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 インダス文明が前1800年頃衰退したあと、現在のアフガニスタンとパキスタンの国境になっているカイバル峠をアーリア民族がパンジャブ地方に侵入して定着した。前1500年頃のこととされている。現在のパキスタン、インド、バングラディシュ、ネパールを合わせて、歴史的にはインドという地域名で呼ぶこととしている。
  カイバル峠は、ギリシアのアレキサンダー大王がインドに侵入した道でもあった。
  アーリア民族の原住地については、中央アジアであるという説の他、様々が説があるが、広義にはインド=ヨーロッパ語族である。ヨーロッパのアイルランドもイランも同じくアーリア民族の土地を意味する言葉であり、国名の由来となっている。
  彼等は、2輪の車輪をもつ戦車をあやつり、西アジアからインドに侵入して既存の文明を侵略した。鉄器を持つのも特徴の一つであるが、パンジャブ地方に侵入したときは、鉄器をまだ使用していなかった。さらに、パンジャブ地方からガンジス川流域に 前1000年頃侵入した時には、鉄製の武器を使用していた。
中央アジアに源流をもつアーリア民族は、紀元前2000年紀に気候変動により移動を余儀なくされ、西はカイバル峠を越えてインドに侵入し、東は古代オリエント、ヨーロッパに侵入した。インドに侵入した一派をアーリア民族と呼ぶが、今日のイラン、アイルランドも語源はアーリア民族の土地を意味する。今日の白人つまりインド=ヨーロッパ語族である。
  『リグ=ヴェーダ』は、世界で最も古い文学書の一つであり、パンジャブ地方に侵入したアーリア民族の世界観を今日に伝えている。さらにガンジス川流域に定着した前1000年から前500年の間に『サーマ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ』が成立した。

  前1500年頃のアーリア民族のインド侵入から前500年頃までの時代は、バラモンを絶対優位におくバラモン教の聖典であるヴェーダが生まれたことからヴェーダ時代と呼ばれている。

 パンジャブ地方に侵入したア―リア民族は、暗い赤褐色のダスユ(悪魔の意味)と呼んだ先住民と激しく交戦し支配権を確立した。今日のドラヴィダ民族であるとされている。そして、自らは「アーリア」と称した。「ダスユ」は「ダーサ」とも言い黒い色の意である。反対に、「アーリア」とは、白い色であり、「生まれも人種も高貴な」との意である。「ヴェーダ」 は、「知識」の意味があり、『リグ=ヴェーダ』と称する神々に対する賛歌を携えていた。

 高楠順次郎は仏典の研究から、メソポタミアのシュメール民族と、インド文明を築いたアーリア民族、あるいはポリネシア、メラネシア、マレーシアのマライ族、インドネシア太平洋海洋民族のルーツはただ一つ、中央アジアのコンロンの大平原のコタン文明を築いたシュメール族にあるとした。
 また、釈迦の出自も「世界最の知識民族であったシュメール族」王家の子孫であるとした。先祖に須彌(スメル)王が居たとして、仏典「仏本行集経」から系図も示している。
 リグ=ヴェーダに見られる主張は、この高楠順次郎の説と符合する主張である。インドの深い精神性の淵源は、この「シュメール民族」説にあるのではないかと思う。
 中央アジアのシュメール民族の淵源は、さらに一万二千年前に断絶したムー文明・アトランティス文明にさかのぼるのではないかと想像を膨らますことも可能である。
 インドの古典である「ラーマ―ヤナ」や「マハバラ―タ」などの物語には、核戦争やロケットの記述とみられるものも散在している。
ヴェーダ時代のヴァルナ制(カースト制)
バラモン  祭司階級 支配階級  
クシャトリア   武士階級 
バイシャ  商人・農民・牧畜民  
シュードラ  隷属民 被支配階級  
 支配者としてガンジス川流域に進出したアーリア民続と原住民のドラヴィダ民続の間には、日本ではカースト制(正しくはヴァルナ制)とよばれる身分制度ができた。バラモン、クシャトリア、バイシャ、シュードラという四つのヴァルナ(種姓)は世襲である。さらにシュードラより下層の被差別民も存在する。支配階級としてのバラモン、クシャトリア、バイシャ。のちには、バイシャは商人、シュードラに農民、牧畜民と分類されシュードラの下に、被差別民が区分されることとなった。被支配階級としての、シュードラと被差別民である。婚姻どころか、食事も共にしない風習が形作られた。このヴァルナ制は、数千にも及ぶ職業とも結びつけられて今日までつづく複雑なインド社会を形作っている。
 文化的には、ドラヴィダ民族の建設したインダス文明の特徴である、牛の崇拝、沐浴の重視などと、アーリア民族の文化が融合して現代のインド文明の源流をなしている。

