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  諸子百家の第一は孔子・孟子に代表される儒家です。儒学を元とし、孔子をまつり、先祖祭りをする宗教化したものを儒教といいます。儒家による戦国時代の収拾案は、周の時代の封建秩序の回復にありました。

孔子(前552年〜前479年) 
 孔子[前552年〜前479年] 春秋時代後半、山東の魯国に生まれました。本名は孔丘。孔子の子は先生という意味。字(あざな)すなわち元服後の名前を仲尼(ちゅうじ)。本名を呼ばれることはありませんので、仲尼というのが名前になります。52歳になってようやく、魯の定公に認められて宰相代行・司法大臣となりましたが、保守派の上級家臣に怨まれ失脚しました。その後、諸国を遍歴して遊説しました。69歳で故国に帰り、学園を創設して74歳で没するまで弟子の教育に当たりました。
 孔子は、晩年弟子3000人と呼ばれる門弟がいたとされています。実際は70人くらいの弟子を教育していたのではないかと推定されす。孔子の死の翌年、魯の哀公が孔子の旧居を廟に改築し、定期的に祭りが行われていました。孔子廟の始まりです。漢の董仲舒(前176年頃〜前104年)の献策で儒学は漢の国学、つまり基本理念となりました。さらに、隋唐の時代に始まった科挙は、宋[960年〜1279年]の時代に完成しました。この高級官僚を選定する国家公務員試験の受験科目として孔子の言葉を集めた『論語』、孟子の言葉を集めた『孟子』などの「四書五経」が必須科目となると儒学は、ひろく中国の知識階級に普及しました。 「五経」というのは、『詩経』(中国最古の詩集)、『書経』(堯舜から夏・殷・周の帝王の言行録を整理したもの)『礼記』(行事関連の一切の礼儀、祭文、神具等)、『易経』(殷以来の卜辞の集大成)、『春秋』(魯の年代記)を指します。いずれも孔子以前の書ですが、孔子が編集したものとされています。
 「四書」というのは、『論語』と『孟子』、孔子の弟子で孫の子思が著した『中庸』『大学』を指します。『中庸』『大学』は『礼記』を抜粋編集したものです。高級官僚をめざす受験生は「四書五経」の62万字をすべて暗記しなければなりませんでした。科挙が廃止されたのは1905年のことですので、すっかり中国に根付いていたことがわかります。
 漢代以降,儒教が国教となり孔子の地位が高まるにしたがい,歴代皇帝の手厚い庇護と崇敬を受け,孔子の旧宅跡に孔子廟は、現在にいたるも存続しつづけています。
 更には孔子に関する記録も確り残っていてユリウス暦になおすと、生まれたのが前552年10月9日、亡くなったのが前479年3月9日のこととされています。

 孔子は、政治家としての側面と弟子たちを国家公務員に推薦する人材を育てる教育家としての側面がありました。
 魯国の始祖は、周王の弟で周の建国を助けた周公旦でした。また、孔子は武士階級(士)の家に生まれましたが、幼くして両親を失い苦労の絶えない青少年期をおくったようです。しかし、祖先は宋[前1100年頃〜前286年]の君主の末裔であり、この春秋時代の宋は、殷の最後の王紂王の兄の封じられた国です。つまり、孔子の祖先は殷の王室に連なる誇りをもっていました。身分秩序を重んじた周の封建制度を理想としていました。
 君主は君主らしくふるまい、家臣は君主に忠誠をつくして仕える。そうすることによって周王朝の初めのように秩序が確立して天下は太平になる、というのが儒家の天下統一の方策です。
 言い換えると「修身斉家治国平天下」(『大学』の言葉)という順序を確立すれば、天下が統一されるというのです。まず、ひとり一人が身を修めること。儒学の基本的政治理念の要約です。さらに、基本となる修身は、「仁」と「恕」の人になることが理想でした。

「論語」の里仁篇に
「子曰わく、参よ、吾が道は一(いつ)以てこれを貫く。曽子曰わく、唯。子出ず。門人問いて曰わく、何の謂(いい)ぞや。曽子曰わく、夫子の道は忠恕のみ。」
 先生が曽子をよんでいわれた。「参よ。自分の道は一本を通してきたのだぞ」曽子がこたえた。「わかりました」
 先生が座を立たれたあとで、門人がたずねた。「大先生のおっしゃったのはどういう意味ですか」
 曽先生がいわれた。「先生の道は忠恕、つまりまごころとおもいやりとにほかならないのだ」

