聖書の創世記によると、天地創造の6日目に人類が創造されたとある。そして、人類の始まりは、アダムとイブであり、アダムは930歳で死亡した。アダムの子孫の「ノアの洪水」のノアに至り、アブラハムからダビデに至る。さらにイエスに至る系図が聖書に記されている。それぞれの寿命を計算すると、諸説あるが、紀元前3946年に人類が誕生したことになるという。もっとも、アダムとイブの子孫以外にも人類の記述があるので、聖書の記述は、ユダヤ民族の族長(王家)系譜である。
19 世紀に入り、科学の発達と共に、生物の起源は、どんどんさかのぼってゆくことになる。人類の起源も現在では、700万年前とされている。人類と類人猿との差は、常態で直立歩行しているかどうか、で区別している。発見されて化石から、人類は、猿人、ホモ=ハビリス、原人、旧人、新人の順に進化してきたといわれる。具体的には、今まで発見された、人類の化石を分類すると
猿人(アウストラロピテクス類) 700万年前から100万年前
ホモ=ハビリス 240万年前から170万年前
原人(ホモ=エレクトゥス) 180万年前から 30万年前
旧人(ネアンデルタール人) 60万年前から 20万年前
新人(現生人類) 25万年前から 現在
となる。但し、これらの分類も、年代も諸説あり、一致していない。最古の日本人の骨は、沖縄本島で見つかった約1万7000年前の新人・港川人である。
ダーウィンが1859年に「種の起源」を発表して以来、進化論が議論になっているが、進化論によると、46億年ぐらい前に地球が誕生して、40億から38億年前に生命が偶然発生して、単細胞生物から遺伝子の突然変異の繰り返しで、動物で言えば、魚類から両生類、は虫類、哺乳類と発展してきた。さらには、猿から人へ飛躍した事になるが、確率論から言えば、「鉄くずを竜巻が巻き上げたら、最新鋭のジェット機になった」ぐらいの確率になるそうである。このようなことが果たして可能かどうか。
さて、猿人から現生人類への進化であるが、それぞれの種は、その生存期間中ほとんど進化しているようには見えない。猿人は、華奢(きゃしゃ)なアフリカヌス型と頑丈なロブトス型があるものの、その600万年といわれる生存期間中、脳容積も450CC程度で、形体もほとんど進化していないようにみえる。現在の所猿人はアフリカ大陸以外では発見されないので、人類発祥の故郷はアフリカであるとされている。
原人類の脳容積は1000CC程度で、これも生存期間中ほとんど変化していない。旧人類のネアンデルタール人は、ヨーロッパでしか発見されていない。1600CC程度の脳容積がある。現生人類(ホモサピエンス=サピエンス)の脳容積は1400CC程度。旧人類と比べて、言語能力・思考能力をあらわす前頭葉の発達等、比較にならないくらい飛躍的に発達している。現生人類は、誕生したときから現在と同じように知能が発達しており、芸術を理解していたことが遺跡や遺物より確認されている。また、黄色人種、黒人、白人もほぼ同時に発生したことが確認されている。猿人、ホモ=ハビリス、原人、旧人、新人(現生人類)をつないでゆく漸進的進化を示す中間種(ミッシング=リング)は、100年以上に渡って、進化論者が一所懸命になって探しているがいまだに発見されていない。それぞれの人類の種が重なって生きている時代もあったことが明らかになっている。
遺伝子工学や宇宙・地球の創成を研究している学者からは、何か偉大な存在(創造主)の関与しか考えられないと謙虚に考えているものも多いという。前述の聖書の話であるが、文字どおり天地創造と人類の創造が6日で完成したと信じるキリスト教徒もいるようであるが、神の天地万物の創造の順序と区切りを示しているものとして理解しているようである。化石などの示す事実と神が万物を創造したという考えと矛盾するものは、何もない。偶然なのか創造主がそのような順序で万物を創造したと謙虚に考えるかどうかの問題であろう。ガイア理論など地球の自然の共生の仕組みなどを謙虚に観察すれば、目的をもって偉大な存在(創造主)が創造したとしか考えられない自然とその中に生かされている万物の霊長たる人の存在に畏敬せざるを得ないのではないだろうか。
