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「歴史認識の問題 その5」は、「日清戦争と日露戦争について」です。
 
  先ず、日清戦争の前提となる朝鮮の歴史を見てみたいと思います。1393年 に成立した朝鮮国の国名「朝鮮」は、明の洪武帝に決めてもらいました。また、建国者の李成桂は、洪武帝より権知朝鮮国事に任命してもらうことにより国王となりました。朝鮮国の統治者は、「明」のちには「清」より認めていただくことにより皇太子、国王になることができました。独立国といえるものではなく、完全な属国でした。
  中国、朝鮮が信奉していた儒教(朱子学)倫理でいえば、中国(清)が宗主国、朝鮮は臣下の国。そして、日本は東夷の国でした。韓国のこの順序意識は今も変わっていないように思います。漢字を理解する国で有りながら、今でも、日本の天皇のことを、「日王」と新聞でも書きます。失礼の極みではないでしょうか。
  宗主国の清のみが「皇帝」の「皇」という漢字を使ってもいいのです。朝鮮の近代化のためには日本に頼るしかないという親日派の求めに応じて東夷の国日本が、朝鮮を併合した歴史が許せないのです。この前提があって初めて、明治時代の日清戦争も、現在の日韓関係理解できると思うのです。

  明治政府は、朝鮮を植民地にする意志などなく、朝鮮と手を結び、共に欧米の植民地主義と戦いたかったのです。誤解されている西郷隆盛の征韓論も同様でした。直接朝鮮にいって話をつけるといった方向性を持つものでした。しかし、朝鮮は日本のことを東夷の国という位置づけと思っていたので、どうしても対等の外交関係を結ぶことができませんでした。

ロシアの南下政策は、明治時代の日本に圧倒的な恐怖を与えました。自衛のための戦争が日清・日露戦争であったのです。このことを、歴史の授業で教えられることは、有りません。このことを今一度考えてもらいたいのです。
  極東におけるロシアの南下政策は露骨で、明治維新の7年前の1860年ウラジオストク(東方を支配するという意味)を建設しました。ロシアは不凍港を求めており、朝鮮半島さらには、対馬などを虎視眈々と狙っていました。

  朝鮮では、日本の近代化を目の当たりにして、金玉均など親日派が、近代化路線を取ろうとしていましたが、保守派との争いの中で、金玉均は虐殺されてしまいました。その上、ロシア、欧米列強が東アジアの植民地化を目論んでいる中で、朝鮮王家内部では、閔妃(国王の后)派と大院君(国王の父)派に別れて権力闘争をおこなっているばかりでした。東学党の反乱などもあって、清朝は、属国朝鮮の支配を強めていきました。
 朝鮮が完全に清朝やロシアの支配下になることになれば、日本の安全が脅かせることになり、朝鮮の独立とその先の近代化を求めて、ついに、日清戦争(1894年~1895年・明治27年~28年)となりました。明治維新後30年も経たないのに、「眠れる獅子」中国(清帝国)を破ったこと世界中が驚きました。結果として、欧米の中国侵略を促す結果になってしまいました。

 下関条約で朝鮮の独立が認められ、清朝の支配から逃れ、1897年大韓帝国を名乗りました。
 しかし、日清戦争後、清朝の影響力の低下にともなって、影響力を増したのが、ロシア帝国でした。ロシア帝国は、清朝より満洲の支配を認められました。この結果をみて、清朝にかわりロシアを頼もしくおもった大韓帝国は、独立派・親日派を弾圧して、新露政権ができました。更に、ロシアが朝鮮を支配するのも時間の問題でした。朝鮮が、ロシアの支配下に入れば、1374年及び1381年の元寇が再び繰り返されることになることを恐れた明治政府は、ロシアとの戦争に踏み切りました。そして、勝利しました。
 さて、このような日清・日露戦争を日本ではどのように教えて来たでしょうか。明治政府が、最初から帝国主義的な野心をもって、朝鮮半島・満洲への侵略を進めていったと教えています。ロシアの南下政策は、フィンランドでも中央アジアでも、極東でも進められてきました。
 私自身も、WGIPの洗脳が解けるまで、日本がロシアに占領されるかも知れないと思い、必死で朝鮮を同盟国としようとしてきた当時の地政学的な状況を理解しようとせずWGIPに従って日本人として誇りの持てない歴史を教えてきました。

