日本書紀によれば、初代の神武天皇が紀元前660年、奈良の橿原で即位した。以来第32代の崇峻天皇(在位587〜592年)までの時代を、大和政権の時代とよぶ。弥生時代、古墳時代を包含する時代である。
次の33代推古天皇(在位592〜628年から第43代元明天皇(707年〜715年)までを飛鳥時代呼び、元明天皇の710年からは奈良時代となる。
この大和政権の時代については、古事記と日本書紀(あわせて「記紀」という)の記録、考古学の知識、近隣諸国の記録によってさまざまな国家像が描かれてきている。
三王朝交代説は、水野祐が昭和29年(1954年)『増訂日本古代王朝史論序説』を発表したことに始まる。水野祐によれば、大和政権の時代、初代神武天皇から第9代開化天皇ほか、18代の天皇は創作された架空の天皇であるとしている。その上で紀元200年ころ成立したとされる第10代の崇神天皇より始まる王朝、363年頃の第16代仁徳天皇より始まる王朝、そして500年頃の第26代継体天皇より始まり現在の天皇家に至る王朝があるという。これによると、大和政権の成立は、纒向遺跡(まきむくいせき)の成立の頃の200年頃になる。現在の天皇家は継体天皇より始まり、1500年の歴史を経過しているということになる。
これに対して、鳥越憲三郎は、神武天皇より第9代の開化天皇までは、実在の天皇であるとして 葛城王朝説を唱えた。現在では、崇神天皇より始まる王朝を三輪王朝、応神天皇より始まる王朝を難波王朝とか河内王朝、継体天皇より始まる王朝を近江王朝などと呼ばれている。
王朝 |
日本書紀による天皇 |
日本書紀による年代 |
葛城王朝 |
初代神武天皇〜10代開化天皇 |
前660年〜 |
崇神王朝(三輪王朝) |
11代崇神天皇〜14代仲哀天皇 |
前97年(水野説200年頃)〜 |
応神王朝(河内王朝) |
15代応神天皇〜25代武烈天皇 |
紀元270年(水野説363年頃)〜 |
継体王朝(近江王朝) |
26代継体天皇〜 現在まで |
紀元507年(水野説ほぼ同年)〜 |
これらの説の根拠となるのは、日本書紀である。歴史は権力者の都合のよいように書かれる。しかし、日本書紀は、720年に作られた正式な歴史書である。これに基づき6世紀初めの継体天皇即位までの大和政権時代を概観してみたい。この継体天皇の時代から、実年代と日本書紀の年代が一致してくるといわれているが、ここでは、日本書紀の年代で記述することとする。
初代神武天皇(在位前660年〜前585年)と第10代崇神天皇(在位前97年〜前30年)の記述に「ハツクニシラススメラミコト」の記述がみられる。初めて国を治められた天皇という意味である。
第11代垂仁天皇(在位前29年〜70年)の26年(約2000年前)に伊勢神宮が創建された。皇女倭姫が、神の導きのまま、伊勢国の五十鈴川の川上に建てたと伝えられている。天皇に伝えられる三種の神器のうちの八咫鏡(ヤタノカガミ)を祀る。三種の神器とは、天孫降臨の時に、天照大神から授けられたとする鏡・剣・玉を指す。つまり「八咫鏡」「八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)」「天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)」(別名「草薙剣」)をさす。
第12代景行天皇(在位71年〜130年)の時代、皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、東奔西走して活躍していた。叔母の倭姫より伊勢神宮で三種の神器のうちの草薙剣(くさなぎのつるぎ)を護身用に預かり、東国平定を行い、后のミヤズ姫の手元に預けて、帰国の途中なくなった。現在、草薙剣はミヤズ姫の親元であった尾張氏の本拠地であった熱田神宮で祀られている。
