本文へスキップ

高校生のためのおもしろ歴史教室>世界史の部屋

39.「諸子百家」その4―法家

「諸子百家」の第四は、法家についてです。
 戦国時代(前403年〜前221年)は、「戦国の七雄」とよばれる七大国が統一をめぐって争いました。富国強兵、殖産興業のために諸侯は、食客とよばれる思想家を多く養いました。多くの思想家が弟子達を育て、主張を各国に売り込みました。人材の流動性のある時代でした。 様々な思想家が議論を交わし、影響し合いました。墨家の著作『墨子』、道家の著作『老子』『荘子』、儒家の著作『孟子』『荀子』などには、お互いの主張を論破しようとして、批判している様子がよく分かります。お互いの主張をぶつけ、議論しながらそれぞれの主張を発展させて行きました。まさに「百花繚乱」「百家争鳴」の時代でした。
儒家 孔子 前552年〜前479年  徳治主義  仁・忠恕・孝悌・礼
孟子 前372年頃〜前289年 王道政治 性善説・易姓革命
荀子 前320年頃〜前230年頃 礼治主義 性悪説・覇道政治是認
法家
  
商鞅 前390年頃〜前338年 法治主義
覇道政治  
秦の孝公の宰相
韓非 前298年頃〜前233年 韓の王族・荀子の弟子
李斯 前284年頃〜前208年 荀子の弟子・始皇帝の宰相
道家 老子 前6世紀〜前5世紀 小国寡民
無為自然
無為自然・道(TAO)
荘子 前370年頃〜前300年 真人
墨家 墨子 前480年頃〜前390年頃 博愛主義 兼愛・非攻・尚賢・節用
 
 その中で、法家の理論家であり、思想家である商鞅、韓非、李斯の主張を採用した秦が初めて領土国家として中国を統一しました。特に、商鞅、李斯は、宰相として秦を改革し、富国強兵を成し遂げることに成功しました。
 前320年頃〜前230年頃
 法家の韓非と李斯は、儒家に分類される荀子に師事しました。儒家の思想家の荀子の主張の延長上に法家の実践があります。
 荀子(前320年頃〜前230年頃)の名は、況。前320年頃趙にうまれ、斉で教育長のような役職や楚では地方長官になりました。退職後教育者思想家として韓非、李斯などの弟子を育て、前230年頃楚で亡くなりました。
 孔子は、儒家の徳目である仁、忠恕、孝悌、礼などを修めた聖人が君主となることにより国が治まると主張しました。孟子(前372年頃〜前289年頃)は、性善説に基づく王道政治を主張し、儒学の正統となりました。荀子は性悪説を前提に、礼(道徳や礼儀作法の実践)を中心においた礼治主義を主張し、儒家の異端思想でした。
 戦国末期の戦乱と貧困の中で人々が、私利私欲にはっして行動する姿をみて、人間の本性は悪であると主張しました。だから、指導者は「礼」を修得して立派な人となり国民に「礼」に基づく政治を行うことを主張しました。荀子の著作が『荀子』です。『荀子』性悪篇第二十三の一には、

 「人の生まれながらの性質というものは、利益を得たいと願うものである。そしてこれにそのまま従うと、人と争い奪いあいが生じて、譲りあうことがなくなるのである。また人は生まれながら他人をねたみ憎むという感情をもっている。そしてそれにそのまま従うと、人を害(そこな)い、殺しあいが生じて、心から信じあうことができなくなる。また生まれながら美しいものを見たり聞いたりしたいとういう耳や目の欲望がある。そしてそれにそのまま従うと、無制限に乱れ淫りがわしくなり礼義や文理(規則や道理)がなくなる。そうすると、人の生まれつきに性質や感情のままに従って行為をすれば、必ず争い奪いあうという結果になって、社会の秩序や道理が破られることになり、ついに混乱におちいる。だからこそどうしても先生の教化や礼義の指導が必要であり、それによって始めて人と譲りあい、社会のおきてや道理を守るようになり、ついには平和が実現するのであるのである。このように観てくると、人の生まれながらにもっている能力である性は、悪い傾向性をもつものであることが明らかであり、その善いというものは努力して身に修得した能力である偽(い=人為、努力のこと)なのである。」(竹岡八雄・日原利国訳による)

とあります。
 「礼」を修得させれば、つまり教育を行えば人間性を変えることができると言うのが、儒家である荀子の性悪説の立場です。
同じく『荀子』の勧学篇第一の一には、

「君子は、学問を途中でやめてはならない。青色は藍の草から取るが藍より青く、氷は水からできるが水よりも冷たい」と言っている。墨縄(すみなわ)にぴったりの真っ直ぐな木も、たわめ曲げて輪にすれば、コンパスにぴったりするほど丸くなり、乾き枯れても二度と真っ直ぐにならない。それはたわめ曲げたためそうなったのである。このように木は木は墨縄をあてれば真っ直ぐになり、刃物は砥石にかければ鋭くなり、君子は広く学んで日になんども自分の言行を反省すれば、知恵は明らかになり行動に過ちがなくなる。」

