「歴史認識の問題」のつづきです。「歴史認識の問題 その2」は、「東亜百年戦争(1853年〜1952年)」という歴史認識についてです。「東亜」は「東亜細亜」=「東アジア」のことです。
大東亜戦争(太平洋戦争)の敗北でおわる昭和史のビジョンは悲惨です。しかし、ペリーの来航(1853年)からサンフランシスコ講和条約(1952年)までの歴史をふりかえるとき、たった一国で白人の植民地支配をひっくり返し、アジア・アフリカ諸国を独立に導いた日本という視野が開けてきます。自虐史観から解放されるものと信じます。江戸時代の末からの白人の有色人種国の植民地支配にたった一国で対抗し、奇跡の明治維新をなしとげ近代化に成功して、アメリカ・ロシアの圧力に抵抗したが、ついに大東亜戦争で敗北した勇敢な日本という視点で見るとき、新たな誇りと勇気がわいてるのではないかと思います。
吉田松陰は1854年11月に著した「幽囚録」の中で、アジアの植民地化をすすめている、イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国や、圧倒的な力で征服をすすめているロシアの南下政策、アメリカの西進政策に対抗するためには、急いで富国強兵をはかること。日本を守るために、防衛線として、カムチャッカ、オホーツク、台湾、呂宋(フィリピン諸島)、朝鮮を日本の領土すること。植民地化ではなく人民を愛して辺境の警備をしなければ立ちゆかないと喝破しました。多くの幕末の志士たちの共通認識でした。人民を愛すということは、後に日本領となった朝鮮、台湾に対して行った政策です。収奪ではありません。
当時、世界の常識として収奪するために植民地をもつことはステイタスでした。今の視点で歴史を見ることは、誤っているといえます。故に、ヨーロッパ諸国・アメリカはアジア・アフリカの植民地に一切謝罪していません。
「東亜百年戦争」という概念は、林房雄著「大東亜戦争肯定論」(上巻初版昭和39年/下巻初版昭和40年 [2001年夏目書房より復刻版・2014年中公文庫])で提唱されました。過激な題ですが、大変説得力のあります。目からウロコでした。罪悪感が晴れました。開国からの歴史の真実を忌憚なく表した著作であると感銘を受けました。決して戦争を賛美しているわけでも、全面肯定しているわけでもありませんが、私のマインドコントロールを解いてくれました。座右の一冊になりました。作家の文章ですので、歴史書にあるような悪文ではありません。名文といえるでしょう。百年戦争の期間(1853年から1952年)については藤原正彦著「日本人の誇り」(文春新書 2011年)によります。
江戸時代末から明治にかけてヨーロッパ諸国は、アジア・アフリカ諸国をつぎつきと植民地としていきました。有色人種の国の中で国を保てたのは、エチオピア、リベリア(アメリカ合衆国の奴隷解放によって建国された国)、タイ、日本などわずかな国でした。
隆盛を誇った中国、オスマン帝国、ムガール帝国なども侵略されていきました。
この強大な欧米諸国に対抗するために、幕末の思想家たちは、国防の強化を訴え、アジアが団結して立ち向かうべきであると主張しました。
日本が高度な文明を発達させている文明国であるのをみた、欧米諸国は、武力による植民地をはやばやとあきらめました。さらに、欧米の圧力に対抗するために、無血革命といってよい明治維新成し遂げ、富国強兵・殖産興業を成し遂げるに至っては、日本に対する侵略政策は中断をせざるを得ませんでした。
しかし、欧米諸国の東アジアに対する植民地化は留まるところを知りませんでした。
フランス、イギリス、オランダは、タイを除く南アジア・東南アジアを植民地とします。
本国の36倍の広さをもつインドネシアの植民地化に専念したオランダをのぞき、フランス、イギリス及び統一を1871年に果たし急速に近代化をすすめるドイツは、中国の植民地化を推進しました。
ロシアは、満洲を自国のものとし、中国本土、朝鮮半島を植民地化しようとして執拗に南下政策を続けます。
南北戦争で遅れをとった、アメリカは、門戸開放を主張して中国進出を国是とします。
このような圧倒的圧力を日本の歴史学者は無視をしています。明治維新を高く評価せず独立自尊をめざして明治維新という政治革新を行い、殖産興業・富国強兵を達成したという世界歴史上の奇跡に対する誇りを持つことを否定します。さらには、日本領として国家予算の10%以上をつぎ込んで行った朝鮮の殖産興業や教育の充実、近代化の真実を植民地収奪と置き換えてはばかることがありません。