日本武尊の皇子である第14代仲哀天皇(在位192年〜200年)の后であった神功皇后は、仲哀天皇没後、即位しないまま69年政務(201年〜269年)を執られたとある。神功皇后には「朝鮮征伐」つまり朝鮮出兵して新羅と百済の王を服属させたとの伝承がある。軍事のことをほとんどふれていない古事記にも、朝鮮出兵の記録が珍しく載せられている。西日本各地に朝鮮出兵に関する多くの伝承があり、8世紀頃には成立していたことが、確認されている。このことから、朝鮮出兵は事実ではないか。朝鮮出兵に恨みをもつ記紀の著作者より、天皇即位の事実を抹殺されたのではないか。
第15代応神天皇(在位270年〜310年)の時代は、朝鮮半島より渡来人がたくさんやってきた。秦氏の祖である弓月の君もこの時代に来日してきた。
第16代仁徳天皇(在位313年〜399年)と共に応神天皇は、聖王として伝えられている。「日本書紀」(宇治谷孟の訳による。)の仁徳天皇の巻には、「高殿に登って遙かに眺めると、人家の煙があたりににられない。これは人民たちが貧しくして、炊ぐ人がないのだろう。…今後3年間すべての課税をやめ、人民の苦しみを柔げよう。」三年後、「人家の煙が国に満ちている。人民が富んでいるからと思われる」。とあり、古代天皇の理想像として描かれている。
|
仁徳天皇陵(大山古墳)
日本最大の前方後円墳で、5世紀中頃の築造と考えられており、墳丘の全長486m、前方部の幅約305m高さ33m、後円部経約249m高さ約35mある。3重の濠が廻らされており、御陵域は、濠を含めて47万平方mとなり、甲子園球場が12個はいる。周囲を歩くと約40分かかり、面積で言えば世界一の陵墓である。大林組が1985年に行った試算では、古代の工法そのままで現在施工したとすれば、1日辺りピーク時には2000人を動員したとしても、述べ6807000人、工期は15年8ヶ月、総工事費796億円になるという。
仁徳天皇は、中国の歴史書にある倭の五王の一人であるとされていますが、倭の五王について興味ある記述があります。「『倭の五王』が大陸側に対して自称した『倭国』とは九州分国の国称です。応神王朝の歴代大王が中華南朝に対してこれを用いたのは、陣地の縦深化を図る國體勢力の策略から発したもので、大陸に浸透してくる騎馬勢力に日本列島の実情を知らせないためです。つまり『倭の五王』とは応神王朝の五代にわたる天皇ですが、人物の比定に辻褄が合わない部分があるのは、分国の王に偽装したことから家系関係や細かい年代が合わないだけで、気にすることではありません。」(「天孫皇統になりすましたユダヤ十支族」落合莞爾著)
|
第21代雄略天皇(在位456年〜479年)は、中国の「宋書」列伝にある、「倭の五王」のうちの「武」にあたるとされている。和名が、大泊P幼武天皇(おおはつせわかたけるすめらみこと)であり、このワカタケルの「武」を取ったとみられるからである。
埼玉県行田市の稲荷山古墳より1968年に出土した刀剣銘に「ワカタケル大王」とあり、オワケ臣が「天下を佐治(大王の統治を補佐)したとある。熊本県菊水町の江田船山古墳出土の刀銘も「治天下ワカタケル大王」と読めるとされている。このワカタケル大王こそ、雄略天皇であるとされている。
「武」は、宋の皇帝にあてた上表文の中で、北朝鮮の高句麗の非道を訴え、我が先祖は苦労して、朝鮮半島の95国を平定したとのべている。日本書紀によると高句麗ではないが、実際に新羅に出兵している。
但、日本書紀の天皇に関する記事と、中国史書に名を残す5世紀の「倭の五王」に関する記事とは一致点は少なく、まったく無関係であるということもあり得るかもしれない。
