本文へスキップ
 中国における宇宙開闢の神を「盤古」といいます。盤古が生まれて1万8000年後、理想の皇帝である三皇五帝の時代を迎えます。
 三皇は、天皇(てんこう)、地皇、人皇、または、燧人(すいじん)、伏羲(ふくぎ)、神農(じんのう) または、 伏羲、女媧(じょか)、神農を指します。
中国5000年の歴史というときは黄帝より。4000年の歴史というときは夏王朝より数える。
 秦、漢の時代から三皇として位置づけられることになります。司馬遷の『史記』では、実在の帝王として五帝の記述から始めています。しかし、歴史書には目的があり、基本的には、『焚書坑儒』が目的で書かれるのが常ですので、三皇も余りに語呂が合いすぎている天皇、地皇、人皇を除けば、実在しなかったとも言い切れません。
 伏羲、神農は兄弟で、日本の古文書『竹内文書』には、不合朝五十八代天皇の時代に来日したとあります。上陸地点は、伏羲にちなんで富山県に伏木の港として今も残っています。
 伏羲は、易経の著者で、八卦を作ったとされます。神農は医療と農耕の発展に力を尽くしました。伏羲は易の神様、神農は薬の神様として日本でも祭られています。

 五帝は、黄帝、顓頊(せんぎょく)、帝嚳(ていこく)、堯(ぎょう)、舜(しゅん)をさします。顓頊(せんぎょく)、帝嚳(ていこく)、堯、舜は黄帝の子孫とされていますので、黄帝は、漢民族の祖して崇拝されています。現在の中華人民共和国も黄帝陵に定期的に政務報告しているということです。また、特に「堯」「舜」は、儒教によると理想の聖帝の時代で統治の模範とされました。

 「堯」の治世の故事成句があります。『鼓腹撃壌』です。「堯」がお忍びで、国民の様子を観察すると「国民がたらふく食べて腹鼓をうって、足を踏みならして泰平を喜んでいる」ということが分かりました。この故事にちなんで「良い政治が行われていて、国民が平和で幸せな世の中を楽しむさま」を『鼓腹撃壌』といいます。
また、『中国5000年の歴史』と誇っています。しばしば清(女真族)、元(モンゴル族)などの遊牧民族が中国で王朝を作りますので、5000年の歴史ということに疑義がありますが中国5000年の歴史というとき、この黄帝から始まる5000年を指します。黄帝を建国の祖として国威発揚する施策は、中華民国・中華人民共和国を通じて行われています。最古の文明であるメソポタミア文明に匹敵するが中国であると言いたいのではないかと思います。さらには、世界の中心は中国であるという自己主張です。
 五帝の最後の舜は、前2071年頃、禹に帝位を禅譲[子どもではなく徳のある人に帝位を譲ること]して、禹(う)より始まった世襲王朝が「夏」となります。4000年の歴史というときは、この「夏」王朝より数えて4000年という数え方です。

 夏王朝は、治水に功績のあった禹王から始まり前1598年頃第18代傑王の時に、殷王朝の湯王に放伐されます。禹は、五帝の一人顓頊(せんぎょく)の孫と記録されています。初期の首都は陽城です。長く実在が疑われていましたが、二里頭遺跡の発掘等により実在していたことが分かりました。

 殷王朝は、前1598年頃、酒池肉林の放縦に耽っていた傑王を徳のある湯王が滅ぼして始まったとされています。初期の都は亳(はく)です。殷の湯王は、五帝の帝嚳(ていこく)の子孫と記録されています。殷王朝の自称は、漢字のルーツである甲骨文字では「商」ですので、商王朝というのが正しいと思いますが、「殷」というのが一般的です。
 前13世紀第19代盤庚から殷最後の王である第30代紂王までの後期の都が殷墟です。まず、殉死者や青銅器、戦車などの副葬品をともなう多くの王墓が発見され、都城址は見つかっていませんでしたが、1980年頃に都城あとも発見されました。

 紂王は、炮烙の刑など恐怖政治を行い徳を失い、前1046年に周(西周)の武王によって放伐[武力で滅ぼすこと]されます。周(西周)の都は現在の西安付近の鎬京でした。鎬京には前771年まで都が置かれていました。

 中国では、王朝が交替することを易姓革命といいました。易姓とは、文字通り姓が易る(かわる)ことです。王朝が変わると姓が変わります。「夏」は、禹を始祖とする王家。
「殷」は、子姓です。「周」は、姫(き)姓です。王朝が変わると王家の姓が変わります。これが易姓です。
 「革命」は、命が革まる(あらたまる)ことです。天には意志があり、徳が高い人を王(皇帝)に命じます。天命として天下を託します。しかし、徳が失われ悪行非道な行為をすると天が別の聖王に天下を治めることを任せます。王朝の交代が起きるわけです。