日本の歴史の教科書は、歴史にも関わらず、人類の発生から説き起こされている。その例にしたがって、「世界史の部屋」も、人類の誕生から始めることにした。そして、どの教科書もダーウィンの進化論を根拠とした記述である。ダーウィンの進化論は、科学的な理論と言うよりも、産業革命勃興期の思想である。唯物史観を根拠として共産党独裁を企図したマルクスは、この進化論を、キリスト教やイスラム教の神による人類創造という常識に対抗するものとして強く支持した。その史的唯物論そのものもユダヤ人解放の思想であるのに、日本の歴史学者は、史的唯物論を信じ、歴史記述の始めに人類の誕生というおよそ他の国の教科書には書かれない記述から始める。ダーウィンの進化論は、産業革命勃興期のイギリスをモデルしているという。アダム=スミスの「国富論」の「(神の)見えざる手」による産業の発展は、自然淘汰及び適者生存によって産業が発展していることを表明したものであり、その影響をうけて、進化論という形にまとめたのがダーウィンであったということになる。
ダーウィンの進化論は、メンデルの遺伝の法則が真理として受け入れられたときに破綻しているのであるが、今もって日本の教科書では絶対真理として記述されている。
人類の誕生と進化については、確定した学説があるわけではなく、謎(ミステリー)のままであることが、結論になる。
参考図書
○「人類誕生のミステリー」ジェフリー・グッドマン著板倉勝正訳(明日香出版社 昭和58年)
○「エントロピーの法則Ⅱ―二十一世紀文明の生存原理」ジェレミー=リフキン著竹内均訳(祥伝社 昭和58年)
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少し古い本であるが、この「エントロピーの法則Ⅱ」は、ダーウィンの進化論が産業革命期の歴史的背景を持った思想であるということを解き明かしている。そして、記述当時(1983年)既に破綻していたダーウィンの進化論の間違いについてもわかりやすく記述されている。 |
「実は、化石記録は、最初から進化論にとってあまりよい証拠とは考えていなかった。ダーウィン自身も、このことに気がついていた。それぞれの種は「中間生物」を経て、ゆっくりと新種に変わっていき、化石がそれを立証していると言いながら、「それはどこにあるんだろう」と『種の起原』の中で言っている。地質的記録の中には、いくら探してもこの答えはなかったのである。
ダーウィニズムによれば、地質学的記録には、種と種の間の中間的変種の例が豊富に入っていなかればならなにのに、ダーウィンはなるほどと思うような例を一つとして挙げていない。敗北を認める代わりに彼は、証拠がまだ全部出ろっていない。化石の研究はまだ進行中だから、最終的結論は出せない、と言っている。そして、やがて中間体が八戦され、自分の仮説も立証されるだろう、というのである。
ところが、ダーウィンがそう言ってから百数十年経って、何百万という化石が採集、分析されたが、ダーウィン説を裏付けるものは一つもなかったのである。全化石の二〇%が保存されているシカゴ・フィールド博物館の館長デービット・ロープも、数知れない中間体が種と種をつなぎながら進化の段階がゆっくりと進められる、というダーウィンの論議を裏付けるような証拠はないと断言する。
「進化論の立場から生命の歴史を説明するうえで、化石がそれを証明してくれると思っている人は多い。さて、ダーウィンが『種の起原」で書いてから一二〇年経つ今、化石記録に関する研究は大いに進んだ。しかし皮肉なことに、進化論を支持する実例は、まるで出てこないのである」
