで終わってはならない。共産主義者の合理的な戦術とは、互いの敵意を煽って利用するのである」
 一九二一年、第一〇回ロシア共産党大会でスターリンは外務人民委員の論文を批判して次のように訴えた。
「チチェーリン(外務人民委員)は、帝国主義国家の内部矛盾について過小評価をしているようだ・・・・・・しかしながら矛盾の存在は確かである。外務人民委員はその理解の上に立って行動している。
 外務人民委員の機能として大事なことは、そうした内部矛盾を考慮しながら、それを利用した作戦をたてることである」
同じ年に、スターリンは「プラウダ」紙に次のように書いている。
「我が党がなすべきことは、我が国を囲い込む資本主義国家や政党間の矛盾や対立を利用することである。帝国主義の崩壊がその狙いである」
スターリンの一九二四年の言葉は次のようなものである。
「プロレタリアート国家に敵対するブルジョア国家間における矛盾、いがみ合い、あるいは戦争といったものは、革命に至る準備的要素である」
講和不可能について
 この問題のついてレーニンは次のように語っている。
「ブルジョアジーとの戦いに勝利した国において、プロレタリアートが他国に戦争を仕掛ける場合がある。その狙いは、社会主義思想の拡散である。そのような戦いは正当化され得る。それは『聖戦』でもある」
「我々自身が、泥棒である資本家の悪党どもを容認するようなことにでもなったら、彼らは我々の心臓を一突きにしてこよう。我々のすべきことは、彼らを互いに戦わせることである。社会主義と資本主義は共存できない。両者の間に和平はない。最終的にはどちらかが勝者となる。敗者になれば葬送曲が流れるだけである。それが我がソビエト連邦で流れるか、あるいは資本主義国で流れるか、そのどちらかしかない」
 一九三八年六月二十三日、外務人民委員のマキシム・リトヴィノフはこの点についてあらためて言及している。
「資本主義を残すかぎり、恒久的和平の構築は不可能である」
 一九三九年十二月二十一日、スターリンは自身の誕生祝いの言葉に応えて次のように話した。
「同志諸君、私は全身全霊、必要なら我が血を流しても、労働者階級プロレタリアート革命と世界の共産主義のために尽くす。この言葉に嘘はない」
 先の大戦中、アメリカ、イギリス両国と同盟関係に入ったことについては、自由と民主主義に関して歯の浮くような声明を何度も発している。一九四二年には大西洋憲章を受け入れるとした。こうしたやり方こそが、レーニンが説いていた「身をかわしながらのトリック(dodges and toricks)」であった。これについは第二次世界大戦を扱う章で詳述したい。
 筆者がここに引用したレーニンやスターリンの言葉が、戦時の大言壮語に過ぎないと思う読者には、現代の共産主義世界の指導者の声を聞いてほしい。一九五五年九月、ニキータ・フルシチョフは東ドイツ共産党代表団に次のように述べている。
「西側では、ジュネーブでの四カ国会議以降、ソビエトの指導者に変化があったようだとの話が出てきているらしい。確かに、笑顔が増えたが、活動方針にはいささかの変化もない。
 我々の笑顔が、マルクス、エンゲルス、レーニンの思想の放棄だと考える者は大ばか者である。そのような時代が来ることはない。『エビが口笛を吹く日』を待つようなものである」
 一九五六年十一月十七日、フルシチョフはモスクワ駐在の(西側)外交官を前に、次のように語っている。
「あなたたちの好き嫌いにかかわらず、歴史は、我々の側に傾斜しているのは明白だ。あなた方(西側諸国)は我々に潰される運命にある」
一九五七年十一月二十二日にはこうも言っている。
「我々共産主義者、そして当然にソビエトの政治家もみな無神論者である」
一九五九年一月には次のように発言している。
「我々はずっとマルクス、エンゲルス、レーニンの教義に従ってきた。そしてこれからもその教えどおりにやっていく、ソビエト共産党は世界の共産主義革命運動の超越した存在である。比喩的な表現をすれば、我が党は高い山に登っているのである。さらなる高みを目指す我々を雪崩(なだれ)も土砂崩れも止めることはできはしない。要するに我々の共産主義の運動は誰にも止めることはできない。国際共産主義運動をいっそう団結させることで、社会主義陣営の力をますます強化しなくてはならない」
 同年九月四日のフルシチョフの発言は、共産主義の資本主義に対する最終的勝利を予言したものだった。
「ソビエト連邦ブロックの経済は改善が続いており、我々は辛抱強くさらなる改善を待っていればよい。一方の資本主義ブロックは、自らの墓穴を掘っているような状態である(放っておけばよい)。我々が墓穴を掘ってやるようなことをする必要もない」
 クレムリンでのボルシェビキ革命四三周年記念祝賀会の席上でフルシチョフは次のように演説した〈一九六〇年)。
「我々は世界の共産化のために努力を続けているが、戦争そのものはその目的達成に役立たない。むしろ邪魔になるだけである。我々は人心を掌握しなければならない。(西側との平和的)共存を実現すること。互いの不干渉を確実にすることが肝要である。我々は鞭を使って人々を共産主義に導く必要はない。
 共産主義思想は(我々が積極的に動かなくても)、世界を席捲する」
 一九六一年四月十四日のフルシチョフ演説は以下の通りである。
「一九一七年に始まった十月革命以降、社会主義を拡大させてきた。ゆっくりとそして大胆に、あの偉大なるレーニンの主唱した道を辿っている。もはやこの道に立ちはだかって邪魔をする勢力はない」
 このようなフルシチョフの強気な発言には十分な根拠があった。レーニンが生きていた頃、共産主義は世界人口のわずか五~六パーセントを占めるに過ぎなかった。しかしその人口は三〇パーセントを超えている。自由主義諸国の共産主義思想のイデオロギー的勝利に向けての共産主義者の努力は、フルシチョフの演説にはっきりと表れている。
そのことは、中国駐モスクワ大使(潘(はん)自力(じりき))に語った次の言葉が参考になる〈一九六三年二月十五日)。
「資本主義をその墓穴に放り込んで土をかける作業は、我々と中共との共同作業になることを約束する」
一九六三年四月二十日、フルシチョフはイタリアの新聞編集者(イタロ・ビエトラ)のインタビューで次のように語った。
「異なる社会制度を持つ国との平和的共存は、イデオロギー面での共存も可能であることを意味しない。
我々共産主義者は思想上の共存を認めてこなかったし、これからも認めるつもりはない。この点については妥協の余地はまったくない。
 異なるイデオロギーの抗争の場面においては、我々は常に攻撃の立場をとる。共産主義思想を強化していく」」(p164-p173)

