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高校生のためのおもしろ歴史教室>余話の部屋

56.欧州王家となった皇統

 落合莞爾によるワンワールド史観その1は、「欧州王家となった皇統」です。
 明治維新を機として、天皇は東京に行き、政体を担当する東京皇統と国体の安泰を図り京都に残った京都皇統に分かれます。京都皇統は、秘密の存在で、言わばウラ天皇です。高松宮家の側近(舎人)から京都皇統(代)の側近(舎人)になった方を通じ、天皇家に秘密裏に代々伝えられてきた記録や真の皇統譜(天皇家の系図)を断続的に口頭で伝えられたもののメモと陸軍大臣などを歴任した上原勇作元帥の下で諜報活動を行っていた吉薗周蔵(1894~1964)の手帳が落合莞爾の情報源です。この情報源をもとに独自の考察を加えて、ワンワールド史観を発信しています。落合莞爾は、後醍醐天皇皇子の護良親王の子孫にあたるとのことで、いわば、天皇家の子孫が、今まで、隠されていた天皇家の歴史を語るという内容です。
 紀元前5500年頃のメソポタミア地方で始まったウバイド文化を引き継いで前3800年ころシュメル文明が突然開化しました。ウバイド人は文字を持ちませんでしたが、優れた灌漑技術をもっており、ウバイド文明とでもいえる高度な精神文明に到達していました。

「その来歴は『ヴェルム氷河期以前に先史文明を建て氷河期を高山地帯で生き抜いた太古の民族』と洞察するしかありません。」※1

とあります。落合莞爾は、ウバイド文明を第一文明と位置づけ、旧人類の文明であると位置づけています。新人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)の文明であるシュメル文明とエジプト文明をこの第一文明の遺民によって創められた第二文明であるとしています。

 ウバイド人は、メソポタミアの沼沢を干拓して農地をつくり、干拓地より砂金を収集していきました。干拓が終わると未開の河口にゆき、砂金収集をつづけて、膨大な金を信用財として蓄えて行きました。

 「こうして世界各地の大河の河口デルタで自然金を採取しながら文明を発達させたウバイド人は、大陸を進む騎馬勢力と海洋を行く海人勢力に分かれながらも、精神文明としての一体性をその後も保持して『ウバイド・ワンワールド勢力』となり、有史以来蓄積した『黄金ファンド』を信用財として用いることで、各地域文明の興亡に関与します。」※2

 メソポタミアを出発して東西の両極に分かれたウバイド文明東王統の直系が日本の皇室であり、この所以をもって黄金ファンドの管理人が、日本の皇室であるというのです。シュメル文明の前段階がウバイド文化であると一般には認識されているので、ウバイドとシュメルを区別せず、日本の皇室はシュメル文明の直系子孫とヨーロッパ諸国の王室は認識しているようです。 
 マルコ=ポーロは、「東方見聞録(世界の記述)」の中で、「黄金の国ジパング」と日本のことを表現しました。その真実がこのことなのです。
   
 騎馬民族スキタイとなってユーラシア大陸をかけめぐり、文化の伝播者となったのもウバイド人です。
 移動の西極は、フランスのブルターニュ半島を含むアルモリカです。ウバイド人の子孫は、ケルト人と呼ばれています。さらに、ブリテン島にわたり、スコットランド、ウエールズ、アイルランドもケルト人の土地です。
 シルク=ロードの西の果てのブリテン島、アイルランド島と東の果ての日本にウバイド人が住み着き、ケルト人の王族、日本の皇室として存在し、ウバイド・ネットワークにより古代からの交流があったとされています。青森県下北半島の豪商小路口家の退蔵資産に、マケドニアのフィリップ2世(前382~前336)の金貨を模倣した大量のアルモリカ・コインがありました。ケルト人(ガリア人)の建てたアルモリカ王国で前1世紀の初め鋳造されたものです。ウバイド人が移動した東極の日本と西極のケルト人のアルモリカとの交流が古代からあったことの傍証になります。

 イスラム教徒のヨーロッパ侵略の危機にあるときに、ケルト系のヨーロッパ王室を助けるために、有間皇子(640~658)が、偽装死して、膨大な黄金ファンド携えてフランク王国の宮宰カロリング家のピピンⅡ(635or640~714)になった(なりすました)といいます。
 ピピンⅡの息子がカール=マルテル(686~741)で、732年にツール・ポアチエの戦いに勝利してヨーロッパ世界をイスラム教徒から救いました。カール=マルテルの息子のピピンⅢ(714~768)の時代にフランク王国の王になり、次のカール1世(742~814)は西ローマ帝国の帝冠を受け西ヨーロッパの秩序を回復しました。
 「カロリング」というのは、「カールの」という意味です。有間皇子の父は孝徳天皇で、「軽皇子(かるのみこ)」でした。カルの王朝という意味でカロリング朝ということです。
 西ローマ皇帝となったカール1世は、ヨーロッパ世界が独自の世界として成立する礎となりました。カール1世の死後、フランク王国は、ロタール王国、西フランク王国、東フランク王国に分裂し、有間皇子のカロリング王統も987年をもって断絶しますが、それぞれイタリア王国、フランス王国、ドイツ帝国(神聖ローマ帝国)の基礎となりました。

