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  弥生時代(前1000年頃〜後250年)の特徴は、水稲稲作にあります。日本での稲作自体は、縄文時代にさかのぼることがわかっています。 前1500頃には、岡山県総社市の南溝手遺跡や青森県八戸市風張遺跡から縄文米の痕跡がみつかっています。陸稲です。

 
 
従来より水稲稲作の始まりが弥生時代の始まりとされてきました。紀元前1000年が弥生時代の始まりです。炭素同位対比を使った測定法の確立により従来前300年頃とされていた弥生時代の始まりが紀元前1000年頃とされるようになりました。

 前1000年頃始まるとされる弥生時代の稲作は、渡来人の侵入と深い関係があります。北九州の板付遺跡に代表される、渡来人の集落が、環壕(環濠)をもって出現してきます。環濠(環壕)集落といっても、細かく言いますと南朝鮮から侵入した人びとのカラ堀の環壕集落と、中国の長江付近から侵入した人びとの水で濠を廻らす環濠集落という区別はあるということです。福岡県付近の北九州では、南朝鮮系の青銅製武器、土器、石包丁などが残されており、有明海付近では、中国長江流域起源の遺物が多い弥生遺跡が発掘されています。急速に、弥生式とでもいえる稲作と環濠(壕)集落が西日本に浸透していきます。

  弥生時代に入って戦争が始まったと言われていますが、どちらにしても、濠(壕)を廻らさなければならない侵略者でありました。縄文時代には、矛や銅剣などの武器は発掘されてません。渡来人と共に戦争がはじまり、武器も流入してきます。槍や矢じりの刺さったままの埋葬者も多く出土しています。渡来人の主導によって、弥生時代の稲作が浸透し、縄文人も稲作を取り入れて急速に弥生人化してきます。友好的に縄文から弥生時代に変化していったようにも見えますが、圧倒的な青銅器などの武器と稲作技術をもつ渡来系弥生人が支配者として君臨していったのではないでしょうか。銅鐸や銅矛、銅剣、銅鏡などがクニの王(首長クラス)の墓とみられる墳丘墓などからみられるようになります。
 
 池上曽根遺跡の「やよいの高殿」と「いずみの大井戸」/手前は石器埋納施設  監視役の木の鳥(本来は環濠の出入口)
 大阪府和泉市と泉大津市にまたがる、池上曽根遺跡は、60万平方メートルの規模をもつ全国有数の環濠集落である。弥生時代の前300年〜後200年にかけて営まれ、二重から三重の環濠に囲まれている。円形の環濠とすると、440メートルの円の中にすっぽり入る大きさである。池上曽根遺跡では、環濠のそばから、鳥をかたどった木製品が見つかっている。韓国では、今日でも木の鳥を村の出入り口に立てている。邪悪なものが村に出入りするのを知らせる役割を担っている。案外、鳥居のルールもこの辺にあるのではないか。鳥に出入り口を監視させるという韓国の風習は、神社の入り口をかざる「鳥居」に通じるのではないか。鳥居としめ縄の組み合わせは、しめ縄で、神を閉じこめて、外側ではなく内側を鳥居で監視する。神社は、祀っている神を啓して遠ざけているのではないか。見方をかえれば、神社の祭神は、しめ縄が大きいほど閉じこめられ、鳥居が大きいほど監視されているようにも思える。出雲大社の大きなしめ縄をみると、なにか、歴史的背景があるのかと疑いたくなる。また、濠の中から、豚の下顎の骨がまとまって出てくる。豚は、中国では魔除けの象徴となっています。邪悪なものを長い牙(当時の豚は長い牙があった)と獰猛な性格によって追い払う。池上曽根遺跡は、渡来人によってもたらされた稲作の水田を周りに持つ集落の南大阪における拠点的なクニの遺跡である。 遺跡の中央には、掘立柱建物があり、建物の南側には、直径2.3メートルの楠をほり抜いて井筒にしている日本最大の掘り抜き井戸があります。「弥生の神殿」と称されているものです。この建物と真南の中央にある巨大な掘り抜き井戸は、なんらかの儀式、祭礼の中心施設ではないか。

 佐賀県の吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里遺跡は、紀元前3世紀から紀元3世紀に至る弥生時代を通じて発達したクニの遺跡です。遺跡の中心には、北内郭と南内郭があります。北内郭は、弥生後期の1世紀から3世紀の最盛期につくられたV字型に二重に掘られた環壕で、内部だけでも40万平方メートルの規模となる。主に神への祈りの空間であったようで、斎場棟、主祭殿とされるもののほか、巨大な物見櫓があります。南内郭は、2.5万平方メートルあり、二重の環壕の他、城柵で囲まれている。四棟の物見櫓ほか、王の住まい等支配者層の居住地域となっています。吉野ヶ里遺跡からは、当時珍しかった鉄製の武器もたくさん見つかっていて、武力で周りを征服してゆける力をもっていました。池上曽根遺跡と同様、壕の中からは、中国で魔除けに使われた豚の骨も多数見つかっています。一般の人の居住地域、市場、倉庫等の地域もあります。戦死者を埋葬した墓も出土しており倭国大乱(2世紀末)の様子が見て取れます。
     
