中国の天命思想にもとづき天皇の地位を道鏡に禅譲しようとして失敗した称徳天皇は、後継者を指名しないで亡くなった。群臣が天皇に選んだのは、議政官として政府の中枢を担っていた白壁王・光仁天皇(770年〜781年在位)であった。
光仁天皇は、天智天皇の孫で673年天武天皇の即位から約100年続いた天武系天皇から、天智系天皇への復活であった。光仁天皇の皇后は、称徳天皇の異母姉妹の井上内親王、皇太子は井上内親王を母とする他戸親王であり、聖武天皇の血統を受け継ぐ皇太子の存在が皇位継承のポイントとされた。しかし、まもなく、皇后、皇太子とも廃された。
光仁天皇の次には、天武天皇の血をまったく継承しない百済王の子孫である高野新笠を母とする桓武天皇(781年〜806年在位)が即位した。天皇即位には、母の血統が重視される時代にあって異例の即位であった。桓武天皇は、光仁天皇即位をもって新王朝の樹立と考えていた。
高野新笠の母は、土師真妹といい百舌鳥を本拠地として古墳造営に関わっていた土師氏の出身である。土師一族は、桓武天皇より、大枝(大江)、菅原、秋篠氏を与えられ平安官僚となってゆく。
新王朝の樹立にともない桓武天皇は、天武系の皇城である平城京からの遷都を計画した。
こうして784年長岡京への遷都が行われる。ところが、遷都の翌年長岡京造営長官であった藤原種継が暗殺された。背後に桓武天皇廃位計画があることが発覚した。さらに、二度の大洪水に見舞われ桓武天皇は、再遷都を和気清麻呂の建言によって決意する。こうして選ばれたのが、千年の都となる平安京であった。
平安京の造営長官は藤原小黒麻呂であった。長岡京と平安京の造営された山背国は、秦氏の根拠地であった。また、桓武天皇の母方の一族百済王族の根拠地でもあり、桓武天皇もここで育った可能性がつよい。山背国は、794年の平安京遷都にあたり、山城国と改称された。藤原種継の母と藤原小黒麻呂の妻は、秦氏の出身である。村上天皇(946年〜967年在位)の日記には、「大内裏は秦河勝の宅地跡に建っている」とある。大内裏にある右近の橘は、河勝の屋敷の庭にあったものであった。
秦氏は、長岡京と平安京の造営にあたり、その一族の財力を上げて取り組んだ。造営関係の役職にも、多くの名を連ねている。
秦氏は謎の氏族で、日本書紀によれば、応神天皇や仁徳天皇の時代に大挙来日している。巨大な応神陵や仁徳陵も秦氏の土木技術の粋をあつめて造営された。百舌鳥古墳群・古市古墳群一体に本拠地をおく土師氏も秦氏の一族であったかもしれない。高野川、加茂川、桂川の流れをかえ、整備して豊かな京都盆地を作り上げたのも秦氏であった。
5世紀以降の京都の歴史には、秦氏の名前がしっかりと刻まれている。特に太秦(うずまさ)には、秦氏の秘密が眠っている。元糺の森にある秦氏創建の蚕の社には、三本柱の鳥居があり、清めの池がある。糺の池は、身を清めるための池である。イスラエルには身を清めるバプテスマの池がある。それにちなんだものか。なお、京都の左京区の下鴨神社には、糺の森と糺の池がいまも残されている。下鴨神社も秦氏の一族の鴨氏により創建された。太秦の広隆寺は秦氏の氏寺であり、境内であったところに「いさら井」の井戸が今も残されている。「いさらい」は、イスラエルをさすとされている。
佐伯好郎や三村三郎、宇野正美など、秦氏=ネストリウス派キリスト教徒であり、ユダヤ人であるという説を主張する人も多い。秦氏の本拠地の太秦(ウズマサ)は、秦氏の総帥の称号であったということである。「ウズマサ」は、は古代オリエントの言葉であるアラム語の「イシュ・メシャ」(訛りによっては「イズ・マシ」「ユス・マサ」などと発声)のことであり、日本語に直すと「イエス・キリスト」となる。つまり、秦氏の当主に対して「イシュ・メシャ」と尊称していたことになる。メシヤ(救世主)は、ダビデの王統から出るというのが、聖書の預言である。太秦の大酒神社は、もと大辟神社と書かれていた。この大辟は、中国ではダビデ王を指すことがあきらかになっている。
平安京の南には八坂神社がある。八坂神社のあたりを祇園とよぶ。八坂は「ヤーサカ」を表し、ヤーの神つまりヤハウェ神を祭る神社であった。
秦氏の出身地である古代イスラエル王国では、エルサレムを首都とし、ダビデの子孫が王として君臨していた。シオンの丘には、ヤハウェの神殿があり繁栄を約束していた。
イスラエルの後継であるユダ王国の滅亡後、東漸した秦氏は、この京都の地をエルサレムになぞらえ、シオンの丘になぞらえ祇園と命名した地に八坂神社を建立しヤハウェ神を祭っていたのではないだろうか。
この地に桓武天皇が都を築くにあたり、桓武天皇がダビデの子孫であるという確証があったからこそ、秦氏一族が財を傾けて全力で造営に協力し、一族のシンボル的存在であった秦河勝の屋敷を大内裏として寄進したのではないだろうか。
エルサレムは、平安の京と云う意味であり、桓武天皇が遷都する前からの名称であった。あるいは桓武天皇の京都になるにあたり、古代ユダヤ王国の再建を祝い秦氏一族がたたえた平安京の名を、桓武天皇が追認したにすぎのないのではないか。
古代名族の秦氏の名は、中央政界から平安遷都後に急速に消えて行く謎の氏族である。藤原氏の姻族として吸収されたのか。私財を傾けて造営した平安京の果実を天皇家や藤原氏に奪い取られて衰退したのか。
参考図書
○「聖武天皇と仏都平城京」天皇の歴史02 吉川真司著(講談社 2011年)
○「律令国家の転換と『日本』」日本の歴史05 坂上康俊著(講談社 2001年)
○「失われた原始キリスト教徒『秦氏』の謎」飛鳥昭雄 三神たける著 (学習研究社 1995年)
○「古代ユダヤの刻印」宇野正美著(日本文芸社 平成9年)
平成23年02月12日作成 第069話