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 エジプト、メソポタミア、インダス、黄河文明の4大文明の共通点は、大河の流域に発達した小麦栽培を基礎とする都市文明でした。特にメソポタミア、エジプトでは乾燥化によって灌漑農業の必要性から灌漑水路を確保するために王権が発達したとされています。 中国においては黄河流域に発達した都市文明が中国文明の発祥とされていました。
 司馬遷の史記による世襲王朝の系譜では、「夏」「殷」「周」と続きます。
 実在の世襲王朝としては、巨大な墓が発見された「殷王朝(紀元前17世紀〜前1046)」が都市文明の発祥とされていました。
 
代表的な黄河文明と長江文明の都市遺跡。 エジプト、メソポタミア、インダス、黄河文明は乾燥地に適する小麦畑作地帯であるのに対して、長江文明は稲作地帯に発達しました。黄河文明との闘争に敗れ歴史から消されてしまいました。他に、トウモロコシ・ジャガイモを食料基盤とする古代アメリカ文明があります。4大文明という言葉はそもそも、日本だけの分類であということですが、死語にしてもいいのではないかと思います。  
 1928年より発掘された殷墟は、安陽にあり、前1300年頃より滅亡までの首都であるとされています。従来はこの殷墟のある黄河中流域が中国文明の発祥の地とされていました。
 現在ではその南西にある二里崗遺跡が初期の殷の遺跡であるとされています。前1600年頃〜前1400年頃の都城遺跡です。
 さらに、その西にある二里頭遺跡が「殷」の前にあった「夏」王朝の遺跡であるとされています。
 二里頭遺跡では1960年に東西108m、南北約100mの方形の土台を有する宮殿跡が発見され、青銅器などの工房跡も発見されています。この層の下からも宮殿跡が発掘され、8号までの宮殿跡が確認されています。さらに古い時代の宮殿跡が2003年から2004年にかけて発掘されました。祭祀に使われる青銅器も発見されています。この宮殿跡は、今まで発掘された中で最大のもので東西約300m、南北360m〜370mの長方形の宮殿跡です。周囲には幅2mの「版築」が巡らされていました。さらに巨大遺跡の外側に「井」の字の道幅10mから20mもある4本の大きな道の存在が確認されています。このことから都市計画のもとに造られた都市であることが分かります。この都市構造は、歴代の王朝に代々受け継がれています。南北を基軸とする都市建設の原型となりました。
 さらに、2004年には、この二里頭遺跡から東南に約80km離れた新砦遺跡からさらに古い城址遺跡が発掘され、前2000年から前1900年頃の遺跡です。『史記』などの史書によると「夏」は前2070年頃始まったことになっていますので、初代皇帝の「啓」の宮殿跡の遺跡である推定されています。
 
 中国文明は黄河文明が発祥であるとされました。もう一つの大河である長江流域は、未開の地とされていましたが、今まで未発見であった黄河文明に匹敵する都市文明があったことが明らかにされつつあります。長江の下流、中流、上流にまで及ぶ長江文明です。
 古代メキシコ文明や古代アンデス文明は、大河の流域の小麦の栽培地域に発達した文明は、トウモロコシやジャガイモの栽培を基盤とする文明でしたが、長江文明は稲作地帯に発見された唯一の古代都市文明です。
 
 長江文明発見の端緒は、1973年に発掘された前5000年から前4500年にかけての河姆渡遺跡です。大量の稲作遺構が発見されました。高度な文明の基盤となる穀物生産は、黄河文明の小麦生産の畑作だけではなく、同時期に長江流域で稲作も始まっていたことが初めて明らかになりました。
 現在では長江中下流地域で前10000年頃から稲作がおこなわれていたことが明らかになっています。稲作のルーツ長江中下流域にあったのです。
 前3500年頃から前2200年頃の良渚遺跡は、1936年に発掘されましたが、近年の発掘により長江の都市文明の代表遺跡であることが分かりました。
 良渚遺跡の中心となる莫角山遺跡では、東西670m、南北450mの長方形からなる超巨大基壇が発掘されています。また、周りには環濠や太い杭からなる柵また護壁がめぐらされていました。この基壇の上に東西166m、南北96mなど「品」の形に並ぶ3つの基壇があり、日干レンガづくりの壁をもつ宮殿、または神殿がそびえたっていました。また屋根や柱などは朱や黒色で鮮やかに飾られている都市文明でした。
 「玉」は中国文明の象徴ですが、この遺跡からさまざまな「玉」が大量に見つかっています。特に黄河文明では見られない「玉j」は、祭政一致の思想を体現したものでこの時代の貴族の墓には必ず見られるものです。上は円で天を表しています。胴体部分は四角で地を表しています。そして胴体部分の正面には王の顔が描かれています。
 絶頂にあった良渚文明とでもいえる良渚遺跡は前2200年頃突然滅亡したとされています。洪水の痕跡が多くあることから大洪水で滅んだのではないかと言われています。
 