 また、ウバイド文明のメソポタミアから西方へ伝播の経路は、ウバイド文明を継承したシュメル文明という位置づけから前2000年頃メソポタミアから消えたシュメル人の経路でも説明されています。シュメル人は、フェニキア人となりカルタゴを建国します。前146年カルタゴはローマ帝国に滅ぼされましたが、8世紀ヴェネツィア・コスモポリタンとして姿を現し、数世紀本拠地としたあと、オランダのアムステルダムに至ります。
 ヴェネツィアもアムステルダムも故郷のメソポタミアと同じ低湿地です。
 
 スコットランド王国のアサル朝(1034~1286)やフランスのブルターニュ地方のブリトン人小貴族フラールド( ? ~1099)を始祖とするスチュアート王朝(1371~1714)は、ウバイド西王統のケルト系王朝です。ウバイド・ワンワールド・ネットワークを通じて この西王統の危機を知った西大寺に入っていた護良親王(王塔宮)の皇子・皇孫たちと護良親王の弟である皇子たちは、南朝に与する武士たちを引き連れて、倭寇のネットワークに乗って東南アジアに進出し、東南アジアからマルコ=ポーロの帰路をたどってオスマン=トルコの侵入、教皇のアヴィニョン捕囚、英仏百年戦争などのヨーロッパの未曾有の混乱の中ヴェネツィアにいたります。ヴェネツィアからは、ヴェネツィア・コスモポリタンの経路にのってオランダ・ベルギーに入ります。当時の西大寺は、日本における商工業のネットワークの中心でしたから、豊富な資金と紡織などの技術者を伴っての移動です。

「混乱を極めた欧州全域ではアシュケナージはじめ種族の移動が激しく、大塔宮王子・王孫を奉じた西大寺の南朝勢力が密かに侵入するには、またとない時宜でした。入欧南朝勢力はこれを千載一遇の好機として、日本から携えた西大寺の黄金を資本とし、ベネルクス地方(ベルギー・オランダ・ルクセンブルクの三国)を本拠とした経済活動で富を蓄えます。
 経済活動はフランドル地方の毛織物に関係したものと想像されますが、ともかくその富で雇った傭兵による領地争奪戦で軍事的成功を重ねた渡欧南朝勢力は、ベネルクスとスイスを拠点として欧州貴族に成りすまし、その棟梁の大塔宮王子・王孫は諸侯の縁戚となり、正式に所領を獲得して諸侯になります。
 その名をあえて記せば現在のオランダ王家、オラニエ・ナッサウ家ですが、人種の坩堝だった当時の欧州人は日本を認識しておらず、彼らを日系人と気づく人がいたとは思えません。」※3

 オランダのアムステルダムの商工業の発展やベルギーのフランドル地方の毛織物業は、当時のヨーロッパ世界の産業の中心です。産業革命にも繋がる産業の革新は、日本からもたらされたということになります。
 オランダ王室の祖先ヴィレムⅠ世(1533~84)や現在のベルギー王室は、護良親王の子孫あたるということです。オランダ王室とベルギー王家は、現在のイギリス王室と濃い縁戚ですので、イギリス王室も欧州王家となった南朝・護良親王系の皇統といえるということになります。
 公表された系図では崇光天皇の孫にあたり、血統では北朝の伏見宮治仁親王(1381~1417偽装死)は、まず、ポーランドのマゾフシェ公領にはいり、公女のツィンバルカ・マゾヴィエツカ(1394/7~1429)と出会い、のちのフリードリッヒⅢ世(1415~1493)となる王子を儲け、アルザスにゆき、エルンスト鉄公(1377~1424)になりすまして、膨大な黄金ファンドを伴ってハプスブルク家に潜入したといいます。北朝皇統の治仁親王の子フリードリッヒⅢ世の子孫は、カール5世、日の沈まぬ帝国を作り上げたフェリペ2世にいたるスペイン・ハプスブルク家(~1700断絶)と1806年まで神聖ローマ皇帝の地位を独占し、さらにはオーストリア皇帝としては1918年まで地位を保ったオーストリア・ハプスブルク家に分かれますが、ヨーロッパの歴史、ひいては世界の歴史を作り上げることになります。北朝皇統であるハプスブルク家は、南朝大塔宮皇統のヨーロッパ潜入を支援する役割も果たしました。

 逆に、江戸時代に欧州王塔宮系皇子の里帰りのために閑院宮家が創設されます。第119代光格天皇(在位1779~1817)の父である典仁親王は、欧州大塔宮家であるオランダ王家のオランイェ=ナッサウ家かベルギー王家のザクセン・コーブルグ・ゴーダ家より里帰りされて閑院宮家に入られました。開国を国是とする明治維新を準備するためということです。そして、天皇家が欧州王家の中心、つまりワンワールド王統(表には公表されない世界天皇)となるための布石でもあったとのことです。

