落合莞爾によるワンワールド史観その2は、「明治天皇・大室寅之祐説」です。
従来、明治天皇・大室寅之祐説が語られるのは、明治維新は、佐幕派で開国に反対する北朝の末裔である孝明天皇を暗殺して、皇太子であった睦仁親王をも暗殺し、南朝の末裔である大室寅之祐を密かに睦仁親王であるということにして、明治天皇として擁立した南朝革命であるという鹿島曻、宮崎鉄雄、松重正(揚江)らの説です。また、関ヶ原の戦いで豊臣秀頼を担いだ毛利氏の長州藩と成り行き上、西軍となった島津氏は敗北します。この関ヶ原の戦いの恨みを晴らすために、遺恨をすてて、南北朝時代南朝の遺臣であったもの同士が薩長同盟で手を結びを北朝と連携する徳川幕府を打倒したというのです。
すこし長いですが、松重揚江の著作から引用します。
「三浦芳堅(※南朝天皇の子孫を自称)と田中光顕の対話(※1929年頃)
・・・・『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』は、豊川市に住む三浦天皇こと三浦芳堅氏の著作である。・・・・その三浦氏が「明治天皇は孝明天皇の子ではない」と、次の様に述べている。
・・・・・・
・・斯様申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、
やがて、
「私は六十年来、かつて一度も何人にも語らなかったことを今あなたにお話もうしあげましょう。現在このことを知っている者は、私の他には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆個人となりました」
と前置きされて
「実は、明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新という時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、お生まれになって以来、中山大納言邸でお育ちになったということにして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぐぎ遊ばされたとなっている。が、実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、すなわち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が亡びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領有し、代々長州の萩に於いて、この御王孫を御守護申し上げてきた。これがすなわち吉田松陰以下、長州の王政復古御維新を志した勤皇の運動である。
吉田松蔭亡きのち、この勤皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允、すなわち桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、この桂小五郎と西郷南洲とを引き合わせてついに薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の坂本竜馬と中岡慎太郎である。」
薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲に、『我々は南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』ということを打ち明けたときに、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、ついに薩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。之が大政奉還、明治維新の原動力となった。・・」(「二人で一人の明治天皇」松重揚江著〔2007年 たま出版〕p112、114ℓ4~115ℓ6)