 衛霊公篇に
「子貢問いて曰わく、一言にして以て身を終うるまでこれを行なうべき者ありや。子曰わく、「それ恕か、己の欲せざる所を人に施すこと勿かれ。]
 子貢がおたずねした。「ほんの一言で死ぬまで行なえるものがありますか」
先生がいわれた。
 「それは『恕』だろうね。自分にしてほしくないことは、他人にしてはならないということだ。」(貝塚茂樹による)
                            
 更には、「仁」の実践の形として「礼」を重視しました。「礼」は、神や先祖を祭る作法や人と人との礼儀作法を含む言葉でした。人と人との礼儀作法の中で「孝悌」も重視しました。親や目上の人、兄弟姉妹の順序も大切な守るべき規範でした。前二世紀の前漢の武帝以来儒学が国家の指導理念とされたことの理由です。
 臣下(家臣)は主君(王・皇帝)に仕える秩序こそ身を修める基本でした。
 身を修めた「仁」「恕」「礼」の君子(人格者)ばかりの家庭では家が整い(斉家)、道徳心があり勤勉な人の集まった斉家ばかりの国は、国家の秩序も整い、国が繁栄します。
富国強兵の実現です。このような治まった国(治国)になれば、他の国も支配できる強国が実現し、天下を平ら(平天下)にすることが出来ると説くのです。「国」は、各地域の国。「天下」は、中国特有の概念で地上のすべての国々を指します。
 「仁」とは「人を愛する心」、「恕」とは、「人をゆるす心」つまり「他人に対する思いやりの心」を涵養することによって身を修めるのです。孔子は、この「仁」と「恕」を修めた人のことを君子と呼びました。君子とはどういうものかという孔子の言動をまとめたものが「論語」です。
 
  孟子(前372年頃〜前289年頃)
  孟子[前372年頃〜前289年頃]は、魯の隣国鄒(すう)の戦国時代前半の人で、孔子没後約100年後の生まれです。孔子の弟子で孫の子思の門人に学びます。孟子の名を軻(か)と言い、字は子輿または子車といいます。孔子は、古代中国理想の君子とされる「堯」「舜」などの「聖人」として中国2500年尊敬され続けて来ました。孟子は、「聖人」次ぐ「亜聖(賢人)」の位置づけです。
 孟子は、孔子の説いた周の時代の身分秩序が守られた「仁」「徳」に基づく封建制度の下の政治を理想とし、王道政治を説きました。富国強兵策による権謀術数や武力による統治を覇道政治として否定しました。
 つまり、性善説にもとづき、君主が徳をおさめて「仁」の人となれば、自ずから国民は感化されて君主を慕うようになり、国が治まり天下が統一されると説きました。

 この孟子の思想から導かれたのが易姓革命説です。もし、君主が身を修めず「仁」「徳」の人でなければ、天(天地創造神)は、この君主(王家)を見捨てて新たな「仁」を身に着けた徳のある王(皇帝)に、新たに天下を任せる。つまり、天は、国の統治権を新しい君主(王家)に与えるというものです。この革命思想は、一方において、君主にとっては危険思想です。
 前漢以来儒学の修身と身分秩序を重んじる思想は、皇帝を戴く国家の秩序を守る安定統治に重要な役割を果たしました。王朝末期には、その王朝を滅ぼして新たな王朝を建てるための口実として活用されました。

 「論語」は、日本へは百済の王仁(四世紀末)に伝えられて以来「宇宙第一の書」と称えられて現在に至っています。遂には、江戸時代には儒学の一派朱子学が国学とされました。
 明治時代になり、欧米思想が流入し、モラルハザードを招いたときに、導入されたのが儒学の徳目をベースに作られた教育勅語です。教育勅語にまとめられた12徳目はいずれも重要な徳目です。軍国主義を招いたと悪宣伝されているようなものではなく、「仁「恕」「徳」の日本人をつくる役割を果たしました。西ドイツの復興を担ったアデナウアー首相の執務室に教育勅語が飾られていたのは有名な逸話です。
 儒学の根本聖典である「論語」は、今なお企業人、知識人の座右の書として生きつづけています。また、孔子が理想とした「仁」「恕」が日本人の心に根付いていると中国から亡命した文化人である石平などが認めています。
 一方、儒学が2000年にわたって定着しているはずの中国では、共産主義革命による中華人民共和国の建国(1949年)によって史的唯物論による悪平等の共産主義思想にとってわられました。さらに、文化大革命(1965年〜1976年)の伝統文化の徹底破壊と知識人の虐殺・徹底弾圧によって儒学の伝統は、まったく失われてしまいました。

