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 ローマに平和をもたらしたオクタビアヌスは、アウグストゥス(尊厳者)の称号を前27年に元老院より贈られた。この年をもって前期帝政の始まりとしている。アウグストゥス帝の発行した金貨に「Pax Romana」(「ローマの平和」)と刻印した。彼は、ユリウス・カエサルが構想し暗殺により挫折した国家体制を、長寿にめぐまれて次々と実行していった。彼と2代目のティベリウス帝を会わせて60年の在位を重ねローマ帝国は盤石となる。カリグラ帝やネロ帝のような暴君を迎えても帝国は揺るぎなくつづく。初期の体制の重要さが浮かび上がってくる。
 この「ローマの平和」は、ローマ帝国の武力により、地中海一帯に平和がもたらされたことを指すが、この故事により19世紀の大英帝国の覇権を「バックス=ブリタニカ」、20世紀のアメリカ合衆国の覇権を「パックス=アメリカーナ」と呼ぶ事となる。いずれも圧倒的な武力により、世界平和が部分的であれもたらされたことによる。
 アウグストゥス帝(在位:起元前27年〜紀元後14年)の紀元前4年に後のイエス=キリストは、密かに生まれた。
 2代目のティベリウス帝(在位:紀元14年〜紀元37年)は、質実剛健で、当時は人気がなかったが、帝国の基礎をきっちり固めることに成功する。イエスが、「カエサルのものはカエサルに」といったカエサルは、ティベリウス帝の事である。ティベリウス帝の時代の、紀元30年頃から約3年間イエスは、ローマ帝国の属州ユダヤで、ユダヤ教の改革運動を行い、処刑されたとされている。
 3代目のカリグラ帝は暴君とされる。24歳で即位し、4年の短い在位のあいだに様々な建築事業を行った。バチカンにあるオベリスクはカリグラ帝がエジプトからもってきた競技場の装飾品であった。周りのものを次々と暗殺し、最後は側近に暗殺されて終わった。
 4代目のクラウディウス帝(在位:紀元41年〜紀元54年)は、カリグラ帝の崩壊させた財政を回復した。ブリタニア遠征も本格化し、ブリタニア南部を領土に加えている。毒キノコにより死亡したとされる。
 5代目がユリウス・クラウディウス朝の最後の皇帝であるネロ帝(在位:紀元54年〜紀元68年)が即位する。アウグストゥス帝の強い希望により、一族がつぎつぎと皇帝に即位していったが、実子が後をつぐこともなく、一族で皇帝の地位を継承しネロ帝を最後に、5代約100年でユリウス・クラウディウス朝(前27年〜後68年)の命運がつきることとなった。
ユリウス・クラウディウス朝( キリスト教関連事項)
アウグストゥス帝  前27年〜後14年  キリスト誕生(前4年頃) 
ティベリウス帝  14年〜37年  キリスト十字架にかけられる(30年頃)  
 3 ガリグラ帝  7年〜41年  
クラウディウス帝 41年〜54年    
ネロ帝  51年〜68年 ペテロを逆さ十字架にかけて迫害(67年頃)
 ネロ帝は、初期は家庭教師のセネカなどの補佐を得て、善政を敷いたとされる。徐々におかしな行動を取り始める。オリンピアの競技に参加して優勝したり、吟遊詩人のまねをしたりした。絶対権力の恐ろしさでもあろうか。周りの者をカリグラ帝同様、殺害し始めた。64年のローマの大火の責任をキリスト教徒に負わせ、迫害する。ライオンにキリスト教徒を食わせたり、キリストの弟子であるペテロを迫害し、逆さ十字架にかけて殺害したりした。ペテロは、初代ローマ教皇であり、バチカンの聖ピエトロ大聖堂は、ペテロの墓の上に立てられた。「新約聖書」の「ヨハネの黙示録」にある獣の数666は、ネロ帝をさすヘブライ文字を数字とみたてると666となることから、ネロ帝を指し示しているとされている。最後は剣で喉を突き自死して終わる。

 「其の位に在らざれば、其の政(まつりごと)を謀らず」という言葉が「論語」にある。外から批判するのは簡単であるが、その地位にふさわしい力を備えていない者が血縁によって絶対権力を獲得するとどうなるか。当時のローマ帝国の人口は約4000万であったとされている。4000万の人たちの絶対君主である皇帝であるが故に、お世辞に囲まれ、望みどうりに贅沢ができる。人の生殺与奪の権も与えられるとしたら、普通の人では耐えられないであろう。カリグラ帝、ネロ帝の悪評を聞くにつけ、彼らの不幸を思わざるを得ない。

