日本のピラミッド説は、明治39年頃、哲学者の木村鷹太郎が、日本とエジプト文明の類似性を指摘して日本にもピラミッドがある可能性があることを主張したことに始まります。
この説を受けて、昭和2年にエジプトまでいってエジプトのピラミッドを探索した酒井勝軍(さかいかつとし)は、エジプトの古代文明と日本が深い関係をもっていると確信して、帰国後に日本のピラミッドの探索を始めました。
そして、昭和9年広島県庄原市本村町に位置する葦嶽山(あしたけやま)と鬼叫山(ききょうざん)をマスコミを引き連れて探索し、日本にもピラミッドがあることを発表しました。
酒井勝軍によるピラミッドの要件は、次の4点にあります。
1.自然の山でも、人工的に構築したのでも、自然を整形したのでも良いけれども、三角形のピラミッド型の山があること。
2.頂上付近には、球形の「太陽石」(磐座)とこれを囲む環状列石(磐境)もしくは方形列石(磐境)が存在すること。
磐座は神の座、磐境は、神域を護る結界にあたります。
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「太古日本のピラミッド」酒井勝軍著によるピラミッド頂上にある磐座(太陽石)と磐境(結界を示す環状列石・方形列石)のパターン。 |
3.ピラミッドには、本殿とは別に本殿のピラミッド形の山の外にそれよりも低い山の拝殿施設が存在すること。
4.拝殿には、東西南北を示したり、夏至、冬至の太陽の位置を示す方位石や太陽の光を反射する表面を研磨した鏡石が存在すること。2つの巨石に1枚の平らな巨石を置いたドルメンや、立石であるメンヒルなどが存在すこと。
酒井勝軍により日本で最初のピラミッドと認定された葦嶽山ピラミッドには
1.遠景として葦嶽山がピラミッドの形をしていることが一目瞭然である。標高四辺の稜線がある815メートルの山で、エジプトの大ピラミッドそっくりの形をしています。
葦嶽山にのぼる道筋に3メートルの巨石があり何かをかたどっていて鷹岩とよばれていて冬至の太陽の方向を向いている。烏帽子岩は、夏至の日の入りの方向を示している。
2.頂上には、花崗岩ゆえに風化してしまった直径3メートルの太陽石とおぼしきものが探索当時あり、その周りを東西南北に正面する方形磐境があった痕跡がある。北面は崩壊していて跡形もなくなっていた。外側には環状列石が取り囲んでおり、複様内宮式と酒井勝軍がなずけた磐境(いわさか)があった。
但、現在の頂上は5メートル四方の広場となっており何も残っていない。古代遺跡は発表されると破壊され否定されることが繰り返されている現状がある。
3.北側には拝殿跡である鬼叫山がある。
4.鬼叫山を登るとドルメンがあり、さらに登ると獅子岩があります。顔は夏至の日の入りの300度を向いている。その奥には石を組み合わせた割れ目の方向が夏至と東到の日 の出、日の入りの方向を示す方位石があった。
方位石の南には鏡石があり、幅5.8メートル、鷹さ3.3メートルの巨大なもので南東側の面は綺麗な平面に削られています。鏡岩の南に高さ7メートルの神武岩となずけられた立石が建っていて、崩壊された立石が底落ちているのが見られる。
酒井勝軍によれば、ピラミッドは太陽神の神殿であり、竹内文書による天照日大神様を祀ったものであるということで、世界中に太陽神信仰があり世界中にあるはずのものであるということであり、そして、その原型が日本のピラミッドであるというのです。
葦嶽山のピラミッドは、今から2万3千年前のフキアエズ朝第十二代弥広殿作天皇が皇太子時代に造られたものだということです。この日本のピラミッドを原形として造られたのがエジプトの大ピラミッドであり綺麗な四角錘の形をしておりピラミッドの典型のひとつであるとされています。
この外にも階段状ピラミッドの原形が日本あります。秋田県萩市にある標高280メートルの黒又山ピラミッドです。
このピラミッドは、環太平洋一帯に見られる階段型ピラミッドの原形が日本に在るはずだという想定の下に本格的な総合学術調査が行われた唯一のピラミッドです。小川光暘率いる日本環太平洋学会の熱意によって実現した1992年から1994年の学術調査で驚くべきことがわかりました。
