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高校生のためのおもしろ歴史教室>日本史の部屋

3.日本の国旗国歌について

  国旗国歌は、その国の国柄を象徴的にあらわします。アメリカの国旗はイギリスから独立した13の州を表す星13個からはじまり、州の加盟の増加と共に今は50の州を表す星50個になっています。赤白の縞模様は、赤は母国であったイギリス、白は独立を表しています。

 また、13本の縞模様は、独立当時の13の州を表しています。国歌「星条旗よ永遠なれ」は、経済的独立を賭けた第二次英米戦争を戦うための軍歌でした。現在アメリカ合衆国は、欧米流の民主主義の守護者として、民主主義を守るためには、戦争もいといません。この戦闘的な国歌も国是を表しています。他の国旗・国歌も同様に、それぞれの国柄を象徴的にあらわしています。

 日本の国柄を一言で表現すれば、天皇の君臨する世界最古の立憲君主制国家であるということです。
 アメリカ合衆国のCIAの作ったウエブページFactBookには、2011年11月15日まで、「Independence:660B.C.(traditional founding by Emperor JIMMU)」とはっきり記されていました。現天皇家のご先祖様である「神武天皇によって伝説によれば紀元前660年に建国された」とありました。

 エンゲルベルト・ケンペル (1651~1716年)は「"宗教的世襲皇帝"の王朝は、キリスト以前の660年がその始まりである。・・・この年からキリスト紀元1693年にいたるあいだ、すべて同じ一族に属する114人の皇帝たちがあいついで日本の帝位についた。彼らは、日本人の国のもっとも神聖な創健者である『テンショウダイシン(天照大神、あまてらすおおみかみ)』の一族の最古の分枝であり、彼の最初に生まれた皇子の直系である等々のことを、きわめて誇りに思っている。」【出典:『江戸参府旅行日記』斎藤信訳 (東洋文庫303 平凡社)】と記しました。

 17〜18世紀のヨーロッパ人は、すでに、中国人と同様に、「日本人は万世一系の皇統であり、異例なき最古の一族である」という概念を受け入れていました。
 FactBookの「伝説」というのは、日本書記の記述です。『日本書紀』に書かれた日本建国の日付を、西暦に計算し直して紀元前660年としたのはヨーロッパ人なのです。
 720年に完成した日本書記には、大国主命とニギハヤヒ尊の国譲り物語があります。つまり、神武天皇建国以前にすでに出雲大和朝がありました。天孫降臨の神代よりつづくのが、日本です。
 世界で唯一、神話の神々と皇室が続くのが、日本です。このことを、明治天皇は、教育勅語で「国ヲ肇ムルコト宏遠に」と示されました。
 わが国は、他国のように何処から誰かがやって来て「建国」されたものではなく、遠い遠い悠久の昔にここで国が肇められた「肇国」であり、さらに云えば国という概念すらなかった古(いにしへ)に神の御意志によってはじめられたのが日本であることを、私たちは再認識して子供たちに伝えて行かねばなりません。

 カナダ政府の作ったウエブページ(Canadian Heritage ; Foreign dignitaries )で世界の高官の序列が示されています。断トツの序列一位が日本の天皇です。世界で、最強の国家元首(日本国憲法では、日本国の象徴)です。イギリスのエリザベス女王やオバマ大統領でさえ、席を譲ります。オバマ大統領でも、天皇に挨拶されるとき、90度の最敬礼をされて握手をされます。

 日本の「日の丸」の淵源は、竹内文書によれば天照日大神のお孫さんにあたる皇統二代の天皇の時に制定された「日の神赤玉の旗」です。世界天皇であった時代、世界巡行されるときの表象として制定されたとあります。
 神代の話はともかくも、「日の丸」は、天皇と深い関係があります。今の残っている最古の「日の丸」とされるものは、二つあります。その一つは、1056年源頼義が、冷泉天皇より下賜され、源氏の直系であった武田家に伝わったものです。清和源氏の直系とされた源頼朝の家系が滅んだあと、変遷をへて武田家が源氏の直系とされていました。直系の印の一つが「日の丸」(「御旗」と称しました)でした。武田勝頼が天目山の戦いで敗れたあと、家臣が縁の寺に預けたものであり、今も山梨県塩山市雲峰寺に残っています。
 もう一つは、後醍醐天皇から奈良県五條市の堀家に下賜されたものです。今も南朝の御所にもなった堀家に残ります。