吉田松陰が「幽囚録」の中で主張した朝鮮の「民を愛して」日本の国防の最前線とするという政策でした。
マルクス史観に汚染された日本の歴史学者は、ロシアの圧力に毅然として対抗した日清戦争や日露戦争までもを侵略戦争と規定します。さらに、五族協和の楽園であった満州国の真実や隠れ共産主義者であったルーズベルト大統領のアメリカと共産主義ロシアが陰でつながって中国の支配(中国の共産化)をもくろんだ日中戦争の真実を覆い隠し、侵略戦争であると断定します。
マッカーサーが1951年、上院の外交委員会で、太平洋戦争(大東亜戦争)は日本の自衛戦争であったと証言しても、それを取り上げる歴史学者は僅少であり、歴史教科書には一言も触れられていません。
ペリーの日本来航(1952年)から大東亜戦争の敗北後7年間で日本国民の洗脳に成功して独立させたサンフランシスコ講和条約(1952年)までの断続的な一連の戦争を英仏百年戦争になぞらえて東亜百年戦争というくくりでみるとき、日本は百年かって自衛戦争に敗北しました。
その勇敢さはたたえるべきでありましょう。しかし、日本国民としての誇りを植え付けるべき歴史教育は自虐史観となりました。日本の荒廃、教育の荒廃の原因がここにあると考えます。日本を家族にたとえてみれば、祖父母が、凶悪犯罪者である、だめな家系であると植え付けられれば、子供達は、自信をもつことが出来ないでしょう。前向きに努力し、社会に貢献する大人に育つこともないと思います。
山川出版社の教科書「詳説日本史」(平成24年検定済)では、この東亜百年戦争の間について、第W部近代・現代の概説として「日本では明治政府が、列強に範をとった近代国家化につとめ、憲法・軍隊・議会など、近代化の指標となるしくみを20年ほどでそろえるに至った。日本は、日清戦争で台湾を、日露戦争では南満州の権益を、第一世界大戦では旧ドイツの権益を取得して帝国主義国家の一員となったが、中国における権益を守ろうとして第二次世界大戦に突入し、敗北を喫した。」とあります。欧米の圧倒的圧力のためにやむなく戦った自衛戦争を侵略戦争であると断定して記述しています。
まさに、日本の復活を許さない東京裁判史観を忠実に再現した反日的な内容となっています。日本に対する愛情のかけらもありません。歴史教科書が、いかにひどいものであるかが判ります。
誤った歴史認識をあらためて、事実に基づく日本の誇りを取り戻す歴史教育を構築しなければなりません。思想的に洗脳され、誇りを教えられなくなって70年になります。戦前の誇り高き日本の美風は風前の灯火にあります。
救いは、アジア諸国の意見です。
「タイ ククリット・プラモード(首相)
日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産をして母体をそこなったが、生まれた子どもはすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体だれのおかげであるのか、それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。
十二月八日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決意をされた日である。さらに、八月十五日は、われわれの大切なお母さんが、病の床に伏した日である。われわれは、この二つの日を忘れてはならない。」「世界が語る大東亜戦争と東京裁判」吉本貞昭著(ハート出版 平成24年)
日本はたった一国で大和魂を発揮して欧米の諸国の植民地主義と戦い、百年かかって結局敗北しました。
しかし、同時に、百年かって植民地主義、帝国主義、人種差別をなくし、アジア・アフリカ諸国の独立を達成しました。もし日本の明治維新が失敗していたら、日露戦争に敗北し、日本が占領されていたら、その後のアジア・アフリカの独立を結果として達成した大東亜戦争もなかったでしょう。そうなれば、世界はいまだに白人の世界支配つづき、有色人種の地域は、収奪に喘ぎ、全世界がかつての南アフリカのアパルトヘイトのような状態のままであったことが予想されます。
