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  従来武士は、律令制の崩壊による治安の悪化による自衛手段として自然発生的に誕生し、やがて勢力を拡大し棟梁をいただく武士団として発展してきたとされていました。しかし、これは間違いで、治安維持のために中央から派遣された軍事貴族がそのルーツであることが解明されてきました。いわば、天皇の下の治安維持軍もしくは警察機構がそのルーツであったのです。

  奈良時代には、律令体制のもとで20万の軍団を整備していました。当時の人口は600万から700万でした。現在1億2000万の人口に対して15万の自衛隊であることを思えば、大変な軍事力をもっていました。朝鮮半島の新羅を攻略を前提とした軍団編成であったようです。その軍団を792年に廃止し、日本は軍隊を持たない国となりました。朝鮮半島進出をあきらめたことによります。

 律令体制は、国民に土地を貸与する班田収受を行い、租庸調や軍団の兵士を税金とする人を支配する体制でした。延喜十年(800年)には給田を全国一斉に実施するという方針が廃止されました。給田は国司に任されることになったのです。その給田も902年の記録を最後におこなわれなくなりました。

  宇多天皇は、寛平3年(891年)以来、国司(受領)経験者である菅原道真を登用して国司(受領)の権限を強化して、国ごとに租税を確定し、徴収は、国司(受領)の裁量によって行うこととしました。
  受領が租税を徴収するには、地元の有力な豪族の協力が必要となりますが、当然軋轢が生じます。延喜(901年〜923年)・寛平(889年〜898年)年間も群盗蜂起とよばれる騒乱が全国的に起きたことや承平・天慶の乱(平将門の乱[939年〜940年]・藤原純友の乱[936年〜941年]がその代表的な例です。

 受領は、騒乱が起きると「国解」という報告書を中央政府に送ります。鎮圧が必要とされれば、天皇の命によって政府が、押領使・追捕使を任命し、追討宣旨・追捕官符を発給することによって武士を動員し鎮圧しました。延喜寛平の群盗蜂起も承平・天慶の乱もこの手続きを経て、解決しました。

 令外の官である押領使は、武芸にたけた国司・郡司が中央政府より警察・軍事力を握り地方の治安維持にあたる官職として792年に設置されました。
 また、追捕使は、海賊・凶賊を追捕するために932年初めて設置されました。のちに、国ごとに押領使か追捕使が設置されることとなり、治安維持にあたりました。鎌倉・室町時代の守護大名は、この流れをくむ官職になります。

 押領使は、受領自らが兼ねることもありますし、中央の軍事貴族が派遣されることもありました。国内の武士身分のものを招集して追討に当たらせました。武士は自然発生的ではなく、指揮官は中央から派遣された軍事貴族でした。さらにその配下にある武士も、日頃から武芸にはげむ専門家集団でした。押領使によって招集される武士集団は、中央政府の追討宣旨・追捕官符の発給を受けて初めて動員されるものであり、追討・追捕の功績により官位などを与えられる存在でした。
 従来説明であった自衛のために武士団が発生したというのは、成り立たないことが明解されつつあります。大元は、天皇に忠誠を誓う軍事担当貴族(軍事貴族)率いる治安維持部隊であったことになります。武士の標準装備をみても、軍事貴族であったことがわかります。初期の武士の大鎧は、宮中の儀式に出席した武官の装備に由来します。平清盛も源頼朝も天皇を廃止しようとしなかった大元の理由がここにあります。
 
 武士道は、天皇の忠誠心に淵源をもつということも古代の大伴氏の軍事貴族としての誇りを受けついていることを指しているのではないでしょうか。
 万葉集にある大伴家持の長歌が参考になります。

 「海行かば 水漬く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大君(おおきみ=天皇)の辺(へ)にこそ死なめ かへり見はせじ」
 「大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官(つかさ)ぞ 梓弓(あずさゆみ) 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩(は)き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじ」

 10世紀から12世紀の日本を王朝国家と呼ぶことがあります。10世紀前半の醍醐・村上天皇の「延喜・天暦の治」、10世紀後半から11世紀末までの摂関政治、11世紀末から12世紀末の院政の時代です。この王朝国家は、追討宣旨・追捕官符を発給する権限を持ち、国ごとに押領使・追捕使を軍事司令官として任命し、追討宣旨・追捕官符を発給によって、治安を維持していました。10世紀前後の延喜・寛平の群盗蜂起の騒乱から12世紀末の源平の争乱まで、このような手続きで治安維持を図っていました。
 王朝国家体制の摂関政治・院政の時代も、中央で権力闘争をしているだけではありませんでした。この仕組みによって全国の治安を維持し、統一権力として機能していました。

 平家物語に出てくる武士の戦いは、騎馬戦が基本です。大鎧に身を固め、弓矢での騎射を行い、先祖以来の武勇の名乗りをあげ、刀で斬り合います。組み討ちの勝者が、敗者の首を掻き斬ることで終了します。
 武士の戦い方である騎馬戦は、東北地方の蝦夷の戦術によります。騎馬戦はユーラシア大陸を席巻したスキタイ民族による戦術です。
 宇野正美によると前612年にアッシリア帝国を滅ぼした騎馬民族スキタイは、イスラエルの10支族を伴って弥生時代の日本に侵入し、日本各地にストーンサークルをつくった、ということです。特に東北地方に土着し、馬とともに生活していました。

