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 10月は神無月といいますが、出雲では神在月といいます。世界中の神様が、旧暦の10月10日から一週間出雲大社につどい、次の年の政治のあり方を相談し、決めるのです。西の方から来た神様は、万九千神社に集まり、その後出雲大社に行かれました。東の方から来た神様は佐太神社に集合し、出雲大社に行かれました。また、出雲大社では、西側にある稲佐の浜で神迎えの神事も行われます。出雲は神々の集う所なのです。
 島根県の出雲大社の社殿によると最古の社は、三十二丈つまり、九十六メートルの高さがあり、後に半分の十六丈となり、斉明天皇の時に現在と同じ八丈(二十四メートル)となったとあります。
 平安時代の貴族の教科書といわれて「口遊(くちずさみ)」(970年に源為憲による)では、「雲太・和二・京三」といわれていたといいます。つまり、出雲大社が太郎で一番大きい。大和の東大寺の大仏殿(当時十五丈=四十六メートルあった)が、二郎で二番目。京都の大極殿が三番目の大きさで三郎という意味です。大極殿は、当時の政治の中心です。
発見された柱の実物模型 実際に発掘されたもの 現在の出雲大社(高さ24m)
 これらは、伝承に過ぎないと思われていたのですが、2000年、現在の社の前庭で、3本の巨木を束ねて作られた巨柱の痕跡が発見されました。1本直径1.4メートルの柱を3本束ねたもの。何種類かの復元がされていますが、写真は96メートルの社であったとしての復元です。
 この出雲大社も、伊勢神宮と同じ宮司や天皇しか入れない至聖所、神官が入ってお仕えする聖所、一般の人がお参りする所(拝殿もしくは門の前)に分かれています。古代イスラエルのヤハウェをお祭りする幕屋やソロモン王によるヤハウェの神殿の形式と同じなのです。
 
 小石豊によると、出雲の高層神殿は聖書に記された故事を想像させるといいます。
 モーセの後継者ヨシュアがカナン(現在のイスラエル・葦原の国)を征服して、十二支族に土地を分割した時、ヨルダン川の東を与えられルベン族、ガド族、マナセ族の半分は、西のその他の支族と同一のヤハウェに帰神していることを示すために高層神殿を築いたと聖書の「ヨシュア記」第22章10節〜11節にあります。ヨルダン川の西の支族がこれを不審に思って問い合わせたところ、河でへだたってしまったが、同じヤハウェに仕えていることを後代の証拠とするために築いたのだと説明し皆が納得したといいます。アッシリアに征服されるまで、約700年間それはそびえ立っていたのではないかといいます。
 
