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高校生のためのおもしろ歴史教室>余話の部屋

60.高天原は常陸国にあった

 まず、「高天原」の読み方の確認から
 漢文で書かれた古事記の冒頭の「高天原成神名…」の訓注に「訓高下天、云阿麻」とあります。「高の下の天」を「阿麻(アマ)」と「云う(読め)」とわざわざ訓読みを示しているのです。
 これからすれば「高天原」は「タカアマハラ」と読みなさいとわざわざ太安万侶が指定していることになります。ところが、一般には「タカマガハラ」と読ませています。
 古神道では、 タカアマハラ⇒正神の神々の世界
        タカマガハラ⇒マガツカミ(曲津神)の世界=邪神の神々の世界  
を指し示しています。
 最近では、アマの短縮形と称してタカマノハラと読ませる場合も多いですが、わざわざ短縮するところに不自然さを感じます。ここでは、太安万侶に従い、タカアマハラと古事記を正しく読みたいとおもいます。

 常陸国(ひたちにくに)は、今の茨城県です。常陸国一宮の鹿島神宮の御祭神は、武甕槌神(たけみかづちのかみ・古事記の建御雷神)です。この鹿島神宮から東北二キロのところにいまも「高天原(たかまがはら)」という地名が残っていて、鹿島神宮の飛び地の境内となっています。東は鹿島灘となります。
 鹿島神宮の南には、息栖(いきす)神社があります。息栖神社の御祭神の一柱は、天鳥船神です。天鳥船というと、UFO宇宙船のように思うのが自然ですが、天(アマ)は海(アマ)のことであっても不思議はありません。海の上を鳥のように高速で移動する船のことだろうと推測されます。天鳥船神(天鳥船命)は、高速船をあやつる一団の長ということになります。

 「高天原は常陸国にあった」説でいう高天原(たかあまはら) は、古事記をもとに大国主命に国譲りを迫った天菩比神(あめのほいのかみ)、天若日子(あめのわかひこ)、建御雷神、天鳥船神のいた場所としての高天原ということになります。但、「高天原」の地名は、同じ茨城県の筑波山の中腹にもあり、その他各地に「高天原」は、あります。

 この鹿島地方にひとまとまりの東日本を統合していた「高天原」王国があったとすると、神話が現実を反映しているということになります。

 古事記によると「高天原」王国(高天原王朝)の使者として、「出雲」王国(出雲王朝)を譲り受けるために最初に出雲に派遣された天菩比神は、「出雲」王国の王である大国主神に媚びて帰らず、二番目に派遣された天若日子は、大国主命の娘下照比売(したてるひめ)と結婚して、大国主命の後継者となろうとしました。
 国譲りの舞台、稲佐の浜の屏風岩。この奥に、国譲りを成功させた建御雷神を祭った小さな社(因佐神社)があります。
 最後に、建御雷神は天鳥船神をしたがえて、出雲の稲佐の浜で国譲りの直談判を行い、大国主命と「出雲」王国の継承者である息子の事代主命は承諾し、事代主命の弟の建御名方命は力比べをして負けて諏訪大社の地に隠棲したとあります。

 こうして、日本列島にあった二大勢力である天皇家を王とする「高天原」王国と大国主命を王とする「出雲」王国は統合されました。大国主命の国譲りです。

 日本書紀には、天鳥船神は登場せず、国譲りの主役として下総国一宮の香取神宮の御祭神である経津主神(ふつぬしのかみ)が、建御雷神と共に国譲りの交渉を行ったとあります。下総国は、今の千葉県です。
 建御雷神の所持した剣が、布都御魂(韴霊剣・フツノミタマの剣)であることから、この剣の神格化が御祭神の経津主神とも考えられています。この場合は、古事記の記述に一致し、経津主神は、十掬剣(とつかのつるぎ・布都御魂の剣)のこととなります。
 香取神宮の東に先ほどふれた息栖神社があります。鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の関係は、息栖神社を頂点とする直角二等辺三角形をなしています。
  
 天孫降臨に先立ち、葦原中国を譲り受けた国譲りは、神武東征の史実を反映しているようにも考えられます。

 東日本を勢力圏とする鹿島を中心とする「高天原」王国の勢力が、中国地方から近畿北陸地方を支配する「出雲」王国を統合するために鹿島から鹿児島に大船団を率いて上陸したのではないかという神事が鹿島神宮に残されています。
 上古の鹿島想定図(東実『鹿島神宮』による)

