ローマ帝国の属領ユダヤで生まれたキリスト教は、使徒であるパウロやペテロによる61年よりのローマ布教もあり、物質的豊かさの中で精神的な退廃に苦しむ人びとの心を強く捉え、ユダヤ人のみならず、ローマ市民の心を捉えて離さず、侮りがたい勢力となっていった。
64年、ローマ市が大半消失するという大火があった。皇帝ネロは、キリスト教徒の放火が原因であるとして、キリスト教徒を虐殺した。十字架にかけ、ライオンに食わせ、火あぶりにした。
5賢帝の時代(96年〜180年)頃には、ローマの神々に対する祭祀に参加せず、皇帝礼拝をしないのを理由に、キリスト教徒であること自体が罪となるようになった。しかし、徹底的にキリスト教徒を捜し出して弾圧するまでには至らず、信徒を増やしていった。
デキウス帝(249年 - 251年)やヴァレリアヌス帝(253年-260年)は、ローマの衰退の原因は、ローマの神々の祭祀をないがしろした、キリスト教の跋扈にあるとして、徹底弾圧をおこなった。しかし、キリスト教徒は、迫害の度に結束を固め、さらに信徒を増やしていった。
専制君主制を創始したディオクレティアヌス帝は、303年から305年にかけて、キリスト教会の破壊、聖書の焼却、信者の処刑など徹底弾圧をおこなったが、根絶やしにすることはできなかった。
コンスタンティヌス帝は、キリスト教徒の支持を取り付けて地位を維持しようとして、313年ミラノ勅令を発して、キリスト教を初めて公認した。
キリスト教の力により内戦に勝利したと信じたコンスタンティヌス帝の保護政策を発端として、キリスト教により祝福されたローマ帝国は、キリスト教の「神の国」を地上に顕現する唯一の国であるという思想を結果として確立することとなる。
ローマ帝国を守る守護神とキリスト教がなったからには、キリスト教の分裂があってはならない。キリスト教の守護者となったローマ皇帝により、教義統一のための公会議がしばしば、開かれる中で現在の正統派教義(ローマ=カトリック)が、確立されていった。ローマ帝国崩壊後も、ローマ教皇の権威は生き残り、公会議により、正統が決定され、異端が排除されることとなる。
仏教の分裂とちがい、キリスト教で異端と認定されることは、人としての基本的な人権を剥奪され、追放されるか、虐殺されるということである。
1517年ルター派が異端とされた後も、ヨーロッパ世界に根付くまでは、異端が西ヨーロッパ世界で生き残ることはできなかった。
325年ニケーア公会議で、アタナシウス派を正統とし、イエス=キリストは、創造神そのものではなく、もっとも神に近い人であるという、アリウス派を異端とした。
また、当時大流行していた太陽神信仰であるミトラ教の太陽の復活する祭りを取り入れて、マラキ書にある「義の太陽」であるイエス=キリストの誕生日にふさわしいとして、冬至にあたる12月25日をイエスの誕生日と決定した。
381年のコンスタンティノポリス公会議でアリウス派に反対するアタナシウス派(ニケーア信条)の正統性が確認された。
テオドシウス帝は、380年アタナシウス派のキリスト教を国教とし、当時なお帝国内に力を保持していたアリウス派を弾圧し、アリウス派の司教を解任した。
392年には、伝統的に信仰されていたローマの神々の祭祀を禁止した。ギリシアで行われていた古代のオリンピアの競技も異教の祭りとして393年を最後に中止された。
431年のエフェソス公会議において、ネストリウス派は異端とされた。ネストリウス派は、東方に活路を見いだし、ササン朝ペルシア(226年〜651年)を経て、唐(618年〜907年)に伝わり、景教と呼ばれた。長安の大秦寺の「大唐景教流行中国碑」にその経緯が詳しく彫り込まれている。この景教の教えが日本にももたらされたのではないかと言われている。ネストリウス派は、「聖母マリアはキリストの母と言えるが、神の母とはいえない」
と主張していた。
公会議 西暦 正統とされた教義
ニケーア公会議 |
325年 |
イエスは神の被造物であるとするアリウス派を異端として、三位一体説を主張したアタナシウス派が正統とされる。 太陽の復活する12月25日をイエスの誕生日とする。
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エフェソス公会議 |
431年 |
聖母マリアの神性を否定するネストリウス派を異端とする。ネストリウス派は、唐代の中国に伝えられ景教という。 |
カルケドン公会議 |
451年 |
三位一体説を最終的に正統とする。単性説を異端とする。単性説は、現在もアルメニア教会派、コプト教会派に受け継がれている。 |
