祇園祭のクライマックスである宵山が行われるのは七月十七日。この七月十七日は、ノアの箱船がアララテ山の山頂にとどまった日であり、宵山は、このことを記念して行われているという説を検証してみたいと思います。
少し長いくなりますが、「古代ユダヤは日本で復活する」宇野正美著(1997年 日本文芸社)を引用します。
《ノアの箱船漂着の日に由来する剣山の「七月十七日」の祭り
毎年、剣山山頂に向かって神輿がかつぎ上げられていくのが、七月十七日であるが、この七月十七日は特別な日である。それは『旧約聖書』によれば、ノアの箱船がアララテ(アララト)山腹に漂着し、新しい時代が始まった時とされている。
この話は、『旧約聖書』中の「創世記』に書かれているものである。全世界は神に反逆し、罪にあふれた。そこで神はこの世界を滅ぼそうとした。しかし神は、神に従うノアおよびその家族を救おうとし、箱船を造ることを命じた。その箱船は巨大なもので、今日でいえば五〇万トン級のタンカーに匹敵するものであった。しかもその内部は三階建てになっていた。
箱船ができたとき、ノアおよびその家族と動物一つがいずつが、その中に入ったという。すべてが入り終わったのち、大雨が降り続き大洪水が起きた。
「それから大洪水が四十日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱船を押し上げたので、それは地から浮かび上がった。水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱船は水面を漂った」(「創世記」七章十七節、十八節)
箱船は何日も水の上を漂い続けた。そしえやがて雨はやみ、水は引きだした。箱船が到着したのは、今日トルコとアルメニアとの国境にあるアララテ山腹であった。ノアはその後、新天地で人類の始まりを体験することになる。」
それゆえ七月十七日とは、新しい時代の始まりを指している。剣山山頂で神輿がかつぎ上げられる七月十七日、京都では八坂神社の山鉾巡行がある。
この起こりは、あるとき京都平安京で疫病が蔓延し、多くの人が死んだことに始まる。疫病はまさに手のつけられないようなものであった。そして、多くの人々の犠牲の果てに疫病がやんだ。その厄払いのために山鉾巡行が行われるようになったといわれる。
やはりこのときも七月十七日は、新しい時代の始まりにえらばれたようである。
厄払いのために疫病人は神泉苑に運ばれたという。二条城の近くにあるその神泉苑の僧侶が、あるとき「八坂神社の神は日本の神ではない」といったのを思いだす。
不思議な民族である秦氏が八坂神社をつくる。そして七月十七日は特別な日とされたのではないだろうか。》(p26~p30)
「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史」マーヴィン・トケイヤー著久保有政訳(1999年 徳間書店)にも、祇園祭と七月十七日の関係について同じような記述があります。
《秦氏と祇園祭
…………
京都の祇園祭の最大のイベントは、古くから一貫して必ず七月一七日に行われてきた。祭りの中心は七月一七日からの八日間であり、そのほか七月一日や一〇日にも、重要な催しがある。
「箱船は、第七の月の一七日に、アララテの山の上にとどまった」(創世記八・四)
以来、ヘブル人(イスラエル人)はこの日に謝恩祭を行っていた、ということも考えられる――もっとも聖書にはそういう記録はないが。
これはモーセ以降、七月一日、一〇日、また一五日から八日間にわたって行われる「仮庵の祭」(スコット)に取って替わられた。しかし、七月一七日がノアの箱舟の漂着日であることは、イスラエル人に深く覚えられていた。その日付は聖書に記されているからである。》(p261)
《京都の祇園祭は、もともと民の間に伝染病が起こらないようにとの願いから始まったものである。これは昔イスラエルで、ソロモン王が神殿完成の際、国に伝染病が起こらないようにと祈り、祭を催したことに似ている。
ソロモンはその祭をユダヤ歴第七の月の一五日から八日間(最後の「きよめの集会」の日も入れて)にわたって行なった。(Ⅱ歴代誌七・八~一〇)。ソロモンはこの祭りと、京都の祇園祭と二日間のずれがあるが、それでもほぼ同じ時期に、同じ由来から八日間の祭が行なわれたのである。》(p262)
この2つの文の結論は、
祇園祭の宵山(クライマックス)は、ノアの箱船が、アララテ山の山上に着いた七月一七日を記念して行われている、ということであることが確認できます。
祇園祭の歴史は古く千年以上も前から行われていました。平安京の建設の立役者は秦氏であることもアカデミズムでも認めるところです。
恐らく秦氏は、古代イスラエルの失われた十支族かユダヤ民族(南王国二支族)の原始キリスト教徒でしょう。これはアカデミズムでは、認められていません。
しかし、祇園祭の宵山が七月一七日に行なわれるのは、ノアの箱船がアララテ山についた七月一七日を祈念してのことである、という宇野正美、マーヴィン・トケイヤーの二名の代表的な日ユ同祖論者の結論は、明確に否定されるべきものでした。
但、両著のその他の古代イスラエルとの関連性の記述については、興味深い事実として受け止めたいと思っています。
「八坂神社」八坂神社編(1997年 学生社) によると、従来6月7日、14日に祇園御霊会の重要な行事が行われていたのを、《太陽暦の採用とともに旧来の六月七日、十四日の祇園祭を七月十七日、二十四日に改めることとなった
》(p152)とあります。この本も又一次資料ではありませんが、祇園御霊会(祇園祭)の記録を丹念に検証していますので、信頼に値する内容であると感じます。
つまり、元々は江戸時代まで、六月七日、十四日に行われていた祇園祭の重要行事が、太陽暦の採用と共に一ヶ月遅れて実施されるようになった、ということに過ぎないのです。
例えば、ひな祭りは三月三日ですが、四月三日に行われるようになった地方があります。お盆は、元々は七月一五日ですが、関西では八月一五日の行事になったりしています。
本来は、太陽暦の採用により他の行事の例のように、きっちり一ヶ月ずらして七月七日と一四日にすべきだったのでしょうけれども、七夕と重なるとかの理由で一七日と二四日になったのだと推定されます。
日本の歴史学者のほとんどは、意識していなくても、マルクス主義による唯物史観に陥っています。また、文献主義で、文献にないことは推論すらしない。古代イスラエルの十二支族が日本に来ているなんて、どこに証拠があるのかという立場です。
一方、古代イスラエルの十二支族すべてが日本来ているという推論を立てるのは、ほとんどが、キリスト教徒の宣教師を中心とする宗教家、歴史学者以外の学者、そして、専門家以外の歴史愛好者です。
学問は論証の方向性があって、論考や証拠でうめてゆくという手段をとることが多いと思います。
古代イスラエルの十二支族の来日肯定論者は、論証に弱く、否定論者は、証拠も見ずにアプリオリに来日の可能性を外しているという欠陥があるように思えます。
広い視野で推論を立て、綿密に歴史研究をしてゆく総合研究の必要性を感じます。
竹内文書は真実を書いており、古代イスラエルの十二支族が日本に来ているということは、直感的に正しいと信じるものですが、
「祇園祭と七月十七日の関連性」を否定する八坂神社が編纂した客観的記事を読んで、やはり、素人「余話の部屋」の限界を感じたので記します。
参考図書
○「八坂神社」八坂神社編(1997年 学生社)
○「古代ユダヤは日本で復活する」宇野正美著(平成6年 日本文芸社)
○「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史」ラビ・マーヴィン・トケイヤ―著久保有政著(1999年 徳間書店)
令和3年5月23日作成 第162話