 世界の国旗のモチーフはさまざまです。アメリカ合衆国や中華人民共和国の様に「星」があしらわれているものがあります。トルコ共和国やパキスタン共和国のように「三日月」あしらったものもあります。
 「星」や「三日月」は、夜の世界に光を放ちます。「日の丸」は、太陽そのものです。太陽は、昼の世界を支配する王様です。「清明正直」を心とする日本の国に、なんと相応しい、なんと素晴らしい旗であることでしょうか。
 1870年[明治3年]、フランス公使がこの「日の丸」を500円で買いに来ました。国旗を譲ってほしいとのことでした。当時の明治政府の年間予算2000円の時代であったので、国家予算の1/4を提供しようという申し出でを受けたことがありました。

 万葉集で歌人の山上憶良は、「神代より言い伝え来らく そらみつ大和の国は 皇神の厳しき国 言霊の幸はふ国と語り継ぎ言い継がいけり」と詠んでいます。
 奈良時代にあって、この長歌は、神代より日本の国の特徴は、第一に天皇が厳として存在する国であること。そして、第二には、「言霊の幸はふ国」つまり、言葉を言霊として大切にし、言霊の力が生きている国であると山上憶良は、日本の国柄を端的にあらわしました。
 その天皇が今も存在されているということは現在の奇跡であり、日本国家の永続性を示しています。永続性をもたらした天皇家のあり方そのものが奇跡といえるものです。

 発展史観とされるマルクス主義の考え方によれば、天皇が存在すること自体、封建制の遺制であり、遅れた日本の象徴であると言うことになります。封建制の遺制であるならば、とっくに天皇家は、他の国の元首のようにとっくに消滅していたでしょう。とんでもない迷信であったことに最近気づきました。

 マルクスのいたヨーロッパの君主と日本の天皇のあり方は根本的に違います。ヨーロッパの君主と人民との関係は、支配-被支配の関係であり、対立関係に長くありました。
 日本の天皇家と国民の関係は、君民一体です。天皇は国民の幸せを神に祈ることが、神武建国以来の国是となっています。
 「今、私は…つつしんで天皇の位につく。これからこの民が心安らかに住める、平和な世の中にしたいと思う。この国が、神の住まいにふさわしい清らかな所となり、さらに他の国もそうなったならば、世界も一軒の家のように仲むつまじく平和な世界となるだろう。それは何と素晴らしいことではないか。」(「日本書記」宇治谷孟訳)
 これが、いわゆる「八紘一宇」の精神で、建国の理念です。歴代の天皇がこれを国是にしておられ、自ら国民の幸せを祈ってこられたという事実は消せません。

 国歌は、国民の幸せを祈る天皇の対して、「天皇の長寿を祈る」国民の祈りがそのまま歌詞になっています。  
 仁徳天皇の故事は有名です。

「天皇(すめらみこと)の曰く、『それ、天の君を立つるは、これ百姓(おおみたから=大神宝)の為なり、しかれば君は百姓を以て本となす。・・・百姓の貧しきは、朕(わ)が貧しきなり。百姓の富める、朕が富めるなり。』(「日本書紀」巻第11)

 国民を「大神宝(おおみたから)として大切にしてきた国王はいません。
今上陛下の平成16年の御製にも「人々の幸願いつつ国の内めぐりきたりて十五年経つ」とあります。
 その天皇の長寿を願うのが、「君が代」であり君民一体の国柄に真に相応しい国歌であるといえます。明治時代の東京大学の教授を長く務めたバジル・ホール・チェンバレン(1850年~1935年)は、「君が代」を英語に訳しました。

A thousand years of happy life be thine!
Live on,my Lord, till what are pebbles now,
By age united,to great rocks shall grow,
Whose venerable sides the moss doth line.

