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  日本は、仏教を鎮護国家のために先ず受け入れた。東大寺の毘盧遮那仏(大日如来)は、「万代の福業万代の福業を脩めて、動植咸く栄えむとす」(743年大仏建立の詔)とあるように、聖武皇統の永続と、国家の安泰を願うものであった。
 道鏡が皇位を覗うことに象徴されるように、平城京において仏教勢力は力を持ちすぎたので、平安京をつくった桓武天皇は、奈良仏教の移転を許さなかった。一方、桓武天皇即位後の天武(聖武)皇統の抹殺や政争による怨霊を払う手段として仏教に頼らなければならないという事情もあった。
 隣国の唐では、安史の乱(755年〜763年)という深刻な内乱を経て、政治的には衰退期に入っていたが、仏教の隆盛を見ていた。
 教学中心の奈良仏教にあきたらず、仏教の先進国である唐で仏教を学びたいという要求は当然のことといえよう。そこで登場したのが、平安新仏教として伝教大師(最澄)の招来した天台宗と弘法大師(空海)の招来した真言宗であった。

 すでに名をなしていた最澄は、即戦力を期待された短期の視察を主目的とする請益僧として、無名の空海は、長期の研究学習をおこなう留学生として、奇しくも同じ804年の遣唐使に、随行して入唐を果たすこととなる。最澄38歳空海31歳であった。
 
 最澄は、767年比叡山の麓の滋賀県大津市に、後漢の献帝の末裔として生まれ、幼名を三津首広野という。12歳の時近江の国分寺で出家する。18歳の時、寂静の地をもとめて、比叡山に登り草庵で修行に入った。その時に5つの誓願を立てたという。
 第一 自分の修行の完成しない間は他人のことに口を出すまい。
 第二 悟りをひらくことのできるまでは、修行以外に心をむけまい。
 第三 仏の定めた戒法が守れない間は、ほかの法会には招かれても行くまい。
 第四 一切のものに対して執着がなくならないかぎり、世間の一切のことにかかわりあうまい。
 第五 これからの修行によって得る所の功徳は、ことごとく生きとし生けるものにめぐらし、一切をあげて悟りの境地に至らしめよう。(景山春樹の現代語訳による)

 そして、生涯をかけて、この誓願成就に精進するのである。認められて31歳のときに「内共奉十禅師」として宮中で、読経を行う僧に抜擢されている。
 最澄は、早くから隋の高僧である天台智(ちぎ)の「法華経」思想こそが自分の求めるものことを識り、 智没後200年を経た唐の天台山龍興寺で天台宗を学んだ。
 天台宗は、大乗仏教の教義である「悉皆成仏」(すべての人は仏となることができる)という思想を日本にもたらした。これは縄文以来の日本古来の大和思想に通底するものであった。縄文以来のすべてのものに神が宿るという神道的な共生の思想と結びついて「山川草木国土悉皆成仏」という大乗仏教の共生思想を日本だけに定着させた。
 鎌倉時代末の元寇や秀吉の朝鮮出兵、日露戦争においても、敵味方なく供養を行った。この日本標準の考えは、日本独自のものである。世界標準では、敵は死んでも敵であり、死者に鞭を打ち続けるのが当然の行為である。「恨みを水に流す」という日本と永遠に「恨みは忘れない」という欧米、イスラム諸国、中国朝鮮との違いである。古来の考えが仏教の隆盛によっても「敵我悉皆成仏」という日本独自の宗教観として定着した。この敵味方を区別しない寛容の姿勢のみによって世界平和が初めてもたらされるものであるといえる。日本が世界の思想をリードしなければならない所以のものである。
 最澄は、顕教とよばれる書物で学ぶことのできる教えの他、口伝で伝える救いの秘法である密教も学んで帰国した。
 帰国してみると桓武天皇を始め、平安貴族は、最澄のもたらした天台宗の顕教の教えよりも、副次的に学んだ加持祈祷によって病気平癒を祈る密教に関心をもっていることがわかった。この密教を空海が本格的にもたらし一世を風靡するのである。
 
 空海は、最澄に遅れること7年香川県善通寺市に、大伴氏の分家である佐伯氏に生まれた。母方は渡来系である阿刀氏である。幼名を真魚といい、天才の名をほしいままにし一族の希望の星として、奈良の大学で学んだが、期するところがあり、修験道の修行に入り、高野山や四国の石鎚山を始め、四国の山野を駆け巡った。修行の過程で密教経典「大日経」ではわからない密教の極意を唐で学びたいと願った。

 入唐してすぐ長安でインド僧から原典の言語である梵語(サンスクリット語)を学び、密教の法統を正統につたえる青龍寺の惠果和尚を訪ねた。
 惠果和尚は、空海の学識と力量に感服し、1000人の弟子をもつと言われていたが、待ちかねていたように、空海を自分の後継者とし、密教のすべてを半年で伝授し、