参考図書

○「論語」金谷治訳注(岩波文庫 1963年)

1.子の曰く、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず。[為政第二の四]
 先生がいわれた、「わたしは十五歳で学問に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命をわきまえ、六十になって人のことばがすなおに聞かれ、七十になるとおもうままにふるまってそれで道をはずれないようになった。」
2.祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。子の曰わく、吾れ祭りに与らざれば、祭らざるが如し。[八侑第三の一二]
 御先祖のお祭りには御先祖がおられるようにし、神々のお祭りには神々がおられるようにする。先生はいわれた、「わたしは[何かの事故で]お祭りにたずさわらないと、お祭りしなかったような気がする。」
3.子の曰わく、朝に道を聞きては、夕べ死すとも可なり。[里仁第四の八]
 先生がいわれた、「朝[正しい真実の]道が開けたら、その晩に死んでもよろしいね。
4.子の曰わく、後生(こうせい)畏(おそ)るべし。焉(いずく)んぞ来者の今に如(し)かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦た畏るるに足らざるのみ。[子罕第九の二三]
 先生がいわれた、「青年は恐るべきだ。これからの人が今[の自分]に及ばないなどと、どうして分かるものか。ただ四十五十の年になっても評判がたたないとすれば、それはもう恐れるものではないものだよ。」
5.子の曰わく、賢を見ては斉からんことを思い、不賢を見ては内に自らを省みる。[里仁第四の一七]
 先生がいわれた、「すぐれた人を見れば同じようになろうと思い、つまらない人を見た時にはわれとわが心に反省することだ。
6.子の曰わく、徳は孤ならず、必ず鄰あり。[里仁第四の二四]
 先生がいわれた、「道徳は孤立しない。きっと親しいなかまができる。
7.子の曰わく、「過ちて改めざる、是れを過ちと謂(い)う。」[衛霊公第十五の十五]
 先生がいわれた、「過ちをしても改めない、これを[本当の]過ちというのだ。」
8.子の曰わく、躬自ら厚くして、薄く人を責むれば、則ち怨みに遠ざかる。[衛霊公第十五の十五]
 先生がいわれた、「われとわが身に深く責めて、人を責めるのをゆるくしていけば、怨みごと(怨んだり怨まれたり)から離れるものだ。
9.子の曰わく、「苟(まこと)に仁に志せば、悪しきこと無し。」[里仁第四の四]
 先生がいわれた、「本当に仁を目ざしているのなら、悪いことはなくなるものだ。」
10.子、四を絶つ、意なく、必(ひつ)なく、固なく、我なし。[子罕第九の四] 
 先生は四つのことを絶たれた。勝手な心を持たず、無理おしをせず、執着をせず、我を張らない。
11.子の曰わく、士、道に志して、悪衣悪食を恥ずる者は、未だ与に議るに足らず。[里仁第四の九]
 先生がいわれた、「道をめざす士人でいて粗衣粗食を恥じるようなものは、ともに語るにたりない。
12.子の曰わく、約を以てこれを失する者は、鮮(すく)なし。[里仁第四の二三]
 先生がいわれた、「つつましくしていてしっぱいするような人は、ほとんど無い。」
13.子の曰わく、君子は言を訥(とつ)にして、行(こう)に敏ならんと欲す。[[里仁第四の二四]
 先生はいわれた、「君子は、口を重くしていて実践には敏捷でありたいと、望む。」
14.子の曰わく、弟子(ていし)、入りては則ち弟、謹しみて信あり、汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しみ、行ないて余力あれば、則ち以て文を学ぶ。[学而第一の六]
 先生はいわれた、「若ものよ。家庭では孝行、外では悌順、慎しんでは誠実にしたうえ、だれでもひろく愛して仁の人に親しめ。そのようにしてなお余裕があれば、そこで書物を学ぶことだ。」
 *孝…よく父母に仕えること。父母を大切にすること。
 *悌…すなお。目上の人に心から仕える。年少者が年長者に、まごころをもって、尽くすこと。
15.子の曰わく、剛毅木訥、仁に近し。[憲問第一四の二七]
 先生がいわれた、「まっ正直で勇敢で寡黙なのは、仁徳に近い。」
 *寡黙…言葉数が少ないこと。
16.子の曰わく、其の位に在らざれば、其の政(まつりごと)を謀(はか)らず。[泰伯第八の一四・憲問第一四の二七]
  先生はいわれた、「その地位にいるのでなければ、その政務に口だししないこと。」
17.孔子に曰わく、君子に三戒あり。少き時は血気未だ定まらず、これを戒むること色に在り。其の荘なるに及んでは血気方に剛なり、これを戒むること闘にあり。其の老いたるに及んでは血気既に衰う、これを戒むること得に在り。[季子第一六の七]
  孔子がいわれた、「君子には三つの戒めがある。若いときは血気がまだ落ちつかないから、戒めは女色にある。壮年になると血気が今や盛んだから、戒めは争いにある。老年になると血気はもう衰えるから戒めは欲にある。」
18.子の曰わく、仁遠からんや。我れ仁を欲すれば、斯(ここ)に仁至る。[述而第七の二九]
 先生がいわれた、「仁は遠いものだろうか。わたくしたちが仁を求めると、仁はすぐやってくるよ。」

