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「歴史認識の問題 その10」は「大東亜戦争」についてです。

 「大東亜戦争」の名称は、1941年12月8日の真珠湾攻撃のあと、「支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と日本が命名しました。「自存自衛」も戦争の目的であると表明することも検討されたようですが、戦争の目的は「アジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものである」とシンプルに規定されました。 「アジア諸国における欧米の植民地支配の打倒」については、明治維新以来の日本の国防方針でした。

 江戸時代末の吉田松陰は「幽囚録」で「欧米の諸国からアジア諸国が植民地にされている中で日本が独立を維持するためには、日本は、朝鮮や中国、フィリピンなどを共栄圏として日本を守らなければならない」と主張しました。「特にロシアの南下政策を封じ込めなければならない」と主張しました。明治維新以来の日本防衛の基本方針です。
 「自存自衛」という目的も真実です。大東亜戦争を裁いた東京裁判の東条英機の宣誓供述書で「自衛戦争」であったと述べました。自衛のために大東亜戦争を行うことにより、窮鼠猫を噛み、返り討ちに遭いました。

 「太平洋戦争」は、「大東亜戦争」が侵略戦争であるということにするためのアメリカつまりGHQの命名です。
 GHQは1945年12月になり満州事変から太平洋戦争までを連続したものとみなし、日本の侵略と残虐行為を捏造した宣伝文書「太平洋戦争史−真実なき軍国日本の崩壊」を各新聞は連載させ、「大東亜戦争」の名称の使用を禁止しました。
 1945年8月14日にポツダム宣言の受諾により、翌15日に終戦となりました。武力闘争が終わりましたが、それで戦争がおわったのではありません。1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効するまで日本の文化を破壊する精神的な戦争は終わっていませんでした。武力闘争終了の昭和20年8月15日から6年8カ月の間に日本国民は完全に洗脳されてしまいました。「War Guilt Information Program 」です。
 清水馨八郎は、平成3年、日本傷病軍人会代表団がアムステルダム市長主催の親善パーティー招待された時のサイティン市長の挨拶を「大東亜戦争の正体ーそれはアメリカの侵略戦争だった」の中で採録しています。

 「あなた方日本は、先の大戦で負けて、私どもオランダは勝ったのに、大敗しました。
 今、日本は世界一、二位を争う経済大国になりました。私たちオランダは、その間屈辱の連続でした。すなわち、勝ったはずなのに、貧乏国になりました。戦前はアジアに本国の三六倍もの面積の植民地インドネシアがあり、石油等の資源産物で、本国は栄輝栄華を極めていました。
 今のオランダは、日本の九州と同じ広さの本国だけになりました。あなた方日本は、アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分を蔑み、ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。
 あなた方こそ、自ら地を流して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高の良いことをしたのです。なぜなら、あなたの国の人々は過去の歴史の真実を目隠しされて、今次大戦の目先のことのみ取り上げ、あるいは洗脳されて、悪いことをしたと、自分で悪者になっているになっているが、ここで歴史を振り返って、真相を見つめる必要があるでしょう。
 本当は私たち白人が悪いのです。100年も200年も前から、競って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。植民地や属領にされて、永い間奴隷的に酷使されていた東亜民族を解放し、ともに繁栄しようと、遠大にして崇高な理想を掲げて、大東亜共栄圏という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。
 本当に悪いのは、侵略して、権力を振るっていた西欧人のほうです。日本は敗戦したが、その東亜の開放は実現しました。すなわち日本軍は戦勝国のすべてを、東亜から追放して終わりました。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成しました。
 日本の功績は偉大です。血を流して戦ったあなた方こそ、最高の功労者です。自分を蔑むのは止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきときです。」

 「十五年戦争」という言い方があります。これは、1931年9月18日からの満州事変、1937年7月7日に始まる支那事変(日中戦争)、1941年12月8日の大東亜戦争(太平洋戦争)を一連の戦争とした史的唯物論による侵略史観つまり自虐史観による命名です。共産主義者の評論家の鶴見俊輔が1956年に初めて使用しました。満州事変から日中戦争に至る対中膨脹戦略の連続性を主張していて、GHQの「War Guilt Information Program」に添った主張です。最近では、「15年戦争」という言い方をバージョンアップさせアジア全体を侵略したという主張をビジュアル化するために「アジア・太平洋戦争」という言い方を使うようになりなりました。

