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高校生のためのおもしろ歴史教室>余話の部屋

47.満州国と日中戦争の真実

「歴史認識の問題 その9」は「満州国と日中戦争の真実」についてです。

  歴史的な事実を「日本は、領土的野心を実現させるために満洲国を建国し、さらには中国を支配下に置こうとした」という前提で拾い出し説明するのが、現在の日本の歴史教科書であり、中国の主張する歴史です。さらに、その歴史的な事実とされるものを中国は平気で捏造し、それを追認しているのも日本の歴史学者であり、マスコミです。

 AがBを倒す意図をもって、あるいは自分の利益のためにBの中傷を行い、さらに、殴り合いのけんかをAがはじめ、Bが応戦してAとBの喧嘩が始まったとします。何度も何度も和解をBが提案しても喧嘩がやまなかったとします。この場合、すべての責任、原因はAにあります。
 しかし、Bの応戦から事実を書き、Bが和解をもとめてふるまったことに触れなければBが悪いことになります。Bが殴ったという事実があってもそうです。しかも、Aが、してもいないBの行為を捏造して、Bが悪い原因にします。そして、Aの子分のCも、日ごろからBの正直さや正義感に辟易しているまわりのDもBが悪いと主張します。Aが中国、Bが日本、Cが韓国、Dがアメリカに当たります。中国の子分が韓国であることは意外であると思うでしょうが、歴史的には属国でした。いまも心情的には同様ではないでしょうか。

 現在の日本を例に説明をします。アメリカや中国やタイに日本のメーカーの生産拠点がたくさんあります。そこに反日運動がおき、日本人が虐殺され続けたら今日では、アメリカや中国、タイの政府に日本人の保護をお願いし、工場や日本人の居住している地域にガードマンを雇い日本人の保護を行い、工場を守ります。それでも解決しないならば撤退するしかないでしょう。

 さて、日清戦争、日露戦争等の結果、中国の東北部(満洲)に鉄道を引き、工場を建てました。当時としては非難されるべきことはありません。中国も日本の進出を歓迎していました。1919年共産主義化したロシアは、共産主義洗脳を中国に展開し、反日運動を煽ります。ロシアは日本と中国を戦争させ疲弊させ、中国もさらに日本も共産主義化しようともくろみます。国際共産主義運動の始まりです。ここで、日中の友好関係は崩れます。すべての元凶はロシアの共産主義革命にあります。

 満洲や中国の沿岸部にある日本の工場や鉄道などのインフラに中華民国の国民党政府軍が攻撃をしかけ、虐殺を繰り返すということであれば、当時の常識として軍隊で日本人の所有する工場を守るということが常識でした。国際的に認められている権利でした。
 そのような前提のなかで、宮脇淳子の「真実の満洲史」から引用します。
 「満洲国が建国されるのは、結局、ロシアの革命派が中国のナショナリズムを煽ったのが原因です。中国人が『満洲から日本人は出て行け』と言うようになり、それまで経済的な投資をしていた日本は投資先がが危なくなったので、出費を無駄にしないためにも満洲国を建国したというのが経緯です。」(p180~p181)というのが1932年3月の満洲国建国の説明の要約です。

 1912年の辛亥革命により清は滅びましたが、あとの中国は、日本の戦国時代のようでした。戦国大名にあたるのが軍閥たちですが、その兵士たちは掠奪、強奪を常としていました。共産党の軍隊も、現在では美化されていますが、同様で共産党支配下の地域も同様でした。日本の武将たちは、戦闘は兵士だけで行い民衆を巻き込むことは極力避けましたが、中国ではそのような現状ではありませんでした。共産主義の宣伝に乗らない現地の中国民衆に取っては、日本の支配下、警察権の及ぶ地域は、安心して居住できる地域でした。日本の保護のもとに建国された満洲国には、中国人がどんどん流入してきました。日中戦争になった後の日本の支配下も同じでした。中国の言いなりの歴史観では全く逆になっています。そして、中国の沿岸地域にある日本の工場や日本人の居住区を守るために、日本軍は駆り出され、軍閥の争いに巻き込まれました。今日で言えば、治安維持のためのPKOやPKFが戦争に巻き込まれ、いつの間にか攻撃の対象になり、防御を重ねるうちに全面戦争になってしまったようなものです。否、コミンテルンの支援をえて毛沢東がはかりごとをめぐらし、それがまんまと成功し、全面戦争になるようにはめられてしまったのです。

 言葉を換えれば、アメリカ軍の基地が日本の各地にありますが、そこに日本軍が攻撃を仕掛ければ、どちらが非難されるべきでしょうか。アメリカ軍の駐留は日米安全保障条約で認められている権利です。一方的に破棄し、テロ活動を繰り返し、アメリカ軍の家族の住んでいる地域を襲い、凌辱し、財産を奪ったとしたら、アメリカ軍は、自国の民間人を保護するために軍隊を増強し守ろうとするでしょう。日中関係にあてはめると、通州事件などの残虐行為がその象徴的な事件です。日本の学者もマスコミもこのことには触れません。日本が意図をもって中国侵略を行ったというシナリオが崩壊するからです。