それだけに、白人の恨みは想像を絶するものがあるのではないでしょうか。冬季オリンピック競技における白人優位のルール変更の実態を見れば白人のプライドは判ると思います。「日本畏るべし」「日本は許せない」との観点から日本が二度と日本精神を発揮できないように陰であらゆる政策を駆使している勢力(国)があることは十分に予想されます。
話は飛躍しますが、大東亜百年戦争の結果、植民地主義が崩壊し、表だって人種差別をできなくなった白人エリートたち(国際的な金融資本家集団)は、グローバリズムを旗印に各国民の愛国心をなくし、国家を解体し、世界植民地化(奴隷化)政策を再び進めているという現状があるように思います。また、基本的に天国の住人である日本人は、弱肉強食で世界が今も動いていることを理解で出来ていません。友好国を装って日本解体を目論む国があることを忘れてはいけないと思います。自虐史観の押しつけも其の一環であることを見抜くことにより江戸時代末に西洋人から地上の楽園であると賛美された日本を再び取り戻すことができるに違いありません。
「東亜百年戦争」という視点をもつことにより、日本人が日本に誇り取り戻すことができると信じます。そうなれば、世界をリードし「和と共存共栄の精神(建国の理念である八紘一宇の精神)」を発揮して日本標準を世界標準にすることにより恒久の世界平和を達成できるに違いありません。
参考図書
○「大東亜戦争肯定論」林房雄著(夏目書房 2001年)
「薩摩と長州の予想外の抵抗(※1863年7月の薩英戦争及び1864年8月のイギリス(B))・フランス(F)・アメリカ(A)・オランダ(D)の四国連合艦隊下関砲撃事件)は、イギリス政府をして失費と犠牲の多い軍事行動をあきらめさせ「平和な協力外交」に転換させたほど、十分に強力であったと結論することは、必ずしも冒険ではなかろう。たしかに二つの「雄藩」は敗北したが、その敗北は他の「東亜諸国(※東アジア諸国)」で起こった敗北とは異質のものであった。
幕末におけるABDFラインが日本に加えた圧力はたしかに強力なものであった。が、日本は「敗北」したが「屈服」しなかった。不平等条約はおしつけられたが、いかなる土地の占領もゆるさなかった。東漸する「西力」はその意思に反して極東のはてに日本という「非占領地帯」をのこさざるを得なかった。もしこの時のABDFラインが日本を押しつぶしていたら、日清戦争も日露戦争もなく、「西洋列強」はそれから約一世紀後の「太平洋戦争」の直前に、再びABCDラインなるものを結成して日本を包囲し、脅迫し挑発する必要はなかったであろう。」(45頁後5行〜46頁7行)
「パール博士の「日本無罪論」
大東亜戦史については改めて語るまでもない。それは見事な敗戦であった。後世の史家は日本軍の勇戦と敢闘と壊滅を二十世紀の英雄譚として書きのこすであろう。しかし、世界戦史にも前例がないといわれている「緒戦の大戦果」はわずか一年以内に逆転され、その後三年に百五十万の戦死者、爆撃による三十五万の銃後国民の犠牲者、全滅した連合艦隊、撃沈された商戦二千隻、五十兆の戦費、焦土と化した都市(そのうち二つは原子爆弾の実験に供せられた)と完全栄養失調の国民を残して、昭和二十年八月十五日、日本は降伏した。
その後、占領の七年間がつづき、その間に「東京裁判」なるものが行われた。
ここで私は当然の順序として、パール判事の『日本無罪論』にふれなければならぬ。今は忘れている人もおおいがもしれぬが、パール博士はインド代表として東京裁判にのぞみ、この裁判が裁判という名に価せず、「儀式化された復讐」にすぎないことを立証して、全員無罪を主張したただ一人の判事である。
田中正明氏によれば、この判決文は他の十一カ国の判事の判決文の全文を合わせたよりもはるかに長大なものであったが、「当時、日本の新聞には、どうしたものかほんの数行をもって、”インド判事のみが全員無罪を主張し、異色ある判定を下した”ていどの記事しかのらなかった」
そのために、私たちはパール博士の『無罪論』があることは知っていたが、その内容を知ることはできなかった。全文の公刊はずっと後のことであった。幸いに、私の手元にはパール博士の友人であり理解者である田中正明氏の著書がある。田中氏は、