 さらには、日露戦争の勝利は、いかに世界を変えたかもまったく理解することも教えることもありません。渡部昇一によると、陸軍の戦いは、文明度が低い国も勝利することがあるが、海軍の勝利は文明の勝利であるというのです。確かに、海軍の勝利は、世界の潮目を変えてきました。
 1571年のレパント海戦で、イスラムが地中海及び西ヨーロッパの制海権を失いました。この結果、キリスト教国の西ヨーロッパとイスラム教国の北アフリカ及び西アジア及び東ヨーロッパを支配するオスマン帝国との力関係が逆転しました。世界がイスラム優位からキリスト教国優位になった瞬間です。
 1588年アルマダの敗亡より、スペインの世界支配は終わり、イギリスの時代を迎えるに至りました。
 日本の艦隊が、ロシアの艦隊に勝って日露戦争の勝利をもたらした1905年の日本海海戦の勝利は、白人が有色人種を支配していた時代の終焉の幕開けでした。
 植民地化された、アジア・アフリカの独立運動の指導者がどれだけ勇気づけられたことか。ダーウィンの進化論を援用して最も進化た人類が白人種であり、有色人種は劣った人種であると、欧米の白人達は、信じていました。アジア・アフリカ諸国の有色人種は、白人には適わないと考えていました。その劣等感を払拭したのです。このことには、日本の教科書はほとんど触れることはしません。教えても、でもしかし、日本が欧米の真似をして、帝国主義諸国の一員になったと触れるのが常でした。どこまで、日本を貶める教育をつづけるのでしょうか。

 こうして、東亜百年戦争という欧米諸国のアジア・アフリカ諸国に対するやむにやまれぬ反撃の第一幕であった明治維新の成果が、日清・日露戦争で証明されました。戦国時代に鉄砲を西欧諸国以外ではじめて、大量生産し、独立をまもったことを想起させる勝利でした。

 しかし、日露戦争は、西漸運動をつづけるアメリカ合衆国をして日本を仮想敵国とさせるに十分なインパクトを与えました。このことを日本は、まったく気づいていませんでした。こうしてアメリカ合衆国によって仕掛けられた大東亜戦争につながってゆきます。自分の力を自覚しない日本のままでいたら、また同じような悲劇を将来招くのではないか思います。
 日本の実力と影響力を自覚し、しっかりと、自虐史観つまり「戦争犯罪宣伝計画(WGIP)」史観を払拭することが、日本が世界の中で生きていくうえで最重要ではないかと思います。

参考図書

○「世界史に躍り出た日本」渡部昇一著(日本の歴史5明治篇」/ワック 2010年)
 
 「十七世紀末に太平洋岸に到達したロシア帝国は、徐々に南下して勢力を広げつつある。すでに彼らはカムチャッカ半島を領有し、また、一八六〇年(万延元年)には沿海州を清朝から奪って、ウラジオストクに港を開いた。
 陸伝いに領土を広げつつあるロシアの姿を見たとき、日本人がただちに気づいたのは、朝鮮半島の重要さであった。もしロシアが南下し、朝鮮を植民地にするようなことになれば、日本にとって、これほどの脅威はない。彼らはまず、日本本土と朝鮮の間にある対馬や壱岐を占領し、島伝いに日本にやってくるであろう。かつて、そのコースで日本に攻めてきたのは蒙古人王朝の元であった。ロシアに“元寇”を再現されたら日本は危ういというのが、彼らの実感であったろう。しかも、それは杞憂などではない。すでにロシアは幕末の文久元年(一八六一)、朝鮮海峡に浮かぶ要塞の地、対馬に軍港を作るため軍艦を来港させているのである。
 ・・・・
 こうした事件があったので、新政府もロシアの南下だけは何としても食い止めなければならないという認識があったのである。
 とにかくロシアは冬に凍結しない港をほしがっていた。西の方でトルコと戦ったのはそのためである。東の方ではウラジオストクを獲たが、ここは不凍港ではない。さらに南下してくるのは、どうしても時間の問題と思われた。本当に危険な国と日本が見たのは、幕府の時代も、明治になってもロシアであった。
 そこで日本政府が何よりも期待したのは、朝鮮の近代化であった。
 もし朝鮮がその宗主国、清朝の真似をして、いたずらに西洋を侮り、抵抗すれば、かって外国の植民地になってしまう。それより、さっさと開国し、近代化した方が朝鮮のためにもなるし、日本の国益にも合致すると考えたのである。」(p54ℓ2~p55後ℓ5)

