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 絶世の美女妲己の求めに応じ酒池肉林の贅沢の限りを尽くし、無実の人を炮烙の刑で処刑した暴虐非道をおこなった殷の紂王は、天(中国における天地創造神)の支持を失い、天命は周の武王に下り、殷は放伐され、周が中国を支配することとなりました。前1046年ころのことです。いわゆる「易姓革命」がおきたのです。
 『北斎漫画』に九尾の古狐の化身として描かれた妲己。『御伽草子』や江戸時代の読み本『三国悪狐伝』によると、九尾の狐が三千年にわたり、中国、インド、日本をまたにかけ、妲己、褒姒などと転生を繰り返しながら傾国の美女として王に取り入り、国を滅亡させて来たとあります。この金毛九尾の狐こそ色情の因縁を増幅させて王の活力を奪い、王家を衰退させ、ひいては国を滅亡に導く元凶であるといえるかもしれません。最後は鳥羽上皇の寵姫玉藻前となりましたが、陰陽師の安倍泰成に正体を見破られ、殺生石となりました。
 周は、一族や功臣に土地の支配権を世襲であたえ、爵位を授けます。上位の爵位から「公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵」がこれに当たります。
 そして、その代償として、軍役と貢納を求めます。この土地を介在とした制度を封建制度と言います。
 行政組織の長を、国家元首をはじめ地方の単位まで世襲で継承させるという体制です。
日本では、鎌倉時代から江戸時代までこの封建体制の時代です。

 周と一族は、本家と分家という関係の秩序で、共通の先祖を祭り連帯を深めます。諸侯との関係も疑似的な本家と分家の関係を結んで秩序を宗教的に縛ることにより周王室の安泰をはかりました。
 この周は、幽王(前781年~前771年)の時代に滅びます。幽王は、笑わない后の褒姒の機嫌を取るために絹を集めて裂いたり、必要のない外敵侵入に対する救援を求める烽火(のろし)を挙げさせるなどして、犬戎の侵入を防ぐことができず首都の鎬京(のちの長安、現在の西安)を落とされ滅亡します。

 前770年には、都を東の洛邑(現在の洛陽)に移し再建され、諸侯が自立する春秋時代(前770年~前403年)を迎えます。
 王朝としては、前771年までの周を単に周とよぶか西周、前770年から前256年に滅びるまでの周を東周とよびます。
 春秋時代は、まだ周の権威は残っていて、諸侯は「尊王攘夷」のスローガンを掲げて中原(黄河中流域の中心地帯のこと)に周の王室を助けるという名目で覇を競います。
 中国では、古くから自分たちを文化的に優越する世界の中心の存在(中華)とみなし、 異なる文化をもつ周辺の人々を夷狄(東夷・西戎・南蛮・北狄)と呼んで蔑視してきた。自ら世界の中心であると称する「中国」という呼び名もこの中華思想に由来する。シナと言う言い方が正しい。英語でもCHINAである。この中華思想の影響を最も強く受けているのが韓国であり、「東夷」の日本を蔑視する考えから抜けない。天皇のことを「日王」と現在も呼んでいることに顕著に顕れている。逆に、世界の中心の華の国である中国に何をされても臣従するという基本的な心情を韓国はもっている。
 春秋時代に覇を競った諸侯を「春秋の五覇」といいます。斉の桓公(位前685年~前643年)、晋の文公(位前636年~前628年)、楚の荘王(位前613年~前591年)、越の勾践(位前496年~前465年)、呉の夫差(位前495年~前473年)を指します。楚などは南蛮の国なので、「公」ではなく、「王」を称しています。「呉越同舟」とか「臥薪嘗胆」はこの時代の故事にちなんでいます。覇者は、盟主として牛の耳を切り、一同で血をすすり団結と同盟の決意を固めました。「牛耳る」の言葉の由来です。

「尊王」の王は周の王のことです。「攘夷」というのは文明世界の中心である中原(中華帝国とか中国とか後に自称する地域です)を脅かす周りの異民族を撃退するという意味です。「夷」を「攘う」という言葉で代表していますが、実は東西南北に「エビス(夷)」にいます。
 東の野蛮人を「東夷」、西の野蛮人を「西戎」、北の野蛮人を「北狄」、南の野蛮人を「南蛮」と言って軽蔑しました。