コンスタンティポリス公会議 |
553年 |
輪廻転生説を異端とする。輪廻転生説を信じるカタリ派は、10世紀から13世紀にかけて南フランスを中心に拡がり、最後は全員異端として抹殺された。 |
451年のカルケドン公会議で、アタナシウス派の説く、三位一体説の正統性が確認され、単性説が否定された。イエス・キリストには神性のみが存在するという思想。キリストは神性と人性という二つの本性を持つという立場(両性説)が正統とされた。
西ローマ帝国滅亡後の553年のコンスタンティノポリス公会議で、輪廻転生説が否定された。「この世に生まれる以前の霊魂の存在を、その帰結としての霊魂の再来という、根拠なき見解を持つ驚くべき教義を支持する者は、誰であろうと破門されるべきである」と決定された。イエスが属していたとされるエッセネ派では、輪廻転生が信じられていた。マタイ伝17章12節から13節にかけて「洗礼者ヨハネは預言者エリアの生まれ変わり」であると、イエスが間接的に言っている箇所が残っている。初期のキリスト教の教父であるアレクサンドリアのクレメンス(150年頃〜215年頃)やオリゲネス(185年頃〜254年頃)、アタナシウス(295年頃〜373年)なども輪廻転生を信じていた。
のちのカタリ派(10世紀半ば〜1321年頃)は、輪廻転生説をとり、異端として抹殺された。
ローマ帝国は、古代の神々に変わって、の守護神としてキリスト教を国教にしたものの、その衰退を止めることができず、ゲルマン民族の侵入のなか、西ローマ帝国は滅亡する。 西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン民族をキリスト教徒にすることによりキリスト教は、ローマ教皇の下たくましく生き延びて、次のヨーロッパ文明の精神的な支柱とての役割を果たし、今日の物質文明の基礎を築いた。
キリスト教の神の国を地上に顕現したとされるローマ帝国は、「永遠のローマ」という思想を生んだ。ローマ教皇は、ローマ帝国の復活をめざし、フランク王国のカール大帝は、800年にローマ皇帝とした。フランク王国衰退後、962年に東フランク王国のオットー大帝をローマ皇帝とした。この神聖ローマ帝国は、1806年まで、存続した。
東ローマ帝国は、622年に勃興したイスラム勢力から攻撃に対するヨーロッパ文明の防波堤となり、1453年まで、ヨーロッパ世界を守った。東ローマ帝国滅亡後、ロシア帝国が、東ローマ帝国の地位を引き継ぐものとされ、1911年まで存続した。
EUは、ローマ帝国の復活をめざしたものであると言われる。2009年12月1日に発効するリスボン条約(2007年)により誕生するヨーロッパ合衆国(EU)の大統領は、強大な権威を持つローマ皇帝の再来といえるかもしれない。ローマ帝国とキリスト教の関係を知るとき、このEU(ヨーロッパ合衆国)が、EU大統領の強大な権力をもとに世界を支配する「神の国」を地上に顕現する野望をもっていないとはいえない。
参考図書
○ 「父が子に語る世界史 1」ネルー著大山聰訳(みずず書房 2002年新訳)
「キリスト教が発達するあいだに、イエスの神格ということが、はげしい論議の対象になった。ブッタ・ガウタマが、かれ自身はなにも神格を主張しなかったのに、のちに神として、またアヴァタールとして、崇拝されるにいたったことが思いあわせれる。おなじようにイエスは神格を主張しなかた。かれが、みずから神の子であり、人の子であるとくりかえし告白したことは、かならずしも神格ないしは超人格を意味するものではない。ところが人間というものは、偉大な人物を神聖視したうえで、そのあとに従うことはいやがるくせに、神さまに祀りあげることを好むものだ。六百年後に預言者マホメットがべつの大宗教をはじめたが、この手本にこりたのか、かれはくりかえして、明白に、人間であって、神ではないことを宣言した。
そういうわけで、キリスト教徒は、イエスの教えを理解しもせず、またそれに従いもせず、イエスの神格の性質と、三位一体説をめぐる論議との高層に明け暮れ日をすごした。かれらはおたがいに異端者としてののしりあい、迫害しあい、首をはねあった。」
(164頁下6行〜165頁上6行)
○「キリスト教の誕生」ピエール=マリー・ボード著 佐伯晴郎監修(創元社「知の再発見」双書70 1997年)
○「ローマ帝国とキリスト教」弓削 達著(「世界の歴史5」河出書房新社 昭和43年)
平成21年11月23日作成 平成25年03月09日最終更新 第060話