地底レーザーによる探索により、土の下に階段状の遺物らしきもの山全体に確認されており、まさに山全体が十段もしくは七段の階段ピラミッド構造になっていました。頂上には、現在小さな本宮神社がありますが、神社を取り囲む環状列石の痕跡もあり、古くからの祭祀施設であることがわかります。地下には、10メートルほどの謎の空間があることもわかりました。2キロ離れ所には、有名な大湯環状列石という縄文時代後期の遺跡も発見されていて、黒又山関連遺跡と考えられていて、同学会によって認定された唯一の階段状ピラミッドとなります。どうもそのあと同志社大学の小川光暘会長の急逝により、同学会は活動を停止してしまったようです。
なお、階段状ピラミッドの典型的なイメージは、マヤ文明のティカル1号神殿になります。
エジプトのピラミッド、シュメール文明のジグラッドなどの原形が日本にあるということが、酒井勝軍の主張でした。また、日本の縄文時代にあたる時代に建設された環太平洋一帯にある階段ピラミッドの原形は、日本にあるというのが小川光暘の仮説でしたが今では、検証されないまま否定されています。
酒井勝軍が巻き起こした昭和初期のブームや1984年よりサンデー毎日の日本のピラミッド特集でのブームがあったのは、泡沫の夢の如く、アカデミズムからは無視され、研究も行われていない現状があります。
太古のピラミッドの目的ですが、太陽神を祀るための神殿であったということの外に、太古の英知が隠されているのではないかと思います。
太陽石や巨石を配置することにより、宇宙のエネルギーや太陽のエネルギーを吸収し周囲の活性化したエネルギーの満ちた大地にする。一定の法則で日本のピラミッドが配置しされていることからピラミッド・パワーのネットワークが日本に張り巡らされていたのではないかという説があります。古代のカタカムナ文明につながる英知です。
葦嶽山ピラミッドと黒又山ピラミッドの外の代表的な日本のピラミッドとされるものを列記してみたいと思います。
三輪山ピラミッド(奈良県)、位山ピラミッド(岐阜県)、皆神山ピラミッド(長野県)、千貫森(福島県)などです。
三輪山ピラミッドは、信仰の対象として参拝客が絶えない人気スポットとなっており、頂上の磐座は、なんとも言えない強力なあたたかですがすがしいパワーを体感できるパワースポットとなっています。太古の世界中に張り巡らされたピラミッドネットワークが復活すれば、なんとすばらしい世界になるんだろうということが体感できるところとなっています。
最後に、さらに不思議な話。シュタイナー学園の創始者で有名なルドルフ=シュタイナー(1861年~1925年) は晩年の1924年9月9日から18日の連続講義「地球の形と人体」の中で不思議な言葉を残している。世界中の火山の分布を地図に表わすとすべての火山は、日本に直結している。人体に例えると火山は人類のツボにあたる。このようなことから、地球の形を突き詰めれば、地球は四面体のピラミッド(三角錐)になる。
三角錐の頂点は日本で、下の三角形の頂点は、中央アフリカ、コーカサス、南極にあたるとのことになる。世界の頂点の国が日本にあたるというのである。
参考図書
○「太古日本のピラミッド」酒井勝軍著(昭和9年 國教宣明團)
〇「謎のカタカムナ文明」阿基米得著(1981年 徳間書店)
楢崎皐月(ならさきこうげつ)が兵庫県六甲山系の金鳥山付近のおそらく保久良神社(巨石を環状に配置した遺跡が鎮座)の神官 の平十字(ひらとうじ)から伝授された失われた超科学・言霊の秘伝書がカタカムナ文書(もんじょ)。ピラミッドが建設された 秘密にも関わっていると考えられる。イヤシロチとケガレチの言葉は、楢崎皐月に始まる。
〇「古代日本ピラミッドの謎」鈴木旭編著(1993年 新人物往来社)
「『「試論/古代神殿(ピラミッド)を軸とする縄文社会のイメージ
ピラミッドは縄文社会の歴史的遺産であり、弥生人とは異なる壮大な宇宙観・地勢観・社会観を象徴している」鈴木旭』
はじめに
クロマンタ〔黒又山]における総合的な学術調査は、日本環太平洋学会(小川光暘〔1926-1995〕)が「太平洋を取り囲む日本、メソアメリカ、オセアニア、インドシナ半島、韓国などの環太平洋ベルト地帯に共通する文化的構築物」として指摘する「ステップ式ピラミッド(階段状ピラミッド)」の源流が日本にあるのではないか、という仮説を立証するために行われた。