 軍閥による群雄割拠の状況で、蒋介石がアメリカの援助を得て、中国の統一を目指します。アメリカは、蒋介石を援助することによって中国を自分の支配下に置けると踏んで全力で援助しました。
 ロシアは当時、スターリン支配下のソビエト連邦でしたが、国際共産主義運動を進めており、中国を共産主義化しようともくろんでいました。そして、日露戦争の復讐も兼ねて日本の共産主義化も狙っていました。
 中国における国際共産主義運動のエージェントは毛沢東です。毛沢東は共産主義ロシアからの援助で軍備を整え中国の共産主義化をもくろみます。

 蒋介石は、はじめ中国の共産化を恐れ、毛沢東の共産党を掃討しようと全力を尽くしますが、毛沢東の方が一枚上手でした。毛沢東や中国の共産主義化をもくろむスターリンの戦略はシンプルです。日本と蒋介石の中国を戦わせ、疲弊させて、そのすきに中国を共産主義化しようというのです。さらには国共合作(国民党と共産党が共同で日本に対抗するという名目のもと内部から国民党を共産党が乗っ取る)の戦略をとります。今日自民党政権に対して共産党が他党に共同戦線を呼び掛けているのと同じ戦略です。

  張作霖の軍閥を引き継いだ張学良を洗脳し、1936年12月西安事件を起こさせ、蒋介石を監禁させ、解放と引き換えに国共内戦を中止させました。この事により共産党軍に対する国民党軍の攻撃を辞めさせ、さらに、蒋介石の国民党軍の中枢に共産党のエージェントを密かに送り込むことに成功します。加えて、蒋介石の国民党政府と日本が和平しないようにように陰謀をめぐらし衝突事件を起こし、着々と全面戦争になるような陰謀を次々と成功させます。

 満洲事変のきっかけとなった1931年9月18日の柳条湖事件、日中戦争のきっかけとなった1937年7月7日の盧溝橋事件は、今日蒋介石の国民政府軍と日本軍を戦わせるための共産党軍または、蒋介石の国民党軍に潜んでいた共産主義者の作戦であったことが分っています。そのことを、日本の共産主義かぶれした学者[進歩的とされるインテリ・ほとんどすべての歴史学者]も、マスコミも認めようとしません。中華人民共和国成立後、毛沢東が告白しても、首相の周恩来が認めても日本の領土的野心が満洲国建国、日中戦争の原因であるという主張を撤回しようとしません。まして、教科書を書き改めようともしません。共産党の陰謀である傍証としてこの2つの事件により、毛沢東の率いる中国共産党の軍隊が、蒋介石の国民党軍の掃討作戦により壊滅する危機を危うく解消することができたを指摘しておきたいと思います。

 さらに、スターリンは日本の政府の中枢にもエージェントを送り込みます。日本の方針の基本は、江戸時代の末からロシアの南下政策に備えることでした。朝鮮半島、満洲がロシアの支配下に入らないようにいうのは日本の祈りにも似た願いでした。つまり北進は日本の普遍的な方針のはずでした、しかし、隠れ共産主義者である近衛文麿は、共産主義者で政府中枢を固め、蒋介石政府との全面戦争を企図します。つまり南進政策をとります。
 逆にヒトラーに侵略されていた第二次世界大戦でのロシアの最大の不安は、日本が国防のために北進政策を採ることでしたが、近衛文麿は、江戸時代以来の日本の国防戦略をひっくり返し、中国やアメリカ・フランス・イギリスとの戦争となるように南進政策を決定します。これにより、ロシアは、極東に張り付けていた精鋭軍をヒトラー対策にあて、反転攻勢に成功します。
 その上、近衛文麿とその支持者の隠れ共産主義者は、日本の敗北によって共産主義ロシアに日本が占領されるように全力を尽くしました。「一億総玉砕」のスローガンは、日本を共産主義ロシアに占領させて、日本を共産主義化するための方策でした。

 毛沢東に戻ります。遠藤誉の「毛沢東 日本軍と共謀した男」には、さらに衝撃的な内容を証拠をあげて指摘しています。毛沢東は、蒋介石軍を疲弊させるために、日本に蒋介石の国民政府の情報を売り渡していたというのです。

