「諸子百家」の第五は、陰陽家についてです。
「諸子百家」という言葉は、司馬遷の『史記』賈誼(かぎ)伝に「頗(すこぶ)る諸子百家の学に通ず」とあるのが初出であるということです。班固(はんこ)の『漢書(かんじょ)』芸文志(げいもんし)の諸子略には189家をあげていています。百家というのは多いと言う意味で使っていますが、実際は、司馬遷の父司馬談が六家(陰陽家、儒家、墨家、名家、法家、道家)、班固は十家に集約しました。うち、九家(儒家、道家、陰陽家、法家、名家、墨家、縦横家、雑家、農家)を「観るべき者」としました。孫子の兵法で有名な兵家は、司馬談も班固も「諸子百家」に入れていませんが、今日では「諸子百家」として扱われています。
さて、陰陽家の代表は、鄒衍[すうえん](前305年〜前240年)です。鄒衍は、中国古来の自然哲学を陰陽五行説として整理集約しました。
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青春、白秋などの用語も鄒衍の整理した陰陽五行説由来。 |
中央は、土、黄色で皇帝の色とされました。君子南面すといわれ、宮殿は南に向い 、北をバックに南をむいて、皇帝は臣下に謁見しました。 宮城は、南に朱雀門、北に玄武門が置かれました。
また、四神相応の吉相の場所は、東は清流がながれ (青龍)、南は平野が広がり(朱雀)、西は道が通っていて(白虎)、北は山が控えている(玄武)とされています。首都であった京都などがそれにあたっていますが、これも、陰陽五行説にもとづいています。
陰陽五行説は、「諸子百家」の多くの派が共有する自然観です。今も形としても残っています。例えば、1週間は、日月火水木金土です。7曜制は、古代シュメール文明に始まり、聖書の創成記に、受け継がれました。6日で天地万物人類を創造して、7日目に休んだとあります。本来の休みは土曜日でした。この7曜制を、日本語翻訳するときに、日月火水木金土と明治期に当てはめたのは陰陽五行説が日本に定着していたことによります。
陰陽五行説は、老子が「道」と称した天地万物の初めの無の世界から、つまり「一」から、陰陽が生じる。つまり「二」。この陰陽から万物が生じる。つまり「三」。万物つまり自然は、木・火・土・金・水の5つの要素から構成され、陰陽の塩梅により絶え間なく変転するという自然観です。
つまり、7曜制の日月火水木金土の、日月は陽と陰。火水木金土は、自然の構成要素である五行であると言うことになります。
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韓国国旗は、儒学(朱子学)の太極図による。 |
儒家の経典「四書五経」ですが、五経の第一に「易経」があります。「易経」は、古代の帝王伏羲に始まるとされています。古代中国では、全ての現象、物や事は相反する陽と陰の二大要因ならなっており、その変化、展開によって万物万生、万象が成り立っており、説明できるとしました。
『漢書』芸文志に、「太古の伏犧(伏羲)が天文・地理・人間・鳥獣などのさまざまな法則と現象とを観察して、始めて八卦を作り、それによって神明のはたらきを明らかにし、すべての物の有るべきさまを示した。その後、殷周革命の際に、周の文王が六十四卦とし、卦爻(かこう)の辞をかけて天象に応ずる人事の吉凶を明らかにした。孔子に至って、……『易』の道理を明らかにした。……」(赤沢忠による)とあります。陰陽の塩梅によって全ては生成し、説明できるとするのです。この「易経」の考えは、後世儒学の公式解釈とされた朱子学によって太極図が作られ図示されました。太極図は、太極なかに陰陽が生じた様子が描かれています。
太極は、道家のいう万物万生の始まりである無の世界「道」に当たります。太極から陽陰が生じて、万物万世が生成化育発展して行く世界です。儒家では生成化育発展の姿を、八卦、六十四卦とあらわしました。
韓国の国旗は太極図をモチーフとしています。中央に陽を表す赤い渦と陰を表す青い渦が交差している太極図があり、まわりに八卦のうち天・地・火・水を表す四卦を配置しています。韓国は、形の上でも儒学の世界秩序を無意識に国是とする国です。中国が世界の中心で、「仁」「忠恕」「孝悌」の国。日本は、韓国の下の東夷の国という意識です。
「諸子百家」のうちの、「名家」は、論理学。「白馬は馬にあらず」の言葉で有名です。白馬は白い馬という馬の毛の色の概念。馬は、種の概念。混同してはいけないというのです。
「農家」は、農業こそ国の基本として、農業技術や農業による平等社会の実現を説いたもの。
「縦横家」は、戦国時代随一の強国秦に対する外交政策を説いたものです。個別に同盟んで国の安泰をはかる「連衡」策と6国が連合して秦にあたるべきだとする「合従」策を縦(「連衡」)横(「合従」)で表現しているネーミングです。
「雑家」は、儒家、道家、墨家、法家などの思想を融合したもの。呂不偉が編纂させた『呂氏春秋』が代表的著作とされています。
さて、儒家や道家、墨家の理想とした聖人君主の理想の統治は、伝説上の堯や舜、あるいは殷王朝の創始者湯王、周王朝の創始者文王とその弟周公旦の治世をさしています。
しかし、道家の「無為にして化す」政治、儒家の「仁」「忠恕・孝悌」のことばに象徴される国民を愛した政治、墨家の理想とする君主自らが質素倹約を旨とする政治は、日本の天皇家の統治にあらわれているように思えます。