 結語です。「欧州王家となった皇統(日本皇統)」について、あり得ない話ではありません。古代におけるシルク=ロード(絹の道)、マリン=ロード(海の道)、ステップ=ロード(草原の道)による交流は侮ることはできません。古代に、中東からユダヤ人が日本に来ていることは、確実です。また、メソポタミア文明が、インダス文明、黄河文明の発祥に影響を与えたと言うこともあります。しかし、シュメル文明を創めた、ウバイド人が膨大な黄金ファンドを4大文明以前に保持していたということ、また、その黄金ファンドを世界各地の文明の発展のために使うというウバイド王統(天皇家)のウバイド・ワンワールド・ネットワークのモチベーションは、何に由来するのでしょうか。
 竹内文書には、天地万物創造の大根元の神の直系の子孫が天皇家の血流であり、太古日本の天皇が、世界を統治していたが、天変地異が続く中で、世界統治を放棄したとあります。天皇家に、人類文明を興し、人類を教化していたという歴史があるならば、落合史観では、ユーラシア各地の砂金を集めて膨大な黄金ファンドを創設したと説明されていますが、世界統治の時代に膨大は黄金を集積しているはずです。さらに、世界を進歩的に導きたいという王道ウバイド・ワンワールド・ネットワークのモチベーションも理解できます。
 加えて、ウバイド・ネットワークの宗教は、マニ教だそうです。主神はマイトレーヤ、つまり弥勒菩薩です。超宗教であるマニ教の一形態と落合莞爾によって定義される大乗仏教では、弥勒菩薩はこの世の終わりに現れる救世主です。
 落合莞爾をつうじての天皇家の秘密開示には、目的があるはずです。それは、単に天皇家の権威の回復のみならず、天皇家から弥勒菩薩がでること、つまり太古世界を教化していた世界天皇(救世主/メシア)の復活の時代が迫っていることを黙示しようとしているのではないでしょうか。

参考図書

○「ワンワールド特務・周恩来の日本偵察」落合 莞爾著(「落合・吉園秘史4」成甲書房 2018年)
 「…天孫皇統の有間皇子・大津皇子・護良親王王子・治仁王らが渡欧して天孫系欧州王家を立てたが、これを構成員とする欧州王室連合こそ欧州國軆の根幹なのである。
 江戸中期に至り、朝廷と幕府が協議して閑院宮家を建てた目的は、欧州王塔宮の里帰りの受け皿とするためである。やがて欧州王塔宮系の一人が里帰りして閑院宮家に入り典仁(すけひと)親王となり、その王子が光格天皇となったことで天孫皇統と欧州國軆が強制的に統合された光格王朝は、ここに、ワンワールド國軆の皇統となったのである。これは建武の昔、大塔宮護良親王の王子、興良親王を北朝光厳天皇の皇子として入れることにより、南北朝の強制統合を実現した「大塔宮政略」との相似形であった。
 光格の皇子仁孝天皇が偽装崩御して秘密渡欧したのは、日本から欧州への里帰りであった、これにより全世界のワンワールド國軆が統合されて世界王室連合となり、ワンワールド國軆皇統がその中心になった。
 ここにこそ孝明天皇偽装崩御のカギがあるわけで、…」(p42)
 「ワンワールド國軆は、欧州國軆の根源であったスコットランドのケルト王統が世界史の進行の中で衰微したので、天孫皇統の有間皇子がフランク王国に入ってカロリング王朝を建てるが、やがて衰微すると、再び支援するため、南北朝時代に持明院統の伏見宮治仁王が渡欧してハプスブルク大公家を建てた(…)。
 ハプスブルク伯爵エルンスト鉄公に"背乗(はいの)り"した治仁王と、ポーランド王女ツィンバルカ・マゾヴィエツカの間に生まれたフリードリヒⅢ世(一四一五~九三)は後花園天皇(一四一九~七一)と同時代人で、オーストリア大公ハプスブルク家となり、神聖ローマ皇帝となった。ちなみにフリードリヒⅢ世が用いたサインが、AEIOUの五母音であることが何を意味するか。これは本稿の読者のみが感知することと思う。
 フリードリヒⅢ世が周到に準備したうえ欧州に迎えた大塔宮護良親王の王子・王孫が、ひそかに建てたのが欧州王塔宮家で、オランイェ=ナッサウ家となり、これから出たビュルムⅠ世がオランダ王国を建てる。
 ……
 ここに欧州のワンワールド國軆は、①欧州大塔宮系ベネルクス三国および、その分流の英王室と、②治仁王系のハプスブルク大公家が二本柱となって、キリスト教文化共同体としての欧州國軆を守ってきたのである。」(p83~p84)
「第一次大戦の主目的の一つは「ハプスブルク家の世界史からの偽装撤退」であったが、戦局はこの時、すでに最終段階に差し掛かっていた。堀川の國軆御所は、半世紀先立つ明治二十六(一八九三)年、青山光子に國軆黄金を添えてハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵に嫁がせたが、この縁組みの目的は、ハプスブルク家の執権クーデンホーフ=カレルギー家に欧州共同体を創設させることにあった。
 フランク王国の執権職として欧州の封建諸侯をまとめていたピピン家の地位を引き継いで、欧州キリスト教文化共同体の維持を果たしてきた神聖ローマ皇帝の機能を、ハプスブルク家から、股肱(こうこう)のクーデンホーフ=カレルギー家に移して、欧州共同体を創立させるためである。」(p87~p88)