とあり、努力すれば君子になれるといっています。「出藍の誉れ」の出典です。
 法家も性悪説の立場に立っていますが、どのような聖人の感化を受けようが、教育を行おうが、自己愛を本性とする人間性を変えることはできないという前提から出発しています。
 なので、荀子の主張する「礼」の重視では、国を治めることはできない。強力な刑罰を定めた法によってこそ、国は治まるというのが法家の主張です。
 前298年頃〜前233年
 商鞅(前390年頃〜前338年)は、秦の孝公の宰相として、法治主義に基づき、厳格な法律により国政改革をおこない、富国強兵の実をあげました。
 韓非(前298年頃〜前233年)は、韓の一族でしたが、吃音(どもり)でした。それで著作に専念し、秦の孝公の宰相をつとめた商鞅(前390年頃〜前338年)などの法家の施策、思想をまとめ、発展させました。韓子と尊称されていましたが、唐の名文家 韓愈が韓子と尊称されるようになったことから韓非子と現在では尊称されています。彼の著作を集めたものが『韓非子』です。
 韓非は、韓の使者として秦に行きました。すでに、著作を読み評価していた秦王(のちの始皇帝)が韓非が登用されると自分の立場がなくなると考えた宰相李斯(前284年頃〜前208年)の讒言にあい、それを信じた秦王が無実の罪で韓非を監禁し、李斯の贈った毒薬で自殺に追いこまれました。
 くりかえしですが、法家の思想は、秦の宰相となった、商鞅・李斯によって実施されました。秦により中国が初めて統一され、官僚体制による領土国家が出現したことは、法家の思想の有効性が実証されたことになります。 そして、法と賞罰によって支配することが政治の基本であるという法家の思想は、秦の創建した官僚国家体制の理論的支柱となりました。表向きは儒家の王道政治ですが、現実には法家の法律にもとづく官僚国家体制が中国の歴代の王朝の政治体制の基本でした。

参考図書

○「荀子」荀況著竹岡八雄・日原利国訳
(「中国古典文学大系第3巻「論語 孟子 荀子 礼記」訳者代表木村英一 昭和45年 平凡社)
礼論篇 第十九の一
「礼は何から起こったものであろうか。それは人が生まれながらにして欲望をもっており、欲しいと思ってもそれが得られないと、どうしてもそれを捜し求めるようになる。そしてその求め方に基準や限界がなく無制限に求めるとどうしても人と争うようになる。争えば平和な生活が乱される。乱れればますますどうにもならないようになる。昔の聖王はその平和を乱すことを憎んだ。だから礼儀を定めて秩序をはっきりさせ、そのうえで人々の欲望を助長し、人々の要求を満足させるようにした。欲望が絶大で物をとり尽くすようなことはさせず、その反対に物が少なすぎて欲望を枯れ竭(つく)すようなことも決してさせなかった。物と欲望とは互いに助け合って伸ばすようにさせた。これが礼の起源なのである。」(p350)
性悪篇 第二十三の一
「曲がった木は、矯木(ためぎ)をあて、蒸して矯正することによって始めて真っ直ぐになり、なまくらな刃物は、砥石にかけて磨くことによって始めて鋭利になる。このように人の生まれながらの性は悪い(粗野な)ものであって、先生の教化によって始めて正しく善いものとなり、礼儀によって始めて平和な世の中になるのである。もしかりに先生による教化がなければ、道理にもとり、乱暴になり、世の中は乱れる。
 昔、聖王は、人の生まれながらの性は悪い傾向性をもっているものであるから、そのままそれに従う行為をすれば、偏って不正になり、道理にもとり、乱暴をして世の中が平和にならないと思った。そこでそうならないために礼儀をつくり、法度(おきて)を定め、それによって人のうまれながらの性や情を矯(た)め治して正しいものにし、またそれによって生まれながらの性や情を馴らし、善い方に変化させるように導いた。これらはみな世の中が平和になり、道理にかなうようにさせるためである。現代においても、先生の教えに感化され、学問を積み礼儀に従った行為をする人を君子といい、生まれながらの性情のまま勝手きままな行為をし、礼儀にたがう者を小人というのである。このようにみてくると、人の生まれながらの性は、悪い傾向性をもつものであることは明らかである。その善いというものは努力して身に習得した偽(い)なのである。」(p381) *「偽」=人為、努力のこと
性悪篇 第二十三の三
「だから昔聖人は、人の生まれながらの性は悪い傾向性をもっているから、それをそのままにしておくと、かたより正しくなく、道理にもとり乱暴して平和がこわされると思い、これをただすために君主の権勢を大きくして人々を治め、刑罰をきびしくして人々の悪事を禁じ、天下の人々がすべて平和で善に合致するようにさせたのである。これが聖王の政治であり、礼義の教化というものである。今ためしに君主の権勢をなくし、礼義の教化をやめ、法律による政治をやめ、刑罰による禁止をやめ、立ったままぼうっと何もしないで、天下の人々がどうするかをみてみよう。このようであれば、強い者は弱い者を迫害して掠奪し、大きい集団は小さい集団に乱暴して押しつぶし、僅かの間に天下は、道理にもとり混乱して、滅亡することになるだろう。このようにみてくると、人の生まれながらの性は、悪い傾向性をもっていることが明らかである。善いのは努力して得た偽(い)なのである。」(p384)

