国体の護持を条件にポツダム宣言を受諾し、昭和20年8月15日大東亜戦争は終結しました。この国体ということは、日本の国柄、国家の体制を意味しています。この国体を変えないということを条件に日本は矛をおさめました。一般に大日本帝国憲法(明治憲法)と日本国憲法は、対比される存在です。日本は、天皇主権の国から、国民主権の国に大きく換わった一般に理解されています。さて、日本国憲法においては、第1条に「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるとされています。元首という言葉は使っていませんが、実質上の国家元首が天皇です。憲法の規定にもとづき内閣総理大臣を任命し国会を召集するのも天皇です。
一方、大日本国憲法においても、天皇主権を規定していましたが、第4条には「天皇ハ国ノ元首二シテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規二依リ之ヲ行フ」とあり、憲法の規定を遵守することになっていました。
敗戦直後に昭和天皇が、藤田尚コ侍従長におっしゃられたお言葉があります。
「申すまでもないが、我国には厳として憲法があって、天皇はこの憲法の条規によって行動しなければならない。またこの憲法によって、国務上にちゃんと権限を委ねられ、責任をおわされた国務大臣がある。」
「だから内治にしろ外交にしろ、憲法上の責任者が慎重に審議をつくして、ある方策をたて、これを規定に遵って提出して裁可を請われた場合には、私はそれが意に満ちても、意に満たなくても、よろしいと裁可する以外に執るべき道はない。
もしそうせずに、私がその時の心持によって何となるかわからないことになり、責任者として国政につき責任をとることが出来なくなる。
これは明白に天皇が、憲法を破壊するものである。専制政治国ならばいざ知らず、立憲国の君主として、私はそんなことは出来ない。」(「日本人と天皇」松村剛著[1989年 PHP研究所]27頁9行から28頁6行)
大日本帝国憲法下の天皇は、一般に誤解されているように、国政を恣(ほしいまま)にした専制君主ではありませんでした。
更に、大日本帝国憲法以前の国家の基本法典は、757年の養老律令でした。この律令体制は、668年の近江令にさかのぼります。
広い意味での律令体制下つまり668年から1867年の天皇も律令に縛られる存在でした。政治体制は、天皇を首班に、摂政・関白、右大臣、左大臣、大納言、参議等の合議によって政治は行われていました。
また、鎌倉幕府以来の武家政治においても、征夷大将軍を任命するのは天皇でした。天皇が武家に統治権を委任したということです。
律令体制以前は、天皇を中心とする豪族(大臣、大連をはじめとする大夫)の合議による政権でした。この体制は、前660年の神武天皇に始まります。そのことは神武天皇の発せられた「八紘一宇」の精神に覗うことができます。
つまり日本の国体は、神武天皇以来、天皇を元首とする国家ということになります。
この天皇の存在が日本の特徴であり、日本のアイデンティティであります。日本国憲法でいみじくも取り上げられている「日本国民統合の象徴」であるということです。日本の伝統も、文化も、「和をもって貴しとなす」という世界に比類無い平和の精神も、天皇の存在なくしてはあり得ないことです。世界中からうらやましがられる存在で有るにもかかわらず、この伝統の重みを日本人のみが気づいてないように見えます。これでは日本国家の崩壊しかない。天皇の存在の重要性を再認識しなければならないと考えます。
参考図書
○
國體の本義(昭和12年 文部省)
○「天皇―最高の危機管理機構」佐々淳行著(「歴史通」2011年5月号)
「わが日本民族は、一世紀に一回ぐらいの割合で起こる国難に直面するたびに、救国の危機管理機構=天皇によって危機を乗り越えてきた。
