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高校生のためのおもしろ歴史教室>余話の部屋

55.四天王寺と物部氏の秘密

聖徳太子の正体は、失われた十支族のベニヤミン族の建国した西突厥の可汗の達頭(タルドゥ)であったとするならば、聖徳太子は、大陸の宗教戦争をいやと言うほど見てきたはずです。シルク=ロードの東端が日本ですので、シルクロードを通じて日本には様々な宗教が入ってきました。
 飛鳥の都は、ゾロアスター教の水の神アナヒーター女神関連の石の建造物がたくさん残されています。
 法隆寺や現在の四天王寺に祀られている救世観音は、マニ教のマイトレーヤ(救世主)であるという主張もあります。聖徳太子と同盟関係とでもいえる秦氏は、古代ユダヤ・イスラエル民族が改宗したネストリウス派キリスト教徒(景教徒)であったとされています。秦氏の根拠地の一つであった京都の太秦には、三位一体説を支持していたことを表す三本足の鳥居も残されています。

『聖徳太子 四天王寺の暗号』中山市朗著による境内図を加筆作成。鳥居ー極楽門ー金堂・五重塔ー太子殿奥殿ー守屋祀の先には生駒山がある。593年の創建時、金堂には四天王が本尊として祀られていた。本来四天王は、何かの神か仏を守るもの。平安時代以降救世観音が四天王の中央に祀られている。四天王が守っていたのは、守屋祀か生駒山の神か。『四天王寺御朱印縁起』には、「御世四天王の像を造りて、西へ向え置く」とあり、創建当時四天王は西を向いていたという。さて、守屋祀の前方には、この境内図には表示されていないが、四天王の名を刻んだ石の宝塔がある。また、南大門から礼拝すれば、北極星を礼拝する北辰信仰の寺ということにもなる。道教においては、北辰は北斗七星を以て象徴され、宇宙最高神として天皇大帝と呼称された。この場合は四天王寺は、天皇寺を意味する。四天王が守っていたのは、北辰の最高神、天皇大帝。あるいは、天皇。どちらにしても、四天王寺は、表面的には仏教寺院であるが、「和を以て貴しとなす」諸宗教習合の日本教の施設か。 
 四天王寺は、神道推進派の物部守屋と仏教推進派の蘇我馬子との最終決戦で、蘇我馬子側にたった聖徳太子が、仏教を守る四天王に祈願して勝利したことを記念して建てられたとありますが、鳥居があったり、調べてみると物部守屋を祀る祠が鳥居の最奥にあっったりして不思議がいっぱいです。

 四天王寺は、仏教、道教、物部氏の神道を融合して、「和を以て貴しとなす」日本教を作ろうとした聖徳太子の理想を体現しているのではないでしょうか。

 物部氏の守ろうとした神道とはどのような神道だったのでしょうか。

 
 落合莞爾によると物部氏は、失われたイスラエルの十支族の末裔であると述べています。この失われた十支族は、ヤハウェ神の他に、バアル神、アシュラ神を信仰し、厳密な唯一神教を捨ててしまっていました。バアル神は、日本では、スサノオ伝説と習合して牛頭大王となりました。アシュラ神は、柱に刻んだ女神像、もしくは木の柱そのものであったようです。失われた十支族がもたらした信仰は、形式的には日本では神社建築として結実しました。日本の神道は、縄文時代の自然崇拝信仰に、多神教であった失われた十支族の信仰と神殿形式が習合したものだったのです。
 ソロモン王のヤハウェ神殿と伊勢神宮などの神社の至聖所、聖所、手洗いの配置などが類似することが指摘されています。神道を守ろうとする物部守屋と仏教を新たな神として迎え入れようとした蘇我氏の争いは、587年の両者の戦争で決着がつきました。仏教推進が勝利し、物部守屋の一族は政権の中枢から追放されました。物部の民は、四天王寺の奴とされたように、苦難の道を歩みました。日本における古代イスラエル系の民の苦難の始まりということができるかもしれません。
「物忌み」や「物の怪」は、この物部氏を避けるところから発生したという説もあります。物部の民が落ちていった集落が、(物)部落。部落差別の淵源とされることもあります。ヤハウェ神に牛、羊、鳩などの動物を犠牲として焼いて捧げる燔祭の習慣が、仏教の殺生禁止から穢れた民とされたのです。
 物部氏の始祖は、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)で神武天皇の東征の最終段階で、神武天皇に国譲りをしました。その代償として以後子孫の物部氏は、587年の物部守屋の滅亡まで、政府において要職を歴任し政権の中枢にありました。

