イラン民族の先祖のアーリアは、前10世紀頃、カスピ海と黒海の北方のスキタイ地方からイランに住み着いたと言われている。イラン地方は、中国、インドと西アジア(メソポタミア)・エジプトをつなぐ交通網(シルク=ロード)の要地にあたり、ヨーロッパ諸国による大航海時代(16世紀)を迎えるまで、ユーラシア世界の先進地域であり、ユーラシア中の文物が行き交い経済的、文化的に大繁栄を享受していた。
前8世紀にエクバタナを首都とするメディア王国(前715年頃〜前550年)やスサに行政府を置くアケメネス朝ペルシア(前550年〜前330)の繁栄によって、イラン民族の国家としての繁栄をみた。その後、アレキサンダーの帝国(前330〜前323年)やその後継のセレウコス朝シリア(前312年〜前64年)とギリシア系の支配をうけた。
前247年アルサケス1世(在位前247年〜前211年頃)は、セレウコス朝シリアより独立を果たし、アルサケス朝ペルシア(前247年〜226年)を建国し、イラン民族の国家を復活させた。アルサケス1世の出身地であるイラン高原の東北部にあるパルサワにちなんでパルティアと呼ばれる。また、アルサケスにちなんで、中国名を安息国という。ミトラダテス1世(前171年 - 前138年)の時代に大帝国となった。セレウコス朝シリアが前64年にローマに滅ぼされると、ローマとの抗争に明け暮れ、シルク=ロードの交易路は遮断され、疲弊することとなるが、カエサルと共に三頭政治を行っていたクラッススを前53年カルラエの戦いで敗死させたり、217年にはカラカラ帝との戦いに勝利して、ローマ帝国から東方世界を守る防波堤となった。
ローマ帝国との戦いで疲弊したパルティアは、農耕イラン民族であるアルダシール1世(在位226年〜241年)によって226年に滅ぼされた。
クテシフォンを首都とするササン朝ペルシア(226年〜651年)の成立である。アケメネス朝ペルシアの復興を目標とし、アルサケス朝の時代にも保護されていた民族宗教であるゾロアスター教を国教とした。
次のシャープール1世(在位241年〜272年)は、ローマ皇帝ヴァレリアヌス帝を260年のエデッサの戦いで破った。また、東ではクシャナ朝を破りアフガニスタンに進出した。 ホスロー1世(在位531年〜579年)の時代が全盛で、最大の領土となったが、打ち続く東ローマ帝国(ビザンツ帝国)との抗争に疲弊した。シルク=ロードは遮断され、アラビア半島のメッカ、メディナの交易都市の隆盛を招き、経済的基盤をもつメディナから興ったイスラム勢力に642年ニハーヴェントの戦いにササン朝ペルシアは敗北し、651年滅亡した。
このパルティアやササン朝ペルシアの文化は、シルクロードを通じて日本の飛鳥文化、奈良文化に多くの痕跡を残している。
騎馬しながらふり返って弓を射ることを、パルティアンショットというが、このパルティアの騎馬の図が、そっくりそのまま、法隆寺の獅子狩文錦の文様に写されている。東大寺の宝物庫である正倉院には、聖武天皇(在位724年〜749年)と光明皇后の所持した宝物が納められている。その中に、ササン朝ペルシアの古墳から発掘されたのと同一の瑠璃椀(ガラスの椀)がある。また、現在のイラン人(ペルシア人)の容貌を彷彿させる酔胡従面、イランの竜首瓶そっくりな漆胡瓶など枚挙にいとまのないほどのササン朝由来のものが収蔵されている。松本清張は、物が渡来するということは、人も渡来しているはずだとして、ササン朝の宗教であるゾロアスター教も伝来しているという説を展開した。 ササン朝を創始したアルサケス1世の家系は、ゾロアスター教の神であるアナヒーター女神を祭祀する家系であったとされている。このアナヒーター女神は、ゾロアスター教の主神である光の神であるアフラ=マズダ神、太陽神であるミトラ神と共に最重要とされた水を司る神で、豊穣と出産の神、戦いの女神である。ゾロアスター教は、火を神聖視すると共に、水も神聖視している。