○「日本人に知られては困る歴史 日露戦争と世界史に登場した日本」若狭和朋著(ワック 2012年)

「西安事件こそが日本と中国の運命の岐路となった事件だった・・以下に説明する。
  当時から日本人はこの事件を軽視はしなかったがものの、おそるべき意味については無理解だったというしかない。今日までこの無理解は尾を引いている。囲碁に譬えれば、この一手の意味が理解できずにへぼな手を連発して負けたようなものだ。支那事変は西安事件こそが開戦の起点なのである。
 西安事件は一九三六(昭和十一)年十二月十二日に起きた。部下の張学良が蔣介石を監禁し、共産党に引き渡したという事件だった。毛沢東たちは狂喜し処刑しようとするが、スターリンは許さなかった。背景はのちに詳しく書くが、要するにコミンテルンの方針に従い蔣介石をして対日戦争遂行の駒にしたのだ。コミンテルンと中国共産党は蔣介石と日本の戦争の実現を希求し、一九三二(昭和七)年四月二十六日には中国共産党と中国ソビエト政府は「対日宣戦布告文」を、そして重ねて一九三四(昭和九)年には「対日作戦宣言」「対日作戦基本綱領」を発表していた。中国共産党は盧溝橋事件の五年も前から、日中の戦争を宣言していたのだ。
  
 日中両国の運命に深くかかわるのが一九二八(昭和三)年のコミンテルン第六回大会の決定だった。主な方針は次の三つである。
  一、自国の敗北を助長すること。
  二、帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること。
  三、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。
 次の一九三五年(昭和十)年のコミンテルン第七大会はさらに「人民戦線戦術」を決議し、共産党は表に出ないで『民主勢力を利用して反ファシズム人民戦線(フロント)を結成する」という戦術に全力をあげていたのだった。
 このコミンテルン決議以来、共産主義者は一斉に地下に潜った。共産主義者の姿は消えた。自由主義者か共産主義者かの区別がつかなくなった。
  
 尾崎秀実とゾルゲ・グループの結成も一九三四(昭和九)年だ。日本にも一斉に各種の「人民戦線」が作られた。盧溝橋事件発生の時の首相は近衛文麿だったが、近衛文麿の顧問は首相官邸に一室を構えた尾崎秀実だった。」(p206後ℓ8~p208ℓ1)
  