 「日本は朝鮮の独立をしきりに求めた。日本にとって朝鮮が近代化し、日本の同盟国になるかどうかは、それこそ死活問題であったからである。朝鮮半島が欧米、ことにロシアの手に落ちて植民地化すれば、日本の将来はない。
 ところが、今度は朝鮮の宗主国・清国が「余計なことを言うな」と日本に圧力をかけはじめた。清国の言い分は、『朝鮮は二百年来、清国の属国であり、日本ごときが今さら口を出す筋合いのものではない』という主旨であった。
 これがやがて日清戦争(一八九四~九五)となり、結果として日本が勝利を収めることになったのは歴史の示すとおりである。」(p114ℓ11~p115ℓ1)

○「『国民の油断』歴史教科書が危ない!」西尾幹二・藤岡信勝著(1996年 PHP研究所)

「ユーラシア大陸の東のはずれに日本列島があって、そのユーラシア大陸から朝鮮半島がぐっと腕を突き出しているという配置は、だれが設計したわけでもありません。地球のシワがたまたまそうなったのですが、それがもっている地政学的な文脈の中では、まさに日本にとっては、自分に絶えず突きつけられた匕首(あいくち)の意味を持っていました。このことを理解せずして幕末から明治期、さらにはそれ以降を含めての近現代の日本の歴史は決したわからないのです。
 ところが例によって教科書は、大きな文脈はほとんど説明せずに、非常に小さなオーダーで、日清戦争のときに日本がどのようにしたかということを微視的に書いています。そうすると、それは日本があたかも朝鮮を虎視眈々と狙って侵略したというストーリーができあがるのです。
 確かに微視的にみれば、日本の「侵略性」について語ろうと思えば日露戦争よりも日清戦争について、より多く語れる事実があります。しかし、全体を取り巻く文脈というのはまさにいま述べたことです。朝鮮が清やロシアの支配下に落ちたら、日本の安全はないのです。おそらく日本の明治時代の指導者ほど朝鮮に自立した国家ができることを熱心に渇望した人たちは、いなかったのではないでしょうか。」(p88~p89)

○「続・世界の偉人たちの驚きの日本発見記」波田野毅著(「日本の息吹ブックレット⑧  平成21年 明成社)

「『その34 ジャワーハルラール・ネルー
  アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国ぐにに大きな影響をあたえた。わたしは少年時代、どんなにそれに感激したかを、おまえによく話したことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、そしておとなが、おなじ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国はやぶれた。だとすればアジアは、そのむかし、しばしばそういうことがあったように、いまでもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。
 出典「父が子に語る世界歴史4」みずず書房』

世界史的大回天となった日露戦争
 日露戦争で日本が西欧の大国ロシアに勝利した事は、イギリスの圧政に苦しむインドの人々に勇気を与え、欣喜雀躍させました。マハトマ・ガンディーも、「あなたがたロシアの武力に対してかがやかしい勝利をおさめたことを知って、感動に身震いしました」。ネルーも、一人娘のインディラ(のち首相)への標記書簡にみられるように、感銘し、独立の意思を確固たるものにしています。他の非西欧諸国も同様でした。
 初代ビルマ首相バー・モウは、アジアの民族は日本の勝利に目覚めたといい、「私は今でも、日露戦争と、日本が勝利を得たことを聞いた時の感動を思い起こすことができる。(中略)ビルマ人は英国の統治下に入って初めてアジアの一国民の偉大さについて聞いたのである。それはわれわれに新しい誇りを与えてくれた」と振り返ります。
 ベトナムもトルコも、エジプトなどイスラム諸国も、ロシアに虐げられた北欧の国フィンランド(ロシア支配下だった)やスウェーデンをも歓喜し、独立の機運が盛り上がりました。
 このように日露戦争は、様々な国に多大な影響をもたらし、白人の世界制覇を阻止し、世界史を大回天させました。
 一方当時の日本人の気持ちはいかばかりであったでしょうか。いざという時には、「自ら銃剣を」挈(ひっさ)げて卒伍に投じ、敵兵をして一歩だにも我が領土を踏まざらしむべし」と重鎮・伊藤博文でさえも、壮絶な気迫を述べます。侵略の意図ではなく、「ロシアに勝たねば国は滅ぶ」という相当な覚悟であったでしょう。
 日本は勝ちました。
 今から100数年前、乾坤一擲の戦いに、真剣壮絶な覚悟で国の存続を思った、当時の明治人の気骨を思いやります。歴史に学び、世界の脅威を確認し日本の先人の意思を知ることは、現代では一層重要な事と思われます。 
 引用文出典
「わたしの非暴力2」みすず書房
「日露戦争が変えた世界史」芙蓉書房出版
「明治天皇と日露戦争―世界を震撼せしめた日本武士道」」(p30~p31)