○「日本皇統が創めたハプスブルク大公家」落合莞爾著(「落合・吉薗秘史3」 成甲書房 2017年)
 「「人類文明は最終氷期の前にいったん完成していた」と認識するのである。
 これがいわば「第一文明」である。
 一番新しい氷期は、およそ七万年前に始まり一万年前に終了したが、これを「最終氷期」と呼び、さらに欧州においてはヴェルム氷期、北アメリカにおいてはウィスコンシン氷期と呼びわける。
 この期間に「第一文明」を築いた人類は、完新世(後氷期)に入ると、両河地方(メソポタミア)でBC五五〇〇年ころに最初の現行文明を建てた。いわゆるシュメル文明がこれで、第二文明が始まるのである。
 シュメル文明を興した人種、いうまでもなく第一文明の遺民であるが、その種族が何者かを現行歴史学は全く不明としている。したがって族称もなく、これでは不便ので、シュメル文明の初期段階の遺物が発見された「ウバイドの丘」に因み、一応ではあるが、わたしは「ウバイド人」と呼ぶことにした。」(p256~p257)
 「ヴェルム氷期を高山地帯で凌いできたウバイド人は、その間に鉱物学・動植物学の高度な知識を蓄えたが、その文明の特徴は何と言っても「波動性」である。すなわちウバイド人は波動感覚によって思考し、表現し、通信し合うのである。
 音響・図形そのものを直感的に把握する性格のウバイド人は、感情の発信および受容において「音響および精神の共振共鳴」に立つ波動性と、「図形による相似感覚」を基礎とするアナログ性の文明を立てた。これが前記の「第一文明」である。
 音響学と位相幾何学を根底とする「第一文明」を創造したウバイド人は、測量・設計に秀でるところから、各地河川の河口扇状地において水路設計と干拓による農地の開発を進め、後発する「第二文明」の誕生と発展に寄与したのである。
 「第二文明」とは、今日のように、あらゆる情報を分解してデジタル的な文字・数学とし、それを再構成した文章を文法によって理解する論理文明のことである。」(p257~p258)
 
 「わたしがこれまで「欧州大塔宮」と呼んできたのは、「大塔宮護良親王の王子・王孫が欧州で形成した一族」のことで、具体的には、オランダ・ベルギーおよびイギリスの王室のほか欧州各地の貴族のなかにも「欧州大塔宮」の子孫が多いと聞く。」(p42)
 「折から欧州では、一三七八年に始まったいわゆる「シスマ」(教会大分裂)が収拾するが、これと時機を合わせて治仁王が渡欧し、王子をハプスブルク家に入れてフリードリヒⅢ世にしたというのが、國軆正史である。…治仁(一三八一~一四一七偽装死)とフリードリヒⅢ世(一四一五~一四九三)の関係は父子で、「子連れで渡欧した治仁がアルザスに入った」という。」(p321)
「「欧州大塔宮」と呼んできた渡欧皇統を規定しなおす必要が生じ、よって下記のように分けることとした。
 (1)欧州大塔宮(在欧南朝)
 「欧州大塔宮」とは、護良親王の王子・王孫が北九州の征西将軍府基地から出航し入欧し、欧州各地に定着した一族のことで、ベルギー王家・オランダ王家がこれにあたる。
 ……
 (2)欧州後南朝
  欧州大塔宮の渡欧に随従した後南朝の王統および南朝武士らの一統で、一部はヴェネツィアで、ワンワールドの「黒い貴族」に加わり、ローマ・カトリック勢力へ潜入した。
 ……
  (3)欧州北朝(欧州持明院統)
  新持明院統の光明の孫(栄仁親王の王子治仁王)が一四〇〇年前後に渡欧してハプスブルク家に入り、その子フリードリッヒⅢ世が神聖ローマ帝国皇帝につく。」(p333~p334)
「新持明院統は、北朝第二代光明天皇の皇子栄仁親王が創めた伏見宮家の治仁王が渡欧して北スイスの土豪ハプスブルク伯爵家に入り、エルストン鉄公と「合体」してハプスブルク大公となる。」(p354)
 「後伏見の子の光明天皇が持明院統を継ぎ、その皇子の伏見殿栄仁親王の子の治仁王(一三八一~一四一七年偽装死)が渡欧しえハプスブルク伯爵家のエルンスト鉄公(一三七七~一四二四)と合体し、その子フリードリヒⅢ世が神聖ローマ皇帝となったことである。
 合体とは「二人一役のことで、ようするに持明院統の治仁王が渡欧してスイスのハプスブルク伯爵家に入り、マジャール人のポーランド王女ツインバルカに生ませたフリードリヒⅢ世が神聖ローマ皇帝のハプスブルク家を創めたのである。
 これに先立つ日本皇統の渡欧は有間皇子(640~658偽装死)で、六七〇年前後に渡欧してピピン家に入り、ピピンⅡ世と合体する。これに次ぐのが治仁王の渡欧である。
 ところが、三度目がある。それはハプスブルク家の重臣ハインリヒ・グーデンホーフ伯爵に嫁いで明治二十九(一八九六)年に渡欧した青山光子である。本稿では述べないが、光子の婚姻は、國軆黄金を携えてグーデンホーフ伯爵家に降嫁したフシがあるから、この見方をすれば、光子の出自が伏見宮で、降嫁のために一旦に青山家に入ったとみても不自然はない。理由は、この青山家が、天海僧が藤堂・伊達とともに江戸を守らせた武門で、伏見宮家の伏流の丹波安藤家から出たからである。
 右の三回の渡欧の目的は、すべて西欧國軆を護持するためで、有間皇子の孫カール・マルテルはイベリア半島に侵入したサラセン軍を撃退し、治仁王の子がフリードリヒⅢ世となってオスマントルコ軍を撃退し、光子の次男リヒアルト・グーデンホーフ=カレルギー(青山栄次郎)が欧州共同体を作って共産主義の西欧侵入を防いだことが、それを証明している。
 ようするに、國軆ワンワールド史の重大秘密は、日欧の皇室が有史以来、完全に同統であることであるが、これまでの史家は、誰一人このことに気づかないのである。」(p359~p361)