 「名は体を表す」という言葉にあるように、「大東亜戦争」⇒「太平洋戦争」⇒「15年戦争」⇒「アジア・太平洋戦争」とどんどん自虐性を帯びる呼称となります。
 「大東亜戦争」は、自衛戦争をせざるを得なかった日本の主張にもとづく呼称。「大東亜共栄圏」をめざす正義の闘いであるという趣旨をも含みます。ヨーロッパの植民地政策からアジアを解放する目的は、ベトナム戦争終結をもってすべて果たされたので、ベトナムからアメリカ軍が撤退した1975年4月30日日本の勝利に終わったと言える側面を内包しています。
 「太平洋戦争」はGHQの「大東亜戦争」を侵略戦争とするために呼称。
 「15年戦争」「アジア・太平洋戦争」の呼び方は日本を解体するための唯物史観に基づく共産主義国家をめざす進歩的知識人つまり大半の日本の歴史学者が、極論をいえば中国の主張に追随した捏造の歴史を擁護するための呼称です。

 明治維新の改革、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変(中国の言う日中戦争)を一連の欧米諸国のアジア侵略に対する日本の防衛という視点で「東亜百年戦争」という視点もあります。林房雄の「大東亜戦争肯定論」や最近では藤原正彦の「日本人の誇り」の視点、史観です。この「大東亜百年戦争」をいう視点を持つことによって日本人としての誇りを取り戻すことができるとおもいます。

 しかし、明治維新以来のこの周辺諸国までを日本化するという「大日本主義」は、当時としてはやむをえなかったとは思いますが、今日では「大東亜百戦争」をへて、「専守防衛」という現在の日本の方針が今日的に正しい主張になると思います。「大東亜百年戦争」を断罪することは、フェアな判断ではありません。時代に応じての正統性があります。過去を今日的な判断で裁くことは正しいことではありません。
 「東亜百年戦争」の視点を持つことによって「日本人としての誇り」を取り戻すことが大切ではないかと思います。

参考図書

『終戦の詔(現代語訳)」藤 鈴蝸
日の丸とパラオの国旗の由来 (11'47") YouTube

○「大東亜戦争を知らない日本人へ」田母神俊雄著(2015年 ワニブックス)

「日露戦争直後から対日戦争計画を練ったアメリカ

 大東亜戦争は、日本が好戦的だったから戦ったとか、日本が権益を広げるために他国を侵略したとか、そういうことではまったくなかった。日本は降りかかった災難をはねのけるべく立ち上がったというのが、大東亜戦争の本質である。
 一九〇五年―日本が江戸幕府から明治政府となって三七年、アジアの小国日本が西欧の大国ロシアと戦争をし、勝利を挙げた。日露戦争の結果は、アメリカに大きな衝撃を与えることとなる。
 一六世紀以降、世界各地に進出した日本人は必ず勝利してきた。それがそれまでの常識だった。日露戦争では、歴史上初めて有色人種の国が白人の国と戦争して勝ったのである。これは本当に画期的なことだった。
 その時から、アメリカは「日本をこのまま放置すると大変なことになってしまう。最悪の場合、アメリカが日本に支配されるようなことも起こり得る」と危惧し、日本を仮想敵国として対日戦争計画「オレンジ計画」を作成することとなった。後の第一次世界大戦で日本と協調関係にあった時でも、オレンジ計画は研究され続けていたのである。
 それによると、「日本が先制攻撃により攻勢に出るが、消耗戦を経てアメリカが反攻に移り、やがて海上封鎖されて日本は経済破綻して敗北する」という日米戦争の進み方がシミュレーションされたという。まさに、実際の大東亜戦争でもこの筋書きに近い経過をたどって日本は敗戦した。アメリカの戦力分析の確かさには驚かされる。
 アメリカは日本だけではなく、交戦の可能性のあるすべての国との戦争計画も立てていたということだが、主に日本との戦争に備えることに力を注いでいた。つまり、日米関係は、昭和になって急激に悪化したわけではなく、アメリカは虎視眈々と日本に照準を合わせていたのだ。
 二〇世紀初めに日本が日露戦争に勝った時から、アメリカは第一の戦略目標として「日本の軍事力を潰す」ことを掲げた。そして、その後四〇年かけて嫌がる日本を戦争に引きずり込み、結果、その目標を遂げたのである。
 アメリカは、第二次世界大戦中はソ連と同盟協定を結んでいたほどで、当時はまだ共産主義の脅威を理解していなかった。しかし第二次世界大戦が終わると、アメリカは初めてその脅威を認識するようになった。その結果、第二次大戦時はソ連や中国と同盟国として日本やドイツと戦ったにもかかわらず、戦後は敵味方をくるりと入れ替えたのである。アメリカは自国の国益追求のためには、平気で敵味方を入れ替えてくる。
 同様のことをアフガニスタンやイラクでもやっている。かつてアメリカがアルカイダやタリバン、サダム・フセインを支援していた事実は今さら驚くに当たらない。