ロープ博士は明言しなかったが、現在、化石記録からわかることは、一世紀にわたって科学者たちがダーウィン説に都合のいいように、さまざまな化石のかけらをうまく並べてきたということでしかない。しかし、こいいったトリックはすべて無駄だった。今日、何百万という化石を見るとき、かつて進化の旗を揚げて行進した理論の貧しさ、くだらなさが、ありありと証明されるのだから。」(p128ℓ6~p129ℓ6)
「ダーウィン自身、説明できなかった"眼"の発生
「眼は、涙腺や瞼(まぶた)などさまざまな部分から成り、そべてが同時に機能するような完成品になった場合にしか役立たない。ところが、眼の進化過程の初期の段階、各部分はまったく未発達で機能の調和がとれず、存在意味はなかったはずだが、それでは自然淘汰はどうなっていたのか。自然淘汰というものは、器官が最終的にどんな発展を遂げるかはおかまいなしに起こる、冷厳ある現象のはずである」
これは、ヒンメルファーブが、ダーウィニストに突きつけた痛烈な挑戦状である。実際、眼はひじょうに複雑な組織であり、すべてが同時に調和を取りながら働かねばならず、瞳孔などどれか一つでも動きが狂ったら、まるで役に立たない。このような精密な仕組みは決して人工的に作れるわけのものではばく、ましてや進化論の理論からまるではみ出した存在なのである。
ダーウィン自身、「眼について触れられると、どう考えていいのかわからず、ゾッとする気持ちを抑えられない」と友人への手紙の中に書いてあるし、「眼は距離によって焦点を変えたり、入る光の量を調節したり、自由自在に機能する。これが自然淘汰で作られたと考えるのは、まったく無理であることを私自身認めざるをえない」と告白したりしている。
「自然淘汰による漸進的発達」という考え方を否定するこういった生物楚々気の例は、何千とある。というより、よく調べてみれば、生物の持つほとんどの機能組織は、常に総合的に働くのである」(p140後ℓ5~p141ℓ10)
「ヘッケルの「系統発生説」は捏造された理論
従来、進化論を支持してきた多くの「証拠」の一つに、生物は胚から成長するまでの間に、全進化過程をたどる、という説がある。人間の対峙も一時、魚や両生類の姿をとる、という例の説である。
しかし、本当にそうなのだろうか。
胚の発達を、生物学の用語では「個体発生」という。つまり、個の発生の過程である。一方、「系統発生」とは、種の進化的発達のことである。一八六六年、ドイツの生物学者で哲学者だったエルシスト・ヘッケルは、有名な「個体発生が系統発生を反復する」という説を世界に宣言した。
やさしく言い換えると、一つの胚が発達していく間に、そのいろいろな先祖の進化段階を通るというのである。胚の発達は、地上の生物の進化の歴史を全部見せてくれるパノラマであり、人の胚の発達を観察すると、目の前で、魚とエラ、両生類、哺乳類という、長い進化段階の変化がことごとく展開されるというわけだ。
ヘッケルの理論は広く知られるようになり、進化論が話題になると必ずこの理論も口にされるようになった。今でもこれは、進化論擁護の理論としてよく使われているし、「個体発生が系統発生を反復する
という考え方は、初歩の生物学教科書に載っている。また、教授たちもよく学生とヘッケルの理論を検討するから、すでに生物学理論としては正しくないと烙印を押された後にも、多くの人は正しいと信じているわけだ。
しかし実はヘッケルの「理論」はまったくの誤りであり、専門家が正確に観察すれば、人の胚はちっとも「系統発生を反復」してはいないこと、さらに、ヘッケル自身の胚の説明図がデタラメであったことも確かめられているのである。