○「国際ウラ天皇と数理系シャーマン」落合莞爾著(「落合秘史2」 成甲書房 2013年)
「「真の歴史書とは天皇を書かねばならぬ。天皇の周囲を書いても歴史書とは云わぬ」」(p163)

○「天孫皇統になりすましたユダヤ十支族」落合莞爾著(成甲書房 2016年)※1
 「かれらは、ほんらい高山地帯を本拠とする山岳修験で、一万年の歴史を有すると伝わります。ウバイド文化の始まる前五五〇〇年より二千年以上遡る山岳修験は、ウバイド人の起源であってもウバイド人そのものではなく、その来歴は『ヴェルム氷河期以前に先史文明を建て氷河期を高山地帯で生き抜いた太古の民族』と洞察するしかありません。」(P298)

○「天皇とワンワールド」落合莞爾著(成甲書房 2015年)
「自然現象と精神活動のすべてを、波動によって理解・把握する「波動文明」に立っていたウバイド人は、社会活動の基本を人間相互の以心伝心に置き、それを補うものとして、言霊すなわち音響と、絵文字すなわち形象を用いたのは、モノゴトをあらかた伝えるには、これだけで十分だったからです。
 またウバイド人の抽象化能力は、デジタルな数値よりも数値の相互関係を重視して考察する代数学や、アナログな相似関係と位相(相対的位置関係)を課題とする幾何学に発展し、これを表わすのにトークン(証票)やエンブレム(形象)を用いたと考えられます。
 皇室の御紋章として周知の「十六弁菊花紋」や、呪符のドーマン(九字)やセーマン(晴明桔梗)などは、ウバイド文化に起源を有すると考えられますが、私見ではさらに、日本の各家が使用する家紋の起源もウバイドにあるとみております。」(p66~p67)
「太古メソポタミアで発生した人類最古の文明ウバイド文化が、前三八〇〇年に何かの 理由で終焉し、ウバイド人の海民と騎馬民がそれぞれ東西に分かれ、東進した一派は日本列島に独自の海人社会を創り、西漸した方は北西欧でケルト人国家を創りました。」(P 35)
「メソポタミアで最初に新石器・銅器の文化を築いたウバイド人が、いかなる種族かは不明ですが、前三八〇〇年頃にこの地を去り、入れ替わりに入ったのがシュメル人です。ウバイド文化を引き継いだシュメル人のウルク文化が人類で初めて楔形文字を用いて、「シュメル文明」にまで発展させました。」(p62)
「旧ウバイド人に共通することは、世界各地で密かに「イシヤ」と呼ばれていることです。」(p72)
「前三八〇〇年頃に、メソポタミア地方をイシヤが去るときに発生した海洋文明と大陸文明の二大文明波のそれぞれが、東西に向けて伝播したことで、将来におけるワンワールドの形成が決定したのです。
 爾来五千八百年の間、常に前進したウバイド文明海洋波の東の到達点(極)となったのが、日本列島の紀伊半島です。同じく西の到達点(極)が、ヨーロッパ大陸のアルモリカ半島です。その後、新大陸の発見や工業技術の発達により、アルモリカ半島よりさらに奥にできた究極点がグレートブリテン島で、さらに奥にハドソン湾が予定されています。
 大陸波の西極は海洋波と同じくアルモリカ半島で、南満州の豆満江河口部の羅津港が東極となります…。」(p74)
「熊野海人の末裔が「イシヤ」を自称するのは、ウバイド文化の特色の「巨石太陽崇拝」からきたものと思われます。」(p75)
 「メソポタミアから西に伝わった大陸文明波は、小アジアのトロイアから地中海に伝わり、欧州大陸を北上し、現在のドイツへ入って「ガリア人」と呼ばれ、ベルギー及びフランスの東北部のアルモリカ半島に遷って「ケルト族」を称します。」(p86)
 「ゾロアスター教を受け継いだマニ教は、神仏はむろん諸教の混淆を厭わない普遍的性格を有する「超宗教」として開教し、その教線は当初西方へ進み、やがて東方に向かいます。
 唐には長寿三(六九四)年に公伝して「摩尼教」ないし「末尼教」と呼ばれ、また教義から「明教」「二宗教」とも表され、その装束から「白衣白冠の徒」とも称されました。
ワンワールドの極西部で、マニ教は、ローマからガリア(現在のドイツ)を経てケルト族の居住地に伝わり、その地中海でローマ国領に広まります。
 最後にはグレートブリテン諸島に伝わったマニ教は、排他的一神教ではなく、各地で地元宗教の名義をそのまま称したのが特徴です。
 これこそウバイド文明そのものの在り方で、ワンワールド宗教として精神だけが残ったのですから、マニ教などの教条主義的な呼称を用いず、「マニ思想」と認識すれば理解は容易です。」(p182~p183)