そもそも、ステップ式ピラミッドが「環太平洋諸地域に共通する文化的構造物」として認められるか否か、それ自体、大きな問題であるが、日本環太平洋学会は、長年の間、環太平洋ベルト地帯の実態調査と比較研究を進めてきた。その成果は、同学会の学術刊行物「環太平洋文化」(年二回発行)において定期的に発表されており、次第に一つの学説として固まりつつあると言って良い。
また、ピラミッドと言えば、すぐエジプトのギゼーにある大ピラミッド(正形ピラミッド)を連想するのであるが、同学会会長の小川氏によれば、すぐエジプトの場合、山の形が三角形をしている特徴であり、「大ピラミッドの周辺にもステップ式ピラミッド群が点在している」(「仮説/環太平洋文化論」参照)というのも重要な主張点となっている。
つまり、どちらが一般的で、どちらが例外的であるか、一目瞭然ではないか、ということも言外の言葉として含まれているのである。
いずれにしろ、ステップ式ピラミッドの源流が日本列島にあり、時計回りの流れで環太平洋諸地域へ伝播して行ったのではないか、というのがテーマになっている。すると、そのプロットタイプになるピラミッドが日本列島内に存在することを実証しなければならないことになる。その社業に着手し、余すところなく立証することがなければ、いかなる新設も意味を持たないからである。
こうして、絶好のサンプルとして選択されたのが、秋田県鹿角市十和田大湯にある黒又山(クロマンタ)であった。きれいな三角形をした山で、ストーンサークルの名称で知られる国の指定遺跡「大湯環状列石」とは目と鼻の先、わずか二キロメートル強のところにある。高さ約八十メートルの山頂部には、いまは薬師神社となっている本宮神社が祀られており、ピラミッド信仰の名残として見て行けば、非常に興味深いところがある。
ところで、この仮説を立証する作業を進める場合、忘れてはならないことh、ピラミッドは超歴史的に存在するものではなく、ある時代の文化的特性を象徴する建築物としえ存在するということである。ともすれば、「謎の遺跡」というだけで、「太古のミステリー」とか、「UFO渡来」という面白半分のレベルに終わり、それが成立する歴史的土台を追及し、検証する視点が欠落してしまうのが従来の傾向であった。
その意味で言えば、ピラミッドと縄文文化との関わりを意識的に追及しなければならいことは言うまでもない。東北、とりわけ、秋田県は、”縄文文化の宝庫”として知られたところであり、その中でも代表的なのが米代川流域である。クロマンタが、その上流に位置する大湯川のあたりにあるのは、偶然ではない。クロマンタ=ピラミッドは縄文文化の歴史的所産であり、山を中心に広がる縄文社会の中心軸となる構造物であったはずだ。
それは、従来の考古学的手法による調査では決して見えて来なかった風景である。
考古学オンリーでは解明できない縄文文化
古代史研究と言えば、従来は考古学に限られていた。遺跡の発掘調査によって石器や土器などの遺物を収集したり、土中に残されたピット(穴)の形状や大きさを測量することによって、文化の地域差や偏年代などを系統付けて行く学問である。しかも、発掘調査の対象となる遺跡は平地で発見された生活史跡に限られており、まったく眼中になかったというわけではないだろうが、ピラミッドに代表される山岳地帯の祭祀遺跡や巨石文化遺跡に手を付けられることはなかったのであった。
調査の方法にも問題があり、地質学や生物学の専門家が加わることがあったとしても、それは例外的なケースにすぎず、場合に応じて、異分野の専門家を結集し、総合的な視点からアプローチする発想は天文学・考古学・岩石学および地質学・民俗学・神社神道学・古代文字学の各専門家による総合調査という方法が採用されたこと自体、画期的なことであった。」(p185-p188)
この本が書かれた1年余り後に、環太平洋学会の小川光暘氏が急逝し、各分野の専門家による総合調査研究が挫折したことは想像に難くない。日本は、後進国であるという考古学の強固な学説に抵抗するには、超人的なエネルギーと確固な経済的基盤を必要とする。縄文ピラミッド説は、サンデー毎日にも取り上げられたが、一時的なブームに終わってしまっている。志をつぐ、総合研究の再開を期待している。
〇「古代史の封印を解く日本ピラミッドの謎」鈴木旭著(1994年 学習研究社)
令和3年4月23日作成 第129話