「反日日本人に握られている歴史教科書
 日本の歴史教科書は悲惨である。 日本の国民を育てる教育ではなく、日本の「罪悪史」をでたらめに教え込み、日本を嫌い憎む日本人を育てるのが、いまの歴史教育である。私は高校社会科の教師を三十七年間勤めた者である。生徒は、近現代史になると、ため息をついて言う。詰問口調のときもある。
「先生!また日本の悪口の時間ですか?」
「先生なら違うやろ・・・・・・?」
 歴史教科書はイデオロギー教育ではない。それなのに、生徒たちは中学校までに十分にイデオロギー教育の洗礼を受けてきている。経験的に間違いないのはこの二十年間、正確を期して言うと、この十五年間に急速に生徒の詰問が増えた。「教科書問題」の発生以来、急速に生徒のため息が増えた。一九八二年の宮沢談話と近隣条項の誕生から、露骨に変わったのは教師用の「指導書」の中身である。生徒は教科書を持つが、教師には教科書会社が発行する「指導書」なる虎の巻がサービスされる。
 この「指導書」に「検定」はないから、簡単に言えば書きたい放題である。私は準備中なのだが「指導書」の研究書を上梓したい。教師への影響という点では、「指導書」はダイレクトである。
 最後の勤務校に転勤した二十年前のことである。歴史担当の教師たちが集まった席での会話である。ある社の教科書は「南京大虐殺」の扱いが小さいと一人の教師が発言したので、「南京大虐殺なんて、あんた、信じているの?」と私はなじってしまった。
 その三十代の教師(旧帝大西洋史科卒)は、「なかったという説もありますが、指導書には詳しいです」と答えた。二十年経ったいまでは、「不勉強だったもので」と笑っているが、ことほど左様に影での影響力は大きい。教師は指導書を読む姿を人目に曝しはしないものだ。自宅などで「研究」に励むのである。
 ある日、大学生の教え子から電話があり、在学中にもらったプリントを失ったので、もらえる分はないかと言う。大学の授業で、教授と論争になってしまったので欲しいというのだ。「二十一ヶ条要求」問題の箇所が欲しいのだという。どうせ「南京大虐殺」もだろうと言うと、「多分!」と言うので大笑いになったことがある。この種のやりとりは毎年のことだ。卒業前の「感想文」に、多くの生徒が悪玉=日本ではなかった、「日本人の誇り」を勉強できて嬉しかったと書いて、卒業していく。
 私ごときの授業でこうなのだから、反日日本人の授業は推して恐るべしである。
 日本の歴史教科書は、中韓に媚びる反日日本人に握られている。これが言い過ぎではないことは、事態を知る人ならすぐに理解されるに違いない。反日日本人の大部分が「旧左翼」の人たちである。
 日本を愛するなどという「ナショナリズム」は、国際主義の思想からみれば遅れた軽蔑すべき心情である。日本人であること自体を反省するのを思想的課題とするのが、左翼の良心だと、彼らは確信しているのである。
 祖国愛をむしりとることが国際的な正義に通じるとは、通常の感覚では考えられない。
 父母、祖父母、先祖の歩いてきた道、なしとげられた業績の数々を学び、結果として自然に尊敬の気持ちが深まるように導くのが教育である。
 日本を愛する者がはじめて他国の人の祖国愛を共感できるのであって、日本への愛を持たない者とは、つまり他者・他国を愛する者の心に共感する心理的基盤を喪失した者でしかないのだ。戦前の日本人は愛国心が過剰であった、と言う人がいる。
 「過剰な愛国心」とは何であろうか。戦争中の愛国心の高まりを言うのだろうが、だとするならば、因果関係を間違えているにすぎない。
 戦争という平常ではない状況に国と自分が陥ったとき、ごく普通に愛国心は高まるに違いないのだ。「過剰な愛国心」の悪を言う人は、桑を指して槐を罵る(指桑罵槐)という中国の俗諺を借りると「過剰」の悪に名を藉(か)りて愛国心を罵っているにほかならない。国民が愛さなくなれば、国は腐るだけだ。
 彼らは愛国心が悪いとは、率直に言わないのである。こういうのを陰険という。
 外務省でも元大蔵省でも、少なくはない反日日本人が潜り込んでいると見たほうがよい。法曹もマスコミの世界も同じである。しかも、彼らは中枢・要路をおさえている。
 いぶかる人は、尾崎・ゾルゲ事件を想い起こしてほしい。近衛首相の最も信頼した嘱託・顧問がコミンテルンの一員だったのである。ただ情報をもらしただけ(これだけでも一大事だが)ではなく、政策転換のたびにリードする尾崎たちの影が見え隠れしている。日本軍の北進はないと知った極東ソ連軍は、満州正面を空にしてモスクワ救援に移動した。極東ソ連軍はかってはドイツ指導のもとに錬成された最精鋭の機甲軍団であった。
 モスクワ防衛の成功・ドイツ軍敗退の最大の功労者は、ゾルゲ、尾崎秀実である。尾崎秀実はソ連邦英雄だが、日本にとっては底知れない恐ろしい敵である。第一高等学校から東京帝国大学法学部を卒業した輝かしきエリートは、まず朝日新聞に「潜った」のである。
 彼の仲間は同じような道を歩んでいる。日本はまだこの清算をすませてはいないのだ。
 この連中の後輩たちは、今日、高級官僚・法曹・学問・メディアの世界の要路をおさえて日本が腐っていくのを眺めている。朝日新聞やNHKは反日日本人が廊下をのし歩いているとしか思えないが、いかがなものか。」(p90~p93)
  