○「マッカーサーの呪いから目覚めよ日本人!」目良浩一・井上雍雄・今森貞夫著(桜の花出版 2012年)

「中国・朝鮮・ロシアの緊張関係
 外国に目を向けると日本は安心できる状況ではなかった。ロシアはシベリアに進出し、現在の中国の東北地域(当時の満洲、現在の遼寧省・吉林省・黒竜江省)を勢力圏に入れ、当時鎖国をしていた朝鮮の李王朝に開国を迫っていたし、朝鮮の植民地化も視野に入れていた。朝鮮は当時、中国の属国の地位に甘んじていて、中国政府が他国の侵略から朝鮮を防衛する立場にあった。しかし、中国清朝の行政能力は極度に減退しており、各地の豪族がかなりの地域を支配していた。イギリス、ドイツ、フランスなどは、それぞれがすでに中国に権益を確保し、経済的利益を得ていたが、アメリカは出遅れていたため、自国に有利に働くための「機会均等」の原則を唱えて他の国を牽制し中国に於ける権益を確保しようとしていた。
 日本が朝鮮国について干渉し始めたのは、明治維新直後の1868年である。日本の懸念は、ロシアが朝鮮に進出してくることであった。当時、李王朝は指導力を欠き、派閥争いに終始していたので、それに乗じてロシアが権力を行使し始める可能性は十分にあった。日本としては、朝鮮が独立国として、中国からも独立し、ロシアに対しても対等に行動でき、日本に有効的な国になることを望んでいた。少なくとも、朝鮮が日本に協力して、ロシアの進出を阻止する力になることを政府は狙っていた。何故なら、朝鮮がロシアの植民地になると、次は日本が狙われることは明白だったからである。
 そこで、使節を派遣して国交を始めようとしたが、李王朝は日本側が差し出す些細な事務的な問題を理由として、使節を受け付けなかった。何度も折衝を重ねるうちに、1874年には李王朝側から日本に対応するようになったが、それぞれが自国の儀礼方式を主張したために、交渉は進捗しなかった。このような状況を案じた日本側は、積極的行動に出ると共に中国の仲介の労によって、1876年に日朝交渉がやっと開始されたのだった。そして、3月22日に「日朝修好条規」が批准され、発効することになった。この条約によって初めて、日本国は朝鮮国を独立国と認め、初めて朝鮮は他国から独立国と認められたのである。
 しかし、朝鮮の自立はなかなか進まなかった。1882年に朝鮮に内乱が起こると、清国は多大な順の軍隊を派遣してそれを鎮圧し、その後は、李朝に対する干渉を更に強めた。旧来の宗族関係よろも、むしろ近代的な植民地支配へ移行していったのである。この様な、干渉強化が進むにつれ、朝鮮内部の独立を志向していた開化派官僚たちはそれに反撥し、自主的開国の経験を持つ日本の後押しを望むようになった。
 1884年12月には、独立党の金玉均を中心としてクーデターが起こったが、清国の軍隊によって鎮圧された。この出来事で日本は清国と対立したが、その翌年両国はこの件について政治的決着をつけ、「漢城(日韓講話)条約」が締結された。その直後に、日清両政府は、「天津条約」を結び、両国は朝鮮から撤兵することに同意した。
 しかし、この日清の撤兵は朝鮮への進出を狙っていたロシアには、願ってもない出来事であった。その直後から、ロシアと朝鮮李朝の交渉は頻繁になり、政府内部では密約を交わす動きもあった。李朝内部での権力争いがあり、一方はロシアと結んで、清朝や日本の勢力に対抗しようとした。又、イギリスが朝鮮海峡の島を占拠したり、アメリカは専門家を派遣するなどして、朝鮮への関心度を強めていった。しかし、清朝は1885年10月に袁世凱を代表として李朝の監督を強め、また、時同じくしてロシアも李朝に取り入る懸命の画策を行った。そして、1891年に、ロシアはシベリア鉄道建設に着手し、東アジアへの本格的進出の意図を示した。その結果、日本は朝鮮半島から後退を余儀なくされていったのである。