日本を挑発して戦争に引きずり込んだルーズベルト

 真珠湾攻撃の時も、日本が攻撃せざるを得ないようにアメリカが仕組んだ。当時、アメリカは「満州の権限を全部手放せ」と日本に要求していたのである。これは、とても日本が呑めるような要求ではなかった。
 その時の日米交渉の経緯を、日本は世界に向けて公表すれば良かったと私は思う。
 「皆さん、アメリカの要求は理不尽だと思いませんか?」と情報を発信すれば、国際的にも、そして一般のアメリカ人にも伝わったかもしれない。
 実は、当時のフランクリン・ルーズベルト大統領は、「戦争には介入しない」という宣言をして大統領に当選したので、参戦したくてもできない状況にあった。日本側が情報公開していれば、「『戦争しない』と言って大統領になったのに、日本に戦争をけしかけているじゃないか!」と、アメリカ国民から責められた可能性もある。そうしたら、日本は戦争を回避できたかもしれないのである。
 しかし、当時の日本政府は、「交渉の経過は信義上、公開できない」としていたので、結果としてアメリカの思惑通りになってしまった。現在行われているTPPも交渉経過を秘密にするようにアメリカが主張しているので、このまま行けば我が国はアメリカのいいように牛耳られる恐れがかなりある。経過を公表して日本の国民世論をバックにつけなければ交渉には勝てないであろう。
 真珠湾攻撃直前、アメリカ太平洋艦隊はフィリピン付近で日本を攻撃するかのような訓練をし挑発を繰り返した。そして、日本に「攻めてくれ」と言わんばかりに、ハワイに軍艦を結集させたのである。
 「このままでは日本と戦争になる恐れがあるから、アメリカ本土に帰りたい」と訴えた司令官に対し、ルーズベルト大統領は「そのままハワイにいろ」と命令している。
 日本軍がついに業を煮やして真珠湾を攻撃してくれて、ルーズベルト大統領はありがたかったに違いない。自分は「戦争はしない」と言ってきたが、攻撃された―しかも卑怯な奇襲攻撃をしてきたのだ。アメリカの国民感情も一気に「リメンバー・パールハーバー!やり返せ!」と、戦争に前のめりになった。
 戦争を受けて立つ大義名分を手に入れることができて、大統領も喜んだことだろう。
 こうしてアメリカは、日本が絶対に呑めない理不尽な要求を突き付けた上に軍事的に挑発して、日本を戦争に引きずり込むことに成功したのである。