○「天皇と黄金ファンド」落合莞爾著(成甲書房 2016年)※2
「人類の文明は、前五五〇〇年のメソポタミア地方で始まったウバイド文化が発展したメソポタミア文明とされます。驚くべきことは、そのウバイド文化を担った人たち(仮にウバイド人と呼びます)がすでに、農地をつくるための沼沢地干拓と灌漑水路の造成工事のかたわら、沼沢地や河川流域の泥に含まれた「自然金」を採集していたことです。
 しかもウバイド人たちはこれを、装身具などの材料としてではなく、農耕・漁労・牧畜に分かれて分業社会を形成していた彼らが、互いの生産物を交換するときに経済的触媒(信用財)として用いたのです。
 そのことで社会的分業がいっそう進んだメソポタミアに、前三八〇〇年ごろに入ってきたシュメル人たちがウバイド文化を受け継いでシュメル文明を発展させますが、ウバイド人はこの地を去ってインダス川の河口デルタに移り、自然金を採取しながら農地を造成してインダス文明を発達させます。
 こうして世界各地の大河の河口デルタで自然金を採取しながら文明を発達させたウバイド人は、大陸を進む騎馬勢力と海洋を行く海人勢力に分かれながらも、精神文明としての一体性をその後も保持して「ウバイド・ワンワールド勢力」となり、有史以来蓄積した「黄金ファンド」を信用財として用いることで、各地域文明の興亡に関与します。
 東西に拡散したウバイドの海洋勢力が東極としたのは日本列島の北九州のほかに満洲・朝鮮の境界をなす豆満江の河口の羅津(現在の北朝鮮北東部の港湾都市)で、ワンワールド勢力はここに黄金ファンドを隠匿します。
 応神天皇(ホムダワケ)が羅津(ラジン)から日本列島に渡来した際、この黄金ファンドを伴った理由は、日本皇室がウバイド人の正統だからと考えられますが、以後は皇室管理下の「國軆黄金ファンド」とされて、応神王朝の富国強兵策を信用財として支えます。それがやがて回収されて各地域文明に貸与され、ワンワールドの世界戦略のために利用されてきたのです。」(P5~P6)
「大河の河口デルタにおいて農地造成と分業生産物の交易に携わりながら砂金収集を進めたウバイド人は、人類の歴史記述が始まる段階で、すでに文明化世界の露出自然金の大部分を保有し、管理していたのです。すでにこの時から、ウバイドは世界銀行だったのです。
 ―羅津八幡族は黄金保管が任務―
 東進したウバイド海洋人が日本列島をめざしたのは、火山島のために世界有数の産金地帯であるからです。砂金採集の目的を秘めたまま縄文海人に混じったウバイド人は、やがて海民集団の指導者となったのです。
 これがわが皇室の淵源(みなもと)と知れば、世に言う天皇の半島渡来説のごときは、噴飯を通り越えるナンセンスということしかなのです。」(p74)
 
○「「吉薗収蔵手記」が暴く日本の極秘事項」落合莞爾著(「落合・吉薗秘史1」成甲書房 2017年)
 「そもそも聖徳太子の飛鳥仏教から聖武天皇の飛鳥仏教から聖武天皇の天平仏教までの大乗仏教の実質は摩尼思想である。聖武天皇・光明皇后が発願した国分寺は、摩尼教の教典大雲経を納めるために唐の武則天が全国に建立した大雲寺のチェーンに倣ったもので、実質が摩尼教院であった証拠は、願主の皇后が大雲経にちなむ「光明」を名乗ることである。
 摩尼思想の二大主柱は戒律と社会福祉であるから、律令制の内側では鑑真の律宗が戒律によって国分寺ネットワークを支配し、外では行基宗団が社会福祉事業を実行したのである。」(p69)
 「…欧州では、ウバイド系ケルト王統のアサル朝が廃絶の危機にあり、これを救うために、護良親王が欧州に送り込んだ直系の王子の子孫が「欧州大塔宮」の一族となり、同じく後南朝皇族と護衛武士たちの子孫が「欧州後南朝」の淵源となるのである。
 ベルギーを拠点として毛織物業で勢力を蓄えた欧州王塔宮一族は、ペスト(黒死病)で人口が撃滅した欧州の各地で貴族となり、やがてウバイド西王統のケルト系王室と混淆して「欧州王家」となる。かくしてウバイド西王統を護良親王の子孫が継ぎ、ここに東西王統の結合がなったのである。」(p112)
「在欧ワンワールドを含めてウバイド・ワンワールドを理解しなければ、世界史も各国史も根底から間違ってします。……
 さて、以下に述べる秘史は、わたしが初めて明らかにしたことである。それも本邦初公開でなく、世界発公開であるが、これを理解するために必要な基本知識は、次の三つである。
 ①メソポタミアに始まる東西ウバイド王統を軸にしてワンワールドのネットワークが成立していること。
 ②後醍醐天皇と僧・文観が南北朝を合一し、以後の皇位を護良親王の子孫に限ったこと。
 ③護良親王の子孫が渡欧して「欧州大塔宮」になり、欧州王家に入ったこと。
 南北朝時代に大塔宮護良親王の王子が渡欧したのは、ウバイド西王統のスコットランド王家の継続が危ぶまれたからである。」(P265~p266)
 「ウバイド西王統の危機の本質は、グレートブリテン島の覇権をめぐるイングランドとの争いであるが、具体的にはアサル王朝の血統が断絶に瀕したことである。東西のウバイド王統は海陸のネットワークによって常に交信しているから、ブリテン島の情況は数カ月の経たずに東王統の日本皇室に伝わっていたとみられる。」(p267~p268)
 「「大塔政略」は大覚寺・持明院両統の統合による國軆体制の確立と、足利政体による国防力の強化を実現したが、その究極の目的は國軆勢力の欧州進出であり、護良親王の直系子孫がウバイド西王統を継承して東西ウバイド王統を統合することにあった。」(p268)
 「「アルザスのユダヤ人」とは、ウバイド東王朝の護良親王の末裔の欧州大塔宮一統か、これに随従して渡欧した後南朝皇統か南朝武士の末裔の「在欧後南朝」とみるべきである。
 …[アルザスの]オー=ラン県が欧州大塔宮の「特区」と思われる理由は、護良親王を護った後南朝勢が渡欧した事情である。護良親王王子を護った後南朝勢が、西大寺の國軆黄金ファンドを携えたのはいうまでもないが、それだけではなく、大和国葛下郡當麻荘で磨いた紡織・刺繍・染色のすぐれた技術があった。これをベルギーのフランダースに持ち込んで、欧州で豊富な羊毛を加工することにより、すぐれた毛織物を生み出し、欧州産業を一変させたのが、ベルギーが今も「在欧ワンワールド」の特区となっている所以である。」(p270)

