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 秦の王室の先祖は、伝説上の聖人君主である五帝(黄帝・顓頊・嚳・堯・舜)の一人である顓頊の子孫とされ、舜の時、嬴(えい)氏という姓を賜っていたという伝説があります。実際は、前900年頃、非子(前900年頃~前858年)が馬の繁殖・飼育の功績をもって周の孝王より土地を与えられ領主となりました。秦のルーツとなるエピソードです。春秋時代のきっかけとなった犬戎の侵略に対して秦の襄公(前777年~前766年)は、周王を助けたので、襄公の時代に諸侯となりました。徐々に勢力を拡大し、穆公(前659年 - 前621年)の時代には、春秋の五覇の一人となりました。
 戦国時代に入り、孝公(前361年~前338年)の時代に法家の思想家の商鞅を宰相にして、富国強兵策を実施し中央集権化に成功し強国となりました。江戸時代の五人組の制度のルーツとなった連帯責任をとたせる什伍の制や直轄地には中央から官僚を行政官を派遣する郡県制の起源となる県制を導入しました。また、都を咸陽に移しました。
秦のルーツは前900年頃までさかのぼります。春秋の五覇、戦国の七雄として地位を固め、法家の商鞅を献策により、秦王政(のちの始皇帝)が即位した頃は戦国一の強国になっていました。 
 始皇帝は、姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)、諱は政(せい)です。前259年に生まれ、13歳の時、秦王(在位前246年~前221年)となりました。孝公の死後も、商鞅の定めた法治国家体制は維持され、秦王政が即位するまでに戦国時代一の強国となっていました。
 司馬遷の『史記』呂不韋列伝によれば、秦王政の実の父は、呂不韋であるとされています。呂不韋は、趙の人質であった秦王の子どもの一人である子楚に妊娠していた自分の愛姫を、子楚の求めに応じて与えたというのです。この愛妃は、邯鄲の富豪の娘であったといいます。
 呂不韋は大富豪であり、その金力を利用して不遇の子楚は、秦の太子となり、子楚が昭襄王として即位すると自分は丞相(宰相)となり権勢をふるいました。そして、この昭襄王の子が、秦王政のちの始皇帝です。

 日本の秦氏はこの始皇帝の子孫を称していました。秦氏はユダヤ系であるとされています。
 ユダヤ教のラビ、マーヴィン・トケィヤーの「ユダヤと日本 謎の古代史」から引用します。
 「ユダヤ人が紀元前のはるか昔から大旅行者兼商人であったことは、前の本でも述べたが、その中心舞台となったのはシルクロードである。なぜかといえば、この道を旅した絹の商人は、すべてユダヤ人だったからである。ユダヤ人がまだバビロニア地方に住んでいた紀元前の時代に、ユダヤ人たちはシルクロードの開拓者としてシナから絹を運び、織物として加工し、それを染色した特殊技能者でもあったのだ。シルクロードは、シナから中近東を経て、ヨーロッパへ絹を運ぶ古代のハイウェイであったということもできる。古代においては、そのハイウェイを往来するのは、完全にユダヤ商人によって独占されていたのである。」
 とあります。始皇帝の実父とされている呂不韋は大富豪大商人であり、母は趙の首都の邯鄲の富豪の出身です。ユダヤ人は国際感覚に優れ、商売に長けていました。大富豪の呂不韋や邯鄲の富豪の娘であった母がユダヤ系であったとしても不思議はありません。始皇帝が呂不韋の子でなくても、先祖が馬の繁殖、飼育にたづさわっていたということであれば、シルクロードを通ってやってきたユダヤ系であったかも知れません。
 秦氏は始皇帝にあやかろうとして始皇帝の子孫を名乗ったということですが、ユダヤ系の縁で始皇帝の子孫の秦氏を名乗ったのかもしれないと思っています。
 古代において秦氏は、摂関家の藤原氏の姻族として藤原氏を支えました。また、後代には源氏や鎌倉御家人であった島津氏、毛利氏、そして、楠木正成の一族も秦氏であったとされています。