傍証として明治44年(1911年)、小学校の国定教科書の検定を巡って北朝と南朝は並立かどちらが正統であるかが帝国議会で紛糾したときに明治天皇の裁断で南朝が正統であるとされたことがあげられます。本来は、1392年に南北朝並立が解消して北朝の後小松天皇に天皇が一元化したとき以来、北朝の子孫が天皇を受け継いでいるので、明治天皇は北朝の子孫ということになるはずです。この裁断の根拠は、ご自身が南朝の出自であることを意識したものとされています。
また、さらに明治天皇の正妻の一条美子(はるこ)の追号を「昭憲皇后」 ではなく、「昭憲皇太后」と大正天皇が追号してることです。皇太后は皇后の一代前の尊称になります。寅之祐天皇の前の孝明天皇の皇太子であった睦仁天皇の正妻であったとすればつじつまがあるのではないかということです。
さて、この説には、伊藤博文や岩倉具視が天皇を毒殺したとか刺殺したとかが付随しています。また、皇室に対する敬意もありません。違和感を感じざるを得ませんでした。
神武天皇以来継承されてきた皇室には、それをささえる強力な母体もあるはずです。そういった中で落合莞爾による明治天皇・大室寅之祐説は、日本の隠された歴史を初めてあきらかにしたものであると直観させるものです。以下、落合莞爾による明治天皇大室寅之祐説です。
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落合莞爾による明治天皇大室寅之祐説(「堀川政略」)。
孝明天皇と睦仁親王は、明治維新を成功させるために京都の堀川御所に隠棲され裏から明治天皇を支えた(ウラ天皇となられた)。山口県田布施出身である南朝後醍醐天皇の皇子
護良親王の子孫である大室寅之祐は、睦仁親王になりすまし明治天皇として即位しました。 |
幕末の開国圧力のなかで、いかにして日本を守るかということを憂慮された孝明天皇は、岩倉具視などの側近達と協議し、国体を支えてきたネットワークを活用して、天皇を表舞台に立って外交・政体を司る政体天皇(表の天皇)と本来の役割である国の安泰・国土の保全、日本の一体化を維持するために祭祀を司る國軆[国体]天皇(ウラの天皇)に分離することを決意されて、みずからは崩御を偽装され、睦仁親王とともに堀川御所(京都)に隠れられウラ天皇となられた。ウラ天皇は同時に、外交等の根回しも行い、表の政体天皇を全面的にバックアップする役割も担う役割も分担されました。
一方、厳格な皇統譜で管理されていた天皇候補者の中から、周防の毛利氏が保護していた後醍醐天皇の直系である大室寅之祐を明治天皇として即位させることに決定されました。吉田松陰の実家の杉家は代々大室家を保護する立場にありました。また、木戸孝允、西郷隆盛など幕末維新の元勲とよばれる人々もこの秘策(いかにして日本国を護るかという目的を貫徹するために秘密とされた)を承知していました。田中光顕は、その片鱗を知っていたので上記の発言になったものと思われます。あるいは、ウラ天皇の存在をかくすための情報操作であったかもしれません。
さて、落合莞爾は、この秘策を「堀川政略」とよんています。この「堀川政略」には、相似形の前例がありました。南北朝の時代にさかのぼる「大塔政略」です。
南北朝の争いは、持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)が交互に天皇をだす事に始まります。鎌倉幕府の執権である北条氏は、皇室弱体をねらってこの両統迭立を十年ごとの交替として仲介を装い定着させようとします。それに反対した後醍醐天皇は、討幕を決意し1333年ついに鎌倉幕府は亡びます。