 古代日本の蝦夷は、このスキタイの騎馬戦術を受けついて奈良・京都を首都とする中央政府軍と熾烈な戦いを行いました。
 蝦夷の捕虜たちは、俘囚と呼ばれ、900年前後に全国に移住させられました。国司(受領)は、彼らの生活を保障し、保護のもとに武芸に励みながら、受領の要望に答え、国内の群盗を追捕しながら武士集団として発展していったと考えられます。中央から派遣された受領や押領使・追捕使の子孫たち(軍事貴族の末裔)も、武芸を磨き、武功によって中央での栄達を望みながら、俘囚の武芸を学び武士団を形成していきました。10世紀に発生した武士は、自らを「東夷(あずまえびす)」と呼んでいたことは、ある意味で差別された俘囚の誇りを自ら名のりに取り入れた証拠ではないかと思います。

 武士の帯ている日本刀は、古代日本の直刀ではなく、反り返っています。騎馬戦には、蝦夷の蕨手刀という反り返った刀が有利です。この蕨手刀が、900年頃毛抜形太刀に進化し、日本刀になりました。このことも、武士のルーツが蝦夷の戦士であったことを示していると思われます。この蝦夷の戦士に戦術の薫陶を受けた国司(受領)・郡司の子弟たちも武芸集団として武士団を形成していったと考えられます。

 やがて、軍事貴族としての清和源氏は、東北地方の騒乱に対して、陸奥守兼鎮守府将軍などの官職を帯びて東北地方の治安維持にあたり、地方の武士団の信頼をえて主従関係を結び武士団の棟梁として大きな力を持つようになります。このような力を背景に王朝国家の軍事貴族としての階位を挙げてゆきます。後の院政の時代に、清和源氏に対抗する勢力として桓武平氏が武士団の棟梁として引き上げられてゆきます。(主として「武士の成長と院政」下向井龍彦著による)

参考図書

○武者飾り
 
我が家の大鎧。鎌倉時代の大鎧を写したもの。武士は、治安維持と警察権力の担い手として10世紀に発生した。宮中の儀式にもこのような出で立ちで参加した。この具足は、宮中警護の軍事貴族として武士が発生したことを示している。端午の節句に現在、男子の無病息災、出世を願って飾られるのは、1192年より1867年まで継続した武家政権がつづいたことによる。歴史の継続性が日本の歴史の神髄である。

○「萬葉集 五」青木・井手・伊藤・清水・橋本 校注(「新潮日本古典集成 66」所収 新潮社 昭和59年)

 「陸奥の国に金(こがね)を出(い)だす 詔書を賀(ほ)ぐ歌一首・・・『葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らしめける すめろきの 神の命(みこと)の 御代重ね 天の日継と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝(みつぎ)は 数へえず 尽しもかねつ しかれども 我が大君の 諸人を 誘(いざな)ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも 確けくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田にある山に 金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 神相うづなひ すめろきの 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 食(を)す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして もののふの 八十伴の男を 奉(まつ)ろへの 向けのまにまに 老人(おいびと)も 女童(をみなわらは)も しが願ふ 心足(こころだ)らひに 撫(な)でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官(つかさ) 海行かば 水漬く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじと言立て ますらをの 清きその名を いにしへよ 今のをつつに 流さへる 祖(おや)の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓(あずさゆみ) 手に取り持ちて 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩(は)き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門(みかど)の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひしまさる 大君の 御言(みこと)の幸の聞けば貴み』・・・天平感宝元年[749年]の五月の十二日に、越中の国の守の館にして大伴宿禰家持作る」 4094 141頁〜143頁)

○ 「武士の成長と院政」下向井龍彦著(「日本の歴史 第07巻」所収 講談社 2001年)

 「律令国家は、八世紀末から九世紀初頭の蝦夷征服戦争のなかで発生した大量の帰服蝦夷を、俘囚として国内各地に強制移住させる政策をとった。これを国内移配という。」(29頁)
 「勤労せずに生活を保障されていた俘囚男子は、蝦夷男子の習俗であった狩猟に明け暮れていた。」(35頁)
 「それゆえ全経済生活を受領に依存する俘囚集団は、受領に対して忠誠を尽くすことを要求されることになるのである。」(34頁)
 「マックス・ウェーバーは、君主が一般臣民に新たな要求を受け入れさせるためには、一般臣民の好意をあたにしないでも自由に動かし売る忠誠心に満ちた軍隊、とくに異種族人軍隊を保持している場合が多かったとして、オスマン帝国の「イェニチェリ」、ロシアのコサック騎兵、ブルボン朝フランスのスイス傭兵などの例を挙げ、彼らが異種族人として周囲の世界や臣民と対立して君主の支配権に結びつけられるとき、もっとも信頼に値する軍隊として利用できた、とのべている。」(38頁)

○「現代までつづく日本人の源流」渡部昇一著(「日本の歴史」第1巻古代編 ワック(株)2011年)
○「万葉集一〜五」青木・井手・伊藤・清水・橋本 校注(新潮日本古典集成 昭和51年〜59年)
○「天皇と摂政・関白」佐々木恵介著(「天皇の歴史」03巻 講談社 2011年)
○「奇跡の日本史 『花づな列島』の恵みを言祝ぐ」増田悦佐著(PHP研究所 2010年)
○「道長と宮廷社会」大津透著(「日本の歴史06」所収 講談社 2001年)
○「古代ユダヤは日本に封印された」宇野正美著(日本文芸社 平成4年)

平成26年03月22日作成 第093話