 それを日本語に戻すと
「汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが 時代を経て、あつまりて大いなる岩となり 神さびたその側面に苔が生(は)える日まで」となります。
 明治36年(1903年)には、「君が代」は世界の国歌コンクールで優勝しました。
 日本の国柄を教えることをタブーとせず、国旗・国歌を大切にする教育を今からでもはじめなければならないのではないでしょうか。

 以下は、「国旗及び国歌に関する法律」で国旗・国歌として法制化されるまでの経緯です。                        
 ヨーロッパで近代国家が成立し、ヨーロッパによる海外侵略が始まり、国を識別する国旗が必要となった時、日本は、江戸幕府による鎖国(1639年~1854年)を行っていました。隔離された環境の中で中国、朝鮮、オランダのみと貿易を行い交流していました。このような環境の中で国旗を必要としませんでした。国家意識も希薄でした。
 幕末にヨーロッパ・アメリカ合衆国の軍艦が、日本列島に到来し、鎖国をやめて、貿易をするように迫るようになって、船を識別する必要が生じました。当時、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国では、船には国を示す国旗を揚げていました。
 日米和親条約が1854年の3月に結ばれました。この年の7月、江戸幕府は外国船と区別するために「日本総船印として『日の丸』を掲げるように老中阿部正弘の名で布告しました。ちなみにその他、各藩の船印もあり、江戸幕府の船印は『大中黒旗』(徳川氏の先祖の新田義貞の家紋を旗にしたものでした。源氏の嫡流を示す「一」を図式化したものです。)でした。

   
 島津斉彬の献策がなければ、左の「大中黒旗」が国旗になっていたかもしれない
 徳川幕府は、初め『大中黒旗』を日本総船印、『日の丸』を徳川幕府の船印と考えていたようですが、薩摩の島津斉彬公の意見で、逆転した結果でした。徳川幕府は、安政五年(1858年)7月9日に『日の丸』を国旗(日本総船印)とする旨をアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシア等の修好条約を結んだ国に通達しました。『日の丸』を国旗として国際的に認知することを求めたのでした。

 日本の正史から、『日の丸』の歴史をたどりますと、大宝律令(701年)が制定された頃、太陽と月を表す竿からつり下げる長方形の日幅(につばん)・月幅(げつばん)が宮中の儀式で用いられていた記録が初出です。後醍醐天皇も用いていました。
 また、源平の合戦や戦国時代にも、『日の丸』の旗を旗印として用いた記録があります。また、江戸幕府になってからも、延宝元年(1673年)以来、幕府直属の御城米積船の船印として『日の丸』が用いられていました。幕府の船の船印から日本の総船印にこれを格上げした結果でした。

 明治維新(1867年)になってからも、これを受け継ぎ、明治3年(1870年)、太政官布告第57号によって日本の船印として『日の丸』が確認されました。以後、国旗としての明文法はなかったものの、国際的にも国内でも国旗として認知されてきました。 

 国歌については、明治3年(1870年)イギリス人の軍人フェントンが、「ヨーロッパ各国には、国歌があり、船が入港するときに国歌を演奏する。日本にそれがないのは残念なので、歌詞を出してもらえば私が作曲する。」と、大山巌に伝えました。大山は愛唱の薩摩琵琶歌「蓬莱山(ほうらいさん)」の文句から取り出して、フェントンに示しました。これが、『君が代』が国歌と成るきっかけでした。
 フェントンの作曲は、不評だったので、現在の曲は、日本の伝統音楽の雅楽の調で、明治13年(1880年)奥好義(おくよしいさ)が作曲し、ドイツ人のエッケルトが編曲したものであす。同年の天長節(明治天皇誕生日=11月3日)に明治天皇の前で初めて演奏されました。そして、明治26年(1893年)より祝日大祭日の唱歌として「君が代」の使用が始まりました。以後国歌として扱われるようになっていきます。