  日中戦争の原因は、中国を支配したいと同時に日本を滅ぼしたいアメリカ、ロシアの策略が第一です。アメリカは蒋介石の国民党を使い、ロシアは毛沢東の共産党を使いました。ロシアと毛沢東の方が一枚上手で、結局、アメリカは、中国を失います。問題は、戦争を拡大し、日本の敗北を画策した近衛文麿首相に代表される日本の隠れ共産主義者が日本の政府の中枢にいたことです。残念ながら、このような事実がいまだに国民共有の歴史観になっていないのは、いまなお共産主義社会を理想とする隠れ共産主義者が、日本政府、学者たち、マスコミの主流勢力であるということです。
  取り戻すべき誇りは沢山あります。満洲国や日中戦争の真実について、日本が悪いという先入観を排除して、宮脇淳子、髙山正之、黄文雄、倉山満の著作を読んでみてください。きっとこのページと同じ見解に至ることを確信します。

日中戦争は、蒋介石の国民党政府と日本とを戦争させることによって国民党政府を疲弊させ、政権を奪取するための中国共産党の陰謀であることが具体的な証拠をもってコンパクトにまとめられています。例えば、日中戦争の発端となった盧溝橋事件は、蒋介石による粛清寸前の共産党の起死回生の陰謀であることが、わかります

参考図書

○「裏口からの参戦 ルーズベルト外交の正体 1933―1941(上)(下)」 チャールズ・カラン・タンシル著 渡辺惣樹訳(草思社 2018年)
  アメリカの歴史学者(ジョージタウン大学教授)の1952年の著作。

「彼(※モルガン紹介のトーマス・ラモント)は、オールズ国務次官に対して自身がみてきた満洲の状況を伝える書簡を提出した。彼は同地を旅して戻ってきたばかりであった。
「私は満洲から戻ったばかりだが、中国で安定している地域はここだけであった。中国は混乱の一途であるが、ここは日本の力によって今後もいっそう安定するものと思われる。日本の満洲開発は軍事的目的が主であるが、純粋な経済発展の観点からも進めている。日本による開発は日本からやってくる少ない数の植民者のためというよりも、中国そのものの利益にかなっている。いま中国のほとんどは混乱状態いや戦乱状態にあるといってよい。その結果安定した満洲南部には多くの中国人が押し寄せている。彼らは他の地域では山賊行為に遭い、略奪行為に晒されていた。そこから逃げ出し、この地に移っているのである。」〈上巻 p148-p149、1927年の書簡)   

「共産党の脅威は日々高まり、それにつれて日本の不安も高まった。共産党の拡大を止めるためには満洲にしっかりとした防衛線を築く必要があった。しかしその政策を実行すれば、満洲における中国主権を侵す怖れがあった。現実には、中国の満洲地域の主権は一九一二年以来実効性がなかった。それだけに日本が何らかのアクションを起こさなければソビエトによって奪われてしまうことは明らかだった。日本は満洲に進出せざるをえなかった。それは不可避な決断だった。」(上巻 p159、1931年頃の状況)

「ハースト系の新聞は、スティムソンのやり方はかつての中世騎士が十字軍遠征でみせた宗教的無謀さを孕んでいるとして次のように書いた。
「アジアの宝島をめぐる争いごと(満洲をめぐる覇権獲得紛争)に、わが国も国務省も苛つく必要はない。日本が満洲に対してやろうとしていることは、わが国がかつてテキサスをメキシコから奪ったことと同じなのである」」(上巻 p184  San Francisco Examiner 1932年1月10日の記事)

「日本の政治家は満洲における紛争は、これから不可避的に起きる資本主義と共産主義の衝突の前哨戦であると理解した。彼らはなぜアメリカがこの戦いを支援しないのか、どうしても理解できなかった。
 その意味で豊田(貞次郎)提督がフォーブス駐日大使に語った言葉は大きな意味をもっている。豊田は大使に宛てた書面の中で、太平洋方面での資本主義と共産主義の戦いが激化することを確信していた。この戦いは決して妥協できる性質のものではないと分析していた。
 「われわれだけでなくこれからの世代を含めて、中国・ロシア型の共産主義をとるのか、アングロサクソン型の資本主義をとるのかの選択に迫られる。もし中国が共産主義の支配下に入り、仁尾hんがこれまでどうろの主張に沿った対処をすれば、日本自身がかつての壱岐や対馬の立場に立つことを意味する。つまり共産主義の攻撃を受けて立つ防衛の最前線に立つということである。日本はその道を取る。」(上巻 p189、1932年の書簡)


「日本によって建国された満州国は傀儡国家だったが、ソビエトの脅威への対抗策の一環であった。満州国の立場を強化するために、日本は溥儀を執政から皇帝に引き上げ、一九三四年三月一日に新京(現・長春)で戴冠させた。こうすることで、満州国を国際的に認めさせようとした。ロンドン・タイムズ紙は、極東で大きな利権をもつ国は「満州国を承認し貿易を再開させるという方針」をとらざるをえないだろうと書いた。ニューヨーク・ジャーナル・オブ・コマース紙は、満州国は「中国の中でもっとも安定し効率的な国家運営をしている」と称賛した。
T・J・リーグは中国での生活が長い人物だったが、満洲の真の状況についてホーンベック(※米国務省極東部長)につぎのように説明していた。
 「満洲という地域は歴史上一度もの中国の政体の中に組み込まれたことはありません。過去も現在も、固有の地域であり中国とは完全に分離しています。ソビエトは(満州国建国について)これまでも、そして現在も日本を批判しています。しかしそれは日本を貶めようとするソビエトのプロパガンダであり、有害なものです。これにまどわされてはなりません」
「(わが国が)満州国を承認すれば、(ソビエトのプロパガンダの効果を)減殺させることになるでしょう。満洲の状況はまったく違うものとなり、より好ましい状況が生まれるものと予想します。個人的な意見ですが、日本の(満州国建国についての)主張と目的は誠実なものだと考えています。」 〈上巻p232-p233 1934年の状況説明、※引用者注)