南北朝の争いの本質は、皇統の争いに留まりません。荘園経済(農民)を支配する武士たちが北朝の支持基盤です。それに対して、非農民が南朝の支持基盤です。楠木正成など悪党と表記されている南朝方の武士は、荘園の農民を単純に支配していた領主ではありません。商業活動にも芸能関係にも深く関わって富を集積していました。古代から土師氏につながる建築業にたずさわる勢力、海を舞台に商品流通に関わる経済活動をしていた海賊といわれる人々、修験道にかかわる全国的ネットワークを形成する人々が南朝の支持基盤でした。鎌倉末期以降経済の発達によって、農民基盤とする勢力と、経済力を付けてきた非農民を基盤とする勢力の争いの激化が南北朝の争いのベースをなしていました。
このような問題を踏まえた上で、鎌倉幕府滅亡直後の建武の新政の時期に、後醍醐天皇を中心に南北朝の首脳があつまって、国の分断につながる南北朝問題の解消を協議します。さまざまな勢力の利害が絡んでの南北朝ですので、表に出すことができませんので、その後の歴史は複雑なものとなりすが、実行に移され最終的には実現されます。
この秘策は、三つの主要政略からなり、落合莞爾は「大塔政略」と総称しています。
その第一は、当時傑物と北朝皇族も認める護良親王の皇子を密かに、北朝の直系に入れて第三の皇統をつくり南北朝の解消を図るというものでした。農民と非農民の古代以来の対立も有り、表だっての解消には困難が予想されますので、秘密の計画ということになります。また、農民と非農民の融和も図らねばなりません。そこで、皇統の問題は、北朝の直系に南朝の護良親王の皇子を入れることで政治的解決をはかったうえで、台頭著しい非農民をまとめ、表の天皇を支える、ネットワークの構築を図ります。それが、第二の政略になります。
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西大寺金堂(江戸時代再建)。
大塔宮護良親王は、偽装弑逆のあと、大和西大寺に入られて非農民全体を束ねるネットワークの頭のウラ天皇となられて、京都の天皇を影から支えられた。西大寺て誕生された王子は、海外貿易の頭となられ、長い年月を経て欧州王族(ベネルクス王室)となりウラから幕末明治維新の孝明天皇・明治天皇を支えられた天皇家の最高機密が落合莞爾によって明らかにされた。 |
その第二の政略は、護良親王を偽装殺害して南朝の経済的基盤である非農民全体を束ねるネットワークを構築し、このネットワークをたばねる頭とすることが決定されます。非農民を支持基盤としていた南朝の役割を果たす秘策を同時におこなったのです。護良親王は、奈良の西大寺を拠点として非農民のネットワークの頭として、いわばウラ天皇となり、表の天皇を助ける役割を果たします。つまり、真の南北朝の対立の解消を図ります。
この護良親王のウラ天皇の役割は、その地盤が非農民のネットワークにありますので、商業活動の発展にともない膨大な富を支配する事ともなり、表では倭寇の活躍にもつながりました。後世、安宅船とよばれるような巨大商船を建造し東南アジアに飛躍しました。棟梁としての護良親王の皇子達は、東南アジア進出を成し遂げます。マラッカ王国の建国がそれです。さらには、細かい点は落合秘史シリーズに譲りますが、護良親王の西大寺時代に誕生した皇子の子孫は欧州の貴族にもなることに成功し、最終的にはフランドル地方に根を張ります。欧州王家ともなっているということです。
落合莞爾の例示によると、現在のオランダ王室の祖先のオラニエ=ナッサウ家のヴィレムⅠ世(1533~84)やベルギー王室も護良親王の子孫(欧州大塔宮の子孫)であるということです。さらに、オラニエ=ナッサウ家の分流がルクセンブルク大公になりましたので、ルクセンブルク大公も欧州大塔宮の子孫となります。
明治維新の西欧化路線が朝鮮や中国に比べスムーズにいった秘密にはこの欧州大塔宮との連携が当時もあったことがわかります。1871年から73年にかけて明治政府の首脳の半分が「岩倉使節団」として欧米の視察旅行をなしえたこと自体不思議に思うべき事でした。欧州大塔宮ネットワークがなければなしえないことであったでしょう。発想自体浮かばなかったのではないでしょうか。
「大塔政略」の第三は、南北朝を統一する護良親王の皇統を護るために永世親王家である伏見宮家を創設することです。