 長江中流域の代表的な都市遺跡に前3000年からの石家河遺跡があります。東西1100m、南北1400mのほぼ正方形の城壁に囲まれています。内部には、壁の厚さ1mに及ぶ宮殿を思わせる長屋式の建物も複数みつかっています。独自の神像、人面像、セミ、鳥などの玉彫刻も発掘されました。この石家河遺跡周辺にも、これより規模の小さい都市遺跡が多く発見されています。長江中流域に王国があったことが推定されます。石家河遺跡は前2000年ころ完全に放棄されます。
 
 長江上流域の代表的な都市遺跡は四川省の省都成都近郊の前2800年頃から前800年頃の三星堆遺跡です。遺跡そのものは、1929年に大量の玉器が発見されていましたが、1980年から本格的に発掘されて東西1600m、南北2000mの版築城壁に囲まれた巨大都市遺跡であったことが分りました。近隣には竜馬古城遺跡などの同時期の城壁に囲まれた遺跡も発掘されています。
 三星推遺跡では、1986年は数千点にも及ぶ金器(トータル数百グラム)、青銅鋳造物(約500点、トータル1トンを超える)、500点以上の玉器が二か所の穴に埋められていました。突然破棄されたと思われます。
 青銅製の造形物は巨大なものが多くあります。特異な太陽信仰の象徴とされる神樹は、4mの高さがあります。また、巨大な耳を持ち、目の飛び出した「縦目仮面」は、高さ64.5cm幅138cmの巨大な人面です。古代蜀の始祖とされる蚕叢の面であるとされています。
 
 神武天皇の神倭朝の前に大国主命の出雲朝があったことが古事記の記述から推定されます。大国主の国譲りの神話です。ただし、出雲朝の存在を認める人はほとんどいませんでしたが、1984年から1985年に荒神谷遺跡で、丁寧に埋められた銅剣358本・銅鐸6個・銅矛16本発掘されました。また、加茂岩倉遺跡で1996年から1997年にかけて39個の銅鐸が発見されました。荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の埋葬遺構は、三星堆遺跡の破棄穴を彷彿させます。出雲の遺跡は、国譲りの結果破棄されたものと想像されます。
 これをもって出雲朝があったと梅原猛などが主張するようにようやくなりました。
 
 さて、長江文明の長江下流の良渚遺跡、中流の石家河遺跡、上流の三星堆遺跡は、黄河文明の殷墟や「夏」王朝の二里頭遺跡に匹敵するものです。さらには、長江文明は、インダス文明の二大計画都市、モヘンジョ=ダロ、ハラッパーの遺跡を凌駕する質と量の遺物が発掘されています。遺跡の数の多さや広がりもあります。インダス文明は、巨大な上記の二都市以外に、大きな都市遺跡はありません。発掘物も限られています。
 歴史は勝者によって書かれます。中国の史書には、黄河文明を中心に書かれてあり、黄河文明に匹敵する長江文明の記述はありません。その意味において長江文明の発見は画期的な発見です。
 
 また、繁栄を誇った良渚遺跡は洪水で滅んだとされますが、ノアの洪水伝説でみられるように世界的規模での洪水や大地震などにより多くの文明が滅亡したのではないかと思います。高度な機械文明が古代以前にもあった証拠にもなるオーパーツの存在は、今まで積み上げた学者の学問体系に一致しませんので、無視されていますが、地球の大変動(いわゆる大天変地異)で滅んでしまった伝説でのみ語られるムー文明やアトランティス文明も実際にあったと確信しています。
 最後に、大天変地異について、貝塚茂樹の「古代殷帝国」の129pから130pに、聖書にあるイスラエルの大地震の記述と中国の史記などのよる周時代(前1046年〜前256年)の大地震の記述が一致する年があるとあります。世界的な大天変地異の存在を示す説を紹介しています。具体的には前747年と前686年などです。

参考図書

○「長江文明の発見−中国古代の謎に迫る−」徐朝龍著(角川選書 平成10年)冒頭の写真より
良渚文化の「玉j」は、祭政一致の象徴 。上の○は天の象徴、横の□は地の象徴。正面に王の顔がある 三星堆文明の「縦目仮面」は開祖「蚕叢」か
  高さ64.5cm幅138cm
三星堆文明の黄金のマスクをつけた青銅頭像 三星堆文明の高さ4メートル近くの「神樹」は太陽信仰の産物

