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 新約聖書のユダヤ人キリスト教徒に対する「ヘブル人への手紙」第9章2節〜7節には、モーセの時代に神を礼拝した幕屋の概要が書かれています。ソロモンによるヤハウェの神殿も、これを踏襲して建てられました。

 「幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。…さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつもはいって礼拝を行うのですが、第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。…」

 日本に来てユダヤ人が一番驚くのは、伊勢神宮の存在であるとのことです。
神社に手洗いがあり、一般参拝の場所と内側に特別参拝や神官が日常的にお供えものをする場所(聖所)があります。そして、その奥に天皇だけがお参りできる至聖所があるという形式は、旧約聖書にある古代イスラエルの指導者モーセと神との契約の証であるヤハウェを礼拝する移動式の幕屋やソロモンによるヤハウェの神殿の形式と同じであります。
 神官の白い衣装と、裾のぶら下げる房まで、神を祭祀するレビ族の衣装を思い出させるとのことです。
 さらに、神官が神に仕える仕方、神殿の警備の仕方・警備の人数・交代の儀式そのものまで、エルサレムにあったヤハウェの神殿で行われていたとおり、行われているといいます。
 さらに、20年に一度の遷宮の儀式もまた、モーセの時代に神から約束された地カナンにむかい移動していた幕屋のあり方を思い出させるといいます。レビ族という祭祀に関わる一族がヤハウェに仕えていましたが、伊勢神宮でも代々、神官は神に仕えてきました。特定のササゲ物を代々作っているものも多くいるとのことです。モーセの兄アロンの男系の子孫のみがレビ族の補佐を受けながら代々大司祭を継承してきました。日本にも血統を重んじ男系で継承してきた天皇家があり、天皇は大司祭の役割をはたしているということになります。また、ご神体をしまう箱を御船代とよんでおり、古代イスラエルの「契約の箱」もArk(舟)と呼んでいたことなども同じであり、伊勢神宮は、エルサレムのヤハウェの神殿との類似点があまりにも多くあります。

 伊勢神宮は、皇室の先祖神を祭る内宮と、豊受大神を祭る外宮からなっていますが、外宮は、現在の地に落ち着くまでに様々なところを移動してきました。もともとは、丹波の籠神社のご神体を移動したものだといいます。この籠神社の元の宮を真名井神社といわれています。「マナの壷」を連想させます。
 現在の伊勢神宮の外宮の神官は渡会氏で、内宮の神官は荒木田氏ですが、もともと外宮、内宮とも渡会氏が神官でした。渡会氏は、渡来氏とも表記することがあるようで、渡来人を示しているという説もあります。また、度会氏の祖は「大若子命」(別名大幡主命)であり、別名のオオハタヌシ命は、もともと「大秦主命」ではなかったかと云われます。伊勢神宮にも秦氏が大きく関わっているのではないかといえます。
 また、旧約聖書によれば、アブラハムが、ようやく授かった長子イサクをモリヤの山に連れて行き犠牲として神に捧げるようにと命じられました。まさにアブラハムがナイフでイサクを手にかけようとしたときにヤハウェが、柴に挟まっていた山羊を代わりにする様に命じイサクが解放されます。この試練を乗り越えたアブラハムは神より祝福され、子孫の永続と繁栄を約束されます。この物語そっくりな儀式をおこなっていたのが諏訪大社の「ミサクチの祭り」です。
 明治初期まで、8才くらいの少年を柱に括り付けて神官がナイフで手にかけようとしたときに、もう一人の神官があらわれ、少年が解放され代わりに鹿が犠牲に捧げられるというものです。今は、少年が括り付けられることはありませんが、この儀式が今も、モリヤ(守屋)山でおこなわれ、神官のモリヤ(守矢)氏が代々主催しています。
 この祭りに関係する諏訪大社の前宮と本宮は、ともにモリヤ山の麓にあります。モリヤの神を礼拝するために諏訪大社が建てられました。モリヤの神は、ヤハウェということになります。この祭りは、縄文末期頃からおこなわれていただろうのではないかということです。守矢氏と秦氏の関係は不明です。
 古代イスラエル民族の信仰の中心的な聖所の祭りの形式が日本に来ていることが想像できることからも、古代イスラエルの12支族の本体がシルクロードの東の果てに来ているのではないでしょうか。

