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 富家の伝承から書かれた「出雲王権とヤマト政権」「出雲と蘇我王国」の中からもう少しオムニバスに拾ってみたい。

 いかに、ヤマト王権に出雲王家が浸透していたかを示す例の一つとして氏姓制度での姓をみるとよくわかる。「臣」の姓を持つ古代の豪族は、みな出雲王家の親戚であったという。蘇我氏、安倍氏、葛城氏、平群氏などが「臣」の姓をもつ。特に葛城王朝、蘇我王朝とよばれるほど天皇家との外戚関係が深い臣もある。

 また、京都の上賀茂神社、下鴨神社は、天皇家を陰から支える秘密結社「ヤタガラス」と関係が深いとされているが、社家の賀茂氏、鴨氏も出雲王家の子孫である。

 出雲王国では、春分と秋分の日にサイノカミの大祭(祭り事)が行われ、マツリゴト(政治)が同時に進行した。それで、春分から秋分までを夏期1年(現在の半年)、秋分から春分までを冬期1年(現在の半年)と数えた。つまり、出雲暦によれば、現在の1年は、2年にあたる。
 古代天皇の年齢が高齢であるという理由として、出雲王国を継承する神倭朝(神武天皇以降の天皇家のこと)の古代天皇の年齢が出雲暦での年齢であるという見方がある。
日本書記による崩御年齢
 初代神武天皇 127歳  10代崇神天皇 119歳  11代垂仁天皇 139歳
などを出雲暦とすれば、実年齢は
 初代神武天皇 63歳   10代崇神天皇 59歳   11代垂仁天皇 69歳
となる。

  第二次物部遠征で3世紀に出雲王国を滅ぼされたことは、「葬られた出雲王国」で述べたところである。富家の伝承によると、九州に王国を築いていた物部氏はユダヤ系徐福の子孫であったので、この第二次物部遠征の成功で天皇家の皇統が変わり、ユダヤ系の第11代垂仁天皇が誕生したという。それより以前の第一次物部遠征があり、いったんヤマト王権を掌握したことがあった。この第一次物部遠征の記憶が、記紀の神武東征の物語に反映されているという。ナガスネヒコとの戦いの時に、最後の決戦で苦労しているときに「黄金色に輝く鳶」が助けたという逸話がある。これは、この第一遠征の時であるという。
 鳶は登美であり、登美家の助けがあったことを示している。
 登美家の分家に、和泉国の陶村にすむ太田タネヒコがいた。彼が創建したのが陶荒田神社(大阪府堺市)である。ちなみに、末社には彼の先祖である事代主が祭られている。
 この太田タネヒコが、磯城王家やそれを支える本家の富家(登美家)に対する対抗心もあって第一次物部遠征(九州からヤマトへの東征軍)を支えて当時の天皇家をヤマトから駆逐したことを反映しているという。古事記には意富多々泥古(オホタタネコ)の名前ででてくる。
 和歌山の熊野からヤマトへの道案内をしたのも太田タネヒコであったとされている。これは、「八咫烏(やたがらす)の道案内」とも呼ばれている。
 この第一次物部遠征を迎え撃ったナガスネヒコもまた、古事記では 登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)とか登美毘古(とみびこ)と表記されており、磯城王家または登美家の人であったことがわかる。

参考図書

○「出雲王国とヤマト政権」富士林雅樹著(大元出版 2019年)
 「王国内の結束を固めるために、古代は血縁が重要視された。各地の豪族は、王家の姫を嫁に迎えたがった。王家と血縁のできた家は、王族であることを示す「オミ」を名のる資格を得た。血縁のない家は、オミを名のることは許されなかった。オミは「御身」という意味であったが、のちには「臣」の漢字が当てられた。それで王国内に、次第に臣のつく家柄が増加した。
 この臣の名称は、のちに大和政権でも使われ、連などとともに家柄を示す氏姓制度に取り入れられ、重んじられた。太臣や和邇臣、安部臣、蘇我臣などの大和政権の多くの有力豪族は、出雲王家と血縁があった。」(p58)

