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 645年の「大化の改新」以降、中大兄皇子及び中臣鎌足を中心に、中央集権国家への歩みをすすめる事となる。圧倒的な圧力をほこる唐の前に、友好国の百済が660年に滅んだ。661年斉明天皇は、百済救援の為福岡県の朝倉宮に移るが、志半ばで没し、中大兄皇子が、志をつぎ、朝鮮半島の白村江に二万七千の軍を派遣するが、唐・新羅の連合軍に敗北する。侵略を恐れて中大兄皇子は、九州から近畿地方にかけて防衛のための城を築き、667年に近江京に遷都し、ようやく668年1月即位して天智天皇となった。この年、朝鮮半島の高句麗が唐に滅ぼされた。671年病をえて、これまで皇太弟として政権を支えていた大海人皇子を退けて、我が子である大友皇子を後継者とさだめて、12月に天智天皇は病没した。命の危険を感じた大海人皇子は、吉野に隠遁し翌年やむなく兵をあげ、現在の関ヶ原から東の東国を押さえ大友皇子の政権を倒し、天武天皇として即位した。つまり、関ヶ原の戦いのように、東軍が西軍を制した。これが、古代史最大の権力闘争である壬申の乱であるとうのが、壬申の乱による政権奪取を正当化するために編纂されたとも言われる日本書紀の記述である。

 ところが、この書記の記述が怪しいのである。まず、天智天皇の御陵の記述がない。また、他の天皇には書かれている誕生年が天武天皇の項には、書かれていない。
 以下、井沢元彦の説をもとに壬申の乱の謎をのべる。

 平安末期に皇円という僧が書いた「扶桑略記」という本には、12月3日に天智天皇が崩御した。一説には、天皇は山科の郷に遠乗りをして出かけたまま帰ってこなかった。何処で死んだかわからないので沓(くつ)の落ちていた所を陵とした。殺害されたのではないだろうか。という記述がある。
 また、万葉集の148の歌に、天皇の病が重いときの大后の歌として
 青旗の木幡の上を通ふとは、目には見れどもただに会わぬかも
というのがあり、何故か、病が重いときに山科の木幡の山の上を魂がさまよっている。引き戻すことはできないと重病を嘆いているのである。
 また、『宇治市史』には、京都府宇治市小倉町小字天王(てんのう)二十一番地に若宮があり、天智天皇と刻んだ墓石があったという伝承が紹介されている。素直に取れば、山科の木幡山のあたりで殺害され、巨椋池をわたってここに葬られたのではないかというのである。
 天智天皇陵である山科陵には、「沓石」とよばれる切石があり、「沓塚」と呼ばれていたという伝承も残されている。山科と宇治は古代においては同じ山科に属していた。暗殺者の首謀者は、大海人皇子であるというのである。

 中丸薫によると壬申の乱の直前の国際情勢は、現在の日本のおかれている立場に似ていたという。つまり、国内における国際派と民族派の対立である。今日でも、日本は圧倒的な中国の圧力を受けている。さらに、グローバリズムの圧力設けている。この二つの勢力は対立しているが、いずれの勢力も日本を圧倒的な力でもって勢力圏におこうとしている。否、おかれてしまっているのが現状ではないだろうか。当時の唐の圧力よりも圧倒的な力で。このような中でどのようにして民族としてのアイデンティティを保つのかという民族派がいる。天智天皇は、白村江の戦いの敗北後、唐の支配に屈して日本の存続を図ろうとしていたという。九州から近畿に至る防御態勢は、唐と決別した新羅の侵略を防ぐために築かれたという。それに対して、大海人皇子は、新羅や高句麗の後継である渤海国と連携しながら、民族としての独立を図ろうとしていたという。大海人皇子が壬申の乱を起こしてまで勝ち取ろうとしたのが民族のアイデンティティではなかったか。大海人皇子が即位して、天武天皇となり、「日本」という国号をさだめ、「天皇」という権威を確立し、現在に至っているということがそれを示しているというのである。天武天皇の登場によって、唐の一部としての日本ではなく、独立した日本が保たれたといえるかもしれない。1300年国号が「日本」であるというのも、世界の歴史の中で希有な例である。

 井沢元彦の説にもどる。鎌倉時代の「一代要記」や南北朝時代の「本朝皇胤紹運録」によると、天武の方が4歳年上であるという。日本書紀によると父と母を同じくする兄弟で天武は弟のはずである。日本書紀は何かを隠している。さらに、天皇の諡(おくりな)を考察した森鴎外の説を紹介している。

「天智」=「殷最後の暴君とされる紂王の愛した天智玉」に由来し、
「天武」=「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」に由来する 

とのことである。鴎外によれば、殷の最後の王と、殷を滅ぼした周の武王に由来した諡がつけられているということになる。殷王朝から周王朝への移行を中国では易姓革命、つまり「革命」という。明らかに王朝がかわっていることを意識しているのである。壬申の乱の時に、大友皇子側の大津京を攻めたときに大海人軍は、衣に赤い布をつけ、赤い幟をはためかせたという。これは、漢の劉邦が天下を取ったときにちなんでいる。天武天皇も、新王朝の創始を意識していたことになる。

 また、770年に称徳天皇が急死すると、天武系の天皇の時代がおわり、天智系の光仁天皇が即位する。光仁天皇の周りの天武系の皇后、皇太子が廃されて、光仁天皇のあと、天武の血を全く受け継がない桓武天皇が即位する。ここに、100年ぶりに天智系が復活した。再び王朝の交代となる。平安時代、天武系の天皇の陵は祭られなかったというし、天皇家の寺である泉涌寺でも、天皇家の先祖として祭られているのは、天智天皇の次は、光仁天皇であり、桓武天皇以降の天皇であるという。完全に天武系の天皇は皇統から外されているのである。都も移動する。

天武系=「藤原京」「平城京」
天智系=「平安京」

 井沢元彦の説を中心に紹介したが、天智天皇・斉明天皇(天智の母)=百済の王族、天武天皇=高句麗の王族説などもある。天武系の天皇は、唐をバックにした王朝であり、平城京は、中国系の都である。 そして、平安京は、シルクロードを東漸してきたユダヤ人の都であるという説もある。真相は不明である。

 シルクロードの終点としての日本には様々な勢力が、文化と共にやってきた。西の終点であるイギリスの歴史は、かなり明らかになっている。アングロサクソン系のエグバートによる829年の統一のあと、デーン系(デンマーク系)や、1066年のノルマン系の侵略があった。同じように、日本も、弥生時代以降、主に中国の戦乱に連動して同じような侵略が有ったと見るのが自然ではないかと考えている。 

参考図書

○「聖徳太子の称号の謎」逆説の日本史2 井沢元彦著(小学館 1994年)
○「古代天皇家と日本正史」中丸 薫著(徳間書店 2006年)

平成20年04月28日作成  第050話