 時代は下って、4世紀に来日したイスラエル・ユダヤ人キリスト教徒ではないかとされる秦氏の建てた神社について触れたいと思います。
 日本で一番多い神社は「稲荷神社」です。全国のお稲荷信仰の発祥の地が秦氏の本拠地京都の伏見稲荷神社です。この神社を創建したのが「秦伊呂具(秦鱗)」です。「稲荷」はもともと「伊奈利」とかき、漢字が使われる以前から「イナリ」であったとのことです。「イナリ」は、「INRI」ではないかという説があります。「INRI」は秦氏の信仰した景教のおいて「ユダヤ人の王ナザレのイエス」をあらわす略号でした。こうなるとイナリの神は、絶対神ヤハウェであり、イエス・キリストをあらわしていることになります。キリスト教においては、ヤハウェ=イエス・キリスト=聖霊(三位一体)なのですから。
 次に多いのが「八幡神社」です。元々はハチマン神社ではなく、ヤハダ神社といわれていました。この八幡神社の総本山が「宇佐八幡宮」であり、八幡信仰の初期をになっていたのが、秦氏の支族辛嶋氏でした。秦氏が信仰していたのが八幡神であるということになります。
 宇佐八幡宮のある綾幡(あやはだ)郷は、秦氏の一族の古い居住地であり、隋書に出てくる秦王国があったのは、この宇佐地方ではないかといわれています。この「ヤハダ(綾幡)」は、「ユダヤ」をあらわすヘブル語「ヤェフダー」のことではないかと云われています。
 「松尾神社」の総本山の京都の松尾大社を創建したのがこれもまた秦氏の「秦都理」です。ここの祭神「松尾大明神」の別名が「大山咋神」で、全国の日吉(日枝)神社でまつられています。
 京都の比叡山の麓に総本山である「日吉大社」があります。秦氏は日吉大社の創建にも関わっていたのではないかと想像されます。
 松尾大社の祭神はお酒の神でもあります。葡萄酒は、エルサレムの神殿でも神への捧げ物としてかかせないものでした。
 
京都 祇園の八坂神社  
 四国の「金刀比羅宮」も、昔は「旗宮(秦宮)」と呼ばれていましたので、秦氏の神社ということになります。
 白山信仰や愛宕信仰を開いたのが修験者の「三神泰澄(秦泰澄)」であり、白山神社や愛宕神社も全国に末社を持ちます。
 京都の祇園にある八坂神社も、秦氏ゆかりのところにあり全国にあります。「弥栄神社」ともかきます。「イヤサカ」は、古代ヘブル語で「ハヤウェは偉大なり」という神をたたえるコトバです。
 ヤハウェの神殿は、礼拝所であり、偶像である神像はありませんでした。同様に、日本の神社にも本来偶像はありません。鏡なりを通して神に礼拝します。インドや東南アジアなどでは神を祭る所には必ず偶像があり礼拝の対象となっているのとは対照的です。また、仏教の仏像は、ユダヤ教の禁じた偶像崇拝にあたります。
 渡来系にもかかわらず秦氏は、多くの日本の神社の創建に関わっているのでいる不思議な氏族です。秦氏のかかわった神社や鳥居の柱は赤くぬってあるものが多く、モーセによりエジプトからつれだされるとき、災厄を逃れるために門柱を赤く塗ったことを記念する「過ぎ越し祭り」の故事にちなんでいるかもしれません。
 云うまでもなく、日本には神道を保護した物部氏などもあり、日本固有の神を祭った神社や中国系の神を祭った神社、全国に多数の末社をもつ菅原道真を祭った天満宮のように人物を祭った神社も多数あります。
 秦氏の関わった神社をすべてユダヤ系神社と称するのはいきすぎであろうが、その中にはヤハウェを祭る神社もあるのではないかと思われます。

参考図書

○「失われたイスラエル10支族」ラビ・エリヤフ・アビハイル著鵬一輝訳 学習研究社 2005年
○「大使が書いた 日本人とユダヤ人」エリ・コーヘン著 青木偉作訳 中経出版 2006年
○「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史」M・トケイヤー 久保有政著徳間書店1999年
○「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史2〈仏教・景教篇〉」久保有政 ケン・ジョセフ著 徳間書店2000年
○「失われた原始キリスト教徒『秦氏』の謎」飛鳥昭雄 三神たける著 学習研究社 1995年

平成19年03月08日作成   第048話