「ヨーロッパでヒトラーがその地図を書き替える作業を続けているころ、極東の地図の書き替えを目論んだのはヨシフ・スターリンであった。スターリンのために新しい地図を作ったのは蒋介石であった。
 その結果、東アジアは外蒙古からムクデン〔奉天。現・瀋陽〕までまたたく間に赤化した。これが日本に強い警戒感を生んだ。赤化工作は軍事衝突を通じて行われた。衝突の種はソビエトの工作員が播いた。彼らは北部支那に赤化の野火を放った。それが宣戦布告なき日本と中国との戦いを生んだ。
1 極東での戦いを煽るクレムリン
 一九三七年七月七日に熾きた日中の衝突〔盧溝橋事件〕については、共産主義者が煽ったことは中国駐ソ大使の言葉で明らかだった。大使は一九三六年一一月にモスクワに赴任しているが、米外交官に、中ソの強い友好関係があるからこそ赴任できたと語っていた。大使がモスクワに派遣された目的は、もし中国が日本を刺激し戦争になった場合、ソビエトから物資や武器の支援を受けることを約束させることであった。大使はこの点についてリトヴィノフ外相に問うたが、日中間の紛争の解決は南京でやって(中国自身で処理して)ほしいと応じている。しかし南京のソビエト大使は、一九三七年春から夏にかけて、中国が日本に干戈(かんか)を交えることになればソビエトが軍事支援すると中国に信じ込ませようとしていた。
 共産主義者による煽動と一九三七年七月からの日中間の戦いにおけるソビエトの中国への軍事支援に鑑みれば、中国が日本との間でいかなる平和協定も結ぶ考えがないことがわかる。日本と妥協してしまうことは、ソビエトと共闘して日本と戦うという西安協定への裏切りとなる〔蒋介石が西安で誘拐され、その解放後、中ソの接近が始まった〕。共産党はその協定にもとづき国民党政府とともに日本と戦う工作を続けていた米駐南京大使館からの報告でその実態がわかる。

「当地の事情通の目には、何もかもが(日本との)戦争に向けて進んでいることは明らかである。少し前は中国政府は北部支那については戦うのではなく日本の要求を受け入れるという方針だったが、その方針を継承すれば国民党政府は西安協定を破ることになってしまう。国民党政府は西安での事件を収拾する際に、日本に対する抵抗活動の継続を約束したと思われる。そうさせなければ共産軍には都合が悪かった。中国北西部に勢力をもっていた共産軍は孤立してしまう惧れがあった。共産軍は(西安協定に沿って)、国民党軍と一体化することになっていた」

 日本の軍部は、当初は共産党と国民党の合作の脅威について認識が甘かったようだ。七月七日夜(盧溝橋事件)の衝突はすぐに収束するだろうと楽観的考えていた。なかには、事件の発端となった中国軍による発砲は偶発的なものだったと考える者までいた。」(下巻 p206-p208)

○「戦争を仕掛けた中国になぜ謝らなければならないのだ!―「日中戦争」は中国が起こした―」茂木弘道著(「自由社ブックレット3」 自由社 2015年)
 推薦図書。日中戦争は、蒋介石の国民党政府と日本とを戦争させることによって国民党政府を疲弊させ、政権を奪取するための中国共産党の陰謀であることが具体的な証拠をもってコンパクトにまとめられています。例えば、日中戦争の発端となった盧溝橋事件は、蒋介石による粛清寸前の共産党の起死回生の陰謀であることが、わかります。
 
○「日中戦争は中国の侵略で始まった」阿羅健一著(悟空出版 2016年)
 
 「日本は中国からの攻撃にことごとく受け身であった。突然攻撃を受けた日本は、反撃のための作戦を立てて遂行したのであって、自ら中国を侵略するために何年も前から作戦を練って戦争を始めたのではないことは、はっきり理解できたと思う。むしろ中国が日本を戦争に引き込む準備を着々と進めていたこともわかったことと思う。
 このことは戦中の日本では常識であった。GHQの情報操作によって、戦後の日本人は「日中戦争は日本の侵略戦争だった」と思い込まされたのだ。
 そこを中国共産党政権に付け入まれ、朝日新聞をはじめとする左翼マスコミが呼応し、「南京大虐殺」まで喧伝(けんでん)されてきたと言える。そして中国の宣伝工作によって、南京大虐殺がユネスコの記憶遺産に登録され、世界で既成事実化されようとしている。
 一人でも多くの日本人が一刻も早くこのことを知り、謂れのない非難には毅然とノーを突き返そうではないか。本書がその一助になれていれば幸いである。」(「あとがき」の結語) 
 