『君が代』の起源は、『古今和歌集』(905年)の賀歌(おめでたいとき歌う和歌)に始まります。
 「わがきみは 千代にましませ さざれ石の 巌となりて苔のむすまで」(あなたは千年も万年も長生きなされませ、さざれ石が成長して、堅い石=巌となって、苔が生えるまで)ここでは、我が君=天皇という意味はまだありません。

 平安貴族のためのアンソロジー集である『和漢朗詠集』(1013年頃)にこの歌が載せられたことから、有名になりました。何時しか「わがきみ」が「君が代」に置き換えられて、賀の歌として1000年前からおめでたい席での賀の歌として朗詠されてきました。

 『君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで』

 
 さざれ石(出雲大社駐車場)
 さざれ石というのは、石灰岩が溶けて礫を固めて巌となる石のことであり、それほど長い間という意味があります。明治時代にも正式に国歌を制定しよういう動きがあり、色々検討されましたが、これに変わる国歌を選定することが出来なかった経緯があります。それほど国民に定着していました。
 
  結論を言えば、国旗は、軍国主義の産物ではなく、江戸末期から国際的に認知されていました。また、国歌の歌詞もまた、国民により古くから愛唱されているよく知られていた賀歌でした。

 一般に国旗・国歌が変わるときは、政治体制が変わり、前政権が否定されたときです。つまり、国旗・国歌を否定する動きは、政治体制を変えようという動きになります。さて、昭和20年(1945年)の敗戦後を契機として新しい憲法が制定され、明治憲法による体制が否定されました。天皇は、立憲君主国の君主から、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」となりました。
 対外的には、今も日本は立憲君主国となりますが、国内では、微妙に天皇陛下の存在を無視している現状があります。国旗国歌のことを肯定的に教えることも殆どないという不思議な現状にあります。外国では、国家元首の扱いですが、日本では、象徴天皇とりました。
 戦後改革のさなか、一時期、連合国最高司令部(GHQ)によって昭和20年(1945年)10月から翌年の4月まで国旗を掲げることが禁止されましたが、国民が復活をもとめ、改めて「日本国旗を掲揚すること」が許可されました。

  『日の丸(日章旗)』『君が代』は、法律で決まっていないから国旗・国歌ではないという主張で、主として学校の入学式・卒業式が政治闘争の場となっていることに憂慮して、ようやく平成11年(1999年)に「国旗及び国歌に関する法律」で国旗・国歌として法制化されました。同時に「君が代」の『君』は、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である天皇」を指すという政府見解が示されました。

最後に、君が代のヘブライ語由来説というものを紹介します。
 日本は多民族国家で、古代ヘブライ人も来日していて、自分達の祈りを和歌に託して賀の歌として全国で歌い継がれていた。この前提があって大山巌が国歌として推薦したというのです。

君が代は=クムガヨワ=立ち上がれ
千代に=テヨニ=シオンの民
八千代に=ヤ・チヨニ=神に選ばれた者
さざれ石の=サッサリード=喜べ人類を救う民として
巌となりて=イワ・オト・ナリタア=神の予言が成就する
苔のむすまで=コ(ル)カノ・ムシュテッテ=全地で語り鳴り響け
...
君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで

クムガヨワ テヨニヤ・チヨニ サッサリード イワ・オト・ナリタア コ(ル)カノ・ムシュテッテ

立ち上がれシオンの民 神に選ばれた者 喜べ人類を救う民として 神の予言が成就する 全地で語り鳴り響け

参考図書

○ 「日の丸・君が代の歴史」板垣英憲著(同文書院 1999年)
○「古今和歌集」奥村恒哉 校注 (新潮日本古典集成 昭和53年)
○「和漢朗詠集」大曽根章介・堀内秀晃 校注(新潮日本古典集成 昭和58年)
日の丸とパラオの国旗の由来 (11'47") YouTube
  
平成18年11月28日作成 平成28年02月27日最終更新 第010話