「オミヅヌ(※第6代大名持・神門臣家)の息子の1人はアタカタス(吾田片隅)と呼ばれ、北九州に行き、宗像家(神門臣家の分家)を興した。その家は北九州の大豪族となり、のちに宗像大社(福岡県宗像市田島)の社家になった。平安時代に作られた『新撰姓氏録』には、「宗形(宗像)君は、大国主命六世孫吾田片隅の子孫である」と、書かれている。」(p70)

「コシの国に住んだタケミナカタは、信濃国に新しい王国をつくろうと思い立った。そこで多くの家来とともに姫川を逆上り、まず長野県上田市の下之郷に移り住んだ。かれはそこに、サイノカミを祀る生島足島神社を建てた。
 その後タケミナカタは、黒曜石の産地であった和田峠をこえて諏訪盆地に進出した。そして諏訪湖の南岸に住みつき、そこに王国をつくった。かれの子孫は、その地の豪族として栄えた。
 タケミナカタは、移住先にサイノカミの社を建てた。かれの死後、そこはかれを祀る諏訪大社の上社本宮となった。
 諏訪大社本殿のまわりの四隅には、高い柱(御柱)が4本たてられた。……(略)……
 のちに諏訪大社は、上社の本宮、前宮と、下社の秋宮、春宮の四社となった。下社は、古墳時代の頃に出雲歴の影響を受け、春宮と秋宮の二社に分かれた。当時は、1年を夏期と冬期に分かれて数えていた。春宮では春正月(春分)に春祭りが行われ、そのあと夏期1年(現在の半年)はそこに神霊が宿った。同じように秋正月(秋分)には秋宮で秋祭りが行われ、そのあとの冬期1年(現在の半年)は、そこに神霊が遷座し宿った。
……(略)…… 出雲王国時代には、春分と秋分の日にサイノカミの大祭が行われたので、下社の祭りもその影響を受けたものと考えられる。」(p118-120)

「タケミナカタ(※第8代少名彦コトシロヌシの息子・富家)の足跡は、神社の名称にも残っている。平安時代の『日本三代実録』には、諏訪大社のことを建御名方富命神社と書いている。長野市や飯山市にも、建御名方富彦神別神社が鎮座している。
 「タケ」とは、「全権将軍」の意味であった。意味する漢字で表すと、「建」よりも「武」の方がふさわしい。実際にはかれは、「タケシミナカタ」や「タケルノミコト」とよばれていた。「御名」は出雲王の大名持や少名彦の「名」と同じで、「出雲王家」を意味する言葉であった。つまり「御名方」とは「出雲王家の御方」という意味で、尊敬の念が込められた呼び方であった。「富」とつくのは、かれが東出雲王家の富家出身であることを示していた。かれは、タケミナカタ富彦とも呼ばれていた。」(p120-121)

○「出雲と蘇我王国」斎木雲州著(大元出版 2012年)
「イズモでは、主副の両奥王が同時に枯死した事件を嫌って、両王家の分家が出雲人の約半数を連れて、ヤマト(奈良地方)へ移住した。そのとき岐神(サエノカミ)信仰をヤマトとその周辺に伝えた。
 東出雲人(※富家)はセッツ国三島の人々の協力も受けて、葛城山の東麓(御所市)を開拓した。そして、事代主をまつる一言主神社や鴨都波(かもつば)神社を建てた。
 古代出雲では、神のことを「カモ」と言った。それえイズモの神には、「鴨」や「加茂」の字が当てられた。
 西出雲人(※神門臣家)は南葛城方面を開拓して、アジスキ高彦をまつる高鴨神社や大年神や高照姫をまつる御歳神社を建てた。大年神は正月祭の神である。」(p35)

令和5年02月04日作成     第167話