○「近衛文麿の戦争責任 大東亜戦争のたった一つの真実」中川八洋著(PHP研究所 2010年)
  
「共産ロシアの対日「十五年戦争」
  
 日本の国益として最高なものは平和(独立)である。戦前日本のこの平和を脅かし破壊する国家はロシア一ヵ国のみである。だから、日本が「北進」してその軍事的・政治的な勢力を拡大することは、日本とロシアとの間の緩衝の幅を大きくするから、ロシアの南下の阻止を眼目とする日清戦争や日露戦争がもたらしたように、必ず日本の平和と隆盛を招く。満洲事変とは、ロシアが支配する満州の北半分(南半分はポーツマス条約で日本の支配域)からのロシアの追放であり、白人(西洋列強の帝国主義)からのアジアの解放でもあり、日露戦争の時に日本が能力不足でできなかった宿題を二十六年も遅れてやっと果たした、「北進」の国益に沿ったものだった。
 満洲事変を仮に非難するとしたら、それ自体が問題であるのではなく、むしろ第一次世界大戦のさなかロシアが日本の同盟国から敵国に寝返った一九一八年三月に直ちに起こすべき満洲事変を、それから十三年もたった一九三一年にするという、遅きに失したことを問題にすべきである。遅くとも一九一九年中までにすべきであった。
 だが、一九三七年の支那事変によるいわゆる日中戦争とは、十八世紀頃の江戸時代から伝統的なこの「北進」という日本の大戦略の一大変更であった。日中戦争はロシア勢力の南下を阻止するに何ら寄与しない戦争であった。しかもそれに自らの国力を蕩尽せしめる、国益のイロハにもとる愚行であった。「兵(戦争)とは国の大事でなり、死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり」この『孫子』の兵法の基本に反していた。
 このように、一九三一年の満洲事変までの日本の軍事的対外政策と一九三七年の支那事変と一九三七年の支那事変以降のそれとは、表面上に現れた枝葉では多少の連続性はみられても、根幹においては対極的であり不連続である。「八年戦争」は実在だが、「十五年戦争」は幽霊である。公式にも、この支那事変と(英米蘭との)太平洋戦争とをあわせて「大東亜戦争」とは、あくまでも「八年戦争」のことを指し、それ以外ではない。
 ただ、ある国―ロシア―にとってのみ、満洲事変から日本の敗戦までのその十四年間は連続している。満洲事変によってロシアは初めて日本の軍事力と陸上で自分の国境において接することになった。だから、共産ロシアは、シベリア鉄道の傍まで進出してきた日本の軍事力を太平洋に叩き落として小さな四島に封じ込めるべく、対日戦争を(非軍事の謀略を含めて)一九三一年に全面的に開始した。そして一九四五年に満洲、樺太、千島を占領したときにこれに成功した。それこそは正しく「十五年戦争」であった。「十五年戦争」はあくまでも、共産ロシア(スターリン)の日本に対する「第二次日露戦争」という立場からのみ表現として妥当性をもつ。「十五年戦争」の言葉を創った鶴見俊輔(一九五六年)は、共産ロシアを祖国と考える共産主義者であった。
 共産ロシアの日本担当工作員であるリヒャルト・ゾルゲは述べている。
 「一九三一年の秋に起こった満洲事変で、極東における日本の地位は一変した。・・・・・・ソビエト連邦はこれまで国防上、とかく等閑に付しがちであった広大な辺境地方で直接日本と相対することとなった。言い換えるなら、ソ連にとって容易ならざる新事態が起こったのであった」(『ゾルゲの獄中日誌』山手書房新社、七九頁)。
 また尾崎秀実も、満洲事変以降、ゾルゲが日本軍の対ソ戦を懸念して、中国でのこの情報収集に動いていたので協力したと陳述している(予審判事尋問第四回調書)。尾崎が上海から日本に帰国したスパイ網を組織し始めたのが一九三二年、そのボスであるゾルゲであるゾルゲの日本潜入は一九三三年だった。「世紀のスパイ団」である尾崎・ゾルゲ組織とは、ロシアが対日「十五戦争」のために日本に上陸させた超精鋭の情報戦部隊であった。」(p12~p14)
  