崇光天皇(実は護良親王の皇子)のあと、前代の光厳天皇の実子である後光厳天皇が即位しますが、4代で断絶し、崇光天皇の皇子伏見宮栄仁親王の孫が1429年後花園天皇として即位して「大塔政略」の第一である護良親王の皇統に皇位が移ります。100年かけて皇統の一元化を成し遂げました。この時点で南北朝の問題が解決され、北朝とされている室町時代の後花園天皇から江戸時代最後の孝明天皇まで、すべて南朝ということになります。
弘化四年(1846年)に奈良奉行の川路聖謨に久邇宮朝彦親王(1824年~1891年)が「禁裏も近衛・鷹司もわが実家から出た」「当時(現今)は禁裏も後醍醐帝の御血筋」と述べたという記録があります。
久邇宮朝彦親王は、伏見宮邦家親王第4王子ですので、本来ならば北朝の子孫ということになりますが、自分は南朝であると明言しておられます。また、禁裏とは天皇のことですので、当時の天皇も南朝の出身であることが分かります。江戸時代に近衛家も鷹司家も直系が断絶した天皇家から継嗣を迎えています。「大塔政略」を理解して初めてこの言葉の意味が理解できます。
後花園天皇の弟が伏見宮貞常親王となられて、伏見宮家を継承します。この伏見宮家は永代の親王家とされ、皇室が断絶した場合の天皇家の補完の役割を果たすことが定められましたが、それだけの役割ではなかったようです。西大寺に入った護良親王がウラ天皇となり、非農民ネットワークを取りまとめたように、西大寺から海外に進出しついには欧州王家となった欧州大塔宮と連携をとりながら、表の天皇を支えるウラ天皇としての役割を代々果たしてきたということです。これらの前提(前例)があって、「堀川政略」が実施されました。
最後に、「簒輯御系図」とフルベッキ群像写真についての疑問について付け加えます。
北朝の孝明天皇の皇統を廃して、薩摩長州の志士たちが、南朝天皇の子孫である大室寅之祐を明治天皇として担いだという論の説明として、明治十年(1877年)元老院が作成した皇統譜には、伏見宮貞成親王の「御父不明」とあります。これをもって、貞成親王の父を足利義満であると推定して、その後の北朝天皇は足利天皇であるのでそれを正すためになしたものだ、と論じます。しかし、貞成親王の子孫である有栖川宮が総裁となり、明治天皇が決済した公式な皇統譜で、歴代の天皇の地位を貶める系図を是認するでしょうか。北朝であるはずの崇光天皇の御父は南朝護良親王であることや伏見宮貞成親王の御父は、崇光天皇であるという事実を伏せて、将来時期がきたら皇統譜を訂正できるようとの布石ではないかというのです。
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落合莞爾による「堀川政略」の相似形(先駆)をなす「大塔政略」 。
ポイントは、護良親王の皇子を北朝嫡流に入れて表向きは北朝であるが、皇統を南朝で統一したこと。また、護良親王を南朝支持勢力である非農民ネットワークの隠れ棟梁とし西大寺に入れウラ天皇として表の政体天皇を支援するバックアップ体制をつくったこと。また、同じく護良親王の子孫の伏見宮家を創設し、表の天皇のバックアップ体制を盤石なものとしたこと。西大寺入り後の護良親王の子孫は、広く海外に飛翔し欧州王家ともなり伏見宮家のネットワークとともに表の天皇を支えてきました。 |
また、幕末維新のフルベッキ群像写真の中央に写っている青年が大室寅之祐であるとされていますが、斉藤充功の著作によると、法人類学者の鑑定により、明治天皇でないということです。すりかわった孝明天皇の皇子睦仁親王のご真影を後世に残す意図で発表されたのではないかと推論しています。
落合莞爾は、ひとこと、戦後の体制を、横田幕府(アメリカ軍の駐屯地が東京近辺の横田基地にあり、アメリカが実質日本を支配していることをさしていると推察される)と述べましたが、後醍醐天皇・護良親王の子孫である井口家の落合完爾を通じて天皇家の秘事が公開されるとことは、戦後70年日本もいよいよ自立むかっているのではないかと希望をいだきました。(落合完爾著の「落合秘史Ⅰ~6,特別編」による)