 後世、神功皇后の三韓出征にちなむ祭りとされている御船祭です。12年に一度「牛」の年の九月に行われます。息栖神社の天鳥船神を祭る船を先導船として九〇艘の大船団が、建御雷神の神輿を乗せた御座船を中心に北浦にくりだされます。本来は、対岸にあった香取神宮に向かう祭りだったと考えられます(右地図参照)。今も香取神宮が御船祭の時に、船に乗せられた建御雷神の神輿を迎え入れる祭事を奉斎しています。
 中世の鹿島神宮の当社例伝記には
「天地も動くばかりにきこゆるは 
 あずまの宮の神のみいくさ
 天下治(あめがしたおさ)めし事は古りぬれど(※遠い昔の事)
 昔を見する神の御軍(みいくさ)」(東実著『鹿島神宮』)
とあります。
 「天下治めし事」は、神功皇后の三韓出征のことを指しているとは考えられず、神武東征を彷彿させる言葉ではないかと思います。
「鹿島立ち」という言葉もあります。防人は国防のために関東から集められて九州に送られました。まず、鹿島神宮に集まって出立するのです。なぜ、大船団を率いる御船祭が今も行われ、鹿島にあつまって、九州に向かったのでしょうか。これらのことは、鹿島から鹿児島に大船団が送られた記憶を残しているのではないでしょうか。

 「鹿島立ち」という言葉のままに、建御雷命を主将とする大船団が鹿島から天鳥船命を先頭にしてに鹿児島に上陸します。鹿島立ちのことは、何らかの理由で隠されるか忘れられ、鹿児島が、「高天原」王国勢力の降臨の地(=天孫降臨の地)として記憶されたのではないでしょうか。降臨はこの場合、天から降りたのではなく、海からやてきたことになります。

 「鹿児島」の名称の由来はよくわかっていません。「鹿島」の「児」だから、「鹿児島」となった可能性があります。さらに、鹿島は、もともと香島だったようで、「かぐしま」と読みます。こうなると、「かぐしま」が鹿児島に転化したようにも思えます。
 鹿島にある地上の高天原からの移動が、鹿児島の高千穂への天孫降臨の物語に書き換えられてしまったということになります。神武東征の本当の起点は、常陸の国の鹿島ということです。
 この発想の根拠は、御船祭の盛事や「鹿島立ち」の由来以外にもあります。常陸国や下総国のある東関東には、縄文時代の遺跡も多く、人口過密地帯で先進地帯であったのに反して、天孫降臨の地とされている鹿児島の高千穂付近は、山々に囲まれた人口で云えば過疎地帯にあたるので、神武東征の起点と云うには、人的、経済的基盤の蓄積に乏しいことがあげられます。
 また、鹿島神宮の創建は、神武天皇元年(紀元前660年)、香取神宮の創建は、神武天皇18年とされていて、いずれも伊勢神宮(内宮紀元前4年創建、外宮紀元478年創建)よりも古い神宮ということになります。江戸時代以前に、神宮という格式の神社は、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮以外にありませんでした。この社格の高さは、鹿島神宮と香取神宮がいかに古代日本国にとって重要なお宮であったかを暗示しているように思います。

 鹿島と鹿児島同様に、場所が置き換えられてしまった例が古代イスラエルの歴史にあります。カーマル・ササービーの「聖書アラビア起源説」によりますと、古代イスラエルが建国されヤハウェの第一神殿があったエルサレムの本当の場所は、サウジアラビア西部の紅海沿岸のアシール地方だというのです。現在のパレスティナでは、繁栄を誇ったダビデ王やソロモン王の栄華の遺跡、痕跡が一つも発掘されていないと言うのです。
 古代イスラエル王国は、南のユダ王国と北のイスラエル王国に分裂し、アッシリア帝国及び新バビロニア帝国の侵略にあい、疲弊し両王国とも滅ぼされ破壊し尽くされました。 その間、古代イスラエルの民は、新しいエルサレムとして現在のパレスティナの地に住み着き開発しました。バビロン捕囚から帰国後、廃墟と化したアシール地方でのヤハウェの神殿の再建はあきらめ、シルクロードの要衝として繁栄していた新しいシオン、新しいエルサレムで第二神殿を建立しました。ローマ帝国に紀元70年に破壊されるヤハウェの神殿です。その証拠として、旧約聖書のイザヤ書には、パレスティナ地方のシオンのことエルサレムのことがそれぞれ「シオンの娘」「エルサレムの娘」という言葉で出てきます。 これは、素直に読めば、シオンでもエルサレムでもなく、「娘」なのです。しかし、このことは早くから忘れ去られてしまったということになります。サウジアラビアが入ること禁じているアシール地方の発掘が許可されれば、すべては明らかになるはずの事実です。