「天皇は、自分の心だけで専決されるところがあり、誤って人を殺されることも多かった。天下の人はこれを誹謗して『大へん悪い天皇である』といった。」とある。暴虐な天皇とされているが、「天皇がお生まれになった時、神々しい光が御殿に充満した。生長してからそのたくましさは人に抜きんでていた。」ともある。「万葉集」の冒頭にも暴君とは結びつかないおおらかな君主としての歌が掲載されている。むしろ名君ではなかたったか。なお、分散していた機織の民の代表である秦氏をまとめて、天皇の直轄にしたとある。
第25代武烈天皇(在位498年〜506年)は、小泊P稚鷦鷯天皇(おおはつせわかさぎのすめらみこと)といい、小泊Pと大泊Pとを対にして、第21代の大泊P幼武天皇(おおはつせわかたけるすめらみこと)と共に暴君の代表とされている。「妊婦の腹を割いてその胎児を観られた。」「人の生爪を抜いて、山芋を掘らせた。」「人を樹に登らせて、弓で射落として笑った。」「淫らな音楽を奏し、奇怪な遊びごとをさせて、ふしだらな騒ぎをほしいいままにした。日夜後宮の女たちと酒におぼれ、錦の織物を褥(しとね)とした。」とある。余程武烈天皇に恨みのある者が日本書紀を書いたに違いない。これでは、中国の史書にある夏の桀王や殷の紂王の滅亡物語と同じである。
第26代継体天皇(在位507年〜531年)は、応神天皇の5世の孫であるとされる。皇嗣が絶えたので大臣の大伴金村が、福井県から連れてきて、第24代仁賢天皇の娘を皇后とした。遠い分家から入り婿になったのである。
この大和政権の時代に、天皇は、「天(あま)つ神(天の神々)」の子孫として、自ら神を祭祀し、神意を体して国政を見るというスタンスが確立した。これは、今日に至るまで、本質的に変化していない。天つ神から与えられたとされる、三種の神器を皇位継承の証として代々伝えてきた。血統が変わろうとも、皇位継承の儀式を通じて、「天つ神」に授けられた権能を前天皇から継承してこの伝統を伝えてきた。今でも、春には田植えをし、秋には収穫を行って、五穀豊穣を神に祈り感謝することを毎年行っている姿の中に伝統が脈々と伝えられてきている。源平の合戦ののち、武家の世になり、武家の政権争奪がおこなわれても、この元首として天皇という国の中心があったからこそ、根絶やしの天下争奪が行われなかったのではないか。
奇跡の明治維新、奇跡の昭和戦後の復活があったものこの天皇によるところが多いと知日家には評価されている。「天皇について」の項目に取り上げたアインシュタインの言葉がそれを象徴している。天皇なくして、日本としてのアイデンティティをどこに求めればよいのか。日本の伝統も文化も天皇を抜きにして語れるものではない。逆に言えば、天皇を否定すれば、日本は浮き草のような根無し草になってしまうのではないか。これでは、日本国は、崩壊にまかせるほかなかろう。国家が崩壊すれば、どれだけ悲惨な国になるかは、内乱にあけくれる国や秩序の崩壊した国の例を見れば十分であろう。集団が滅びるとき、個人の生活もまた崩壊するのである。誤解されてはこまるのは、戦前の侵略思想とむつびついた皇国思想を復活すべきあるといっているのではない。冷静に日本のアイデンティティと不可分に結びついた天皇についてもっと敬意を表すべきではないかという意見である。
参考図書
|
大仙公園・仁徳天皇像
高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり(古今和歌集巻7賀歌巻頭)
宇治谷訳では「人民」と訳されているが、原文は「百姓」で、大和言葉で「おおみたから」と読む。漢字にあてると「大神宝」と書く。この様に国民を大神宝とよぶ王族は、世界広しといえども、日本の天皇家だけである。 |
○「大阪アースダイバー」中沢新一著(講談社 2012年)
「八十島のナニワ
ナニワが出来上がるのは、じつに長い時間がかかっている。なにしろナニワは堅固な土地の上に、なんの雑作もなく出来た町ではなく、淀川の運び込む土砂によって、いだいしだいに埋め立てられた砂州の上につくられた、まさに文字通りの「新世界」であったからだ。