○「明治維新の極秘計画」落合莞爾著(「落合秘史1」 成甲書房 2012年)
「神聖同盟の真の意味は、実は「欧州王室連合」の成立にあり、それは将来の「世界王室連合」を睨んだものだったのです。……欧州王室連合は世界王室連合に向かって発展するために、日本皇室に参加を求める方針を建てたのです。
 その理由は、ヴェネツィア・コスモポリタンから成る欧州各王室が、日本皇室を以て「シュメル文明の正当後継者」と視ていたことによる、と聞いております。」(p30)

○「欧州王家となった南朝皇統」落合莞爾著(「落合秘史5」 成甲書房 2014年)※3
「当初東南アジアに向かった南朝水軍は、マラッカ王国はじめ海外各地に拠点を定めたばかりでなく、オスマン帝国の欧州侵略に乗じて欧州に入ります。欧州ではフランス王シャルルⅣ世が一三二八年に崩御してカペー朝が断絶すると、フランス王位の相続を巡り一三三七年英仏間で勃発した「百年戦争」により大地は麻のごとく乱れ、まさにフランス版「応仁の乱」となりました。
 神聖ローマ帝国と称したドイツでは、皇帝は名ばかりで、版図内には領主が統治権を有する領邦国家が乱立して相攻伐する有り様は日本の戦国時代を上回るものでした。
 ローマ法皇も一三〇九年から七七年までアヴィニョンに幽閉され、開放されてローマに帰還した後もフランス王は独自にアヴィニョン法皇を建てる等、教会権力も分裂して存立の危機にさらされていました。おまけに勢いを増してきた新教徒とカトリックとの宗教闘争も募り、人心は動揺の極みに陥りました。
 一方、東方世界では剛胆即決の性格で「雷帝」と呼ばれたオスマン帝国四代皇帝バヤズィトⅠ世(一三六〇~一四〇三)が外征による版図の拡大を図り、バルカン半島への進出を始めますと、これを阻むために糾合された欧州諸国の連合軍がニコポリス十字軍となり、これを率いたハンガリー王ジギスムントとバヤズィトⅠ世が一三九六年にドナウ河畔のニコポリスで戦います。この最後の十字軍に圧勝したオスマントルコの侵入で、東ローマ帝国は一四五三年のコンスタンチノープル陥落をもって滅亡します。
―動乱に乗じて欧州に潜入した南朝勢力―
 十四世紀の後半、日本では騎馬系と海民系の武士団がそれぞれ南北両統を擁して戦っていましたが、欧州でも、神聖ローマ帝国の領内が分裂して数多の領邦国家が互いに傭兵を用いて相争い、新旧宗教の対立が激化し、しかも東方からオスマントルコの侵入が急でした。
 混乱を極めた欧州全域ではアシュケナージはじめ種族の移動が激しく、大塔宮王子・王孫を奉じた西大寺の南朝勢力が密かに侵入するには、またとない時宜でした。入欧南朝勢力はこれを千載一遇の好機として、日本から携えた西大寺の黄金を資本とし、ベネルクス地方(ベルギー・オランダ・ルクセンブルクの三国)を本拠とした経済活動で富を蓄えます。
 経済活動はフランドル地方の毛織物に関係したものと想像されますが、ともかくその富で雇った傭兵による領地争奪戦で軍事的成功を重ねた渡欧南朝勢力は、ベネルクスとスイスを拠点として欧州貴族に成りすまし、その棟梁の大塔宮王子・王孫は諸侯の縁戚となり、正式に所領を獲得して諸侯になります。
 その名をあえて記せば現在のオランダ王家、オラニエ・ナッサウ家ですが、人種の坩堝だった当時の欧州人は日本を認識しておらず、彼らを日系人と気づく人がいたとは思えません。
……
 南朝勢の海外進出は、ほんらい「大塔政略」の骨子をなす重要な一環で、十四世紀末に大塔宮王子を擁して欧州に進出したことを嚆矢としますが、それだけにとどまりません。その後も入欧南朝勢の後を追って後南朝勢力が毎年渡海して加わったのです。後南朝皇統とは護良親王の弟宮たちを家祖とする皇統で、…。
 ―ライデン大学は海外南朝勢力が創立―
 「欧州大塔宮」とその配下の「海外南朝勢力」は、当初ベネルクス地方に本拠を置きましたが、やがてスイス、アルザス、ポルトガルからケルト族のスコットランド、アイルランドに広がり、欧州社会に張ったネットワークを利用した効率的な経済活動により、膨大な富を蓄えます。」(p32~p34)