 神武天皇が九州から東征をされて、大阪に侵攻され生駒山の麓で長髄彦(ながすねひこ)と戦い敗れました。神武天皇は迂回して和歌山の方から奈良平野に向かい、奈良から生駒山の麓の長髄彦の本拠地の登美邑に至り、長髄彦と再び対峙しました。長髄彦の主君の饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は、徹底抗戦を主張した長髄彦を誅殺して、神武天皇に国譲りをしました。この饒速日命と長髄彦の娘三炊屋媛(ミカシカヤヒメ)との間にできた可美真手命(ウマシデノミコト)が物部氏の祖となります。
 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は、神武天皇と同じ天孫とされていて、神武王朝の前に饒速日命の王国があったことが推測されます。
 日本書紀には「饒速日命は、天の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を看てお降りになったので、名づけて『空見つ日本(ヤマト)の国(大空から眺めて、よい国だと選ばれた日本の国)』という。」とあります。物部氏は八十物部と呼ばれるくらい北九州から東北地方、中京地方に分布していることやこの国見の伝説から、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の王国は、このことからも強大であったことが推測されます。
 出雲王朝についても荒神谷出土の銅剣、銅鐸の出土状況からも強大な王国であったことが推測されます。全面戦争すればどちらが勝っていたかわかりません。争いをこのまない  大和の精神によって、勝利を譲ったのです。明治維新にも同じ事がありました。100万の軍隊を擁した江戸幕府軍も同じ行動を取りました。
中国や韓国が主張するような好戦的な野蛮な国が日本ではありません。DNA的に争いを好まないのが日本なのです。日本の国を愛する為政者にもっと尊敬をもつべきだと思っています。
 
 饒速日命の国譲りと古事記の大国主命の国譲りと重なるところがあります。同一の事件を別の物語で表していると推測されます。

 饒速日命の支配地域には、三輪山があり、三輪神社の御祭神の大物主と大国主は同一神です。饒速日命の王国は、三輪山に進出した出雲王朝といえるのではないでしょうか。また、国譲りを受けた神武天皇の皇后が事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命であることも、このことを裏付けているのではないでしょうか。

 古事記による出雲の国譲りの神話によると、大国主命の子供が事代主命と建御名方命です。天照大御神の国譲りの要求に対して、事代主命は承諾しますが、弟の建御名方命は、承諾せず力比べに敗れて諏訪湖に逃げたとあります。
 一方、饒速日命の国譲りの主役は、国譲りに応じた可美真手命(ウマシデノミコト)と、徹底抗戦を主張した長髄彦(ナガスネヒコ)です。
 長髄彦は、饒速日命に誅殺されました。なお、長髄彦は兄の安日彦とともに東北地方に逃げたという伝承があります。古代豪族の安倍氏は安日彦の末裔で、安倍晋三首相の先祖にあたります。
 