 やがて統一が進み前500年頃ガンジス川流域に16の有力な王国ができるようになり、クシャトリア階級やバイシャ階級の台頭により、知識(「ヴェーダ」)を独占していたバラモンの権威も揺らぎ初め、仏教やジャイナ教などの出現を見るようになると、バラモン教内部においても祭祀中心主義からの脱却が図られるようになった。
 バラモン教の宗教改革とでもいえる『ヴェーダ』の奥義書とされる「ウパニシャッド」の出現である。ウパニシャット哲学によれば、良い業(=カルマ)を積み重ねることにより、輪廻(生まれ変わり死にかわること)の無い涅槃の境地に達することができるという。そして涅槃の境地とは、宇宙の全てであるブラフマン(梵天)と自分自身であるアートマン(真我)が一体であることをサトルことであるという。この境地を日本語で「梵我一如」と訳している。
 本当の自分(アートマン)が、宇宙の総体・絶対神(ブラフマン)と一体の境地になれば、輪廻という苦の世界から逃れられるという。そして、生まれ変わることもなくヴェーダの神々の世界に住することができると説くようになるのである。  
 

参考図書

○「ヴェーダ アヴェスター」辻直史郎訳(「世界古典文学全集 第3巻」筑摩書房 昭和42年)
 
「リグ・ヴェーダの讃歌」宇宙開闢の歌(10・129)
 「その時(太初において)、無もなかりき、有もなかりき。空界もなかりき、そを蔽う天もなかりき。何物か活動せし、いずこに、誰の庇護の本に。深くして測るべからざる水は存在せりや。
 その時、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼との標識(日月星辰)もなかりき、かの唯一物(創造の根本原理)は、自力により風なく呼吸せり。これよりほか何者も存在せざりき。
 太初において、暗黒は暗黒に蔽われたりき。一切宇宙は光明光明なき水波なりき。空虚に蔽われ発現しつつありしかの唯一物は、自熱の力によりて出生せり。
 最初の意欲はかの唯一物に現ぜり。こは意(意志力)の第一の種子なりき。…。」(102頁下段後ろ1行から103頁上段10行)

○「古代核戦争の謎」南山宏著(学研 2009年)

 「『ラーマーヤナ(ラーマ正行伝)』は、紀元前5世紀の伝説的詩人ヴァールミキの作とされるが、実際ははるか以前の昔から語り伝えられた伝説を編集したものらしい。太古の英雄ラーマ王の冒険譚を主題とし、全編2万4000行の詩句から構成されている。物語をごく簡単に要約すれば―。
 人類の始祖マヌが建てたアヨージャを首都とするコーサラ王国の王子ラーマは、王位継承権を異母弟バーラタに譲って、森で隠遁生活を送る。ところが、美しいその妻シータに目をつけた魔王ラーヴァナが、彼女を誘拐して、飛行車ヴィマ―ナで本拠地ランカ島へ連れ帰り、妃になれと迫るが、貞節なシータは夫への操を守る。
 ラーマは忠実な弟ラクシュマナと妻を捜す苦難の旅に出るが、途中で猿族の王ハヌマーンの助けを得て、ついに魔王の本拠を突きとめ、ヴィマ―ナと強力無比の兵器を駆使した殺戮戦のすえ、ラーヴァナを倒してシータを救いだす。ラーマは妻をヴィマ―ナに乗せて、意気揚々とアヨージャへ飛び帰り、めでたく玉座に就く。
 『マハーバーラタ(バラ―タ族大戦争史)』のほうは、紀元前6世紀ごろ、やはり伝説的な聖仙ヴィヤーサが3年がかりでまとめたとされ、全編18編10万行と付録『ハリ・バンジャ(ヴィシュヌ神の化身ハリの系譜)』1編1万6000行からなっている。
 ……
 この両叙事詩に登場する"ラーマ王子の戦争"や"バーラタ族の大戦争"は、いつごろ起こったのか?"首都アヨージャ"や"ランカ島"はどこにあったか?もちろん、物語の中では年代も場所も特定されていないので、サンスクリット学者は古文献の比較分析に基づいてさまざまな憶測を立て立てている。
 一例として、1988年にデリーで開かれた古代インド学者の会議で、クンヴァルラル・ジャイン・ヴァイアス博士は、ラーマ王子の年代を紀元前5000年前後とする研究結果を発表した。
 〈モティラル・バルシダス時事通信インド学会〉1989年1月号によれば、この研究では、たとえば人祖マヌは3万1000年前(紀元前2万9000年)、インドラ・ヴィシュヌ神(に相当する史的人物)などは1万3000年前、ラーマ王子の一族は、今から7000年前に実在したとしている。
【ムー王朝直系の子孫が治めた国】
  ところで、『ラーマーヤナ』の末尾第7編中に、私たちの観点から見て非常に興味深い。こんな謎めいた一句がある。