 丞相の呂不韋は、雑家の代表とされ、無為自然の道家の思想に近い政治信条をもっていたようですが、始皇帝の母との関係は続いており、そのことが発覚して前235年自殺しました。その後、呂不韋の食客であった法家の思想家の李斯が始皇帝の側近となり、李斯の献策を採用し、ついに前221年秦王政は中国を統一しました。
 殷周の時代のただ一人の統治者の称号は「王」でした。戦国時代に入ると、多くの諸侯が「王」を名乗ったことから、中国統一にあたり新しい称号を秦王政は臣下に審議させました。しかし、気に入らず自ら「皇帝」と名乗りました。「皇帝」の専用語として「朕(ちん)」(私の意味)、「制」「詔」などの言葉の具申は、そのまま採用しました。
 「皇帝」の「皇」字は、「煌」と同義で「光り輝く」「美しい」「偉大な」「大きい」という意味があります。また、「帝」は「上帝」「天帝」を意味し、天界にあって宇宙万物を主催する絶対最高神のことです。
 「皇帝」の称号は、1912年の清朝の滅亡まで君主の正式称号として使われ続けることとなります。始皇帝は、李斯の献策にもとづいて中国を統一するとのち中国2000年の歴史を規定する様々な改革を行いました。
 20世紀のナショナリズムによって「中国」とよぶようにという主張を受け入れるまで、この地域を「シナ(支那)」と日本はよんでいました。英語ではChinaと今でもよんでいます。この呼び方は秦(チン)にちなみますが、そう呼ばれて当然の体制を秦は統一後わずか11年の始皇帝の統治の間につくりあげました。
 今までの伝統的な統治体制であった封建制を廃止して、全国に郡県制をしきます。郡県制は、隋以降、1912年に清が滅びるまでは州県制へと変化しますが、基本は変わりませんでした。
 封建制は、一族功臣に地域の統治権をあたえ、世襲させるという体制です。殷周の時代以来の封建制を覆し、中央から官僚を派遣して郡およびその下の県を統治させるという中央集権官僚国家の出現です。殷・周の封建体制は、小国家連合の盟主が殷・周であったとでも言える体制でした。それを一つの統治体制にまとめた領土国家の出現であるともいえます。

 また、戦国時代(前770年~前221年)には、それぞれの国でばらばらであったものを一つにします
 文字を統一しました。たとえば馬という字は、国によってばらばらであったのですが、秦で使われていた篆書に統一します。篆書は印鑑の文字や役所の公印としていまも使われている字体です。この漢字の統一(篆書)があって、次の漢の時代に楷書、行書、草書などが確立します。文字については秦字といわれずに、漢字といわれるゆえんです。
 度量衡も統一します。度は長さの単位。量は体積の単位で全国に標準のますを配布しました。衡は重さの単位で全国に分銅を配りました。
 貨幣の統一も行っています。殷・周の時代の貨幣は子安貝でした。戦国時代には、この貝貨を擬した蟻鼻銭、刀の形をした刀銭、農具をかたどった布銭など国ごとにさまざまな青銅貨幣を鋳造し、通用させていました。これらを秦の半両銭に統一しました。半両銭は、円銭に四角い穴をあけたもので、歴代の王朝に踏襲されました。
 道路網の整備に伴い、馬車の車幅も統一しました。
 思想の統一は有名です。戦国時代の名残で様々な諸子百家が法家の思想に基づく統治方針を批判するので、法家の著作や農業書、暦書や秦の歴史書以外を焼き払い、反対者特に儒家を穴埋めにしました。これを「焚書坑儒」といいます。
 人類の豊かで多様な文化を否定する野蛮行為といえると思います。ロシア革命や毛沢東による共産主義革命後、宗教弾圧・思想弾圧をおこない、共産主義思想に反する書物を焼き捨てた暴挙に匹敵する野蛮行為です。
 