○「真実の満洲史[1894-1956]」宮脇淳子著(ビジネス社 2013年)
 
 「ソ連もアメリカも日本が怖かった
 
 スターリンが日本に怯えたように、アメリカも日本を非常に恐れていました。満洲事変後のリットン調査団の報告がなされた国際連盟でも、オブザーバーのアメリカは当初、参加するのを嫌がっていました。アメリカは一言も発言しないことを条件として、参加することを受け入れたのです。それほど、日本が強かったのです。
 アメリカは日本人のことを恐れたので、大東亜戦争で本気で叩き潰したかったのでしょう。国際法を無視して、無差別空襲や通商破壊、さらには原爆投下まで行いました。アメリカは日本の一般人を虐殺しまくっています。
 日本人は国際法のルールを破っていませんが、戦後はなぜかそれが逆転して、日本が悪かったこととにされています。アメリカと中国の利害が一致したので、南京大虐殺などと言い出したのです。こういったことが、なぜ普通の日本人にはわからないのでしょうか。正直に言って、わからない日本人はもう駄目だと私は思います。
 歴史は解釈の学問なので、恣意的に事柄を選んでいけば、日本だけが悪かったと説明することは可能です。今の基準から見て日本が悪いことをしたのは本当でも、その前にもっと悪いことをしている相手がいるのに、それについては何も言わないからです。
 また、今の日本人は、当時の日本が弱かったと思い込まされています。これは完全なマインドコントロールです。「日本は弱い」と日本人が思ってくれることが利益となる人たちが口裏を合わせて、日本以外のすべての外国が今に至るまでそう言い続けているのです。
 実際にはアメリカもソ連も、当時は日本が怖くてしょうがなかったのです。戦後は諸外国が寄ってたかって日本を叩いて、国際連合でも敵国条項を続けています。ソ連が崩壊し、アメリカも国力が弱ってきて、中国が力をつけてきた現在でも、「日本が悪い、日本が悪い」と言い続けないと、自分たちの立場が維持できないのです。放っておくと、自国の民衆が日本の方がいいと言い出してしまうからです。
 当時の日本人は強かったのだと実感する日本人が、今ではすっかりいなくなってしまいました。「日本は国際連盟を脱退しなければよかった」「アメリカと戦争するなんて馬鹿なことをした」などといったことばかりを子供たちに教えています。確かに、これまで日本が重ねてきた長い歴史のなかで、この時代ほど、たくさんの日本人がひどい目にあい、亡くなったことはありません。」しかしながら、やはり歴史というものはしっかりと残って、経験にもなるのです。
 嘘をついても、嘘というのは永久にはつききれません。どこかでバレて、ぼろが出ます。日本人がしてきたことは、やはり無駄にはなっていないですし、日本の底力というか、「怒ったら怖いんだぞ」という印象は世界中に残っています。「もう少しなんとかすればよかった」というのはありますが、日本の歴史はきちんと残っていて、明治以降の積み重ねが、今の日本の土台になっているということを、日本人はしっかりと認識すべきです。
 それを理解した途端に、日本人は元気になると思います。日本の歴史の本当の姿がわかれば、それだけで将来は開けると私は思うのです。従って、今、日本のなかで自国民が誇りを持つことに対して滅茶苦茶に足を引っ張っている嘘を、取り払っていくだけで、それ以上は何も言わなくても、日本人は勢いよく前へと進めると思います。
 加藤陽子のように、それを恐れる人たちが、なぜそうまでして外国にへつらって、日本を貶めているのか私にはわかりません。国よりも自分の利権が大事なのでしょうか。