  ラーマは地上に1万1000年間君臨した。
   彼は1年間ぶっ通しの饗宴を張った。
   まさにこのナイミシャの森の中で。
   この大地のすべてそのとき、彼の王国の中にあった。
   ひと時代前の世界の話だ、遠い遠い昔の。
   今からずっと以前、はるか過去の。
   世界の中心から大海の四隅の岸辺までを
   そのときラーマは支配する王であった。

 ラーマ王が史的人物だったとしても、1万1000年も長生きしたと無理に解釈する必要はない。"ラーマ王国"こそ、たとえば、ムーやアトランティスのような、"太古ラーマ文明"とでも呼ぶべき、高度の超古代文明だったのかもしれない。
 この発想を支持してくれそうな近代の文献が、インド以外にも存在する。今世紀初頭の有名なムー大陸研究家ジェームス・チャーチワードが、その仮設を展開する中で主張したユニークな推論のひとつがそれだ。
 彼は、インドで出会ったひとりの気高い聖仙(サンスクリット語で「偉大な教師」の意)から、ムーの言葉「ナーガ語」で記された粘土板文書を見せられ、かつて太平洋に存在した大陸に"世界最初の偉大な文明ムー"が栄えていたという話を聞かされて感銘し、さらなる証拠を世界に求めて、精力的な考証研究に取り組んだ。のちにその研究結果を5巻にまとめて、2巻目の『ムーの子孫たち』の中で、チャーチワードはこう記しているのだ。
 ―今から7万年前、その"母なる地"から一団のムー人が西に向かい、まずビルマ(現ミャンマー)に移住した。彼らは母国の宗教と科学の伝道を目的とする"ナーカル(聖なる同胞)"と呼ばれる賢者たちで、"ナーガ族"の名で知られるようになった。
 彼らはさらに西進して、インド東部の現ナーガランド地方に腰を落ちつけると、インド半島全土に"母なる地"の文明を広め、やがて約3万5000年前、首都をアヨージャに定めて、インド最初の国家"ナーガ帝国"を建設した。その初代の王の名は「ラーマ」といった。
 ナーガ帝国は、ムー大陸が約1万2000年前に大災厄で海中に消えてからも、"母なる地"の文化遺産の正統な継承者として数千年栄華を誇ったが、やがて野蛮なアーリア人の侵入を受け、インダス文明の最後の輝くとして滅び去った。
 だが、アーリア人はナーガ族を虐殺し抹殺する代わりに、まず巧みにその高い文化と思想を吸収してから自分たちのものとしながら、徐々に駆逐していった。
 たとえば、バラモン教の司祭階級が書いたとされる、最古の宗教書『ヴェーダ聖典』や最古の天文書『スーリヤ・シッダンタ』も真の原点はムー文明にあり、彼らは先住民の文化遺産を盗んだにすぎなかった。
 そして、バラモンたちは手に入れた知識と技術をもっぱら権力維持のために悪用し、民衆には畏怖と迷信と神秘化を強いる独裁的支配を続けた。
 その結果、ムー衣良の真に高度な文明そのものは消え去って、わずかに"空中船"などの記憶とともに、土俗的なヒンドゥ−文化へと変質したものがあとに残された。
 一方、駆逐されたナーカルたちは、北インド、チベット、ウイグルなどに散って、自分たちの高度な思想と知識を書きとめた膨大な数の粘土板からなる"ナーカル図書館”を、各地の寺院の秘密保管庫に隠した―。」(18頁17行〜26頁8行)  

○「西アジア・インド史」京大東洋史刊行会著(創元社 昭和28年)
  
平成24年12月30日作成 平成25年04月13日最終更新  第083話