参考図書
○「明治維新の極秘計画「堀川政略」と「ウラ天皇」」落合莞爾著(落合秘史Ⅰ・成甲書房 2012年)
「ウィーン議定書の締結は一八一五年二月ですが、九月にはロシア皇帝アレクサンドルⅠ世の提唱によりオーストリア皇帝・プロイセン国王との間で神聖同盟が成立し、イギリス国王・ローマ教皇・トルコ皇帝を除く全欧州の君主が加わります。」(p29)
「神聖同盟の真の意味は、実は「欧州王室連合」の成立にあり、それは将来の「世界王室連合」を睨んだものだったのです。つまり欧州各王室の眼は、この時すでに、遠く極東の日本皇室に向けられていました。欧州王室連合は世界王室連合に向かって発展するために、日本皇室に参加を求める方針を建てたのです。
その理由は、ヴェネツィア・コスモポリタンから成る欧州各王室が、日本皇室を以て「シュメル文明の正統後継者」と視ていたことによる、と聞いております。」(p30)
「孝明暗殺の大芝居は、私が仮に「堀川政略」と名付けた一連の政治的戦略の中核をなすものです。その本意は、幕末になり西欧諸国からの激しい要求に遭って開国の已む無きことを悟られた孝明天皇が、國体を保持しつつ政体天皇を建て、以て幕藩体制から公武合体に移行することと、開国に伴う国内犠牲、すなわち外国の介入により臣民同士が相撃つ悲劇を最小に止めることを第一義にしたものと推測されます。
さらに開国後の世界王室連合への加盟を前提にして、國體の保全と開国とを両立させるための方策を青蓮院宮及び侍従岩倉具視に諮り、岩倉が未来構想に立って献策した「堀川政略」を嘉納したものと考えます。
つまり「堀川政略」は、一八一五年にロシア皇帝アレクサンドル1世が提唱した神聖同盟により成立した欧州王室連合の世界戦略に対する、日本皇室の対応策として、岩倉から孝明天皇に献策されたものと見るべきものです。
ここに「堀川政略」とは私の命名で、京都の六条堀川の一角に密かに構えられた堀川御所に因むものです。‥‥。
その骨子は皇室を表裏二面に分けることで、そのために孝明天皇が崩御を装い、皇太子睦仁親王と倶に堀川御所に隠れ、以後は世に隠れた京都皇統として、國軆天皇本来の機能である国家シャーマンとして国家安泰を祈ります。」(p50後ℓ3~p51後ℓ5)
「堀川御所は、「堀川政略」の筋書きに従って慶応二(一八六六)年十二月二十五日に崩御を偽装された孝明天皇が、皇太子睦仁親王とともに密かに隠棲された極秘の施設であります。次代の天皇と決まった大室寅之祐(おおむろとらのすけ)は、孝明崩御に先立って京都入りしましたが、以後暫くの間は堀川御所にいて宮中の仕来(しきた)りなどを学び、それから京都御所に入られたそうです。新天皇になる予定の寅之祐につかえる女官たちは、既にこの時に選ばれていたものと思われます。
年が明けた慶応三(一八六七)年一月五日、大室寅之祐は践祚して新天皇に就きますが、この時に孝明天皇に仕えていた女官たちは、御所残留組と今後も孝明に仕える堀川転籍組とに別れたのでしょう。睦仁皇太子に仕えていた女官たちも転籍組と残留組とに分離して、転籍組は堀川御所へ、残留組は新たに選抜された女官に混じって東京皇居に移り、共に新天皇に仕えることとなったと推察します。」(p54後ℓ9~p55ℓ1)
「堀川御所は市街には面しておらず本圀寺の境内に在ったらしいのです。ここならば、大家の本圀寺の了解は必要ですが、隠れ家としてはこれ程相応しい立地はまずありません。」(p58)
「堀川御所は昭和三(一九二八)年を以て役目を終えたので取り壊した、・・・・。」(p61)
○「奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新 大室寅之祐はなぜ田布施にいたのか」落合莞爾著(落合秘史Ⅲ・成甲書房 2014年)
「吉田松陰の実家の萩の杉家は、大室寅之祐を世に出す役目を担っていた。」(p30ℓ4)