満洲開発

 日本が開発した満州はいい土地でした。
 もし日本が日露戦争で負けていたら、満洲はロシアに、朝鮮はコリヤスタンになっていたはずです。ロシアになっていたらどうなっていたかは、沿海州を見れば想像がつきます。沿海州は山がちですが、海に面していて条件はよいはずです。しかし、いまだに虎がいるところです。
 満州は日本人によって、今のように金を生み出す土地になりました。やはり日本人の投資によって現代の中国があるのです。例えば、アメリカ合衆国では西部の開発にしても、ユタ州やミネソタ州などでは開発が進んでいません。日本はそれに近い奥地を開発して、生産性のある土地に変えました。日本人が満洲へ行く前は、狩猟民と農民だけがいて、何も生み出さない土地でした。コーリャン畑しかなく、モンゴル人と漢人が喧嘩ばかりしていました。
 二十世紀の歴史は、日本がまず日露戦争でそれまでの白人絶対の歴史を変えて、満洲事変でも世界の仕組みを大きく変えました。第一次世界大戦以外は、すべて日本のせいで世界史が動いたのです。そこのところを日本人は自覚しなすぎです。今でも、「私たちはこんなに弱くて、いい子にしていたのに、どうしてこんなにいじめられるのだろう」と思っているのが間違いです。実は日本はアジアの超大国だったのです。
 日本は謀略でなく正論を以て戦争を行ったので、他の白人諸国はおおやけに文句を言うことができません。「植民地主義がひどすぎる。なぜ人種が違うだけで奴隷扱いするのか。白人はけしからんのでアジアの人たちを救ってやりたい」というのが日本の主張で、本当に正道の理由でした。
 そして白人の圧力を跳ね返して日本人が強くなったので、白人は正面切って文句を言えなくなりました。そのため、「日本をなんとかおさえなくてはいけない」と背後に回って組んだというのが、世界の歴史なのです。
 「日本人は本当はすごい。本当は他国も日本のようにやりたいけれども、みんなできないのだ」と言う日下公人さんの意見に、私は非常に賛同します。今はそういったことを言うのは、日下さんくらいです。
 現代のアメリカ国内の悲惨な状況を見ても、どこがいい民主主義の国でしょうか。アメリカに生まれたら、お金がなければ大学へも行けず、軍隊に入って死ななければなりません。中国に生まれたら、一握りの高級幹部以外は、どんなにひどい目に遭うでしょうか。私たちは日本に生まれたおかげで、しっかりとよい生活を送ることができているのです。それなのに、なぜ、みんな日本の悪口ばかり言うのでしょうか。

「日本人が一所懸命したことに対して、中国や日本がひたすら非難するのは、前政権を否定しなければ、自分たちの正統性が証明できないから、という向こうの理由であって、日本人がそれをそのまま認める必要はまったくありません。
  日本の敗戦後六十五年以上たって、私たちが理想を抱いて開拓した土地が、その後どんなふうになっているかを、私たち日本人はずっと見続ける、ウオッチする義務があるのであって、それは負い目ではなく責任なのです。日本人は、現地をいい国にする責任があります。なぜなら、私たちは一度そこを日本にしたからです。責任を取るというのはそういうことだと思います。」(p311)
戦時中の満洲
 大東亜戦争中の満洲はほとんど空襲もなく、資源も比較的豊富で平穏でした。
 満州においても治安維持は最重要の課題であり、満洲人が日本人に協力するのは当然のことでした。張学良の施策はひどいものでしたし、ソ連の恐怖もあります。満州には満州人、朝鮮人、モンゴル人などいろいろな人たちがいましたが、自分たちが生き延びるために、日本人に協力するのが一番の道だと考えていました。
 しかし山海関の南の中華民国の人たちが、抗日のナショナリズムを煽り立てました。「日本の帝国主義」対「中国民衆」という単純化された言説ではやし立てて、中国人の反発を引き出したのです。彼らは遠いところにいて、現地のことなど何も知らないのですが、遠くにいるからこそ煽るのが便利だったのです。
 何も知らない反日運動と言えば、最近の反日運動もそうです。日本の尖閣諸島国有化に反対するデモに参加している人は、それまで尖閣諸島などどこにあるかも知らなかった人たちばかりです。知らない方がスローガンを信じこみやすく、煽動する人にとって便利なのです。
 日本人が満洲国を建国したとたんに、「中国人」というものができました。中国人らしさ、中国ナショナリズムというものがつくられたのです。満洲国でない場所で騒ぎが始まりましたが、満洲国内では、抗日、反日と言っていたのは、共産党の息のかかった本当に一握りの知識人でしょう。庶民たちにはまったく関係ありません。中国民衆の抵抗などというのは、戦後の言説です。
 満洲国のなかの騒動は、前からいた匪賊や馬賊の生き残りとか、朝鮮人共産主義者とか、ソ連のコミンテルンの煽動とかで、もちろん、日本国内の安定した生活から見れば、治安が悪い土地ですが、それは日本人が主導権を握ったからではなく、ソ連やモンゴルや朝鮮や中国に取り囲まれた、満洲という土地の持つ宿命のようなものです。
 関東軍はそれほど人数がいませんし、基本的には国民党政府時代の組織をそのまま利用して、現地の治安維持を図っていました。当時、現地の勢力も日本と組みましたが、それを侵略だ、暴動だといったのは南の国民党で、国民党は外国に向けて、ガンガン日本侵略を訴えていました。いつだって中国のプロパガンダに日本はやられているのです。
 実際には、満洲事変も満洲国建国も、日本の一方的な占領工作などではありません。協力者なしに、そういうことができるでしょうか。しかし戦後、中華人民共和国が政権を取ったあと、すべての歴史を塗り替えて、今に至ります。」(p267~p274)
 