○「孟子」内野熊一郎著(明治書院 昭和37年)

1.孟子がいうに、「人には皆、他人の不幸を平気で見ているにはたえられない心があるものである。‥人には皆、他人の不幸を平気で見ているにはたえられない心がある。というわけは、次のようなことから分かる。今不意に幼児が井戸に落ちようとしているのを見れば、誰でも皆、はっとおどろきおそれ、痛みあわれむ心を起し、それを助けようとする。それは、助けることによって、その幼児の父母に交際を求めようなどとするためではない。また、同郷人や友達に人命救助の名誉をほめてもらいたいためでもない。また、助けなかったという悪評の立つのをにくんで、助けようとしたわけでもない。(それは、全く惻隠の心からした行為である。)以上のような事によって、これをよく観察してみると、惻隠の心は、人が生まれながらに、自然に持っているもので、惻隠の心のないものは人間ではない。同じように、不善を羞じにくむ心のないものは人間ではない。人にゆずる心のないものは人間ではない。正を是とし、不正を非とする心のない者は人間ではない。人の不幸を切にあわれに深く痛む心は、やがて仁となる萌芽であり、自己の不義・不正を羞じにくむ心は、義の萌芽であり、辞退して人に譲る心は、礼の萌芽であり、是を是とし、非を非とする心は、智の萌芽である。人にこの惻隠・羞悪・辞譲・是非の?つの心の萌芽が必ずあるのは、ちょうど人に両手両足の四体があるのと同じである。…[公孫丑章句上・6]
2.孟子がいうには、「人を愛しても、一向に先方からは親しまれないような時には、自分の愛がどこか足りないのではないかと、反省してみるがよい。人を治めて、一向にうまく治まらない時には、自分が治めて、一向にうまく治まらない時には、自分の治め方にどこか足りない所があるのではないかと、自分の知能を反省してみるがよい。人に礼を尽くしながら、向かうからは一向にそれに報いられないような時には、自分が相手を敬う心に何か足りない所があるのではないかと、それを反省してみるとよい。このように自分に行うところが、思うような結果を得ない時には、いつでも皆、その原因を自分にふりかえって反省してみる。このようにして、その身自体が正しくなったならば、天下中は必ずその人に帰服して来るもので、まだまだ、その身が正しくなっていないからである。詩経にも、『永く自分に天命に一致するように行ない、その結果、自分自身に多くの幸福を求めることが出来た。』とあるが、このことを云ったものである。」と。[離婁章句上・4]
3.孟子がいうに、「世の人が常に口にする言葉が有る。それは皆、『天下国家』ということを、すぐに言うことである。が、そもそも、そのいうところの天下というもののも本は一国に在り、(一国がよく治まらねば、天下も治まるはずがない。)また一国の本は一家に在り、一家の本は一身に在るのであって、いきなり天下国家などと言うのは、その本を忘れたあやまりである。天下国家を論ずるには、まず一身一家をよくふるかえって、よく治めてからのことである。」と。[離婁章句上・5]
*儒教の「修身・斉家・治国・平天下」の精神を示している。
4. 孟子がいうに、「大徳のある人物は、赤子そのままのような純真な心を、失わない者である。[離婁章句上・8]
5. 孟子が言う、「その(人として)してはならないことはなさず、その欲してはならないことは欲しない。君子の道といっても、ただこれだけものである。」と。[尽心章句上・17]
6.孟子がいうに、「人が行うべき道は、ごく手近な所にある。それだのに、わざわざそれを遠い所に求めようとしている。またなすべき仕事は、きわめてたやすい、平凡な事の中にある。だのに、それをわざわざ困難な中に求めようとしている。まことに考え違いの甚だしいことである。いったい世の中の人々が、自分の親を親としてよく親愛して事え、自分の目上の人を目上の人としてよく尊敬して事えたならば、それが孝悌の道である。この孝悌の道をよく行われさえすれば、天下はひとりでよく治まるのである。(天下を治めるということも、つまり人間日常の生活中、最も手近な、しかも容易な、親を親とし、長を長とするということから、始まるのである。)」と。[離婁章句上・11]
7.孟子がいうに、「大徳の人物は、赤子そのままのような純真な心を、失わない者である。」[離婁章句下・12]