「(周防国[山口県]熊毛郡)田布施町麻郷の大室家が南朝系であることは、どう見ても確かです。
寅之祐の実弟朝平の子孫に当たる地家康雅氏の年来の主張に、「後醍醐天皇五代孫の光良親王の子孫を称する大室家は既に絶え、回船業者地家作蔵の妻スエが、作蔵と離婚して大室家に入り(本妻が既にいたため妾)した時の連れ子が寅之祐である」との一条があります。
要するに、「寅之祐は後南朝末裔の大室家の血統を引いてはいない」との主張です。それならば、氏姓鑑識を必要とするのは大室家よりむしろ地家作蔵ということになりますが、康雅氏は自らの高祖父作蔵のことを、苗字もなかった海賊と主張しています。中山忠能が宮内庁所管『中山忠能日記』の中で「寄兵隊天皇」と呼んだ大室寅之祐を、名もない卑賤の出身という地家康雅氏の主張は、身内の言だけあって真に迫って聞こえます。
仄聞するところでは、皇統譜には、公表品とは別に秘匿されている「真の皇統譜」があり、護良親王の末裔を記録した「真の皇統譜」は今も「京都皇統」が保管しており、これを管理するのが四親王家の中でも桂宮の役割と聞いています。
つまり寅之祐は、「真の皇統譜」によって護良親王の血筋と確認されたうえで、睦仁皇太子の替え玉として皇室に迎えられたのですから、康雅氏の主張する寅之祐の卑賤出自説は遺憾ながら自らの先祖の一面しか捉えていないように思えます。
大室家の先祖となった護良の王子は、「大塔若宮」と呼ばれた興良(おきなが)親王と推定されます。」 (p30ℓ9~p31ℓ7)
「大室家の保護を頼まれた田布施の甚兵衛は佐藤姓で、昭和の御代にその家から日本国首相を二人も出しました。佐藤栄作の夫人寛子は実家が佐藤甚兵衛基治の直系であると、回想録にハッキリ書いています。逆に言うと、岸信介・佐藤栄作が揃って首相に就いたのは、佐藤甚兵衛の家門によるところもあり、単なる個人的能力ではないとも言えます。」(p69)
「平成の世になって信介の外孫安倍晋三が首相となりました。」(p69)
○「国際ウラ天皇と理数系シャーマン 明治維新の立案実行者」落合莞爾著(落合秘史Ⅱ・成甲書房 2013年)
「持明院と大覚寺の両統が交替で皇位に即く両統送立の政治慣行は、後述するように、明らかに日本社会を悪い方向へ導きますが、外から皇室をコントロールしていた鎌倉幕府にっとっては甚だ好都合なため、幕府側からはその解消を言い出すことなく、むしろ事あるたびに、両統送立を根本原則として強調してきました。
両統が終始対立していた朝廷も、三代遡れば後嵯峨天皇にたどり着きます。元は一つの朝廷側では、やがて「両統対立は幕府の思う壺であるから、ここらで合一策を講ずべし」との気運が内々で高まりますが、この悪しき慣行を一掃するには、その基となった皇統の分裂を修復して元の一つに戻す一大作業が必要になります。
そこで南北皇統の首脳(※大覚寺統より後醍醐天皇、大塔宮、持明院統より後伏見上皇、花園上皇、光厳上皇、豊仁親王[光明天皇])が完全に合意して、固く結んだ秘密協定が「南北朝の強制統合」なのです。南北朝の秘密統合から百年後、南北皇統が表向きにも合一して唯一の皇統となった後花園皇統の予備家系として伏見殿が創られます。こうして創立された伏見宮家は、後花園系皇室の永遠の実家となったばかりか、あらゆる面で皇室をバックアップするシステムとして、ある意味では天皇家を超えた存在と言っても過言ではないのです。
――――皇室が「永遠に南朝である」とされた理由―――
伏見宮に後醍醐天皇の子孫が入ったことが、六百年も極秘にされてきた理由は何なのか。これを理解するには、まず「南北両統の送立」という國軆(国体)上の変則事態の意味を理解しなければなりません。言い古された格言ですが、「天に二日なく地にに二帝なし」とは、正に事の本質をさしているのです。
鎌倉末期、皇位継承権において全く対等な皇統が二つ存在した自由は、同父同母の兄弟が、ともに皇位に就いたことに始まります。両統が互いに譲り合わなかったのは
双方の長講堂領と八条院領と謂う全国最大級の荘園が属していたからです。・・・・。