「”日本は侵略戦争を行った”という東京裁判の線が、そのまま無条件に容認され、いまだに小国民は、そのような教育をうけている。日本の行った戦争が侵略戦争であったか、自衛戦争であったかは、後世史家の批判にまかせるべきものであって、戦勝国の判断や戦時宣伝を鵜呑みする必要はない。”日本は世界に顔向けできない侵略戦争をやった張本人である”という罪の意識を頭の中にたたき込まれている間は、真の日本の興隆はありえない」
という見地から、昭和二十七に、その重要部分の抄訳を発表し、さらに三十八年八月に『パール白紙の日本無罪論』という著者自身の意見をも加えた新著をものしてくれたので、この両著により、私はパール博士の意見を読者に紹介することができる。
私は法律、特に国際法に関しては、ほとんど何も知らない。ただあ「法の不遡及」という原則は大学で習った。「法はさかのぼらず」の原則である」。ところが東京裁判では「カイロ宣言」と「ポツダム宣言の条項を法的根拠として、さかのぼるべからざる法をさかのぼらせてしまった。
カイロ宣言曰く、
「右同盟国ノ目的ハ、一九一四年ノ第一次世界戦争ノ開始以来、日本ガ奪取シマタハ占領シタル太平洋ニオケル一切ノ島嶼ヲ日本ヨリ剥奪スルコト、並ビニ満州、台湾及ビ澎湖島ノゴトキ、日本ガ清国ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニアリ、日本ハ暴力及ビ貪欲ニヨリ日本国ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐サレルベシ、前記三大国(米、英、シナ)ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ、ヤガテ朝鮮ヲ自由カツ独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス」
つづいて、ポツダム宣言の第八項は、
「カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルベク、マタ日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及ビ四国並ビニワレラノ決定スル諸小島ニ局限サラルベシ」
東京裁判はとにかく裁判の形をとっていたので、東郷元帥や乃木大将までを戦犯にすることはできなかったが、十五年前の満州事変までさかのぼって多数の戦犯を製造した。パール判事の抗議も清瀬一郎弁護人の弁護も無視された。
しかも、カイロ・ポツダム宣言にもとづいて日本におしつけられた講和条約は百年以前までさかのぼった。「日本を明治維新以前の状態にまでおしもどす」と彼らは公言し、そのとおりに実行した。これは「大東亜戦争は東亜百年戦争の終曲であった」という私の仮設の真実性を裏づける。彼らは意識していなかったかもしれぬが、「太平洋戦争」が「サ薩英戦争」と「馬関戦争」の継続であったことをミズーリ号上で調印された降伏条約によって実証した。」(p404〜p406)
「大東亜戦争は百年戦争であった
さて、やっと私の意見をのべる番がめぐってきたようだ。
私は「大東亜戦争は百年戦争の終曲であった」と考える。ジャンヌ・ダルクで有名な「英仏百年戦争」に似ているというのではない。また、戦争中「この戦争は将来百年つづく、そのつもりで戦い抜かねばならぬ」と叫んだ軍人がいたが、その意味とも全くちがう。それは今から百年前に始まり、百年間戦われて終結した戦争であった。今後の日本は同じ戦争を継続することも繰りかえすこともできない。「東亜百年戦争」は昭和二十年八月十五日に確実に終わったのだ。ついでに神武建国までさかのぼって、「二千六百年戦争」と言ったらどうだとまぜかえしたくなる人もあるだろうが、私の仮説はそんな「神話的飛躍」とは無縁である。歴史の流れの中では、百年は短い。百年つづいた「一つの戦争」はいくつか先例がある。あいだに五年か十年づつの「平和」があっても、それは次の戦闘のための小休止にすぎなかった。五味川純平氏も石川達三氏も私も、この長い戦争の途中で生まれたのだ。
しかし、永久につづく戦争もない。百年戦争は八月一五日に終わった。では、いつ始まったのか。さかのぼれば、当然「明治維新」に行きあたる。が、明治元年ではまだ足りない。それは維新の約二十年前に始まったと私は考える。私のいう「百年前」はどんな時代であったろうか?