過去四〇年間、これは科学界の権威者の間で、お笑い話として片付けられてきたものであう。しかし、あいかわらず教科書には載るし、広く常識とされている。コロンビア大学の生物学の教授、ウォルター・J・ボックも言うように、「この原則は、生物学的常識の中にどっぷり根を下ろしてしまい、いろいろな学者がその誤りを指摘しても、いまだに放棄されない」状況にあるにすぎない。
もう一つ、胚の発達の話になると必ず出てくるのが「鰓裂(さいれつ)」の例である。これは、人間の胚の発達過程のある時点であらわれるとされるのが、他の哺乳類、鳥、は虫類の肺にも共通するものである。これを指して、胚は人が魚の段階から爬虫類、哺乳類へと進化してきた証拠になるというのだ。
たしかに、人間の胚の発達過程で、咽頭嚢(いんとうのう)による一連の小さい溝が現れ、これは魚の胚の首の部分近く現れる溝、つまり鰓裂(さいれつ)によっと似ている。この溝は、のちに魚のエラになるわけだ。しかし、似ているのはそれかであり、人間の咽頭嚢は魚のように喉に向かって開き、エラと切れこみになる代わりに、分泌腺と、下顎と中耳の一部になる。つまり、魚のエラと関係がない、というのが現代の科学者の一致した意見なのである。
盲腸や尾骨が痕跡器官というデタラメ
また、生物発生の法則とともによく持ち出される議論に、痕跡器官というものがある。動物には、実際に使っていない痕跡だけの器官があり、これは進化する以前に祖先が持っていた器官のなごりだという説だ。この一種グロテスクな考え方は、今まで広く信じられてきた。ある時期、人間の体内に一八〇個もあると言われる痕跡器官を、生物学者太刀が数え上げようとしたこともあった。しかし、その後いろいろな実験が重ねられて、いわゆる痕跡器官といわれるものは、実際にはちゃんと機能を果たしていることが明らかとなった。しかしそれにもかかわらず、進化論者たちは盲腸や尾骨(脊椎の一番下の骨)を、祖先である動物から由来したもので、進化論の証明だといってはばからない。
盲腸は、化膿防止の重要な役目をすると今では結論が出ているが、進化論者は人に盲腸がなくても困らないから盲腸は痕跡器官だという。しかし、人間は腕や足がなくても生きることができるが、それらが不必要だという人はまったくいない。
さらに、尾骨だが、進化論者はどういうわけか、これが人言が動物だったときの尻尾の痕だと主張する。しかし、R・L・ワイソンが『進化論争』の中で詳細に指摘するように、この骨も、筋肉と骨盤とを結合させ、骨盤を支えるという立派な役割な役割りを果たしているのである。」(p144後ℓ7~P147 ℓ1)
「地球の一〇〇億年の歴史では、生命が自然発生する確率はゼロ
そもそもダーウィンの理論は、確率の概念にたよっている。すなわち、時間さえ充分にあれば、確率がごくわずかでも小さい変化が積もり積もって、一つの種が他の種に進むというのである。しかも、これらの有機体の変化はまったく偶発的なものだという。
しかし、偶然だけで動植物界を形成しているひじょうに複雑で秩序正しく、しかも正確な機能を持った生物が誕生するものだろうか。ダーウィンは、それは確率の問題だと主張し、時間は充分すぎるほどあったのだから、いかな可能性も起こりうるのであり、統計的にゼロとなるものはないと言う。さらに、今まで一度も起きなかったことでも、将来には起こりうる、とするのである。
進化が可能か否か、という前に、進化の確率がどの程度か、ということを論じてみよう。
『宇宙の本質』を著した有名な宇宙物理学者のフレッド・ホイルは、次のように言う。
「宇宙の年齢を一〇〇億年としても、進化した哺乳類の細胞核に含まれる二〇〇〇個の遺伝子ができるチャンスを考えると、この時間はけっして充分ではない。突然変異で、今ある遺伝子情報のように複雑で整然としたシステムができる確率は、竜巻がゴミ屑を巻きあげたらジェット機ができたというようなものだ」と。」(p151)
平成18年11月08日作成 平成28年09月18日最終更新 第008話