四〇年かけて日本、ソ連をつぶしたアメリカ

 蛇足ながら、ここであえて現状にも触れておきたい。なぜなら、今も昔もアメリカのやり方は同じだからである。
 日本を軍事的に破壊することに成功すると、アメリカの最大の敵はソ連の軍事力となった。戦後はソ連を封じ込めることがアメリカの第一の戦略目標となったのである。
 しかし、アメリカは軍事的にソ連をつぶすことは選択できなかった。なぜなら、ソ連は核武装国だったからである。核武装国同士が戦うと、最終的には核戦争にならざるを得ない。核戦争になってしまえば、お互いの被害は甚大になり、勝者は存在しなくなる。
 もしアメリカが形の上では勝ったとしても、ニューヨークやロサンゼルスなどに原爆を落とされたて大都市が消滅していたなら、とても勝ったとは言えない。それゆえ、核保有国同士の戦争はできないのである。
 軍事的にソ連を潰せないことがわかったアメリカは、ソ連を政治的に破壊させる方策に出た。冷戦下の一九八一年にレーガン政権が誕生すると、アメリカは軍拡競争に持ち込んだのである。
 アメリカが軍事費を増大すると、ソ連もアメリカに対応して軍事費を増やさなくてはならない。この繰り返しによって徐々にソ連経済を疲弊させ、ソ連を内部崩壊させることを目論んだというわけである。
 そのためアメリカ・レーガン政権は西側諸国を総動員して、実質年間4%の軍事費の増強を要請することになる。日本にも「ステディ・アンド・シグニフィカント(着実、かつ顕著)な軍事力の増強をやってくれ」との要請があり、それを受けて我が国も4%増の軍事費の拡張をやった事実がある。
 ソ連は、インフレ経済の中で軍拡競争についていくしかなかったが、結局、西側諸国の経済力にはかなわないことから、ソ連は超インフレになって内部崩壊してしまった。ついに、アメリカはソ連を政治的に破滅させることに成功したのである。
 計画を作り始めて(一九〇五年)から四〇年というロングスパンで日本を倒し(一九四五年)、その次の四〇年ほどでソ連を崩壊させた(一九九一年)。アメリカ帝国主義の戦略と実行力は、見事だとしかいいようがない。その間、ソ連を封じ込めるためにアメリカは地政学的には日本を必要とした。まさに米ソの間の防波堤であう。つまり、アメリカは日本のことを思って日本を護ったわけではなく、自国の利益のために日本を守ったのである。
 さらにもうひとつ、日本の国民生活がある程度安定しなければ、共産主義に侵される恐れがあった。だから、戦後の日本の復興についても、比較的アメリカは協力的な態度を取ったのである。
 そうした恵まれた環境と、日本人の地道な努力の甲斐もあって、日本は戦後順調に経済を発展させ、世界第二位の経済大国に昇っていったのだ。
 ところがソ連が崩壊して冷戦が終わると、アメリカの戦略が大きく変わることになる。

戦後はアメリカとの経済戦争に敗れた日本

 アメリカはソ連を政治的に破滅させることに成功した一九九一年、CIAが『JAPAN2000』というレポートを作成し、戦略計画の見直しを行うことになった。
 それは、「冷戦は終わった。これからアメリカにとって最大の脅威となるのは、ソ連の軍事力ではない。日本とドイツの経済力である。とりわけ台頭著しい日本の経済力、これを押さえつけておかないと、やがてアメリカ経済が日本経済に支配されるかもしれない」という内容であった。
 その時点から"日本の経済を潰す"というのが、冷戦終結後のアメリカの第一の戦略目標となったのである。
 その頃、日本はまさにバブル景気に沸いていた。しかし、アメリカが対日本戦略計画の見直しを行ったのとほぼ同時に日本のバブル経済が弾け、その後二〇年以上にも及ぶデフレ時代に突入し、GDPがどんどん縮小し資産を失っていった。これは偶然ではない。日本はアメリカに「経済戦争」を仕掛けられており、知らず知らずのうちに敗北していたのである。
 例えば、『JAPAN2000』が出された直後、野村證券など日本の四大証券会社が大口顧客に損失補てんをしていたというスキャンダルが発覚し、日本経済が混乱したが、これがCIAの工作によるものだったというのは公然の秘密である。
 アメリカは冷戦末期から「日米構造協議」という罠を日本に仕掛けてきていた。「日米貿易不均衡の是正が目的」と言えば聞こえはいいが、要は「日本だけが儲けるのは許せないから、こっちに寄こせ」ということだ。
 一九九三年には宮澤喜一・クリントン会議が開かれて、「日米包括経済協議」という政府間合意を根拠に、年に一度、日米間で構造改革要求書を交換することが決定された。そして翌九四年、村山富市内閣の下で初めて「構造改革要求書」の交換が始まることになる。年に一度のことなので、「年次改革要望書」との名でも知られている。
 アメリカは年次改革要望書を通じて、日本を弱体化させるための極めて具体的な要求を次から次へとしてきた。
 名目上は、日本もアメリカに要求があればしてもいいという相互主義の体裁を取っているが、アメリカは日本に要求を突き付けるだけで、日本の言うことを聞く気などはまったくなかったし、日本もたいした要求はしていない。