これに対する答えも、すでに諸家によって出されはじめているようである。例えば上山春平氏は前掲の論文の中で、「薩英戦争と四国連合艦隊の下関攻撃」に言及して、松平慶永と橋本左内の「富国強兵策」「開国出撃論」を紹介している。私はこの二つの戦争も百年戦「東亜百年戦争」はそれよりももっと以前に始まっていると考える。これはたいへんな「拡大解釈」であるから、新しい呼び名を考案しなければ話が混乱する。
真珠湾奇襲とマレイ沖海戦にはじまる戦争はやはり「太平洋戦争」と呼ぶのが便利であろう。それを日本人が「大東亜戦争」と呼ぶことには歴史的意味があるから、私はその方を使うが、そのほかに「東亜百年戦争」という呼び名を用いて混同をさけることにする。」(20頁6行〜21頁10行)
「日本は立ち止まれなかった
葦津珍彦氏によれば、孫文はその『三民主義』の中で、「日本は馬関条約において朝鮮の独立を要求しておきながら、朝鮮を武力併合した。日本の信義はどこにあるのか」と非難した。ガンジーはその『インド自治論』の中で、「日本の空には英国旗がひるがえっている。あれは日本の旗ではない」と怒ったという。
この非難と怒りは、シナ人としてインド人として、当然のものである。だが、これに無条件に同感する日本人は、日本の歴史と運命を忘れている。日本は西洋のアジア侵略への反撃としての「東亜百年戦争」を継続中であり、その途中において立ち止まることはできなかった。孫文もガンジーも、そこまでは日本の苦悩を認めえなかっただけだ。
私の仮説を認めない学者たちは、日本はいくつかの時点において立ち止まるチャンスがあり、すなわち「無謀な大東亜戦争」を回避できたはずだと主張する。果たしてそうだろうか。日本が「立ち止まれた」という説を裏がえせば、英米路線に協調して、もっと巧妙な「アジアの搾取者」になり得たはずだという主張になる。さもなくば、戦わずして西洋の圧力に屈し、維新前の四つの島にとじこもり、「スイス的繁栄を楽しめ」という愚かな「平和的夢想」―実行不可能な愚論となる。
この種の「理性的暴論」を敢えてする戦後はの学者諸氏を幕末、明治中期、朝鮮併合と満州事変、大東亜戦争勃発直前の政治的中心に立たせてみたい。いったい彼らはいかなる「理性」と「政治力」によって、日本を立ち止まらせることができたであろうか。立ち止まらせるための一応の努力は多くの人物によってなされている。彼らが現在の進歩的諸氏より「小器」であったとは思えない。大器量人もたしかにいたはずだが、彼らにも日本を「百年戦争」の途中で立ち止まらせることはできなかったのだ。今の進歩人諸君にはできるはずはない―火事場の跡の賢者顔ほど間抜けで厭味なものはない。
火事を未然に防ぎえた者は賢者である。燃えはじめた火事を身を挺して消し得た者は勇者である。だが、この百年間の日本人には、その賢者も勇者も生まれ得なかった。なぜなら、「東亜百年戦争」は外からつけられた大火であり、欧米諸国の周到な計画のものと、多少の感覚をおきつつ、適当な機会を狙って、次から次へと放火された火災であった。日本人は火災予防の余裕をあたえられず、不断に燃えあがる火災の中で、火炎そのものと戦わねばならなかった。時には神話の勇者のように、剣をふるって自らのまわりの燃え盛る枯草を切り払わなければならなかった。風が変って火災が隣村の方向に燃え移ることを願ったこともあった。逆風を利用して自ら火を放ったこともあった。そのために、彼自身、悪質なる放火者とまちがえられ、非難もされた。
私は放火と戦った勇者を非難しない。多くの日本人が焼死した。鎮火の後に生きながらえた勇者もほとんどすべて全身に大火傷をうけた。
戦線に倒れ、傷ついた幾百万の兵士たちについて語ることは他に機会があろう。」(287頁1行〜288頁12行)
○「大東亜戦争の正体―それはアメリカの侵略戦争だった」清水馨八郎著(祥伝社 平成18年)
「アムステルダム市長による日本擁護論
平成三年、日本の傷痍軍人会代表団が、大東亜戦争の対戦国であったオランダを訪問した折、同国の傷痍軍人代表とともに、首都アムステルダム市長主催の親善パーティに招待された。その時、同市のサンティン市長は歓迎の挨拶で、実に良心的に大東亜戦争の真実を語った。想いもよらぬ話に、日本の代表団は感激した。
『あなた方日本は、先尾大戦で負けて、私どもオランダは勝ったのに、大敗しました。
今、日本は世界一、二位を争う経済大国になりました。私たちオランダは、その間屈辱の連続でした。すなわち、勝ったはずなのに、貧乏国になりました。戦前にアジアに本国の三六倍もの面積の植民地インドネシアがあり、石油等の資源産物で、本国は栄耀栄華を極めていました。
