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高校生のためのおもしろ歴史教室>世界史の部屋

28.マウルヤ朝とアショカ王

 前326年アレキサンダー大王がギリシア軍を引き連れてインダス川流域まで達した。遠征の疲れによる兵士の従軍拒否により、それ以上の東征は行われなかったが、この頃、マガダ国ナンダ朝がガンジス川の全流域を支配下に置いていた。
前320年頃マガダ国辺境で兵を起こしたチャンドラグプタは、都のパータリプトラを攻め落として、マウルヤ朝を創始した。
マウルヤ朝(前317年〜前180年頃)は、初代チャンドラグプタ(在位前317年〜前298年頃)、二代ビンドゥサーラ(在位:紀元前293年〜前268年頃)、三代アショカ王(在位前268〜前232頃)と征服をすすめた。
前500年頃にはガンジス川流域に16王国あったと仏典にある。ナンダ朝マガダ国によって前4世紀末に統一され、マウルヤ朝に継承された。
 アショカ王の全盛時代には、現在の国名で言うと、南部を除く全インド、バングラデシュ、パキスタン、アフガニスタンの東部を統一し、古代インド帝国の最大の領土を支配した。これからのちも18世初のムガール帝国や大英帝国による征服を除いてこれほど広大なインド亜大陸とアフガニスタン東部を支配した国はない。
 初代チャンドラグプタは、ジャイナ教徒として知られ、晩年は修行による断食で餓死したと伝えられている。
 二代ビンドゥサーラは、アージーヴィカ教徒として知られている。アージーヴィーカ教は、現在は、絶滅してしまっているが釈尊の頃より仏教のライバル教団であり、バラモン教・ジャイナ教・仏教とならんで古代インドの四代宗教の一つであった。輪廻からの解脱は宿命によるとした宿命論の立場に立っていた。
 三代アショカ王は、仏教徒として知られている。初め暴虐の限りをつくしたアショカ王は、カリンガ王国征服に対しておびただしい血を流したことにより人々の恨みを感じ、罪業を滅するために仏教に帰依し、正しい法(ダルマ)を奉じて慈悲の政治を行うことを決意したのである。
インド共和国国旗(中央に転法輪)
  仏教に改宗したアショカ王は、釈尊ゆかりの聖地を訪れ碑文刻み、石柱をたてた。現在33以上の磨崖碑文の他、11程の石柱遺跡が確認できる。この石柱によって、ネパールのルンビニが伝説どおりの釈尊の誕生の地であることが証明された。釈尊が初めて説法をしたサルナ―トの地の石柱は特に有名である。石柱の頭部には、四方を向いたライオン像が飾られている。このライオン像は、インドの国章となっている。また、ライオン像の下にある車輪の輪の図案は、仏教を象徴する図案で、「転法輪」(正しい法を説いて新しい時代をもたらした釈尊の説法を記念するもの)として、インドの国旗の中央に写されている。
サルナートの石柱頭部(サルナート博物館)
 アショカ王は、仏教徒によって仏教を保護した聖転輪王とされているが、実際は、ジャイナ教、ヒンズー教(バラモン教が土着化したもの)なども保護した。
 釈尊は、自分の説法を文字に表すことはしなかったし、弟子達も永い間口伝で教えを伝えてきた。どれが正しい教えかどうかについては、長老達があつまって編集会議を行い決定した。これを仏典結集(けつじゅう)という。第1回は釈尊入滅後すぐ、第2回は釈尊入滅100年後のことであった。第1回、第2回とも暗唱すべき教えを確認しただけで、経文として文章に書かれることはなかった。
 アショカ王は、第2回仏典結集以来、上座部と大衆部にわかれた仏教教団の分裂を統一しようとして、第3回仏典結集を支援したが対立は解消されなかった。この第3回仏典結集に於いて初めてパーリ語で仏典が経文として文字化された。アショカ王は、上座部を支持し、上座部の立場に立って編纂されたパーリ語の経典は、釈尊の説いた仏教の教えを厳密に保持するものとされ、南伝仏教[上座部仏教]が伝わったスリランカ、ミャンマー、タイ、ベトナムなどの東南アジアに伝承継承されている。日本に伝わったのは、北伝仏教[大乗仏教]であるが、上座部経典の一部が現在、「スッタニパータ」「ダンマパダ」として紹介されている。        
 仏教を弘めるために、アショカ王は、ヘレニズム諸国、スリランカ、ミャンマーなどによって使節を派遣した。
 スリランカには、アショーカ王の息子マヒンダが派遣された。紀元前247年6月の満月の日であったとされていて、今日でもこれを記念して盛大に祝われれている。 