8.孟子がいうに、「君子が一般の人にちがうところは、よく本心を存して失わないということんある。君子は仁の徳を修めて、本心を失わないようにし、礼の徳を修めて、本心を失わないようにし、礼の徳を修めて、本心を失わないようにする。一体仁者という者は人を愛するし、礼のある者は人を敬するものである。人を愛する者は、人の方からも常にこれを愛するようになり、人を敬する者は、人の方からも常にこれを敬するようになる。今ここに一人の男があって、その男が自分を待遇するのに無理非道をもってしたとする。そういう時に、君子は必ず自分で自身を反省するのである。即ち、「彼の人が無理非道をしむけるのは、自分が必ず不仁だからであろう。自分がきっと無礼だからであろう。そうでなければ、彼の人がどうしてこのような無理非道をしかけなどしようぞ。」と反省するのである。ところが、このように反省してみても、自分自身はやはり仁であり、いくら反省してみてもやはり礼であった。それなのに、やっぱり先方がその無理非道をしかけて来ることが前と同じようである時には、やはり君子は必ず今一度自分を反省するのである。即ち、「自分は仁であり、礼でもあるのだが、きっとそれを行なう誠心が足りないのであろう。」と。こうしていくら反省してみても、誠心がちゃんとある。しかもなお、先方の無理非道が前と同じようで、一向やみそうにない時には、今度はもうあきらめて、君子は言うであろう。「これは先方が無法な人間なのだ。このような無法な人間は、禽獣と何の択ぶところがあろうや。禽獣と同じである。禽獣だとすれば、どうしてわざわざ非難なぞしようぞ。非難する必要もない。全くほっておけばよいのだ。」と。以上のようなわけであるから、君子には一生涯を通じての心中の心配(憂)はあるが、一朝突然に加えられるようなそとからの患害などというものはないのである。すなわち君子にある憂えとするところのものは、それは次のようなことである。「舜も人であり、自分も亦同じ人である。だのに、舜は人の手本となるような事を天下に行ない示し、しかもそれを後世にまで伝えることが出来るようにした。それに比べて自分は、一向何も出来ず、郷党の一凡人であることをまぬがれえないようである。」ということで、これは真実に君子として憂うべきことである。ではこれを憂えるなれば、どうしたらよいであろうか。それはただ舜のような行ないをするだけである。こういうわけで、以上のような心中の憂いは君子にあるが、その外には、かの君子などには、外から来る患者というようなものは、それはないのである。というのは、君子は、仁でなければしないし、礼にかなっていなければ行なわない。だから、たまたま他から加えられる患害などがあっても、それは先方が悪いのであるから、君子はそれを以て自分の患害とはしないのである。」と。[離婁章句下・28]
9.…孟子は言った、「水にはなるほど、ほんとに東西の区別はないようであるけれども、しかし上下の区別はないであろうか。(上下の区別はあって、水は上の方に向かっては流れず、下の方に向かって常に流れていく。)人の本性が善なのは、ちょうど水が低い方へと流れるようなものである。人は本来善でない者なく、水は低い方へ流れないものはないのである。今かりに、水は、手でうってはねかえらせると、水しぶきは高くあがってひたいをとびこえさせることも出来るし、又その水の流れをせき止めて逆流させると、山の頂まで水を昇らせることも出来る。しかし、それはどうして水の本性であろうや。本性ではない。外から加えた勢いが、そうさせるまでである。人の本性も元来は善でありながら、時として不善をさせるようにすることができるというのも、その本性が、この水の場合と同じように、外からの欲望に動かされるためである。」と。
10.孟子が言うに、「人間のこころ、すなわち惻隠・羞悪・辞譲・是非の心、すなわち仁・義・礼・智の四端を拡充し存養しつくす者は、人間の本性のどんなものであるか、即ち本性は善であり、それは天から与えられていることを知ることが出来る。人の本性のどんなものであるか、そしてどうから出たものか(即ち善で、天から出たものであること)を知れば、その本性を与えた天の心がいかなるものであるかが分る。人間にそのあるままの心の芽ばえである惻隠・羞悪・辞譲・是非の心を失わないように努め、このような人間の善なる本性を養い育てていくのは、天の意志にかなったことで、つまり天に事えるということになるのである。ところで、人間には、寿命が短く若死にの人もあれば、長生きする人もあるが、そんなことには疑いをまたず、ただ一すじにわが身の修養に努め、そのあとは、殀寿どちらであろうとも、ひたすら天命をまつ、それが天命を十分に全うする所以である。」と。[尽心章句上・1]
11.孟子が言う、「その(人として)してはならないことはなさず、その欲してはならないことは欲しない。君子の道といっても、ただこれだけのものである。」と。
12.孟子が言うに、「何か事をなそうとするほどの者は、途中でやめてしまってはならない。たとえば、井戸を掘るようなものである。九仞の深さまでも井戸を掘っても、みずの湧き出す泉まで達しないで、掘るのをやめてしまったら、水は出ないから、それは井戸を棄ててしまったのと、おなじことである。」と。[尽心章句上・29]