今のオランダは、日本の九州と同じ広さの本国だけになりました。あなた方日本は、アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分を蔑み、ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。
あなた方こそ、自らの地を流して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高の良いことをしたのです。なぜなら、あなたの国の人々は過去の歴史の真実を眼隠しされて、今次大戦の眼先のことのみ取り上げ、あるいは洗脳されて、悪いことをしたと、自分で悪者になっているが、ここで歴史を振り返って、真相を見つめる必要があるでしょう。
本当に私たち白人が悪いのです。一〇〇年も二〇〇年も前から、競って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。植民地や属領にされて、永い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大にして崇高な理想を掲げて、大東亜共栄圏という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。
本当に悪いのは、侵略し振るっていた西欧人のほうです。日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現しました。すなわち日本軍は戦勝国すべてを、東亜から追放して終わりました。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成しました。
日本の功績は偉大です。血を流して戦ったあなた方こそ、最高の功労者です。自分を蔑むのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです。」
参加者全員、思いがけない市長の発言に感動したのは言うまでもない。この市長のように、ヨーロッパの文化人や識者は、あの戦争は日本のほうが勝ち、攻めた白人たちのほうが負けて、虎の子の植民地から追い出され、西洋の古巣に戻されてしまったことを知っているからである。
世界史的に大観すると、大東亜戦争はアジアが西洋に勝ったいくさであり、それはこの戦いをリードした唯一のアジア独立国・日本の功績にほかならない。「日本は負けて勝った」のである。アムステルダム市長のサンティン氏のように、ヨーロッパ一は東洋の日本に、謝罪し、反省し、感謝しなければならない。このような良心的な正論を吐く市長だから、彼はやがて、全国民に推されてオランダの国務大臣に選ばれたのである。(196頁6行〜198頁後1行)
○「日本人の誇り」藤原正彦著(文春新書 2011年)
「独立自尊を守る
その当時、アジアの国々は諦念からでしょうか、激しい抵抗もほとんど示さず、片っ端からヨーロッパ勢力により蹂躙されていました。強力な武器を手に高圧的に迫る白人を前に従順な羊のようでした。
その中にあって唯一、独自の、人類の宝石とも言うべき文明を生んできた日本は、その気高い自負ゆえに、ほんやり眺めているばかりの他のアジア諸国とは異なり、命をかけて独立自尊を守ることを決意しました。日本のような後進の小国にとって、実に大それた望みでした。幕末から明治維新の日本人が、満腔にこの決意を固めたと同時に、その後の流れは決まってしまったのです。
日本近代史における戦争を考える時に、満州事変頃から敗戦までを一くくりにした十五年戦争や昭和の戦争がありますが、このように切るのは不適切と思います。その切り方はまさに東京裁判史観です。林房雄氏は『大東亜戦争肯定論』の中で、幕末の一八四五年から大東亜戦争終結の一九四五年までを百年戦争としましたが、私の考えはそれに近く、ペリー来航の一八五三年から、大東亜戦争を経て米軍による占領が公式に終わったサンフランシスコ講和条約の発効、すなわち一九五二年までの約百年を「百年戦争」とします。ペリーの四隻の黒船による騒然から紆余曲折の末に日本が曲がりなりにも自力で歩きはじめるまでを百年戦争と見るのです。」(217頁1行〜218頁2行)
○「幽囚録」吉田松陰著 奈良本辰也現代語訳(日本の思想19「吉田松陰集」奈良本辰也編 筑摩書房1969年)