淀川が運んできた土砂は、まず上町大地の北端に堆積をはじめ、そこに天満砂州をつくりだした。砂州はそこからさらに南に伸びて、船場や島之内のあたりにも、葦の密集する砂の土地が出来ていった。その砂州が固まりだした頃、そこからさらに下流に向かって土砂の堆積は進んでいき、流水は柔らかい砂をえぐって、淀川はまるで「蛸の足」のように分流していった。
その結果、五世紀の頃のその潟には、大小数えきれないほどの島々が、海面にぼこぼこと顔をあらわしている、じつに不思議な風景ができあがっていた。今日でも大阪には、中之島、堂島、福島、網島、出来島、姫島など、島のつく地名がやたら多い。そられの土地は、文字通り砂州から成長していった島だった。たくさんの島、という意味で、それらの砂州島は「八十島」と呼ばれた。
たくさんの島が浮かぶその潟は、すでにその頃に「ナニワ」と呼ばれている。そのあたりの潮の流れが急であったから、「浪速(ナミハヤ)」と呼ばれたのだという説や、魚がたくさん獲れる豊かな海であったから、「魚(ナ)庭(ニワ)」と命名されたのであるという説など、この地名をめぐっては、古くからもっともらしい諸説がいくつもあるが、なかでも私が心引かれるのは、「ナニワ」ということばを、「太陽」と「生成」をいっしょにあらわす、古代朝鮮語の「ナル(nar)」に結びつけて考えようという説である。
太陽は、朝に東の山の端から生まれて、夕べには西の海に没していく。古代人は、太陽の動きの中に、この世界に生まれ出ては、ふたたび死の世界に入って消えていく、「大いなる運動するもの」を見て、その存在を讃えていた。ナルは生成するものであると同時に、そのような太陽をも意味していた。
その太陽を讃える祭祀をおこなう聖地のことを、「ナルニワ=太陽の庭」と呼んだ可能性がある。そしてこの「ナルニワ」が「ナニワ」に転化した、という説である。この考えによれば、「奈良(ナル→ナラ)と「ナニワ」は、同じ系統の呼び名だということになる。
ナルニワ国の物語
五世紀に、上町大地の北端に宮殿を営んだ王朝は、「河内王朝」と呼ばれる。この王朝の大王(天皇)たちは、大宮の中に設けられた社で、巫女たちによる太陽の祭祀を毎日おこなっていた。ところが興味深いことに、その大王たちは即位の儀式である大嘗祭の翌年、ナニワ潟に生まれ出ていた砂州島に向かって、「八十島祭」という風変わりな儀式をおこなったのである。
王宮には、生まれ出る島そのものをお祀りする役目の生島御巫と、大地の地主神をお祀りする役目の坐摩御巫[いかすりみかんなぎ]という、二種の巫女がいた。この巫女たちが、大嘗祭の翌年に祭使となって、圓江(つぶらえ・いまの船場の靭公園のあたり)にあった、特別な祭場に出かけていった。
巫女たちはおごそかに、新天皇のまとうことになる衣服を入れた箱を運んで行った。眼前に浮かぶ島々に向かって、巫女がポロポロンと琴を奏でる。それに合わせて、御衣の箱を開いて、島々の霊力を呼び込み、その霊力を御衣に付着させる所作をおこなうのである。
巫女たちの想像には、眼前にひとつの大きな「生成する宇宙」の出現する様子が見えていた。波立つ広々とした海。そこに無数の島々が、つぎからつぎへと生まれ出てくる、想像の光景である。生まれ出る島々の中心には、淡路島があった。淡路島は、生成する八十島たちの「胞衣(えな)」と考えられた。
この胞衣に包まれるようにして、水底からぼこぼこという泡立ちとともに、たくさんの島々が新生児として生まれ出てくる。巫女たちの目の前に広がるのは、まさにナルニワであって。そこから吹き寄せてくる生成の息吹を、巫女たちは注意深く集めて、新天皇のまとうことになる御衣に付着させようとした。