○「大東亜戦争の正体―それはアメリカの侵略戦争だった」清水馨八郎著(祥伝社 平成18年)
 
 「日中戦争とは、中国の自作自演だった
 戦後教育で育った日本国民の多くは、日本は「日中戦争」で中国を侵略し、悪いことをした国として洗脳されているが、これはまったくの誤りである。この俗説をふまえた村山首相(当時)の中国への謝罪談話、これを追認する小泉首相など、政治家までがそのワナに嵌められているのは残念だ。
 歴史的には「日中戦争」なる戦争は存在しない。これは中国が、自国民の愛国心を高め日本を叩くために捏造した「歴史」である。先に述べたように、アメリカが太平洋戦争史において日本を侵略国にデッチ上げている手口と同じである。
 米国の真珠湾攻撃誘導は耳にしたことがあっても、日中戦争まで中国が日本に仕掛けたものだとは初耳だという人が多い。それほど中国は、謀略に長けていたのである。つまり日中戦争とはルーズベルト大統領と同じように中国、正確には共産党の指導者が創った戦争だったのである。中共という国は大東亜戦争が終わって数年たってから生まれた国で、日本と実際に戦争をしていない。日本と戦ったのは国民党の蒋介石だ。彼は戦後日本に賠償をもとめず、在支日本人と、日本軍を、一国の早く日本に無傷で送り返してくれたことでも明らかだ。
 支那事変の発端となった盧溝橋事件の本質を知れば、事の真相がはっきりするので、先にも触れておいた盧溝橋事件の罠について少し詳しく述べてみよう。
 盧溝橋で最初に発砲したのは誰か。それは中共軍であり、このことを、当時の共産党の指導者劉少奇、周恩来、毛沢東が後で得意になって告白している。
 ではなぜ日本軍がそんな所に駐留していたのか。それは一九〇〇年五月、清国北部で宗教的、政治的団体であった義和団が、外国人排斥を目指して騒乱を起こした。これに対してアメリカ、ロシア、イギリス、ドイツ、フランス、オーストリア、日本など八カ国が共同で出兵してこれを平定し居留民を守った。これが北清事変である。
 平定後、列強と清国との間で「北京議定書」が結ばれた。この条約で清国は右の諸国に駐兵権を認めた。駐兵した日本軍はもとより侵略軍ではない。もしこの日本軍を侵略軍と言うと、日米安保条約に基づいて日本に駐兵しているアメリカ軍は侵略軍ということになる。
 現在の日本駐留のアメリカ軍は侵略軍でなく、国際法上両国の合意で駐留している。同様に、当時中国に駐留していた日本軍も、国際法(北京議定書)に基づいて中国に駐留していたもので、侵略軍ではない。
 
毛沢東、周恩来、劉少奇の証言
 昭和十二年七月七日、午後十時過ぎ、盧溝橋近くに駐留していた日本軍に何者かが発砲した。銃撃は数回にわたったが、日本軍は反撃せず、隠忍自重していた。が、翌日になって日本軍は居留民の保護と自衛のため反撃に出た。
 この最初の発砲事件が中国共産党が仕掛けた謀略であることは、先にも述べたとおり、次の発言で明らかとなった。
 
①劉少奇の「盧溝橋事件は中共軍の謀略だった」という発言
 当時中国共産党の副主席であった劉少奇が、戦後になって「盧溝橋事件の仕掛人は中国共産党で、現地の責任者はこの俺だ」と証拠を示して西側記者団に発表した。
 この発表が契機となって、当時戦犯として巣鴨プリズンに拘置中の河辺大将(当時師団長)、牟田口中将(当時北京市に本部があった歩兵第一連隊長)は理由も告げられずに釈放された。
 東京裁判で、盧溝橋事件を起こした罪を、日本軍に負わせるため現地の日本軍指揮官を処罰しようとしていたところへ、事件を起こした真犯人は中共軍だと発表され、あわてて右のようの処置に出たのである。劉少奇の発表を聞いた時、東京裁判の主席検事だったキーナンはあわてふためき、顔面蒼白になったそうである。
 
②周恩来の「中共軍が日本軍と国民党軍の両方に鉄砲を撃ち込み、相戦わせた」という発言
 周恩来首相は昭和二十四年(一九四九年)の中華人民共和国樹立宣言の際、「われわれ中共軍が日本軍と蒋介石の軍隊の両軍に鉄砲を撃ち込み、さらに日華協定を妨げたことが、中国共産党の今日の栄光をもたらした起因である」と言明した。
 周恩来は言っていることは要するに、われわれ中共軍が、日本軍と国民党軍の両軍に発砲して、両軍を相戦わせ、相殺し合わせたこと、そして両軍が停戦しないよう、平和にならないように仕向け、その結果、自ら漁夫の利を得て中華人民共和国をつくることができたと言明しているわけである。この中共軍の謀略のために、中国人民はもちろんのこと、どれほど多くの日本人居留民の血がながされたことか、想像を絶するものがある。
 