 建御名方命は諏訪に逃げて諏訪大社の祭神となりました。 諏訪大社上社の主祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)、下社の主祭神は、八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、建御名方神の妃です。
 諏訪大社には、失われた十支族がもたらしたであろうと推測される不思議な祭りがあります。
 一つは最も有名な御柱祭。ソロモン王がヤハウェ神殿を建てたときの木材切り出しの様子を写したものとも、アシュラ神の信仰のシンボル木の柱そのものであるともいわれていますが、誰が聞いても納得するのは、御頭祭です。
 御頭祭は、諏訪大社前社の祭りで、ミサクチの祭りとも言います。この祭りとそっくりの事件が、旧約聖書の世界にありました。アブラハムが息子イサクを小刀で屠って神に捧げようとしたところを天使に止められます。アブラハムは、イサクの代わりに柴に架かっていた耳の裂けた牡牛を生け贄に捧げます。そして、神がアブラハムの絶対的な忠誠心をみて、アブラハムの民を祝福する事件です。(創世記第22章)
 創世記におけるこの事件の舞台は、モリヤ山です。諏訪大社の御頭祭の舞台も守屋山です。宮司家も守矢家です。ミサクチの祭りで捧げる鹿は、菅江真澄の伝える江戸時代の描写では75頭。捧げられた鹿頭の中には、耳が裂けた鹿があったとされています。神がとらえたものとされていました。イスラエルの十支族の人々も、アブラハムによるイサクの献納に替わる犠牲として75頭の羊を捧げていました。
 「ミサクチ」ヘブライ語で「Mi(源)+ISSAC(イサク)+Chi (物語)」となり「イサクの物語の源」あるいは「御(神)イサクの物語」となるとのことです。
 古代イスラエルの十支族が諏訪に住んでいた証となります。さて、この守屋山の登山口に物部守屋神社があります。
 物部守屋の子孫が同族をたよって諏訪に逃げてきたので物部守屋神社があると考えるのが自然でないかと思います。
 また、諏訪大社の祭りから出雲王朝は、失われた十支族による王朝ではなかったかと推測するのは、飛躍しすぎでしょうか。失われた十支族の建国した古代イスラエル王国には、天を仰ぐ巨大神殿があったということですが、これなども出雲大社を思い出されます。現在の社殿の高さは、24mですが、96mの巨大神殿が古代にありました。祭神大国主命は西方を向いており、奇しくも祭日5月14日が、現在のイスラエル共和国の建国記念日です。
 丹後の籠神社は不思議な神社で、元伊勢の一つとされています。末社の真名井神社の地下には、失われたイスラエルの契約の箱が埋められているという説もあります。
 この神社の神主を長く続けてきた海部氏の祖神ホアカリと物部氏の祖神ニギハヤヒが同じ神であることが、物部氏の記録である「先代旧事本紀」や海部氏の「籠神社極秘伝」として公表されているということです。

参考図書

○ 出雲の高層神殿→18.出雲の高層神殿
○「古事記」西宮一民校注(「新潮日本古典集成」所収 昭和54年)
○「全訳現代文 日本書紀上巻」宇治谷孟著(創芸出版 1986年)
○「物部氏の盛衰と古代ヤマト政権」守屋尚著(彩流社 2009年)
○「物部氏―剣神奉斉の軍事大族」宝賀寿男著(青垣出版 2016年)
○「古代日本、ユダヤ人渡来伝説」板東誠(PHP研究所
○「天孫皇統になりすましたユダヤ十支族」落合莞爾著(成甲書房 2016年)
○「古代ユダヤで読み解く物部氏と「アーク」の謎」飛鳥昭雄・杣浩二著(文芸社 2017年)
○「葬られた王朝――古代出雲の謎を解く」(新潮社 2010年)
○「先代𦾔事本紀 附𦾔事記直日」(「続日本古典全集」所収 現代思想社 昭和55年)
○「聖徳太子 四天王寺の暗号」中山史朗著(ハート出版 平成25年)写真集(2017.12.22参拝)
 西門にあたる石の鳥居と極楽門。直線上に太子堂・守屋祀。その延長上に生駒山がある。  龍の井戸からみた金堂・五重の塔。金堂には、本来の本尊四天王像がある。  五重の塔の上からみた八画の太子堂奥殿・前殿。その奥に守屋祀のエリアがある。
太子堂(聖霊院)の奥にある守屋祀のエリア。毎月22日聖徳太子の縁日にのみ、入場が許可されるエリアで石の鳥居を基準とした場合、四天王寺の最奥の重要な処には、敗者であるはずの物部守屋が祀られている。今も、物部氏の縁者が四天王寺に奉仕しているという。
 南大門から一直線に熊野権現礼拝石、仁王門・五重の塔・金堂・講堂・六時堂がある。こちらは太極にあたる北斗七星を望んだ配置となっている。 道教の宇宙最高神・天皇大帝を祀るための寺の可能性がある。 
 六時堂  東大門と牛王尊(石神堂)。四天王寺の鬼門の位置にあり四天王寺で最も重要な神様。牛王尊(石神堂)の説明と矛盾するが、石神堂は、牛頭大王(スサノオ尊・バアル神)を祀っているのでは。石切神社、石上神宮等物部と石は関係が深い。
東大門を入ると伊勢神宮遙拝石。以前は門外にあったという。         四天王寺には預言書「未来記」が伝えられているという。開封できない伏蔵も3つあるという。左は極楽浄土の庭からみた本坊。右は四天王寺支所・真光院(まっこういん)。       

平成30年1月7日作成  平成30年1月23日最終更新  第125話