645年大化の改新の翌年、改新の詔がだされ、公地公民制の制度設計の方針が打ち出されました。そして、701年の大宝律令及び757年の養老律令により、唐風の律令体制が確立しました。律令体制は、現在で言うと共産主義体制と置き換えることができます。そして、公地公民ということは、土地つまり社会資本を国有化し、天皇中心とした律令官僚による統治を行う体制です。中央集権による富の集中により、平城京、平安京が造られ、古代国家の繁栄を謳歌しました。
794年平安京に遷都した桓武天皇(在位781年〜806年)は、強い権力をもって蝦夷征服と平安京の建設をおこなっていましたが、805年 藤原緒嗣の「天下の民の苦しむところは軍事と造作である」という献策を受けて、蝦夷征服と平安京の造作を中止しました。
つづく、平城天皇(在位806年〜809年)・嵯峨天皇(在位809年〜823年)は、令で定められた官司や官人の整理統合を行い経費の軽減につとめ、実情に合わせて、いわゆる 「令外の官」つまり、新たな官職を設置するなど律令体制の日本化を行いました。
令外の官 (「詳説日本史研究」1998年山川出版社 91頁表より抜粋)
中納言 |
705年文武天皇 |
職掌は大納言と同じ。但し大臣の職務代行はできない。 |
按察使 |
719年元正天皇 |
地方行政の監察官として設置。 798年に対蝦夷洗脳のための常設の指揮官となる。 |
参議 |
731年聖武天皇 |
公卿として朝政に参与し、中納言につぐ重職。 |
内大臣 |
777年光仁天皇 |
左右大臣の次位。 |
征夷大将軍 |
794年桓武天皇 |
対蝦夷戦争のための軍勢の臨時の最高指揮官。 |
勘解由使 |
797年桓武天皇 |
国司(現在の県知事)交代の際の引き継ぎ文書の審査し監督した。 |
蔵人頭 |
810年嵯峨天皇 |
天皇直属の機密事項を扱う。蔵人頭から参議に昇任するのが常道となった。公卿の登竜門となる。 |
検非違使 |
816年嵯峨天皇 |
京中の犯罪人検挙、風俗取り締まり、訴訟・裁判を扱った。今日の警視庁と検察庁を兼ねた。 |
「令外の官」の設置は、701年の大宝律令の公布後すぐから、始まっています。今日の内閣にあたる議政官として、文武天皇の705年に中納言が、聖武天皇の731年に参議が置かれます。さらに、左右大臣のつぎの地位に光仁天皇の777年に内大臣が置かれました。これにより天皇の下における貴族の合議の体制ができます。
奈良時代から平安時代にかけては、対蝦夷(東北地方の地元勢力)戦争に対する指揮官を常設するようになります。元正天皇の719年に置かれた按察使(あぜち)は、始め地方行政の監察官として設置されましたが、798年には対蝦夷戦争の常設の指揮官となります。
さらに、桓武天皇の794年には、対蝦夷戦争のための軍勢の臨時の指揮官である征夷大将軍が置かれます。神代より武人として天皇家に仕えていた大伴家出身の大伴弟麻呂が桓武天皇より節刀を賜り、初めて征夷大将軍に任ぜられます。現地の軍の最高の司令官であり、天皇の代理という権能を有していたので、やがて、鎌倉幕府から江戸幕府まで、全ての軍人つまり武士の最高司令官、つまり棟梁としての権力を保持することとなりました。
幕府の幕は、天幕のこと。府は役所のことです。中国の戦国時代、王に代わって指揮をとる出先の将軍が張った陣地を「幕府」と呼んだことに由来します。「幕府」が武家政権の政庁を表すようになったのは、朱子学の発達した江戸時代中期以降となります。鎌倉幕府や室町幕府の名称も、この江戸時代中期以降につけられた名称です。
嵯峨天皇の810年、薬子の乱にさいして、嵯峨天皇の側近として機密事項をあつかう私的秘書として蔵人及びその頭たる蔵人頭を設置しました。また、816年に今日の警視庁にあたる検非違使が置かれ万代宮(永遠の都)とされた平安京の犯人検挙、風俗取り締まり、訴訟・裁判を扱うこととなりました。