大嘗祭では、真床御衾(まどこおふすま)という布団(一説には産着)にくるまって、天皇霊を付着させ、新生児として生まれてくる儀式をおこなった新天皇は、その翌年に、こんどはナニワの八十島から吹き寄せてくる生成の霊力を、自分の着る衣服に付着させようとしている。よくよくこの国の大王は、自分を新生児のイメージと結びつけたかったのである。しかし、こういう考え方は、中国大陸で発達した権力の思考の中には見出すことはできない。これもまた一種の、日本オリジナルな政治思想の表現である。
この列島では、権力はいと高き天からもたらされるのではなく、母胎や海の中から生成してくるという思想が、古くから保持されていたのである。天皇という日本に独自の王権には、どうも深いところで新生児のイメージがセットしてあって、そのことは特に、ナニワの地を舞台にした河内王朝で、強力に表現された。じっさいこの王朝を代表する応神天皇などは、母である神功皇后に抱かれた子供も姿で描かれることが多かった。
ナニワ潟で生まれていた大小の島々こそ、このような思想を表現するのに、もってこいの場所であった。「くらげなすだだよえる」ように生成するものは、不確定の空間にぐんぐんと、カビの胞子のような芽を伸ばしていく。
この芽は、まだ存在の世界に姿をあらわしきってはいない。「ある」と「ない」の中間を生きているのがナルの世界であり、これに空間という意味のニワ(庭)をくっつければ、ナニワの語源と考えられるナルニワが出てくる。難波の町は、このようにして出来た、柔らかいナルニワの上につくられてきた世界なのである。」(074頁〜078頁)
○「全訳―現代文 日本書紀 上巻」宇治谷孟訳(創芸出版社 1986年)
「(巻第十一 仁徳天皇 大鷦鷯天皇(おおささぎのすめらみこと)…
四年春二月六日、群臣に詔して、「高殿(=難波高津宮の高殿)に登って遙かに眺めると、人家の煙があたりに見られない。これは人民(=大和言葉で「おおみたから」=大神宝)たちが貧しくて、炊く人がないのだろう。昔、聖王の御代には、人民は君の徳をたたえる声をあげ、家々では平和を喜ぶ歌声があったという。今自分が政について三年たったが、賞める声も起こらず、炊煙はまばらになっている。これは五穀実らず百姓が窮乏しているのである。都の内ですらこの様子だから、都の外の遠い国ではどんなであろうか」と。
三月二十一日、詔して「今後三年間すべて課税をやめ、人民の苦しみを柔げよう」と。この日から御衣や履物は破れるまで使用され、御食物は腐らなければ捨てられず、心をそぎへらし志をつつまやかにして、民の負担を減らされた。宮殿の垣はこわれても作らず、屋根の茅はくずれても葺かず、雨風が漏れて御衣を濡らしたり、星影が室内から見られる程であった。この後天候も穏やかに、五穀豊穣が続き、三年の間に人民は潤ってきて、徳を賞める声も起こり、炊煙も賑やかになってきた。
七年夏四月一日、天皇が高殿に登って一望されると、人家の煙は盛んに上がっていた。皇后に語られ、「自分はもう富んできた。これなら心配はない」と。皇后が「なんで富んできたといえるのでしょう」といわれると、「人家の煙が国に満ちている。人民が富んでいるからと思われる」と。皇后はまた「宮の垣が崩れても修理もできず、殿舎は破れ御衣が濡れる有様で、何で富んでいるといえるのでしょう」と。天皇がいわれる。「天が人君を立てるのは、人民の為である。だから人民が根本である。それで古の聖王は、一人でも人民に飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた。人民が貧しいのは自分が貧しいのと同じである。人民が富んだならば自分が富んだことになる。人民が富んでいるのに、人君が貧しいということはないのである」と。(214頁〜251頁)
○「図説歴代天皇紀」水戸部正男編著肥後和男・赤木志津子・福地重孝著 秋田書店 平成元年)
○「日本古代の国家形成」水野祐 著(講談社現代新書128 昭和42年)
○「天孫皇統になりすましたユダヤ十支族」落合莞爾著(成甲書房 2016年)
平成19年05月28日作成 平成30年01月05日最終更新 第029話