参考図書

○転輪聖王の理想(「古代インドの文明と社会」山崎元一著 中央公論社[「世界の歴史3」所収 1997年]) 
 「仏教とは、地上世界をダルマ(正法)によって統治する王を「転輪聖王(チャクラヴァルティン)、つまり「正法の輪を転ずる王」と呼んだ。この転輪聖王(転輪王、輪王)にアショーカの姿を投影して見る歴史家・宗教家は多い。転輪王の概念はバラモン教やジャイナ教にも見出されるが、これをとくに発達させたのは仏教徒である。仏典の語る輪王を紹介してみよう。
 ―世界は繁栄から衰退へ、衰退から繁栄へという循環をくり返すが、輪王が世に出るのは、人間の寿命が八万歳という最高の繁栄時代である。
 …………
 輪王の四角のある者が即位すると、空中に壮麗な輪宝が現れる。王が軍隊と共にその輪の転ずる方向に遠征すると、諸国の王は戦わずに降伏し、結局、地上世界が輪王の統治下に入る。その後輪王は、数万年にわたり正法にのっととてこの大地を統治する。
 …………
 すでにヴェーダ文献に、地上世界を統一する理想的帝王への憧れが見出される。その後、マウリア帝国の成立とアショーカ王のダルマの政治により、そうした帝王の出現はいよいよ現実味を増した。この時代以降、輪王への憧れは主として仏教徒によって想像力豊かに伝えられ、輪王をテーマとした経典が編まれるにいたったのである。」(p163〜p164)

○「ブッダの真理のことば感興のことば」中村元訳(岩波文庫 1978年)

 「『ダンマパダ』(Dhammapada)は、パーリ語で書かれて仏典のうちでは恐らく最も有名なものであろう。現在パーリ文の大蔵経のうちにおさめられ、南方アジア諸国に伝わっている。「ダンマ」とは「法」と訳され、人間の真理という意味であり、「パダ」は「ことば」という意味である。現代語ではしばしば「真理のことば」と訳される。短い詩集で423の詩句より成る。全体は二十六章に分かれている。」(373頁「あとがき」)
1  ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。―車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
2  ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。若し清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。―影がそのからだから離れないように。
5  実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
17  悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世で悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。「わたくしは悪いことをしました」といって悔いに悩み、苦難のところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。
18  善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。「わたくしは善いことをしました」といって歓喜し、幸あるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。
50  他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。
69  愚かな者は、悪いことを行なっても、その報いのあらわれないあいだは、それを蜜のように思いなす。その罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける。
78  悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。
105  自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、―このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天※もなすことができない。
   ※梵天 brahman 世界を創造した主神として当時の人々から尊崇されていた。
119  まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遭う。
120  まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遭うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福に遭う。
125  汚れの無い人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば、そのわざわいは、かえってその浅はかな人に至る。風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。
160  自己こそ自分の主である。人がどうして(自分の)主であろうか?自分をよくととのえたならば、得難き主を得る。
163  善からぬころ、己れのためにならぬことは、なし易い。ためになること、善いことは、実に極めてなしが難い。
165  みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いものも浄くないものも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。
190・191 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。―すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅におもむく八つの尊い道(八聖道※)とを(見る)。
  ※八聖道―八正道ともいう。正しい見解(正見)、正しい思い(正思)、正しいことば(正語)、正しい行為(正業)、正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい気づかい(正念)、正しい心の落ちつき(正定)をいう。
197  怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われわは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮していこう。
198  悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮そう。
199  貪っている人々のあいだにあって、患い無く、大いに楽しく生きよう。貪っている人々のあいだにあって、貪らないで暮そう。
200  われれは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食む者となろう。
224  真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよう。これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。
273  もろものの道のうちでは〈八つの部分よりなる正しい道〉が最もすぐれている。もろもろの真理のうちでは〈四つの句〉(=四諦)が最もすぐれている。もろもろの徳のうちでは〈情欲を離れること〉が最もすぐれている。人々のうちでは〈眼ある人〉(=ブッダ)が最もすぐれている。
274  これこそ道である。(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。
275  汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。(棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。
276  汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(=修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱るであろう。
277  「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそが人が清らかになる道である。
278  「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
279  「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
289  心ある人はこの道理を知って、戒律をまもり、すみやかにニルヴァーナ※に至る道を清くせよ。
  ※ニルヴァーナ  涅槃。心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地。
332  世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。世に修行者を敬うことは楽しい。世にバラモンを敬うことは楽しい。
423  前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成しべきことをすべて完成した人、―かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。 

平成25年01月15日作成  第085話