○「韓非子」柿村竣訳((「中国古典文学大系第5巻「韓非子 墨子」訳者 柿村竣 藪内清 昭和43年 平凡社)
「第七 二柄(にへい)篇
  君主は、賞・罰の二つの柄(え)を掌握し、臣下を私心なく動かすべきことを説く。

 賢明な君主が、その臣下を指導し制御する方法には、二つの手段(二柄)があるだけだ。二つの手段とは刑(罰)と徳(賞)である。さて何を刑徳というかというと、罪人を殺すのを刑といい、〔功あるもの〕を賞するのを徳というのである。およそ人臣たるは、刑罰を畏れるとともに恩賞をよろこぶ。ゆえに、君主が刑徳の手段を自分で用いるならば、群臣は君主の刑の威力をおそれ、〔罪をさけ、〕恩賞の利得にあずかろうとして〔善事につとめるものである。〕賞罰はこのように効果があるものだから、世の姦臣は君主が直接に刑徳を行わないようにしている。自分のにくむものは、〔巧みに君主にへつらって〕これをもらい受けて罰し、愛するものは、〔巧みに君主にへつらって〕これをもらい受けて賞しようとする。いまもし君主が、賞罰の威力・利得を自分より出さないで、臣下のいうままに動かされて賞罰を行うならば、国じゅうの人民は、みなその姦臣をおそれ、君主をあなどり、その姦臣のもとに集まり、君主をすてる。これこそ、君主が刑徳(賞罰)を失ったために起こったわざわいである。
 ……
 君主が臣下の姦悪をおさえようとすれば、刑名(形名と同じ。仕事・行為と言明・宣伝)をてらし合わせるべきであるというのは、言明と実行とが一致するかどうかしらべることである。臣下が〔ある仕事を計画し〕それについて意見を言う時は、その言のままに、その仕事をまかせ、もっぱらその仕事に成果があがることを求め、成果がその仕事に相当し、その仕事が臣下の言ったことに相当すれば賞し、成果がその仕事に相当せず、仕事がその言ったことに相当しなければ罰する。これが刑名をてらし合わせることである。それゆえ、群臣の言明が大きくて、成果が小さいものは罰する。それは、成果が小さいことを咎(とが)めて罪するわけでなく、成果がその言明にそわない点を罰するのである。また群臣の言明が小さくて成果が大きいものも罰する。それは成果が大きいのを満足に思わないわけではない、成果が言明に当たらない言行不一致の害が、成果が大きいという利益よりも甚だしいから罰するのである。
 むかし、韓の昭侯が酒によってうたたねしたところ、冠係りの役人は、昭侯が寒そうであるのを見て衣服を侯の体にかけた。侯は目をさまして喜び、近侍のものに「自分に衣をかけてくれたのは誰だ」ときくと、近侍は、「冠係りの役人でございます」と答えた。そこで侯は衣装係りと冠係りの両方の役人を罰した。衣服係りを罰したのは、その職務を怠ったと考えたためであり、冠係りを罰したのは、自分の職務以外のことに出しゃばったと考えたためである。もちろん侯とて寒さをいとわないわけではないが、職務以外のことをする越権の害が、寒さよりおそるべきものだと思ったからである。」(p25〜p26)

「第十三 和氏篇
楚の和氏の持っている名玉がなかなか認められないように、知術・能法の士も認められるのがむつかしいことを嘆いている。
  ……
 商鞅は、秦の孝公に教え、十軒・五軒を一組にし、告坐(こくざ)の制(各組互いに監視し、一人でも罪を犯したことを密告されると、その組が連坐する」を設け、詩経・書経等の古典を焼いて法令を明らかにし、権門勢家が内謁して誓願する道をとざし、公事に功労のあるものは、すぐ賞を与えて大事にし、本業を顧みないでうろうろと猟官運動をするものを取り締まり、農業にはげみ戦争に功あるものは、栄達させるように勧告した。孝公は、この商鞅の言を実行した結果、君主は尊く安泰で国家は富強となったが、八年たって孝公が死ぬと、商鞅は車裂(くるまざき)の刑に処せられた。
 さて。楚は呉起の言を用いなかったため、その国土は外国おり削られて乱れたが、秦は、商鞅の法を実行して国は富強になった。これから推すと呉起と商鞅の二人の言論は、ともに適切であった。それだのに、呉起の四肢を斬り、商鞅を車裂の刑に処したのはどういうわけであろうか。それは、大臣は法にしばられることをいとい、下層民は社会の秩序がよく治まっているのを好まないからである。」(p56・p57)

○「諸子百家」貝塚茂樹著(1961年 岩波新書)
  
平成29年02月11日作成  第121話