 中国を統一後、始皇帝は、中国で神聖視されている泰山で、封禅の儀式という太古に「特に徳と功を備えた聖人君主」が行っていたという儀式をしました。
 「封」とは、盛り土で祭壇をつくって「天」を祀ること。「禅」とは、地をならして山川の神祀ることを意味しました。
 
 中国には「東の海のはるかかなたに蓬莱島という仙人の住む島がある」という伝説があります。
「煌々と光輝く上帝」という意味を込めた皇帝という称号は、不老不死であらねばならぬ存在です。始皇帝は不老不死の薬を求めてこの伝説による蓬莱島を望める東方への旅をつづけました。中国統一の翌年の前220年からその死の前210年まで5回にわたって東の海岸への旅を繰り返しました。内陸部の首都咸陽から黄海・東シナ海への旅です。
 不老長寿の呪術、祈祷、医薬、占星術、天文学に通じた学者である道教の方士・徐福を東方の海にあるという蓬莱島に派遣しました。
 徐福は3000人の童男童女および農業技術者などの大船団を率いて『平原広沢』の地にたどり着き中国には帰らなかったと伝えられています。
 一方、日本全国に徐福が来た、あるいは住み着いたという伝説があります。伝説の多さからみても日本に来たというのは真実であると思います。

 話は飛躍しますが、自然の恵みと縄文時代の名残をのこす当時の日本の国民性はまさに仙人の国であるといえたのではないかと思います。
 いま、世界中でクールジャパンあるいは日本食のブームがおきていますが、世界を魅了してやまない魅力が当時の日本にあったのではないでしょうか。
 「竹内文書」には、日本が世界文明の発祥の故郷であるとあります。文明の故郷の証拠をもとめて、徐福を派遣して日本の太古の歴史を自国の歴史としようとした始皇帝が、その歴史を得られないことに激怒して蓬莱島の伝説を記述した歴史書をすべて焚書したとの主張もあります。また、徐福は、日本の豊かな国柄に触れて帰国しなかったのではないかと想像されます。

 始皇帝は前210年東方への旅の途中で病死します。生前の功績を忖度しておくり名をつける制度を廃して、二代目の皇帝を二世皇帝、三代目の皇帝を三世皇帝とうふうに自動命名とました。千代まで続く秦帝国を企図してのことでした。しかし、始皇帝が心血を注いで完成した秦帝国は、二世皇帝のあと滅亡しました。始皇帝死後わずか6年の前206年のことでした。この滅亡は、先駆者の悲劇といえるものであるといえます。
 新しい体制を作り永続する場合もありますが、画期的な先駆的な体制であればあるほど欠陥もあります。急激な改革は、反動も大きいのが常です。
 隋は大改革を行いましたが、すぐ滅び、次の唐は永続しました。日本でも武家政権の最初の平氏政権は短期間で滅びましたが、鎌倉幕府は永続しました。豊臣秀吉の天下統一後の短命政権と徳川幕府の永続も同様でしょう。短いがゆえに非難されるべきではないでしょう。
 不世出の英雄始皇帝は中国世界、東アジアの歴史を画期的に変えました。

参考図書

 日本は古来から不老長寿の仙人の住む蓬莱島といわれていました。
○「秦漢帝国」西嶋定生著
(「中国の歴史 第2巻」 昭和49年 講談社)
○「ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国」鶴間和幸著
(「中国の歴史03」2004年 講談社)
○「中華文明の誕生」尾形勇・平勢隆郎著
(「世界の歴史2」1998年 中央公論社)
○「徐福伝説の謎」三谷茉沙夫著
(1992年 三一書房)
○「ユダヤと日本 謎の日本史」マーヴィン・トケィヤー著箱崎総一訳
(産業能率短期大学出版部 昭和50年)

平成29年03月17日作成   第124話