「日米を操作したロシアの「隠れた手(hidden hands)」
 
 米国のルーズヴェルトの周辺が共産主義者で固められていたのと同じく、日中戦争の早期講和を阻み「南進」を決行する日本でもまた、近衛文麿首相の周辺も共産主義者の巣窟であった。
 近衛文麿が積極的に側近に登用した共産主義者としては、書記官長(=現在の官房長官)の風見章(親ソ系のマルキスト)、ゾルゲ事件の首謀者の一人として死刑になった尾崎秀実(ソ連のスパイ)、日中講和の阻止の暗躍した西園寺公一(中国共産党系のマルキスト)や犬養健(同上)、朝日新聞の佐々弘雄、松本重治などあげるときりがないほど多い。
 太平洋戦争(日中戦争)に至る、日米それぞれの国家における開戦決定過程で、このようにソ連の影響や共産主義者が暗躍した事実からでも、日米戦争とは共産ロシア(ソ連)が誘導した戦争であった、との推断は誰にでもできる。実際にも、共産ロシアが日米間の戦争を欲して、「積極工作」に全力を投入した成果としての戦争、それが日米両国の死闘を尽くしての太平洋戦争の裏面である。
 太平洋戦争後のアジア・太平洋域の新しい地図は、最終的には、ソ連のみが勢力圏をのばす草刈り場となり、満洲も中国本土も「スターリンの息子」である毛沢東の共産党支配下に陥り(一九四九年)、朝鮮北部は同じく「スターリンの息子」金日成の支配するところとなり(一九四五年)、ベトナム北部も同じく「スターリンの息子」ホー・チ・ミンの支配するところとなった(一九五四年)、この余波はその後三十年間も続き、一九七五~七九年には、ベトナム南部、カンボジア、ラオスなどインドシナ半島全域がソ連勢力の掌中におちた。
 日本の日中戦争も、「南進」に始まる対米英蘭戦争(太平洋戦争)も、この二つあわせて大東亜戦争とよばれる「八年戦争」のすべては、ただただロシアの利益に奉仕した。そして、ポスト冷戦時代に至っても、いったん共産ロシアの支配下におちたアジア諸国のなかでその共産主義から脱しえた国は、国連のPKOの協力を得ることのできたカンボジア一カ国にすぎない。共産中国、共産朝鮮、共産ベトナム、共産ラオスはともにいまも健在で、日本のなした共産ロシアに奉仕した「大東亜戦争」後遺症は今日においても甚大である。
 単純化すれば、日本の将兵二百十万人(『日本の戦争』原書房、二一頁)と米国のそれ九万余が生命を捧げた戦争の結末は、ロシアに奉仕すると同時に、「アジア共産化」のためであった。日中戦争や太平洋戦争は、日米双方の国益に反したうえに、さらにアジアの人々に共産主義の抑圧の不幸をもたらしたのである。日本に対しても、米国に対しても、ロシアを除く全アジアに対しても、釈明のできない愚かしく、かつ有害「無益な戦争」であった。
 一国の外交政策の決定にあたり、他国の「隠れた手(hidden hands)」による操作を受けることは主権の侵害の容認であり放置である。あってはならない。「ハル・ノート」や「南進」の決定が、共産ロシアの「隠れた手」で操作されたとすれば、日本と米国の双方の国家にとって、これこそ「恥ずべき怠慢」であったといえる。」(p66~p68)
 
○「日本人はいつ日本が好きになったのか」竹田恒泰著(PHP新書 2013年)
  
 「まず、教育に関しては、そろそろまともな教科書を使うようにならなくてはいけない。一九五〇年代初めの、共産主義者たちが武力闘争に励んでいた時期に、共産党幹部の志賀義雄が次のように武力闘争を批判した。
  