この蔵人頭及び検非違使は、従来の律令制の官職の任命の手続きによらず、天皇の任命に懸かる官職であり、摂関政治成立の重要な前提となりました。
嵯峨天皇の818年、刑としての死罪(死刑)が廃止され、遠流か禁獄に減刑され、これ以来347年間律令による死罪は姿を消すことと成りました。世界中にあった中央政府の権力闘争における死刑が無くなりました。日本ならではの平和国家の象徴とも言える出来事です。
平安京から9世紀末ころまでの文化を、嵯峨天皇(52代・在位809年〜823年)・清和天皇(56代・在位858年〜876年)の年号をとって弘仁・貞観文化といいます。空海・最澄の真言宗・天台宗の密教文化が栄えました。
また、「凌雲集」(814年)「文華秀麗集」(818年)「経国集」(827年)という3つの勅撰漢詩集が編まれ、奈良時代に引き続き貴族の教養として漢文学の隆盛を見ました。この時代は、国風文化暗黒の時代と云われることもあります。
参考図書
○「奇跡の日本史 花づな列島の恵みを言祝ぐ」増田悦佐著(PHP研究所 2010年)
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9世紀に行われていた清涼殿東庭の元旦四方拝の図;天皇の主な宗教上の役割は神々を祭祀することです。元旦には祭祀王として、国家安寧と五穀豊穣を祈られました。今も宮中三殿にて、元旦午前4時に同じ祈りをもって祈ってくださっています。 |
「…明治維新は、市場経済にもとづく市民社会を促成栽培するという課題においては世界一の成果を達成した。この大成功の要因はどこにあったのだろうか。江戸時代には完全に政治権力から遠ざけられていた天皇という存在が、まさに危機に際して突然「国民統合の象徴として担ぎ出される」ことができるよう、延々十世紀以上にわたってスタンバイしていたことも大きかったのではないだろうか。
だが、なぜ天皇家はほぼ一貫してさまざまな政権がくり広げる、権力闘争の舞台からほぼ一貫してさまざまな政権がくり広げる、権力闘争からは一歩しりぞたところで、一種の宗教的権威として存続することができたのだろうか。権力闘争から一歩引いてたこと自体は、天皇家の持続性を保証するものではなかった。」(259頁〜260頁)
「摂関政治華やかなりしことには、平安京の大内裏が草ぼうぼうの荒れ野と化し、その中の建物も何軒か化け物屋敷化していたという。当時の天皇家は、決して摂関家である藤原氏の敵対勢力として迫害されていたわけではなく、宗教的・儀礼的権威として重宝されていたというのに、この事実ほど、世界中の王朝の歴史の中で特異な現象はない。」(263頁〜264頁)
「こんなに自分の領土あるいは居城に執着を持たなかった王侯貴族というのは、世界中探してもほかにはないだろう。いや、もしいたとしたら宗教的・儀礼的な権威としての任務もかなぐり捨てて、世捨て人にでもなったいただろう。だが、日本ではここまで現世的な執着を持たない人たちの家系が、宗教的・儀礼的にはけっこう重要な職責をこなしながら連綿とつづいてきたのだ。
この現世的な資産に対する執着のなさは、ほぼ確実に日本の民衆が天皇家とともに語り伝えてきた汎神論的な世界観に依存するところが大きい。一神教徒たちには「原始宗教」として見下される汎神論の世界は、ありとあらゆるものが神々しさを宿しており、この神々しさを敬うのに、特定の権威のもとに統合される必要はないという、明らかに一神教より開明的なスタンスだ。
日本の神社の特徴として、ご神体は木であったり、岩であったり、雷であったり、渓流であったり、蛇であったりするが、こうしたご神体を仰々しく神殿に祀るという習慣はかなり長期にわたって存在しなかったことが挙げられる」(265頁)
○「現代までつづく日本人の源流」渡部昇一著(「日本の歴史」第1巻古代編 ワック(株)2011年)
○「天皇と摂政・関白」佐々木恵介著(「天皇の歴史」03巻 講談社 2011年)
平成25年10月05日作成 第090話