○「日本教の聖者・西郷隆盛と天皇制社会主義」落合莞爾著(「落合秘史6」 成甲書房 2015年)
 「―大塔宮子孫の入欧とヴェネツィアの黒い貴族―
 九州の征西将軍府を出た大塔宮子孫の船団は、台湾からシンガポールを回って到着したマラッカ海峡にしばらく滞在したと推定されます。
 ……
 船団の一部をマラッカに遺した大塔宮子孫は、マルコ・ポーロの帰路と同じくインド洋を西に進み、セイロン島からインド大陸の海岸に沿って西に向かい、アラビア海を通ってホルムズに上陸し、チムール朝統治下のイラン領内を北上してトレビゾンド帝国に至ります。
 トレビゾンドからは船で黒海を渡り、コンスタンチノープルを経てヴェネツィアに入ったのです。……
折からペストの流行(一三四七年から)の後で、しかもオスマントルコに侵入し(ニコポリスの戦い=一三九六年)により、無人のごときありさまの欧州に渡った大塔宮子孫は、ヴェネツィアに拠点を固めた後、スイスを経てフランドル地方(ベルギーから北フランスにかけての地方)に入り、日本から携えた西大寺の砂金を資本としてフランドル地方の羊毛産業に関わり巨富を蓄えた、と推察されます。
 どうやら、この辺りでヴェネツィアの「黒い貴族」の正体が見えてきたようです。……
 大塔宮子孫はオランダ・ベルギー・ルクセンブルクを拠点とする欧州貴族となりましたが、大塔宮子孫に随従した多数の南朝武士も欧州の各地に根を張り、「海外南朝勢力」と呼ぶ勢力になりました。……
 欧州へ入った大塔宮子孫たちの一部は、ベルギー在住のケルト系民族に混じってスコットランドやアイルランドに渡り、土着して勢力を広げ、また他の一部はオランダで「海の乞食」と呼ばれながら勢力を広げて富豪や下級貴族となります。」(p32)

○「ワンワールドと明治日本」落合莞爾著(「落合秘史7」 成甲書房 2016年)
「この著[「欧州王家となった南朝皇統」)は、大塔宮護良親王が鎌倉を脱出して西大寺入りした後の「大塔政略」の展開をテーマとし、大塔宮の王子・王孫がオランダ王家オランイェ・ナッソウ家およびベルギー王家ザクセン・コーブルグ・ゴータ家となり、さらにイギリス王家ウィンザー家となった経緯を述べています。
 つまり「大塔政略」の最終目的は「南北朝の秘密合一」にとどまらず、「西大寺入りした大塔宮の子孫が欧州に進出して欧州社会を革新すること」に在ったのです。」(p25)

○「金融ワンワールド」落合莞爾著(成甲書房 2012年)
 「ワンワールドの中核は、シュメルに発したコスモポリタンです。その主流はフェニキアからカルタゴを経て、八世紀から数世紀もの間ヴェネツィアに本拠を構え、さらにネーデルランド(オランダ)に向かい、ロンドンに広がりました。ニューアムステルダムも、現在はニューヨークと改称していますが、コスモポリタンの拠点として創られた港町です。
 シュメル・コスモポリタンは一般にヴェネツィア・コスモポリタンと呼ばれますが、ヴェネツィアに入る前に分かれた分流も勿論います。その一部は、インド亜大陸南端から、海人サカイ族の援けにより海路を採り、日本に到来してタチバナ氏となり、皇胤の形をとって賜姓橘氏となります。」(p162)

○「南北朝こそ日本の機密」落合莞爾著(「落合秘史・特別篇」 成甲書房 2013年)
○「奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新」落合莞爾著(「落合秘史3」 成甲書房 2013年)
○「京都ウラ天皇と薩長新政府の暗闘」落合莞爾著(「落合秘史4」 成甲書房 2014年)
○「國體アヘンの正体」落合莞爾著(「落合・吉薗秘史2」成甲書房 2017年)
○「活字に出来ない落合秘史4 天皇とイスラエル十支族~ユダヤの正体 (DVD)」 落合 莞爾 著 (成甲書房 2018年)
○「活字に出来ない落合秘史2 金融ワンワールド~天皇と黄金ファンドの秘密 (DVD)」落合 莞爾 著(成甲書房 2016年)

○竹内文書などによるワンワールド史観→4.竹内文書について6.五色人の面―人類は元一つの証 / 12.シュメール民族の謎

平成30年02月27日作成  平成30年05月14日最終更新  第127話