 ネロ帝の死んだ68年は、四皇帝の時代とされ、四人の皇帝が相次いで即位する内乱の時代を迎える。この内乱を制したのは、ウェスパシアヌス帝(在位:70年〜79年)である。フラウィウス朝(70年〜96年)の創始者となる。75年コロッセオの建設が開始された。 ウェスパシアヌス帝と息子のティトゥスと協力してユダヤ人の反乱勢力を鎮圧した。ティトゥス帝(79年〜81年)は、フラウィウス朝第二代の皇帝となる。 ヴェスヴィオス火山が噴火して、ポンペイ埋没した。ティトゥス帝は、わずか2年で死去し、ドミティアヌス帝(在位:81年〜96年)の時代となる。
フラウィウス朝 (主な事項)
 9 ウェスパシアヌス帝  70年〜79年   ユダヤ戦争(67年〜70年)エルサレム陥落
75年コロッセオの建設開始  
10 ティトゥス帝   79年〜81年  ヴェスヴィオス火山の噴火ポンペイ埋没
コロッセオの奉献式挙行 
11 ドミティアヌス帝   81年〜96年  キリスト教徒・ユダヤ教徒迫害  

 ドミティアウス帝は、ネロ帝について、第2のキリスト教徒迫害者となった。ドミティアヌス帝暗殺後、元老院議員のネルヴァ(在位:96年〜98年)が第12代皇帝として即位した。ネルヴァには、実子がなく、属州出身のトラヤヌスを養子として迎えた。イタリア本土の出身でない初めての皇帝とトラヤヌス帝(在位:98年〜117年)はなった。
 この後、3代にわたって、皇帝にふさわしい人物を養子にむかえ、次の皇帝とする時代がつづく安定した時代を迎える。ネルヴァ帝からマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝まで五代は、ローマの全盛時代され、皇帝権力のもっとも安定した時代であり、アウグストゥス帝以来200年つづく「ローマの平和」を謳歌した最後の時代である。
 トラヤヌス帝(在位:98年〜117年)は、ダキア(現在のルーマニア)を征服し、東はアルメニア、メソポタミアを征服し、北はブリテン島南部を征服して最大の領土を獲得する。
 次のハドリアヌス帝は、戦線を縮小し、ローマは守勢に入ることにより、国境は安定した。132年〜135年にかけて、ユダヤ属州で、ユダヤ人の反乱がおきた。徹底的に弾圧され、ユダヤ人がエルサレムに住むことを禁止され、ユダヤ人は離散の民となった。
五賢帝の時代 在位 主な事項
12  ネルヴァ帝  6年〜98年    
13  トラヤヌス帝 98年〜117年 ダキア(現在のルーマニア)を征服 最大の版図
14  ハドリアヌス帝 117年〜138年  132年〜135年にかけてユダヤ人の反乱。ユダヤ人をエルサレムより追放する。 
15  アントニヌス=ピウス帝 138年〜161年   
16 マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝  161年〜180年  哲学者皇帝「自省録」を著す。

 ハドリアヌス帝の時代から、ローマは守勢となり、アントニヌス=ピウス帝の時代を経て、マルクス=アウレニウス=アントニヌス帝は、ローマの安定のために、東奔西走の日々をおくる。
 マルクス=アウレニウス=アントニヌス帝は、ストア派の哲学者で、みずから、「自省録」の残した。中国の「後漢書」西域列伝の大秦国の記事に、日南に「大秦王安敦」の使いが166年に来たと記述されている。大秦王は、ローマ皇帝をさし、安敦は、アントニヌスの音を写していて、マルクス=アウレニウス=アントニヌス帝を指すとされている。ローマと中国の交流があったことになる。少なくとも、ローマの情報が中国に伝わっていたということになる。
 マルクス=アウレニウス=アントニヌス帝は、実子のコンモドゥスに帝位を譲り、五賢帝の時代(96年〜180年)の時代は終わりをつげ、同時に200年にわたる、「ローマの平和」の時代も終わりを告げる。 

参考図書

○「パクス・ロマーナ」 塩野七生 著(新潮社 ローマ人の物語Y 1977年)
○「悪名高き皇帝たち」 塩野七生 著(新潮社 ローマ人の物語Z 1978年)
○「危機と克服」 塩野七生 著(新潮社 ローマ人の物語[ 1979年)
○「賢帝の世紀」 塩野七生 著(新潮社 ローマ人の物語\ 1980年)
○「すべての道はローマに通ず」 塩野七生 著(新潮社 ローマ人の物語]2001年)
○「終わりの始まり」 塩野七生 著(新潮社 ローマ人の物語 2002年) ○
 
平成20年11月28日作成  第056話