 北内郭の主祭殿  南内郭の物見櫓(3枚とも佐賀県教育委員会)
 弥生時代には、環濠(壕)集落の他に、高地性集落が出現します。高地性集落は明らかに戦国時代にいう山城です。第1次高地性集落は、前1世紀後半から、1世紀前半の中期後半に瀬戸内海沿岸を中心に出現します。あたかも九州の勢力が近畿に侵略するのに備える布陣になっています。 第2次高地性集落は、紀元200年前後に出現し、西日本全般にみられるようになります。この頃の日本は、墳丘墓や青銅器の特徴から、北九州勢力(筑紫)、吉備(岡山)勢力、播磨(兵庫)、出雲・北陸、近畿、尾張勢力などにわかれて、まとまりをなしていたことがわかります。倭国大乱です。第3次高地性集落は、3世紀に出現し、越(新潟県)や東海地方など北陸道、東海道に沿った地域にあらわれ、ヤマト政権の東国志向を反映しています。

 紀元後200年を過ぎると、箸墓古墳などがある奈良県櫻井市に運河などをもつ計画都市が突然出現します。纒向遺跡(まきむくいせき)です。 運河は、5メートル幅で、当時淀川方面にながれていた大和川につながっており、大阪湾に出ます。つまり、舟で直接纒向遺跡に行けました。また、掘立建物も多数みつかっています。大物主を祭る三輪山にも隣接しています。記紀では、垂仁天皇、景行天皇、雄略天皇の宮城が在ったところとされています。
 朝鮮製土器をはじめ、東は関東地方に至る日本各地の土器等が出土し、未発掘のところが発掘されれば、宮城跡も見つかるに違いないと櫻井市の教育委員会の方がおっしゃっておられました。纒向遺跡は、ヤマト政権の首都機能をになっていたのではないかと推測されます。弥生時代の終焉は、200年から250年頃とされています。ちょうど、弥生時代の終焉と古墳時代をつなぐ重要な遺跡です。古墳時代になると、環濠(壕)は埋められ、池上曽根遺跡や吉野ヶ里遺跡の集住は解消されます。なお、纒向遺跡は、4世紀末になると、放棄されています。

 約3000年前に縄文に代わって、弥生時代となりました。弥生土器は縄文土器と違って実用的な器です。機能的な美しさがありますが、縄文の温さは消えています。長くつづいた芸術心豊かな平和な時代から、戦いの時代への切り換えを端的に示しています。

 大陸から新しい技術や武器を持った人びとが集団で渡来し、先住民と渡来人の争いが起きるようになり、縄文人は次第に山奥や僻地へ逃れるようになりました。約2600年前、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)が九州の高千穂の宮から大和にでて橿原の宮において即位されました。 日本列島に中国大陸や朝鮮半島から外国の文化や技術が流入し、物質開発が進みました。

 弥生時代の始まりと神武天皇の東征伝説―不思議と時代考証と伝承が一致するようになってきました。

参考図書

○「古代日本史―神武天皇・古代和字―」岩邊晃三・富永浩嗣著(錦正社 平成22年)
  ※原文は旧かなづかい・旧字体
 「昨今、縄文時代の遺跡から米粒が出土していることから、稲作の起源が縄文時代に遡って考えられることが多いが、佐藤洋一郎氏が『イネの歴史』[京都大学学術出版会、2008年)で述べるように、『縄文時代の稲作は、水田を伴わない、例えば焼畑のような稲作であった』ということからみると、縄文時代の稲作は、陸稲(おかぼ)としてで、水田が普及したのは弥生時代に入ってからであることを考えるのが妥当と思われる。
 ここで、付言しておきたいことは、縄文時代に水稲としての稲作が全く存在しなかったということではない。陸稲を食していたのは、一般のことである。ここで、斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅に注目しておく必要がある。
 天孫降臨の際、天照大神が孫の瓊瓊杵尊らに下した三大神勅といわれるものがある。第一は、天壌無窮の神勅であり、第二が、宝鏡奉斎の神勅で、第三に、斎庭の稲穂の神勅がある。
 この斎庭の稲穂の神勅は、『吾が高天原(たかあまはら)に所御(きこしめ)す斎庭の稲穂を以て、亦吾が児(みこ)に御(まか)せまつるべし」というものである。この意味は、わが高天原で作っている神に捧げる稲を育てる田んぼの稲穂をわが子まかせようということであり、この神勅は、高天原で行われていた米作りをそのままこの地でも行うべしという命令である。この斎庭の稲穂の神勅で言われる稲穂は水稲の可能性も存在する。しかし、それが水稲であってたしても、神に捧げる儀礼的なものであり、主食として常食するものではなかったと考えられるのである。
 米を水田で作る場合、水田には大量の水が必要となる。その水は川などから水路を引いてくるのであるが、その工事には大勢の働き手が必要であり、それを統率する権力者が存在することになる。
 日本に水田が普及したのは弥生時代に入ってからである。水田の普及は、国家的規模で一大権力者の手によって展開されていったと見ることもできる。水田稲作と言っても単なる水田でなく、潅漑水田である。その潅漑水田を日本全国に普及させ、当時の生活文化を一新させたのは、一大権力者としての初代天皇・神武天皇であると推定できる。
 ところで、国立民族博物館によって、炭素十四年代の較正時代に基づいて弥生時代の実年代が提示されて、弥生時代開始の実年代がこれまでの推定より四百〜五百年遡ることとなった。したがって、弥生時代は紀元前900年〜紀元前500年ということになる。神武天皇は紀元前660年に日本を建国したとされている。水田の普及する弥生時代の始まりと神武天皇とは時代的に整合性がみられるのである。」(57頁〜58頁)

「日本古代史 都市と神殿の誕生」広瀬和雄編著(新人物往来社 1998年)

平成19年05月08日作成 平成25年10月23日最終更新  第026話