③毛沢東の「日本軍のお陰で、中華人民共和国をつくることができた」という日本に対する感謝発言
 右の周恩来や劉少奇の言と同じように、毛沢東も日本軍と蔣介石を相討ちさせたお陰で、中華人民共和国をつくることができたと認めている。昭和三十九年(一九六四年)七月十日、毛沢東は当時の日本社会党の委員長だった佐々木更三氏と、会見した時の対話の中で、はっきりと、こう述べている。その時の対話は次のような内容だった。

佐々木 こんにちは毛沢東主席の非常に度量の大きい話を聞かせていただきました。過去において、日本軍国主義が中国を侵略し、皆さんに多大の損害をもたらしました。われわれは皆、非常に申し訳なく思っております。
毛 何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。皆さんの皇軍なしにわれわれが権力を奪取することは不可能だったのです。この点、皆さんと私は意見を異にしており、われわれ両者の間には矛盾がありますね(皆が笑って会場が盛り上がった)。
佐々木 ありがとうございます。
毛  過去のああいうことは話さないようにしましょう。過去のああいうことはよいことであり、われわれの助けになったとも言えるのです。ごらんなさい。中国人民は権力を奪取しました。同時に皆さんの独占資本と軍国主義はわれわれを助けたのです。

 要するに毛沢東は「われわれは日本軍のお陰で権力を奪うことができ、中華人民共和国をつくることができた。この点でわれわれは日本軍に感謝している。だから日本人は謝ることはありません」と言っているわけである。
 
それでも謝りつづける日本人
 昭和十二年七月七日の盧溝橋事件発生の翌八日は、日本政府は「事件不拡大、局地解決」という方針を決定し、現地軍に指令するなど、従来からの戦線拡大方針をこの事件でも貫いた。
 しかしこの後、周恩来の言葉にもあるように、日本と国民党政府との間の停戦協定締結の動きは、その都度中国共産党の妨害工作によって防げられた。日本が戦争に起ち上がらないのを不満とした共産党は、日本人居住民を皆殺しにする通州事件を起こし、次に済南事件、上海事件のような日本人や日本軍に対するテロ事件を起こし、ワザと日本軍を大陸に誘いこんでいった。日本政府はこれを戦争とは考えず、「北支事変」として処理しようとしたのに、無理矢理大陸の奥地にまで引っ張りこまれ、これを「支那事変」に広げられてしまったことは、先にも述べたとおりである。つまり、日本軍は中共の罠に掛かり「モグラタタキ」をさせられたのである。
 戦争ではないので、政府はシナに宣戦布告をしていない。シナ側が勝手に日中戦争に仕立てて、日本の侵略戦争だと内外に宣伝したのである。その上アメリカのルーズベルトも大量の援蔣物資を送って事件を長期化させ、日本が大陸で国力、戦力を消耗するのを助けた。
 以上によって、彼らが言うところの日中戦争は、日本の国力を弱めさせるために、シナが日本を挑発し、仕掛けた戦争だったことが明らかである。
 日本の中高の歴史教科書は、日中戦争は日本が中国を侵略した侵略戦争だという間違った認識を、戦後六〇年も子どもたちに教えこんできた。これほど恐ろしいことはない。さらに悪いことに大方のマスコミや一部の政党、言論団体および政治家が、「日本は中国を侵略したのだから中国に謝罪しなければならない。もっと、もっと戦争責任を負わねばならない」と今まですっと叫びつづけている。
 近ごろ激しくなった中国の反日デモは、こうした日本人の、自国を貶めるような自虐的姿勢が招いたものである。中国共産党の指導者だった毛沢東が、「われわれは日本軍のお陰で中華人民共和国をつくることができた。だから日本は中国に謝る必要はありません」と言っているにもかかわらず、どうして誤りつづけるのだろうか。
 国としても公式に数十回謝罪しているし、個々の国会議員が訪中して中国要人に謝罪したものを加えると、どれほど多く中国にペコペコ頭を下げたか分からない。」(p114~p121)

○「大東亜戦争の正体 それはアメリカの侵略戦争だった」清水馨八郎著(祥伝社 平成18年)
○「真実の中国史[1840‐1949]」宮脇淳子著(ビジネス社 2011年)
○「毛沢東 日本軍と共謀した男」遠藤誉著(新潮新書 2016年)
○「日中戦争 真実の歴史」黄文雄著(徳間書店 2005年)
○「日本はいかにして中国との戦争に引きずりこまれたか」田中秀雄著(草思社 2014年)
○「台湾 朝鮮 満州 日本の植民地の真実」黄文雄著(扶桑社 2003年)
○「「昭和の大戦」の真実(正)(続)」黄文雄著(ワック 2011年)

平成27年11月23日作成 令和3年08月08日オリンピック閉会式の日最終更新 第108話