朝鮮半島での日清衝突と三国干渉の圧力
 1894年5月に不当な徴税に反対する農民集団が全羅路で決起した。この東学党の乱(甲午農民武装蜂起)が拡大し、国家的な危機となった時に、日本と中国がその鎮圧のために兵を出した。
 日本は其の当時進出していた邦人の安全を確保するためとして出兵し、中国は宗主国として出兵した。事実その当時は、かなりの日本人が朝鮮へ出て、経済活動をしていた。李朝は急遽、農民軍の幣制改革案を受理し、両軍の撤収を要求したが、日本はより徹底した内政改革が実施されなければ内乱は再発するとして、軍の撤収に応じなかった。
 逆に、日本側は清国軍の撤兵を要求し、李朝に清国との宗主関係の破棄を迫ったため、7月には、日本軍と清朝の軍隊の戦闘になった。これを「日清戦争」というが、両国は朝鮮における影響力を得るために競ったのである。それは結局東郷平八郎らの働きにより日本軍の勝利で決着し、1895年4月には日清講和条約(下関条約)が締結された。
 新興日本が大国中国を倒したのである。それは一般に予想もされない結果であった。この日清戦争の結果、朝鮮は中国から独立し、日本と対等な国家となったのである。そして、台湾の領有権が清朝から日本に移管された。」(158頁後8行~161頁9行)

○「真実の満洲史[1894ー1956]」宮脇淳子著(ビジネス社 2013年)
 
 「☨日露戦争が世界に果たした影響に日本人は無自覚
  日本は満州への領土的野心はありませんでした。遼東半島が欲しくて日清戦争を戦ったわけではないのです。遼東半島をくれるといったのは最初は清朝で、次はロシアです。日露戦争も勝てると思って始めたわけではないですし、誰もその後のことまで考えていませんでした。自分たちは満州まで出ていって現地人を酷使して金儲けしようなどとは全然考えていませんでしたが、戦後の日教組が教える歴史観では、すべて日清戦争の初めから日本が謀略した侵略と搾取であると、わざわざ日本人のことを自虐的に悪く言います。
  日本は日清戦争でたまたま台湾をもらって、一所懸命に経営して、日露戦争でも南満州鉄道を獲得してから慌てて対応したというのが本当のところです。日本は今でもそうですが、自分から積極的に世界観を持って出ていくよりも、対症療法的に受け身的に来たものを必死にやりくりすることの方が多いと思います。七世紀の日本建国以来、鎖国を国是としてしまったので、昔から受け身のところがあります。自分から積極的に仕掛けることがないので、言われるような謀略も何もありません。
 しかしながら、日本人が自分たちがしたことについて、まったく自覚がないところは悪い点です。日本がパリ講和条約で出した人種差別撤廃案にしても、あれがいかに欧米の人間を困らせたか、日本人は全然理解していません。アメリカがハワイを併合したときも、日本はかなり文句を言いました。アメリカはすごく腹を立てましたが、日本はそれについて無自覚で、その後、アメリカが日本に報復したくなるとは思いもよりませんでした。
  日露戦争で満州や朝鮮への野望を打ち砕かれたロシアは、日本に仕返ししようと待ち構えていました。日本が恐ろしいと同時に憎くてたまらず、ソ連の革命にシベリア出兵で干渉されたこともあり、その恨みが一九四五年の終戦時、満州で日本の女性、子どもまでも虐殺したことへとつながっていると思います。
 日本人は何もしていないのに被害を受けたと思っています。しかし私はちょっと違うと思います。「私たちはこんなにやられた」「こんなにひどい目にあった」とした日本人は思っていませんが、自分たちがいかに世の中に多くのインパクトを与えたか、世界史を眺めたら非常によくわかります。それを全然感じていないのは不思議です。今の政治家や外交官も、ひたすら「ごめんなさい。私たちはもう悪いことをしません」と言ってばかりです。私から言わせれば「あなたたち、自分たちがいかに世の中をかえたのか、もう少し自覚しなさい」というところです。
 日本人はその自覚がないため、却って無責任に映るのです。日本人が無自覚に正当論を述べたり、本当のことを言ったりすることが、相手にとって痛手になればなるほど、相手はそれを根に持ちます。
 今の中国人からすると、日本人が「日本は平和憲法で、何もしていません」と言っているのは、とても嘘臭く見えるようです。優等生が「明日のテストの勉強、私、全然していないの。どうせ悪い点だわ」と言っているのと同じような感じです。それでいい点を取るのですから、嘘つきだと憎まれるのです。中国人からすると、日本人は全員が嘘つきに見えるようです。」(p107後ℓ4~p109)
 
○「日本人が知ってはならない歴史」若狹和朋著(朱鳥社 2004年)
○「決定版・日本史」渡部昇一著(育鵬社 2011年)
○「世界が語る大東亜戦争と東京裁判」吉村貞昭著(ハート出版 平成24年) ※2;p134
○「詳説日本史」笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦ほか10名著(日本史B教科書/山川出版・2012年)

平成27年05月08日作成   平成27年10月27日最終更新  第104話