例えば、奈良の東大寺の二月堂のお水取りの儀式(旧暦の2月2日)も、イラン伝統の井戸であるカナートを連想させ、アナヒーター女神の祭祀に関係あるのではないかと松本清張は主張した。
さらに、飛鳥時代(592年〜692年)の遺跡に、猿石、酒船石、益田の岩船、須弥山石などがある。これらは、ササン朝時代の宮殿やゾロアスター教の遺跡に類似のものが多くあり、は、飛鳥の宮廷にゾロアスター教の影響が色濃くあるのではないか。斉明天皇(在位655年〜661年・皇極天皇として在位642年〜645年)の
飛鳥京は、水の都であったことがしられている。その宮廷でアナヒーター女神に関係するさまざまな祭祀が行われていた痕跡と考えられるものがある。飛鳥時代を牛耳っていた貴族の代表である蘇我氏は、ササン朝ペルシアより西遷してきた可能性すらある。
今考えられている以上に古代のおいてはシルク=ロードの交流がさかんであった。1945年の第二次世界大戦敗戦以前には、原田敬吾、三島敦雄、石川三四郎、中田重治などによる「日本人シュメール起源説」が、論じられていた。スメラミコト{天皇}は、古代バビロニア語のスメルと同語で、シュメールとも発音された。古代の日本に天皇をいただいて渡来した(天降った)民族は、シュメールの王族とその民だったという説である。中田重治は、聖書の研究から、ヘテ人つまりヒッタイト人は、シュメール人ではないか。スサノオノミコト(スサの王の尊)は、ペルシアの都スサに居住して発展したシュメール人の王だっだのではないかと説いている。興味は尽きない。
参考図書
○「シルクロード渡来人が建国した日本」(久慈 力著 現代書館 2005年)
東大寺の「お水取り」はペルシャの水と火の祭りが起源か
東大寺の修二会は「お水取り」といわれ、人が犯した罪障を本尊である十一面観世音菩薩の前で懺悔し、それの消滅のために身を清める「悔過(けか)」の法要である。正式には「十一面悔過」という。これは神の前で罪を告白し、懺悔し、悔い改めるユダヤ教、キリスト教の宗教行為と似ている。「悔過」の儀式は、景教の懺悔の儀式とも酷似しているという。
修二会は聖武天皇の天平勝宝四年(七五二年)から行われたとされる。僧侶たちは別火坊(別火とは俗世界とは火を別にして暮らすという意味)で斎戒沐浴し、インドの正月にあたる二月から三月にかけて約一ヶ月間、この法会を行うのである。この法会の最後に東大寺にゆかりのある神名帳、過去帳が読み上げられる。また、閼伽井屋(あかいや)の井戸から「香水」が汲み上げられ、須弥壇の下の壺に貯えられ、二月堂の本尊に供える。この「香水」は供花、酒水、さらには「達陀(だったん)の行」にも使われ、疾病平癒を願う参詣者にも配られる。これが「お水取り」といわれるゆえんである。われわれはこれと同じような宗教行為を飛鳥京の章の亀形石像物においても見ている。
修二会は、水の祭りであるとともに、「お松明(たいまつ)」ともいわれる火の祭りでもある。別火坊での修行では火打ち石でつくられた火のみを使う。法会の各所で大きな竹の先に杉葉を付けた松明が掲げられ、上堂の舞台から大きな籠松明の火を振り落とし、「達陀の行」では、桧の松明を抱えた僧が須弥壇の周りを回り、松明を礼堂から突き出し、床に叩きつける。
「悔過」といい、「お水取り」といい、「お松明」といい、極めて、ユダヤ教的、景教的、ゾロアスター教的である。ユダヤ教では、呪術、魔術は禁止されていたが、人間は罪を重ねるものであり、罪を犯したものは悔い改めるか、神によって裁かれて救済されるか追放されると教えている。(104頁〜105頁)
○「ペルセポリスから飛鳥へ」松本清張著(日本放送出版協会 昭和54年)
平成22年03月27日作成 第062話