○「古代殷帝国」貝塚茂樹著(みずず書房 1984年新版)
 「太陽は何故止まったか」というおもしろい物語を、筆者は数年前リーダース・ダイジェストで読んだことがあった。これから、殷の気候が今日より温かだったという、少々あぶない話を一度聞いていただこうという時、筆者はふとこの読物のことを思いだした。さいわい雑誌はほこりの中からすぐ出てきた。一九五〇年の五月号で、ヴェリコフスキー博士の著書「衝突する宇宙」のダイジェストだが、この博士がどこの誰だか書いていない。話の要点はこうだ。旧約聖書にでてくる若干の奇跡は実はほんとうにあったことなのだ。ヨシュア(前一五〇〇年ごろ)が敵をやぶる間、月と太陽が運行をとどめていたのは、ちょうどそのとき大彗星が地球のそばを通ったために起きた異変なのだと。博士はこのことをまことしやかに宇宙物理学の知識ならびに世界の古い諸伝説から説明する。
  同じような大異変がヨシュアより五十年ほどまえモーゼがエジプトを出るときにもあった。この一連の大彗星異変から七世紀ほどたったころ彗星から金星が生まれた。
 まだ定った軌道をもたない金星は火星とふれあったりし、火星はゆすぶられて、地球と衝突しかけた。そこで前七四七年と前六八七年に、まえのよりは小さいがやはり地球上に大異変が起った。聖書では、前七四七年、ユダヤの王ウジヤが祭壇にむかっているとき大地震が起った。
 ここで物ずきにも筆者は中国がわでもまだ絶対年代が確実でない時代だが、ほぼそのころと思われる西周の幽王二年に、史記周本紀は「三川みな震う‥‥‥このとし三川竭れ、岐山崩れたり」と、今本竹書紀年は「渭洛は竭れ、岐山崩れたり」と記している。水渭水洛水はいずれも陜西省の大河で、岐山も同省の有名な山である。
  前六八七年になると聖書がわも年代がはっきりして、三月二十三日と異変の起った日附まであげてある。聖書は「その夜エホバの使者いでてアツスリヤの陣営の中にて十八万五千人をうち殺せり」と記しているが、天変のことをいってないので、通説では伝染病のためだろうということになっているらしい。ヴェリコフスキー博士はこれも火星接近のしわざだとするのである。前六八七年は春秋時代荘公七年にあたる。「春秋」の経文に「夏四月辛卯、夜恒星みえず。夜中星隕つること雨の如し」とある。四月辛卯は、新城新蔵博士が復原された春秋時代の暦によって計算すると四月四日になる。三月二十三日とではすこしずれがあるが、これは東西歴訪のちがいによる日附の差と見られぬこともない。「夜恒星みえず」というのは、よくわからないが、「空が曇っていないのに星が見えないという意味なら、火星がなにかがおおいかぶさったためと考えられないでもない。とにかく西アジアと極東で同時に大異変があったとすれば、それは普通の地震なんかではなく、博士のいうように超地球的な原因によるものと考えていいかもしれない。博士はまた、シベリアに氷漬けになって残っていたマンモス象の腹のなかに、まだこなれていない草の葉がいっぱい入っていたことから、気候の激変があるたった一日に(ある長い時機にではなく)起ったこともありうるといっている。とにかく、昔は今日の常識では考えられぬ大異変がチョイチョイ起ったのだというのである。ところで筆者はこれらの話をそのまま信じようというわけでもないのだが、さりとてまたこういうことがかりに実際あったとしても、べつにおかしくはなかろうと思っている。どちらでもいいのなら、大異変はあったと仮定しておく方が話は面白くなろうというものだ。御批判の方は読者におまかせする。
 ヴェリコフスキー博士は、前一五〇〇年ごろの第一次大異変のときは、地球の時点の方向は一時逆になってまたもとへ戻ったなどと、相当はげしいことをいっているのだが、筆者はここではそこまで深入りする必要はない。筆者が博士から借用しようと思うのは、第一には前十五世紀あたりに一度と、前八正規の半ばごろおよび前六八七年に一度と、都合二度の大異変が太陽系に起ったこと、第二には気候の変化というものはなにも長年かかって少しずつ変ってゆくばかりとは限らない、むしろこういう大異変のために起る変化の方が大きいのではないか、という二点だけである。」(p129〜p130)

平成28年07月23日作成 第115話