 産経新聞 平成29年8月8日
 古代の日本のことを中国の歴代の歴史書の記事には「東夷」と出てきます。日本は、「東夷」の国なのです。この中華思想を思想化した儒教の秩序を全面的に今も受け入れている小中華を自負する韓国にとっては日本は今も東夷の野蛮人の国ということです。これが、韓国の反日の姿勢の根幹をなしています。「東夷」とさげすんでいるのです。
 また、日本の戦国時代にポルトガル・スペイン人のことを「南蛮人」とよんだのは、この中華思想の影響を受けたことによります。
 さらに、江戸時代の末、日本がアメリカやロシアの侵略の危機に遭った時のスローガンが『尊皇攘夷』というのは面白い附合です。周王室を中心に異民族を追い払うということで『尊王』ですが、日本の中心は皇室であったので『尊皇』となりました。
 江戸幕府の徳川家はこの中国の春秋時代に当てはめると『覇者』に当たります。日本は有史以来『天皇』の治める国なのです。

 休話閑題。

「尊皇攘夷」が日本を救ったお話です。『侵略の世界史』清水馨八郎著(平成10年 祥伝社 )の193ページに江戸時代の国学者大国隆正の著作の引用があります。
「西洋諸国の見る所では、アジアに未だ、支那、日本の二カ国が西洋に従はない。しかし西洋が連合して当れば、シナは十年で料理できるが、日本は三十年かかるであろう。
日本は小国であるが、三つの障害がある。
一つは、人口が多く、武くして支那人のたぐひにあらず。(武士道)
一つは、海岸が多く攻めにくい。(蓬莱島)
一つは、萬古一姓の天子ありて、人心これを尊ぶ心深し。(天皇)
三十年で従へることが出来るであろうが、しかし、そのあと、日本国中の人間をことごとく斬りつくし、西洋から移民を送り、草木まで抜き捨てて、植えかえなければ、我々西洋のものにはならない。一人でも日本人を残しておけば、恢復の志を起こし、また燃え立つべし、そんな国が日本だ」((オランダ通辞の言葉 [1818年 大国隆正])
周は前1046年~前771年の東周(首都 鎬京)と前770年~前256年の西周(首都 洛邑)に分かれる。西周の前半の前770年から前403年までは周の王室の権威が残っていた春秋時代。周王室の権威が失墜し、下剋上の時代を迎えた前403年から秦が中国を統一する前221年までの時代を戦国時代といいます。地図は「春秋の五覇」と「戦国の七雄」の国を示しています。
 明治天皇を中心に明治維新を成し遂げたことは正しい選択だったのです。国がまとまるには中心となる柱が必要です。
(   )内は私の補足ですが、天皇なかりせば日本がほろんでいたのではないかと思いました。天皇の重要性にはじめて気づいた瞬間でした。なぜか、天皇の重要性について、日本の歴史書や歴史の教科書には全く触れません。むしろ日本を占領したGHQの指令を守り続けて、天皇について触れるときは壬申の乱や南北朝の騒乱などの天皇家をめぐるスキャンダルを取りあげるのが日本史記述の主要目的になっています。「明治天皇」が出てくるのは、山川出版の日本史Bの教科書を例にとっても(「詳説日本史B」(2012年検定済)、注釈に即位の年の記述と、本文に崩御の年の記述があるだけです。不思議というより悪意があるとしか思えません。

 前403年身分秩序つまり上下関係を重んじる封建制度の崩壊の危機を迎えます。春秋の覇者ともなった大国の晋が、「下剋上」によって家臣に国を奪われ、韓・趙・魏の3つに分裂するという事件が起きます。「弱肉強食」の時代の到来です。
 晋が分裂した前403年から前221年の秦による中国統一までの時代を戦国時代といいます。前256年まで周は滅ぼされることはありませんでしたが、周の権威は地に落ちて、「戦国の七雄」といわれる燕・斉・楚・秦・韓・趙・魏が中国統一をめざして争う時代を迎えます。
 この七国が富国強兵をめざして農業の振興と商工業の発展に力を尽くす時代です。また、人材登用に各国はしのぎを削ります。人材育成や殖産興業のために諸子百家といわれる教育者兼思想家が百花繚乱のごとく現れる時代です。

参考図書

○「侵略の世界史」清水馨八郎著(平成10年 祥伝社)
○「日本人はいつ日本が好きになったのか」竹田恒泰著(2013年 PHP新書888)
  
平成29年1月19日作成   第117話