 「なにも武力闘争などする必要はない。共産党が作った教科書で、社会主義革命を信奉する日教組の教師が、みっちり反日教育をほどこせば、三十~四十年後にはその青少年が日本の支配者となり指導者となる。教育で共産革命は達成できる」
  
 この言葉が予言したとおり、おかしな教科書が普及して、日本人はおかしくなってしまったが、その逆も可能であることを知るべきだ。もし真っ当な教科書が普及したなら、真っ当な青年が育ち、将来日本の指導者となって、そのときに本当の日本の復興が実現するのである。」(p228~p229)
 
○「台湾 朝鮮 満州 日本の植民地の真実」黄 文雄著(扶桑社 2003年)
 
 「「世界革命・人類解放」のコミンテルン史観の影響もあり、思想界は一気に植民地否定の方向へ向かい、戦後はコミンテルン史観と東京裁判史観の一色で塗りつぶされた。植民地は「搾取」「差別」のシンボルとなり、さらには植民地の範疇も、外国植民地、内国植民地、そして経済植民地、新植民地へと拡大されていった。
 たとえば北海道(蝦夷)、沖縄(琉球)が大日本帝国の「内国植民地」」とされ、中国は「半植民地」「次植民地」、日米欧の技術と資本の移転先は、帝国主義、新植民地主義の「経済植民地」と、学術的な名を借りて次々と新概念が定義されていった。
 また「植民地」は、もっぱら西洋植民地、つまりは大航海時代以降の西欧諸国の海外移民、発展、あるいは地球分割の動きをさすようにもなった。
 戦後日本の進歩的学者による植民地研究で最も欠落している部分は、植民地史と社会主義諸国史との比較研究である。それを行なわなければ、植民地主義の本質は理解できない。
 なぜならば、大航海時代以降の西欧の植民地獲得、領土拡大と同じ時代に、後のソ連、中国、すなわちロシア帝国と清帝国の領土拡大が同時進行でおこなわれていたからである。
 なぜ同じ領土拡大でも、社会主義諸国家が行えば開発、発展、統一と称され、欧米日の場合だけが侵略になるのだろう。たとえば五族協和の満州国が日本の植民地ならば、同時期のモンゴル人民共和国はソ連の植民地としなければならないはずだ。自主権では、満州やモンゴル以下であるチベット、内モンゴル、新疆は、なぜ中華人民共和国の植民地と見なされないのだろう。」(p437下段後ℓ2~p438下段ℓ7)
 
 「ソ連、東欧の社会主義政策が崩壊した時、そこに何が残されたかといえば人々の貧困だった。そして個性と潤いを感じさせない型通りの建築様式と指導者達の銅像だった。
 かつて喧伝された「地上の天国」としての社会主義社会の遺産は、二十一世紀の人類に対して誇り得るものは何もないということではないだろうか。
 「遺産」がないだけでなく、その国が積み重ねてきた貴重な遺産を破壊し、根絶やしにしていたことを見逃すことはできない。ロシアを例にとれば、ソ連時代においてロシア正教の寺院、イスラム教のモスク、ユダヤ教のシナゴクを破壊し、人々の心の支えである信仰心を奪い取った。信仰、学術、教育、社会、産業などあらゆる面における、数世紀にわって育まれてきたロシアの精神文化はずたずたにされ、民族を根無し草にしてしまった。そのためロシア人の間で広まったのは、収賄であり、アルコール中毒だった。
 ソ連共産党宣伝部長としてペレストロイカを開始したアレクサンドル・ヤコブレフは、「マルクス主義の実現は、後戻りの利かない無道徳主義への道を開く」といった。
 彼が指摘する無道徳主義とは、マルクス主義の憎悪、妬み、敵意に訴えるという本質を衝いたものである。マルクス主義が抽象的な原理を最重要視し、何百万人もの人々の生活と利益を抽象的な概念に服従させたこと、個人の心、詩的で奥深い感情をも侵害しようとする国家的無神論の非人間性などを指摘している。
 もっと極端なマルクス主義の批判者であるグルジアの哲学者マレブ・ママルダシヴィリは、
 「マルクス主義とは犯罪社会を創り出し、現実を非現実に、社会を非社会にすり替える犯罪理論である」といっている。」(p441下段後ℓ5~p442下段ℓ7)

平成27年11月23日作成   令和3年08月08日オリンピック閉会式の日最終更新  第107話