 「郷国に帰りて国家に奉り、天下に流布して蒼生の福をませ。然らば四海泰く、万人楽しまん。・・・努めよや、努めよや」(請来目録)

と励まし、慌ただしく入寂した。真言宗は、宇宙原理そのものである大日如来(毘盧遮那仏)を第一祖としてしている。大日如来直々の教えということになる。第七祖が惠果、そして第八祖として、空海が真言宗の正統を継承することとなった。 
平安新仏教 天台宗 真言宗
開祖 伝教大師・最澄〈767年〜822年) 弘法大師・空海(774年〜835年)
 
略歴 767年8月18日 誕生(滋賀県大津市)    
778年 出家 774年6月15日 誕生(香川県善通寺市)
785年7月17日 比叡山に入山    
788年 比叡山に草庵    
794年 平安遷都 797年12月1日 「三教指帰」出家宣言
    修験道修行(高野山・石鎚山等)
804年7月 入唐 越州龍興寺 804年8月 入唐 長安青龍寺
805年6月 帰国 806年10月 帰国
818年5月13日 山家学生式制定 816年 高野山に草庵
822年6月4日 56歳入寂 823年1月 教王護国寺(東寺)
    828年12月 綜芸種智院
    835年3月21日 61歳入寂
859年 円珍による天台別院(三井寺) 
道場 比叡山延暦寺・園城寺(三井寺) 高野山金剛峯寺・教王護国寺(東寺)
経典 法華経 大日経・金剛頂経
特徴 顕教(文章化可能の教え)と密教
「一切衆生悉有仏性」(万人成仏)「一隅にて千を照らす、これすなわち国の宝なり」(照千一隅此則国宝)
密教(言葉で表せない実践の教え)
「この身を持ったまま仏(悟った人)になる」(即身成仏) 加持祈祷

 空海のもたらした真言密教は、国家安寧、病気平癒、怨霊退散を願う当時の時流に受け入れられた。法具を持ち、手に印を結び、真言(マントラ)を口唱し、護摩をたき、仏の加護を求め病気平癒や除災招福などの現世利益を祈る修法は、日本仏教の伝統になってゆく。空海は、823年に教王護国寺(東寺)を平安京に賜り嵯峨天皇を始め、平安貴族の信頼を最澄以上にうることとなった。
 835年3月21日、61歳の時「56億7000年後に弥勒菩薩とともによみがえる」と弟子達に言い残して高野山で入寂した。
 空海の常識を越えた活躍により、日本全国にさまざまな弘法大師伝説が生み出され「お大師さん」として今なお慕われている。

 一方最澄の残した天台宗は、禅・密教・戒律・浄土教の要素を含む総合的な仏教であった。弟子達の教育にも熱心であり、818年に「山家学生式」を定めて、人材育成のために比叡山延暦寺での修行の方法を書き残した。一遍以外の鎌倉新仏教の教祖は、皆比叡山で修行している。法然、栄西、道元は比叡山で出家し、親鸞、日蓮は比叡山で修行した。最澄は将に日本仏教の祖といえる。
 「山家学生式」冒頭にある有名な言葉が「照千一隅此則国宝」である。天台宗において「千」は「于」と読み替えて、「一隅を照らすは、これ即ち国の宝なり」と解している。
 最澄の直筆によれば明らかに「于」ではなく、「千」である。中国の故事に出典(唐の湛の著「止観輔行伝弘決」)がある。それによれば「照千一隅」は、「照千里守一隅」の短縮形であるという。「一隅を守りて、千里を照らす。これすなわち国の宝なり」つまり、「自分の守る一隅をもって、千里を照らす人材こそ、国の宝である」という意味である。この方が気宇壮大といえる。最澄は、教育者として「照千一隅」の人材を育成することを願っていた。これが、鎌倉仏教の教祖を多くを輩出した、日本仏教の祖たる所以であろう。「照千一隅此則国宝」こころに残る言葉である。 

参考図書

○「こんな教科書で学びたい 新しい日本の歴史」 伊藤 隆ほか14名著(育鵬社 平成23年)
○「仏教伝来・日本篇」梅原猛ほか著(プレジデント社 1992年)
○「比叡山と高野山」景山春樹著(教育者歴史新書〈日本史〉29 1980年)
○「雅びなる平安京」梅原猛・尾崎秀樹・奈良本達也監修(「史話日本の歴史8」作品社 1991年)
○「最澄と天台教団」木内堯央著(教育社歴史新書〈日本史〉173 1978年)
○「弘法大師紀行」真鍋俊照著(平凡社 昭和49年)

平成23年10月10日作成 第073話