平時、わが国では、天皇を「権威」としていただいている。しかし、一旦緩急あって非常事態に直面すると、時の政権は、天皇に「権力」をのっていただいて事態を収集してきた。そして、体制が安定すると、また権威に戻っていただく形を繰り返してきた。代々、天皇は神道においては天と国民を結ぶ仲保者・祭祀長という立場を締めてこられたのである。
天皇と他の国の国王との違いは何か。国王は側近の近衛兵などの軍隊をもっているが、日本の場合は、衛士が天皇をお守りしている。これは警察の役割であり、装備も戦争をするものではなく、あくまでも警護を目的としたものだ。
さらに国王は司法権をもつ国が多く、反逆者を投獄し斬首する権限まで握っているのだ。しかし、日本の場合は、天皇は「権力」と切り離されており、司法権と無縁であるばかりか死刑執行権もない。また、わが国では、政権が入れ換わったとしても、天皇が処刑されることはなかった。殿上人とそれ以外、地下人の区別は峻厳で、天皇の叙位叙勲の権威が、武家社会の権力者への盾となって天皇を守ってきたといえる。」(27頁下段1行〜29頁上段8行)
「至上有名な昭和天皇とマッカーサー元帥の会見の砌、昭和天皇は『戦争の全責任は私にある。身を委ねるべくGHQに参上した。ここに全皇室の目録がある。これを処分して国民に食物を与えてほしい』と申し出され、命乞いにきたと想っていたマッカーサー元帥を驚嘆させた。マッカーサー元帥は、この会見をきっかけに、スターリンが強硬に主張していた天皇を戦犯にという要求を斥けて、天皇制は護持された、とされる。この我欲、物欲のない高潔な人物像は、マッカーサー回顧録に『これが天皇というものか』と記されているが、皇室財産を国民のためにと差し出されたという美談は、この世紀のサミット会談の通訳をつとめた米陸軍情報部のカン・タガミ少佐から、私が警視庁外事課第一係長だった頃に聞いた話である。」(29頁上段後3行〜中段後4行)
「天皇陛下は、祭主であると同時に、種蒔き・お田植えや新嘗祭、あるいは植樹祭に見られる農耕文化や自然の保護者であり、皇室は歌会始に象徴されるように和歌を詠み、伊勢神宮の式年遷宮に見られる建築から衣装に至るまでの伝統の保護・伝達の担い手である。
さらに、皇后陛下は、後段で詳述するが、養蚕の担い手であり、赤十字社総裁として国民の健康と福祉を守り手であり、天皇陛下を支えながら、国民に対しては慈母(国母)として臨んでいらっしゃる。こうして皇室と国民は、二千六百七十一年にわたり、国民を束ね統率する皇(すべらぎ)と大御宝(おおみたから)の構図をなしているのである。権威は、御簾の奥にいらっしゃる必要がある。この世の垢にまみれてはならない存在といえよう。」(29頁13行〜30頁11行)
「世界広しといえども百二十五代も続く統治機構は日本以外に存在しない。それは天皇が権威であった結果だろう。明治維新をみれば、わが国が鎖国を解いて飛び出した世界は弱肉強食の帝国主義時代だった。その中で、日本民族は『王政復古』を遂げ、明治天皇に近代国家建設のためのリーダーシップを求めた。天皇の権威をいただいた薩長土肥の土豪劣紳たちが、『錦の御旗』の官軍となり権力者になったのである。
しかし、残念ながら、当時、その意義が国民に十分に認識されたとは言い難い。天皇陛下の重みを実感したのは、わが国が危急存亡の危機に瀕し、全国が焦土と化した昭和二十年八月十五日だった。
まず、この時、昭和天皇の御聖断がなければ、戦争は終わらなかっただろう。もっと惨憺たるところまで突き進んでいたに違いない。当時、私は十五歳だったが、血気盛んな青年たちは鉄血勤皇隊を組織して一億玉砕まで戦いかねない状況だった。それが、天皇という権威が、内閣や軍部という権力に対して、終戦の決断をされ詔勅を出されたのである。その瞬間、満洲や中国大陸、ビルマ、インドネシア、パプアニューギニアなど南方に展開していた軍隊を含めて、全員が武器を置いた。一部、様々な事情によりゲリラ化して抗戦した将兵もいたが、大多数は、天皇陛下の終戦の詔に従って黙って武器を置いた。これは奇跡以外の何物でもない。」(30頁下段後5行〜31頁中段11行)
○「日本人と天皇」松村剛著(PHP研究所 1989年)
平成24年11月11日作成 第080話