参考図書

○「古事記」西宮一民 校注(新潮日本古典集成 昭和54年)
○「高天原は関東にあった」田中英道著(勉誠出版 2017年)

○「鹿島神宮〈改訂新版〉」東実著(学生社 2001年)
「 一社の秘事に属すべき本殿内の作法について、『当社例伝記』に、
 開かずの御殿と曰うは、奉拝殿の傍らに御座す。是則ち正御殿なり。北向に御座す。本朝の神社多しといえども、北方に向いて立ち給う社は稀なり。鬼門降伏、東征静謐の鎮守にや、当社御神殿の霊法かくの如く。社は北に向ける。其の御神躰は正しく東に向い安置奉る。内陣の例法なり、(原文は漢文)とあるように、社殿は北向き、神座(御神体)は東向きに坐す。しかも南西のすみにである。
 つまり社殿の中で一番重要な御祭神は、ふつうの神社のように中央にいて、参拝者に相対するようには置かれていない。横向きに、しかも中央ではなく、田の字形四間に区切って考えると、入って右側の奥の一つに鎮座しておられるのである。
 多少、古代史に関心のある人ならば、この社殿の配置を見て、すぐ、おや?と思われることだろう。その通り、内部構造は、あの日本神話で重要な位置をしめる出雲の、大国主命をまつった出雲大社の内陣と共通するものがあるのである。
出雲大社の社殿と共通
 出雲大社は、日本神話の伝えるところによれば高天原からつかわされた天孫民族の使者が、出雲族の支配者である大国主命にたいし、平和のうちに国を譲るように交渉し、大国主命が、ついに国譲りを決意し、その代償として高天原の宮殿である天日隅宮とおなじように造ってもらったものである。
 この話は神話であるが、出雲大社が伊勢神宮と並んで日本でも最古の建築様式を残していること、その構造が「大社造り」といって、きわめて特殊な姿をのこしていることなどから、かなりの真実を伝えているものといわれている。」(p26ーp28)

 出雲大社は、南向きで、大国主命の御神体は田の字形四間に区切って考えると、入って右側の奥の北東に西を向いて鎮座されている。北向き、南向きの違いがあるが、鹿島神宮の本殿内の構造が、出雲大社と一致するということは、高天原の宮殿である天日隅宮と同じような構造に出雲大社が造営されたという古事記の記事と一致する。高天原は常陸国にあった(鹿島にあった)という傍証になる。

「地図にのこる『高天原』
 五万分の一の地図「潮来(いたこ)」を開いてみていただきたい。中央のやや上に鹿島神宮がある。そしてそこから眼を左(東北)にずらすと、そこにははっきりと『高天原』の三文字が印刷されているのを発見するだろう。
 この高天原は、鹿島神宮から約二㌔はなれているが、鹿島神宮の飛び地として境内になっている。まわりはいくらか砂地ぎみのひろびろとした台地で、高天原には美しい松林が一面に生いしげっている。その東は、すぐ三百㍍ほどの大古墳があり、その上に立つと、太平洋は一望のもとにおさめられ、西北に筑波山をのぞむ絶景の地である。そして、その中央には末無川という本源地もわからなければ、下流がどこに消えるのかわからない不思議な川がながれている。
 鹿島神宮の祭神「武甕槌神』は高天原から派遣されて出雲に国譲りの交渉にでかけてことは先に振れたとおりである。では、この高天原が、神話のなかの高天原なのであろうか。」(p92-p93)

○「聖書アラビア起源説」カマール・サリービー著広河隆一 矢島三枝子訳(草思社 1988年)
  ⇒ 11.聖書アラビア起源説

令和3年5月8日作成     第130話