アメリカの利益になる要求がまかり通る理由

 アメリカからの年次改革要望書には、郵政民営化や建築基準法の改正、社外取締役制度の導入など、一見アメリカの利益には直結しないような要求も含まれている。
 しかし、郵政民営化というのは、税金の無駄遣いや官僚の天下りを止めることが目的ではなく、郵貯・簡保が保有している三五〇兆円もの膨大な資産を吐き出させて、外資系金融機関が儲けるための動きである。
 建築基準法の改正は、木材や水道の蛇口など、アメリカの建築材料はいちいち点検せずに黙って使えという要求だ。また、社外取締役制度は、アメリカの金持ちがアメリカにいながらにして日本の会社の株主、取締役になれることを意味し、それによって会社の中から日本社会に対して影響を与えることができるようになるのである。
 また、行政改革の一環として日本は「小さな政府」を目指し、一九九〇年代は国家公務員の数をどんどん減らしていった。その中にあって、アメリカの要求で談合摘発要員である公正取引委員会だけは人数が二倍近くになった。
 公正取引委員会というのは、もともと総務省に属する組織だったが、それを内閣府に移し、独立性の高い機関となって次々と談合を摘発していった。これも、アメリカの要求があったからである。
 アメリカは、「談合によって入札価格は無限につり上がある」、「政治家が分け前を懐に入れる」などと談合の悪い側面ばかり喧伝し、「談合は悪」という情報戦を仕掛けた。さらに、談合に絡んで役人が悪いことをしているイメージを植え付けるため、財務省―当時は大蔵省―の役人が接待でノーパンしゃぶしゃぶに行っているなどとリークし、日本の官僚システムと公共事業、そして談合が悪だという攻撃をするなど、日本経緯を弱体化するための戦略が次々と実行されてきたのである。
 その他にも、アメリカの要求によって行われた「改革」には、公共投資の拡大、土地税制の見直し、大店法の規制緩和、司法制度改革、独占禁止法改正・・・・・・などがある。
 アメリカの要求した大店舗法改正により、日本全国の商店街がシャッター街となり、アメリカによる派遣法改正要求も、日本経済の強さであった終身雇用を崩壊させるためのものであった。
 これらの改革を行って、日本社会はいったい良くなったのか?この"失われた二〇年"を振り返るまでもなく、アメリカにとって都合のいい改革をどれほど行っても、日本が良くなるはずがないのである。
 では、なぜ歴代政権は、自国を弱体化させるようなアメリカの要望を唯々諾々として呑んでいったのか?それは、自国をアメリカの軍事力に守ってもらっているからである。急所を握られているから、アメリカの要求をはねのけるような真似はできないのだ。
 これがもし戦前であったら、日本は独立国家として毅然とアメリカの不当な要求をしりどけたことだろう。また、アメリカ側も戦争を仕掛ける覚悟がないのであれば、そこまで不当な要求をすることもなかったと思われる。結果として日本政府はほぼ一〇〇%アメリカの要求を受け入れた。しかし、改革でよくなったものはひとつもなかったのである。」(p96~p108)

○「日本人を狂わせた洗脳工作(WGIP)いまなお続く占領軍の心理作戦」関野通夫著(自由社ブックレット 2015年)
○「白い人が仕掛けた黒い罠―アジアを解放した日本兵は偉かった」髙山正之著(ワック 2011年)
○「太平洋戦争」アメリカに嵌められた日本」マックス・フォン・シュラー著(ワック 2015年)
○「大東亜戦争の正体 それはアメリカの侵略戦争だった」清水馨八郎著(祥伝社 平成18年)
○「大東亞戦争は昭和50年4月30日に終結した」佐藤守著(青林堂 平成24年)

平成27年12月25日作成 平成28年04月22日最終更新  第113話