○「孟子」金谷治著(1966年 岩波新書)
「孟子の考える王者と覇者とはどのように違うのであろうか。孟子はいう、『力を背景として仁政のまねをするものが覇者である。覇者になるには、従って大きな国土を地盤とする必要がある。徳によって仁政を行うものが王者である。王者になるには大きな国土による必要はない。殷の湯王は七十里四方の小国から興こったし、周の文王は百里四方から興こった。力によって人を従えているばあいは、人々の本心から従っているのではない。自分の力が足りないからのことだ。しかし、徳によって人を従えているばあいは、人々は心の底から満足して本当に従っているのである。孔子の門人たちが孔子に従ったようなものだ。*』
*公孫丑篇―孟子曰わく、力を以て仁を仮る者は覇たり。覇は必ず天国を有つ。徳を以て仁を行なう者は王たり。王は大を待たず。………』による。
 力と徳との相違が大切な点である。力の政治では結局心服は得がたい。すきがあれば反逆が企てられる。それでは安定した政権は得られない。体制を固めても固めても常に不安である。
いわゆる「千里〔の大国〕に以りながら人を畏るる者」(梁恵王下篇)である。覇者は、ともかくも仁政を表立てる点では、孟子の時代の一般の諸侯たちによりはなお取りえはあった。しかし、力つまり武力や経済力や君主の権力を第一の頼みしているかぎり、その限界は明白である。道徳による仁愛の政治は人々の心服をかちとり、何物にも破られることのない強固な結束を得るばかりか、さらにその結果を次第に拡大して自然に周辺を感化するものだといういのが、孟子の信念であった。「仁者に敵なし。」というのは、そのことである。」(p64~p65) 
        
○「中華文明の誕生」尾形勇・平勢隆郎著(「世界の歴史2」所収 1998年 中央公論社)
○「孔子 孟子」責任編集 貝塚茂樹(「世界の名著3」所収 昭和41年 中央公論社)
○「論語」貝塚茂樹訳(昭和48年 中公文庫)
○「中国聖賢のことば」五十沢二郎著(昭和61年 講談社学術文庫)
○「論語入門」井波律子著(2012年 岩波文庫)○「諸子百家」貝塚茂樹著(1961年 岩波新書)
○「私はなぜ「中国」を捨てたか」石平著(2009年 ワック)

平成29年01月30日作成 第118話