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蘇我氏の政権をクーデターで倒した645年の「大化の改新」の目的は、翌年の「改新の詔」に象徴されるように、唐をモデルとした律令国家を作ることでした。唐化の時代の始まりということができます。
 唐にならって、「大化」と元号をさだめ、元号は「平成」の現代にまでいたっています。
 律令国家体制は法的には、
  668年近江令 689年飛鳥浄御原令 701年大宝律令  757年養老律令

と整備されました。鎌倉時代になり、武家の私的な掟として貞永式目が1232年に制定されましたが、あくまでも律令体制を否定するものではありませんでした。法的には、律令は、明治維新まで有効でした。

 中央官制としては、天皇の下に神祇官と太政官が置かれました。
 神祇官は、祭祀を司り、日本独自のものでした。これにより、コンビニよりも神社の数が多いという神道の伝統が残りました。あるいは、唐化の中でも神道は、認めざるを得ない圧倒的な日本の基層文化であったかもしれません。
 太政官は、左大臣・右大臣・太政大臣・大納言などの議政官と事務を取り扱う官僚組織です、中務省、式部省、治部省、民部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省などからなっていました。

 やがて、律令になかった令外の官として、705年中納言、731年参議、777年内大臣(左右大臣の次席)が置かれ、議政官に加わりました。議政官は、今日の内閣の大臣のような体制で、国会の役割をかね、重要案件の審議、決定をおこなっていました。天皇と議政官の間に、858年摂政、884 年関白が、加わりました。これらの体制は、1868年の明治維新まで維持されることとなりました。
 
 征夷大将軍の官職も、794年桓武天皇の時代に、令外の官としておかれました。元来は、対蝦夷戦のための軍勢の臨時の最高司令官でした。常置されるものではありませんでした。やがて鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の時代にあっては、天皇から武家の棟梁に常置的に与えられました。あくまでも天皇が任命し、議政官を中心の構成される公家の政権の下にあるとも言えるものでした。

 故にこそ、1867年12月9日の王政復古の大号令もあり得ました。つまり、「徳川内府、従前御委任ノ大政返上、将軍職辞退ノ両条、今般断然聞シ食サレ候」ということもあり得ました。徳川家の当主は、征夷大将軍であると同時に内大臣でもありました。公卿として公家の政権に組み込まれていました。委任されていた征夷大将軍の地位を天皇に返上して、天皇に政権を返して明治新政府が成立しました。

正一位・従一位
 平清盛   従一位太政大臣
 豊臣秀吉  従一位関白・太政大臣
 徳川家康  従一位太政大臣・征夷大将軍

正二位・従二位
 源頼朝  正二位権大納言・征夷大将軍
 足利尊氏 正二位権大納言・征夷大将軍
 織田信長 正二位内大臣・右大臣
 豊臣秀頼 正二位内大臣・右大臣

  官人(官僚)は、位階が授けられのその階位に相当する官職が与えられました。正一位・従一位は太政大臣、正二位・従二位は、左大臣・右大臣・内大臣、正三位は大納言、従三位は中納言といったぐあいにです。一位から八位まであり、さらに正と従に分割さていました。六位以下は廃れてしまいましたが、五位以上の階位は永く活用されました。五位以上は貴族とされていました。貴族の中で、正一位から従三位までを公卿と呼ばれ、いわば大臣クラスでした。武家であっても同様で、官位授けられました。右の官位は生前の最高官位であり、死後更に上の位に贈位される場合もありました。この官位は現在も、活用されており天皇より勲章をもらうときには、位記も同時に授与されています。

 大和国、山背国(山城国)、河内国(757年和泉国が河内国から分離)を畿内とし、地方は、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道を七道としました。南海道は四国と紀伊国、西海道は九州です。明治政府は、蝦夷地にも支配圏を拡大し、七道にちなんで北海道と称しました。それぞれの道に国が置かれました。国は68に別れ、1874年の廃藩置県までの地域名となりました。現在も都道府県名と併用して使用されています。畿内は近畿地方として名を残しています。

 行政区画としては、国―郡―里(のち郷)が置かれ、それぞれ国司、郡司、里長が治めました。地方の統治体制は、早くから崩れましたが、国司は受領とよばれ変質しながらも永くつづきました。

 律令体制の出発は、公地公民とされ、土地は班田収受の制度の下に、6歳になると支給され、死ぬと収公され国家に返却されることとなっていました。それに対して祖・庸・調の税金が課せられましたが、この体制は、長くは定着しませんでした。しかし、土地を配るための条里制の地割りは、永く残り、北海道を除く日本全国に条里制地割りを昭和の時代まで残すこととなりました。多くは、昭和の田畑の区画整理で破壊されることとなりました。 

 唐に対抗するために唐の体制を取り入れて、律令体制を導入することとなりました。圧倒的な欧米の圧力に対抗するために明治維新をなしとげたのと同じ状況です。日本民族の優れた適応力といえます。漢字の導入・定着もこの唐化によるところが大きい。律令体制の最盛期の奈良時代は、唐の言葉である漢語が公用語であったといわれるくらいです。

 この完璧な唐化の秘密は、日本が唐の軍隊に占領されたからではないかという説があります。神代文字存在説にもつながります。唐化の過程で、神代文字が完璧に抹殺されてしまったというのです。そして、平安時代の国風文化の中で、神代文字の中でももっともポピュラーであった、アヒル文字とアヒル草文字が、カタカナとひらがなとして復権したというのです。

 日本書紀に不思議な記事があります。663年白村江の戦いで日本軍は、現在の韓国の地で、新羅・唐の連合軍に敗北した。その敗戦処理に唐の郭務悰が日本にやってきた記事が日本書紀に見えます。そして、672年に唐に帰るまでに、頻繁に登場します。699年に2000人の軍隊を連れてきました。672年にも2000人の軍隊を連れてきたという記事があります。まさか、郭務悰が天武天皇になったとまでは言っていませんが、これをもって、白村江の敗北後、日本は唐の軍隊に占領されたのではないかいうのです。
 昭和20年(1945年)の敗戦後、昭和27年(1952年)サンフランシスコ講和条約が発効するまで7年間アメリカ軍に占領され、様々な改革がおこなわれたことと一致するのではないかという説です。さらに、現在も東京都の横田基地にアメリカ軍が駐留しています。未だに占領体制がつづいているとも言えます。同様に、唐人による支配体制は長くつづいているのではないかという説です。 

参考図書

○「最新日本史」伊藤隆他著(明成社 平成24年)
○「ビジュアルワイド 図説日本史」東京書籍編集部(2008年 改訂第7版)
○「律令国家の転換と『日本』」日本の歴史05 坂上康俊著 (講談社 2001年)
○「日本書紀 下」井上光貞監訳(中央公論社 昭和62年)
  
平成24年11月23日作成  第081話