「日本の東はアメリカであり、東北はカムチャッカ、オホーツクである。日本にとっての一番患いとなり大敵となるのは、アメリカでありロシアである。しかしロシアの首都は海外万里の彼方、西北の果てにあり、日本を侵略するには、甚だ不便である。とはいうものの日本はそのロシアの東の境と、ただ海一つ隔てるだけなのである。しかも近ごろは蒸気船に乗って訪れ、境界について議論し、国交を求めている。どうしてこれで、ロシアを遠い所にある国だとのんびり構えていられようか。ただ今日まで無事であったのは、等辺は近いといって荒野が多く寒冷で、不毛なうえに兵隊が少なく、軍艦も数多くなかったからである。ところが最近聞くところによると、カムチャッカ、オホーツクなどにようやく軍艦を配備し、兵隊を置き、一大軍事拠点を創っているということである。もしロシアが充分に兵隊を集め、軍艦を備えれば、その禍が日本に及ぶのは、時間の問題だろう。それだのに、まだ日本人はそのことをよく理解していない。このままほうっておいて良いことではない。」(103頁下段後4行〜104頁下段11行)
「ワシントンはアメリカの諸州の中で一番勢力を持ち、次第次第にその力を拡げ、諸々の州をその会盟下においた。ワシントンはアメリカの東側にあって、日本との距離はロシアよりも遠い。ところが今やアメリカの西側の諸州もワシントンと同盟を結ぶようになった。カリフォルニアなどは、日本とちょうどあい対していて、海一つを隔てるかでの近いものである。ここ数年来、蒸気船に乗って、しばしば日本にやってきて和親通商のことを求め、ついに日本もそれに同意することとなった。しかしアメリカは国となってからまだ新しいので、僕はまだくわしいことについては、よく知らない。しかしアメリカ全土の広大なことは、南極から北極にまで及ぶというのである。だからどうしてワシントンが、これ以上の野望を抱かず、これだけで満足しているということがあるだろうか。もし彼らが侵略して来て、日本の財貨を横奪すれば、その被害は、ロシアが攻めてきた以上のものがあるだろう。」(104頁下段後4行〜105頁下段10行・初代大統領と首都であるワシントンDCとをごっちゃにしているところがある)
「およそ世界の各国が、日本を取りまいている様子はこのようなものである。しかも日本は呆然としてただ手を組んで、その真中にたっているだけで、この恐るべき事態を十分に理解していない。こんな危険なことがあるだろうか。ヨーロッパの各州は、日本を遙か遠くに離れ、昔も日本と交流はなかったが、船艦ができるようになって、ポルトガル・・スペイン・イギリス・フランスのような国々は、弱国日本を併合しようとしている。これも又、わが国にとっては憂である。最近では蒸気船を持たない国はなく、ヨーロッパのように離れていても、まるで隣国のようなものなのである。まして先に挙げたアメリカやロシアなどはいうまでもないことである。しかしこれもただ聞き伝えであり、書物にかかれていたことから理解したもので、はたして本当にこれが事実なのかどうか、いまだに確かめることが出来ないでいる。だから秀れた人物を海外に派遣し、実際にその形成や沿革、それに航路をくわしく調べるという以上に、最良の策があるだろうか。
太陽は昇っていなければ傾き、月は満ちていなければ欠ける。国は盛んでいなければ衰える。だから立派に国を建てていく者は、現在の領土を保見していくばかりでなく、不足と思われるものは、補っていかなければならない。
今急いで軍備をなし、そして軍艦や大砲がほぼ備われば、北海道を開墾し、諸藩王に土地を与えて統治させ、隙に乗じてカムチャッカ、オホーツクを奪い、琉球にもよく言い聞かせて日本の諸藩王と同じように幕府に参観させるべきである。また朝鮮を攻め、古い昔のように日本に従わせ、北は満洲から南は台湾・ルソンの諸島まで一手に収め、次第次第に進取の勢いを示すべきである。その後に人民を愛し、兵士を育て、辺境の守備をおこたらなければ、立派に国は建っていくといえる。そうでなくて、諸外国の争奪戦の真中に座り込んで、足や手を動かさずにいるならば、必ず国は亡びてしまうだろう。」(106頁下段5行〜107頁下段14行)
○「世界が語る大東亜戦争と東京裁判」吉本貞昭著(ハート出版 平成24年) ※1;134頁
○「詳説日本史」笹山晴生 佐藤信 五味文彦 高埜利彦ほか10名著(山川出版社 2012年検定済 高校日本史B教科書)
○「『反日中韓』を操るのは、じつは同盟国アメリカだった!」馬淵陸夫著(ワック 2014年)
○「日本人の誇り」藤原正彦著(文春新書 平成23年)
平成27年02月27日作成 平成28年04月28日最終更新 第101話