聖書には、アダムとイブが人類の初めであり、はじめ東の方の天国(「エデンの園」)に住んでいたが罪を犯したので、エデンの園を追われた。 アダムとイブの子孫のノアの時代に、「地上に悪がはびこった」ので、神は人類を滅ぼそうと考え「ノアの洪水」をおこして、ノアの一族以外を滅ぼしたとある。ノアの子孫のアブラハムは、一族を率いてシュメール人の都市ウル(「アルデアのウル」と書かれている)を出発した。時代を経てアブラハムの子のイサクの子孫の一族が様々な地を彷徨して最終的に現在イスラエル国のある地に住み着いたのがユダヤ民族の先祖であると聖書にある。このアダムとイブの物語の舞台が、現在のイラク、昔のメソポタミア文明の地であることが、わかっている。現在のヨーロッパ文明の親であるローマ人が「光は東方より」と端的にこのことを表した。
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「エビ・イルの像」前3000年紀中頃、マリ王国出土シュメール様式の像(ルーブル博物館蔵) |
このメソポタミアで最初に文明を築いたのがシュメール人である。英語読みでシュメール(SUMERU)人、ラテン語ではスメル人となる。ところが、シュメール人は、自らを「黒い頭」とよび、東の方から移住してきた民族系統不明の民である。海からやってきたとも言う。髪の毛の黒い民族が最古の都市文明を築いたのである。紀元前3200年頃の事とされる。そこでは神殿を中心に人びとが都会生活を営んでいた。さまざまな職業があり、小学校では文字の書き方が教えられていた。文字の単起源説では、シュメールの絵文字が最古の文字であり、この文字が発展して現在までの全ての文字の起源となったという。最初に書いた聖書の物語の原型も、シュメール絵文字が発展した楔形文字の書かれた粘土板(現在の紙がわり)中に見いだすことができる。貿易も盛んで、インダス川河口にも交易の痕跡がある。
ここから話は飛躍する。このシュメール人が日本にも来ていたのではないかという民間人の研究がある。大きな書店の歴史コーナーにそれらの本を見ることができる。シュメールから日本に絵文字や多神教の信仰、支配者であるスメル族(天皇家)がやってきたという話である。シュメール人は自らの国のことを「キエンギ」と呼んだ。キは土地(国)、エンは主、ギは葦を表し、「葦の主の国」という意味になる。古代日本の美称である「豊葦原の瑞穂の国」と奇しくも一致するのである。
さらに話は飛躍するが、シュメール人が活躍した時代は、日本では縄文時代にあたる。シュメール文明の揺籃期の紀元前5500年頃三内丸山遺跡を見ればわかるように、自然と共生したエコロジー文明が日本でも発祥していた。頭の黒い縄文人が、海を越えてはるばメソポタミアまで出向いてシュメール文明を築いたと想像するのも楽しいではないか。
参考図書
○「シュメール文明」ヘルムート・ウーリッヒ著戸叶勝也訳(佑学社 1979年)
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「粘土に書かれた歴史ーメソポタミア文明の話ー」E.キエラ著板倉勝正著(岩波新書 1958年)より/文字の単起源説によると、すべての文字の起源はシュメール絵文字に始まるという。これはその系統図。 |
「シュメールの歴史、メソポタミアの歴史、そして聖書の楽園、これら三者の間には実に密接な関係がある。…病気も死も存在しない楽園のような場所に関する記述を発見した。そこはティルムンという土地で、今日、ペルシャ湾上のバーレーン島と地理的に同一地点と見做されている。…ティルムンの島こそ、〈ライオンも人を殺さず〉、〈狼も子羊を襲わない〉真の楽園である、と伝えている。…そこでは〈誰も自分は年老いた女だとは言わず〉、〈誰も己を年とった男だとは言わない〉。」(18ページ)
「シュメールの歴史や神話を研究していると、我々はティルムンという名前によくぶつかる。古いテキストは〈日出る国〉ティルムンの地を、神々の島とか楽園とか呼んでいるが、全く俗っぽく、シュメール世界貿易における物資の集散地と記している。アメリカ人によってニップールで発見された楔形文字板の断片が、1914年に公表された。そこにはエンリル神およびノアの洪水の際、箱舟に乗って生き残り、その後神々から不死性を授かったジウスドラ王のことが書かれている。
『神々は、神のような命を彼に与え、
神のような永遠の息吹を、神々は彼のために持って降りる。
そして神々は王、ジウスドラ、
植物界の名称と人類一門の守護者と名付け、
通過地の国、
ティルムンの地、
日出る所に住まわれる』
どうやら日出る国を東方に求めていたようだ。」(P151〜P152抜粋)
平成18年08月18日作成 第001話