 このようなストーリーで王朝が交替するということを正当化するのが史書であるということになります。
 悪徳非道で徳を失いながら王位にしがみついている王を、天命をうけて武力で前王朝を滅ぼし新王朝を開くのが「放伐」です。子どもや一族にではなく、王自らが徳の高い人に王位を譲るのが「禅譲」です。もちろん滅んだ王朝の一族は、大虐殺されるのが習いですので、自ら王朝交代を申し出ることはありません。そのような形をとるのです。

 「天」という概念は、日本語では「神」です。神は、徳を失った王の治世では、大洪水や干ばつなどの天変地異を起こします。天候の異常や天変地異なども神の戒告とされました。

 夏王朝の始祖の禹、殷の始祖の湯王、周の始祖の武王は、聖王として描かれています。
また、夏王朝の最後の傑王、殷の最後の紂王は、悪逆非道の王であるということにならないと王朝の交代はあり得ませんので、そのように史書では書かれるということになります。
 「酒池肉林」という言葉がありますが、傑王、紂王は、いずれも酒池肉林の宴を昼夜わかたず行ったということで人心を失い滅んだということになっています。
 連日、大きな池にお酒をため、焼肉のために豚肉を林のようにぶら下げて贅の限りをつくして人心を失ったから滅ぼされたとされているのです。もちろん、美女を侍らせて日夜愛欲にふけるという悪口も必ずなされます。紂王は忠告する聖人を殺して内蔵を出して観察する。従わないものには油を塗った丸い銅の柱を橋に見立てて火であぶって渡らせるという「炮烙の刑」ということをしたということも書かれてあります。
 この易姓革命という考え方は恐ろしい考え方です。滅んだ王朝は、悪逆非道の限りをつくしたので、滅んだのだという決めつけです。

 日本は滅んではいませんが、日中戦争で負けて、中国から退かざるを得なかったのは悪逆非道を尽くしたからだということになります。南京大虐殺などを含めて悪逆非道を尽くしたのが日本であるという捏造の歴史が正当化され、あたかも真実のように語り続けられるのです。中華思想に染まっている韓国の歴史観も同じです。日帝35年の支配という言葉にそのことが読み取れます。
 中国は歴史の国といわれ、あたかも真実の歴史を編纂してきたと日本では錯覚されていますが、司馬遷の『史記』などをはじめとして、歴代の王朝は前王朝の悪口をかきつづけているのが、歴史の国の歴史書の真実です。 

参考図書

○「私はなぜ「中国」を捨てたか」石平著(2009年 ワック株式会社)
「皇室をもつ日本人の僥倖
 もちろん、皇室の永続性は皇室だけのためにあるのではない。
 まさに、万世一系の皇室があるからこそ、日本はわが中国がかつて経験したような「易姓革命」という名の王朝交代を必要としないのである。それゆえ日本民族は、わが中国の祖先たちが王朝交代のたびに体験しなければならなかtった、長期間の戦争と動乱と殺戮の悲運を免れているのである。
 そして、日本民族が存亡の危機に瀕した時、かけがえのない救世主としての役割を果たしてきた。日本が西欧列強の植民地になるかもしれない危機を救った明治維新は、まさに天皇の錦旗を掲げた「王政復古」であった。大東亜戦争の終戦の時、昭和天皇による詔勅一つで出口のない戦争状態が収拾され、「万世の太平」が開かれたのである。
 超越的な存在としての無私無欲の皇室を持つことは、まさに日本民族の幸運であり、日本歴史の僥倖なのであろう。
 中国人の私は羨ましい思いで日本の歴史を眺めつつ、一人の「愛日主義者」として日本の皇室の天地長久と、日本民族の永遠の繁栄を願いたい気持ちである。
 そして、今から思えば、皇室の存在を含めた素晴らしい伝統を持つこの美しい日本に来たことは、まさに私の人生にとって、最大の幸運と僥倖であった。この日本こそ、多くの心の受難を体験してきた私の魂がたどり着いた安心立命の地である。
 もし、古人に倣って「遺偈」でも書くとすれば、詩才のない私は現代の普通の日本語で、次の一言だけを言い残したい。
 「この日本に来て良かった!」」(p236~p237) 
○「古代殷帝国」貝塚茂樹編(みすず書房 1987年新版)
○「長江文明の発見-中国古代の謎に迫る-」徐朝龍著(角川選書290 平成10年)
○「中華文明の誕生」尾形勇 平勢隆郎著(「世界の歴史2」所収 中央公論社 1998年)
 
平成28年08月03日作成  平成29年01月30日最終更新 第116話