平成12年地下祭礼準備室の建設に伴う事前調査により発掘された柱を元に復元したもの。但、柱の成分分析から宝治2年(1248年)造営の本殿の可能性が強いとされる。そうするとこの96メートルの想像図は巨大過ぎるということになる。
エジプトの奴隷の状態であったイスラエルの民は、モーゼに率いられて脱出しました。これを「出エジプト」といいます。そして、モーセの次のヨシュアの時代に神の祝福を受けた地カナン(葦原の中つ国の意味)に定住します。
 アッシリアに前722年に征服され奴隷状態におかれていたイスラエルの失われた十支族は、アッシリア末期の混乱に乗じてユーフラテス河を渡り、新天地を求めて東へシルクロードを移動し、ついに新天地日本列島にたどり着きました。たどり着いたのが出雲の稲佐の浜で、その浜に上陸の記念として高層神殿を築きます。これが、ヨルダンが東岸に立てられたヤハウェの礼拝所の故事にちなんで建てられた出雲大社であるというのです。
 話は前後しますが、上陸後指導者によって、日本の各地に十支族それぞれの住むべき土地が与えられました。同じ、イスラエル民族であることを忘れないために、嘗て契約の箱を安置していたヤハウェを祭祀した幕屋の設計図をたづさえていって、それぞれの居住地にこの図通りのヤシロ(社)を建てました。このように推測するしか日本の各地の村々に至までイスラエル・ユダヤ形式の神社が建てられていることを合理的に説明できないとのことです。
 もちろん無抵抗で日本列島に住み着いたわけではなく、現地の縄文人の激しい抵抗を排除しての移住であることは、カナンへの移住と同様でした。
 日本の各地へ散った十支族の長は、年に一度集い政(まつりごと)の相談をしたのではないかというのです。これが、神在月の謂われではないかと類推しています。
「ヤシロ」の「ヤ」は「ハヤウェ」を示す。「シロ」は、カナンの地で「契約の箱」が永く祭られていた聖地「シロ」から取った。つまり、「ヤシロ」は、「ヤハウェの礼拝所」を意味する言葉であるというのです。
昭和55年4月4日午後3時頃出雲大社上空に出現した雲。故事にちなみ万九千神社参拝した時は、雲一つない晴天でした。車で移動後出雲大社参拝の時に出現していた雲です。龍と鳳凰に見えるがいかがでしょうか。イスラエルの十支族が出雲に上陸していたとしても、それ以前から出雲は神々の里ではなかったかと感じました。神の御臨在を感じた時でした。
 出雲大社の祭神は、現在は大国主命とされていますが、古来、スサノオ命ともされていますので、指導者は、スサノオの命か、大国主命(スサノオ命の子とも、6世の子孫ともされている)であるということになります。
 近畿、北陸の一宮(それぞれの国の中心の神社)の祭神にスサノオ命・大国主命の一族がほとんどですので、大国主命を王とするイスラエルの十支族により出雲朝という勢力が築かれていたということになります。
 さて、小石豊によれば、この後ユダヤの二支族も日本列島に上陸し、この出雲朝と対立します。結局大国主の息子の事代主命は、宮崎県の高千穂からやってきた二支族の王に服属します。これが神武朝に対する国譲りつまり、降伏ということになります。このとき徹底抗戦をして諏訪の地に逃れた事代主命の弟の建御名方神を祭る諏訪大社では、アブラハムのイサク献納の祭りとしか言えないミサクチの祭りが残されていることも、これを傍証するのではないでしょうか。

 神社の発祥は、縄文時代に三内丸山遺跡に代表されるような高度の自然と共生する文明を築いた縄文人の自然崇拝の祭祀に由来することも多いと思われます。
 しかし、イスラエル・ユダヤ民族による日本の建国が正しいかどうかは別にしても、現在の神社の八割の祭神がスサノオ命一族であるという調査結果からも出雲朝が神武朝の統一の前に、日本の中央部の大半を統治していたことが伺えます。
 なお、日本の神社には、祈るためのシンボルとして鏡などがあったりしますが、基本的には偶像はありません。これも、偶像を禁止したヤハウェの信仰と合致しているのではないかということです。しかしながら、失われた十支族は偶像崇拝に傾きやすい民でした。古代メソポタミアのバアル信仰なども、牛の像を祭っていたりすることからもたらされたのではないかということです。
 日本におけるイスラエル・ユダヤ系の神社とされるものに共通することですが、現在ヤハウェが祭神であるという神社は、ありません。イスラエル・ユダヤ系の神社が日本にあるならば、仏教が支配勢力になるなど、ヤハウェの神殿・礼拝所であことを隠さねばならない理由が生じて祭神の名を隠した。あるいは、イスラエル系の天皇が実権を失い、本当の権力者の命令によって祭神が現在のようになってしまった。つまり、ヤハウェ神をカモフラージュするために別の名前で呼んで現在にいたっているということになるのではないでしょうか。

参考図書

○「古代出雲イスラエル王国の謎」小石 豊著 学習研究社 2005年
○「聖書に預言された神国日本」小石 豊著 学習研究社 2006年

平成20年02月11日作成  第045話