このことは、日本史の部屋の2.天皇についてや余話の部屋の4.竹内文書について、28.世界標準と日本標準〜35.日本の国体、38.宗教の元一つなどで詳しくふれました。しかし、これらの主張は、荒唐無稽なethnocentrism(自民族中心主義)とされていますが、帰納法的に観察すると事実ではないかと思える世界でオンリーワンの魅力を日本はもっています。歴史のあらゆる期間をつうじ地上の天国、極楽浄土であったし、いまもそうであるという事実。天皇は国民を愛し国民は天皇家を敬愛するという君臣一体の国、礼節礼義の国、モーゼの十戒を最も忠実に守っている国であるという事実です。
参考図書
○「易経」赤塚忠著(「中国古典新書」昭和49年 明治書院 )
○「中華文明の誕生」尾形勇・平勢隆郎著(「世界の歴史2」所収 1998年 中央公論社)
○「諸子百家」貝塚茂樹著(1961年 岩波新書)
○『私はなぜ「中国」を捨てたか』石平著(2009年 ワック株式会社)
「科挙制度導入後の中国において、孔子の目指した儒教は実質上死滅した。天国にいる孔子様は、もし、後世における儒教の有り様を目の当たりにすれば、ますます「学を好む者なし」と嘆かれなければならないに違いないだろう。
しかし、この孔子様も思いもよらないことに、二千数百年後、日本という異国の江戸時代において、その愛弟子の顔回を彷彿とさせるような、「学を好む者」が続々と現れてきたのである。
前述の中江藤樹や中井履軒、そして石田梅岩、その一人一人は、富貴や栄達をものともせずに、生涯を通して「一箪食、一瓢飲」の淡泊清貧の生活を送りながら、まさに、「学を好み道を求める」生き方を貫いたのではないだろうか。彼らこそは顔回の再来であり、孔子の理想の正真正銘の継承者ではないだろうか。
孔子様の偉大なる理想は、この扶桑の国の江戸時代に蘇った。
中国では日本の江戸時代に当たるのは、中国の最後の王朝である清帝国の代である。
清王朝も当然、儒教を「国教」に奉っているが、その三百年近くの王朝史において、本物の儒学者はついに一人も出なかった。支配者の満州族のお家芸である思想弾圧によって、儒教の精神が完全に窒息させられる中、読書人といえば栄達富貴を求める、「名利の徒」ばかりであった。
このような時代において、中国には、もはや本当の儒学というものはない。
儒学の思想と精神が受け継がれていたのは、ほかならぬ中江藤樹や石田梅岩などの求道者を輩出した江戸時代の日本なのである。
そして近代になってからも、こうした日本的儒教の流れは、脈々と受け継がれていった。明治という栄光の時代を切り開いた、幕末・明治期の偉大なる指導者たちの精神の根底には、彼らが、幼い頃から私塾や「郷中教育」などで学んだ論語の心が生きていた。近代日本人の心づくりの拠り所となった「教育勅語」には、日本的儒教思想が基本理念の一つと取り入れられた。アジア唯一の独立近代国家であるこの日本において、儒教は新しい時代の指導精神として、生き延びることができた。
そして、日本という素晴らしい近代国家を作り上げた、「和魂洋才」という大和民族のエートスにおいてこそ、儒教が単なる「歴史の文物」としてではなく、まさに思想的DNAとして、人間的精神と行動原理として、新しい生を得た。
儒教とは、まさに近代の日本によって再生され、近代の日本と共に輝いていたと言えよう。
もちろん、このような儒教の心は現代でも、日本人の生活や言葉、日本文化と日本的精神の中に生きているのである。
一方のわが国において、近代という時代は、まさに「打倒孔家店」という過激な「革命スローガン」に象徴されるような、儒教の一層運動とともに始まった。
中国の近代は、すなわち、儒教の受難の時代でもある。特に毛沢東の共産党政権下の暗黒時代になると、儒教を含めた、中国のいっさいの伝統思想と文化は、時の権力によって意図的かつ組織的に、徹底して破壊された。
儒教の心が窒息させられたのは清王朝の時代であったが、その後、毛沢東共産党の手によって、「孔廟」という建物を除いては儒教的伝統というものがまさに根こそぎにされ、この中国の地から跡形もなく消え去ったのである。
そして、今の中国の大地で生きている中国国民こそ、論語の心や儒教の考え方からはもっとも縁の遠い国民精神の持ち主であると、多くの中国人自身が認めざるを得ない厳然たる現実なのである。
少なくとも、私自身からみれば、世界にも稀に見る最悪の拝金主義にひたすら走りながら、古い伝統とは断絶した精神的貧困の中で、薄っぺらな「愛国主義」に踊らされている現在のわが中国国民の姿は、まさに目を覆いたくなるような醜いものである。
そういう意味では、私自身一人の中国出身者でありながら、むしろ日本という国と、この国に受け継がれてきた伝統と文化に親近感と安らぎを感じていて、一種の精神的な同一感を持つようになったわけである。
今の私には、わが祖父が私に論語をひそかに教えた、あののどから故郷のイメージと現在の中国の姿とは、どうしても結びつかない。その故郷の地理的場所が間違いなく中国国内にあるにかかわらずである。
私の「心の故郷」は、もはや今の中国にはない。
「礼儀之邦」のこの日本において、論語の心が生かされているこの日本的「集団精神」において、自分自身の心の拠り所と、精神的安息の地を求めようとするのが、現在の私の偽りのない気持ちなのである。」(p188〜p192)
平成29年02月17日作成 第122話