両統送立方式と似た欠陥が、わが憲政上の両院制にもあることは、近年の民主党政権で国民が痛感したところですが、二大皇統の並立はそれよりももっと始末が悪く、決められない政治が延々と続いたのです。
鎌倉幕府がそれを承知しながら両統送立の原則化を進めたのは、これを恰好な朝廷操縦策と考えたからです。そこで事態を憂えた両統の首脳が、建武元年(一三三四)年、後醍醐天皇の主導により両統の強制統合に関する秘密合意をいたしました。
それは、大塔宮護良親王の直系男子を以て唯一の皇統とする原則です。その実現策として、護良親王と某女性との間に建武元(一三三四)年に生まれた男子を、北朝初代の光厳上皇の第一皇子としていれたのです。
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鎌倉宮の護良親王が幽閉された土牢跡。 |
両統の首脳が一致して不世出の偉材と認める大塔宮護良親王は、両統合一の大目的を達するために鎌倉に移されます。鎌倉府では、足利尊氏の同母弟の執権足利直義が、腹心の淵辺義博に親王の身辺保護を命じ、房州白浜に親王のための隠れ家を手配しながら、親王を偽装弑逆する時機を待ちました。
そこへ「中先代の乱」が生じたのを好機に、淵辺義弘は親王弑逆を偽装し、六人の郎党と共に親王を護り、予て用意の房州白浜へ落ちます。翌々日義博の影武者が、義博の主君足利直義の身代わりとなって北条軍を相手に奮戦し、陣没します。こうして生き延びた大塔宮は、やがて鎌倉極楽寺に入って体制を整え、街道に沿って設けられていた極楽寺のネットワークを伝って大和にたどり着き、西大寺に入って西大寺流律宗の隠れ棟梁になります。
一方、光厳天皇の第一皇子にはいった益仁親王は、護良親王の皇子興良親王に因んで興仁と改諱(かいき)し、北朝の皇統を継いで崇光天皇となります。崇光の皇子栄仁親王は皇位に即かず伏見殿の初代となり、その王子伏見宮貞成親王も皇位に即かず、ひたすら伏見宮家を固めます。
その間、光厳天皇の実子が後光厳天皇となり、後光厳→後円融→後小松→称光と続く北朝の閏流(じゅんりゅう)を建てます。光厳第二皇子とされる後光厳の子孫のこの四代は、光厳第一皇子の系統ではないという意味で「新北朝」と呼ばれますが、崇光は実は護良親王の王子ですから、第二皇子とされた後光厳こそ、ホントは光厳の第一皇子で、正に北朝の正嫡なのです。
新北朝の四代目の称光天皇が継嗣なく夭折したのを機に、伏見宮貞成親王の第一皇子が後花園天皇となり、皇統の予備血統としての世襲親王家伏見殿を実質的に創めます。
朝彦親王が川路聖謨に、「禁裏も近衛・鷹司もわが実家から出た」と嘯(うそぶ)いた際の「わが実家」とは、後花園の弟貞常親王に始まる伏見宮家のことではなく、もっと広く、後花園皇統と世襲伏見宮の親の貞成親王が称した伏見殿を意味しているのです。
したがって、その後、大塔宮護良親王の子孫の大室寅之祐が孝明の皇位継いだ明治天皇のことを問われても、「当今(とうぎん)もわが実家から出た」と嘯いていたことでしょう。」(p67後11~p70)
○「南北朝こそ日本の機密 現皇室は南朝の末裔だ」落合莞爾著(落合秘史特別篇・成甲書房 2013年)
○「京都ウラ天皇と薩長政府の暗躍 明治日本はこうして創られた」落合莞爾著(落合秘史Ⅳ・成甲書房 2014年)
○「欧州王家となった南朝皇統 大塔宮海外政略の全貌」落合莞爾著(落合秘史5・成甲書房 2014年)
○「日本教の聖者・西郷隆盛と天皇制社会主義 版籍奉還から満鮮計略への道」落合莞爾著(落合秘史6・成甲書房 2015年)
○「明治維新の生贄 誰が孝明天皇を殺したか」鹿島曻・宮崎鉄雄・松重正著(新国民社 平成⒑年)
○「二人で一人の明治天皇」松重揚江著(たま出版 2007年)
○「明治天皇”すり替え”説の真相」落合莞爾・斎藤充功著(学研パブリッシング 2014年)
平成27年12月23日作成 平成30年03月11日最終更新 第112話