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高校生のためのおもしろ歴史教室>世界史の部屋

29.クシャーナ朝と仏教の革新

 前180頃アショカ王死後約50年でマウルヤ朝は滅亡した。分裂状態が続いたあと、現在のアフガニスタン北部を支配した大月氏国(前2世紀後半〜後1世紀初)の諸侯であったイラン系のクジュラ=カドフィセスが、クシャーナ朝(1世紀〜3世紀)を立て大月氏国を滅ぼした。クシャーナ朝は、バクトリア地方を支配下におき、南下してインダス川流域に進出し、パンジャブ地方をも領有するようになった。
 第2代の王はヴィマ・タクト、第3代の王はヴィマ・カドフィセス、第4代の王が有名なカニシカ王(在位AD130年〜170年頃)である。 
クシャーナ朝の首都プルシャプラのあるガンダーラ地方でキリスト紀元(AD)50年頃初めて仏像が作られた。
  カニシカ王は、ガンダーラ地方のプルシャプラ(現在のペシャワール)に都を於き、西は中央アジア・イラン地方、東はガンジス川龍流域にいたる北インドを領有するクシャーナ朝の全盛時代を築いた。仏教の保護者としても知られる。

 カニシカ王は、中国や日本の仏教徒の記録では、上座部仏教に変わる大乗仏教を支持し、カシミール地方に仏教学者500人をあつめ、大乗仏教の経典を整理する第4回の仏典結集を行ったとされている。
 
 その後、大乗仏教は、サータヴァーハナ朝の保護下で活躍したナーガルジュナ(龍樹)[150年頃〜250年頃]やガンダーラ地方出身のバスバンドゥ(世親)[400頃〜480年頃]によって教義の基礎が確立された。

 サータヴァーハナ朝(前230年頃〜後220年頃)は、古代ローマ帝国との交易で繁栄した。また、バラモン教を重視したが、仏教やジャイナ教も保護した。

 上座部仏教は、出家者を重んじ出家者の自力救済を目的とするのに対して、広く万人の救済を約束する菩薩信仰を基とするのが大乗仏教である。菩薩とは、ブッダ(サトリを開いた者・解脱したもの)に成りたいと誓願し、全ての人を平等に救済することを通じて自分も救済されようとする修行を積む者である。この菩薩の慈悲にすがって救済されようとするのが菩薩信仰である。観世音菩薩、弥勒菩薩などを信仰する。
 菩薩信仰の中心に位置する観世音菩薩は、サンスクリット語でアヴァローキテーシュヴァラ。 岡田茂吉によると、「華厳経に、補陀洛山に観世音菩薩あり、善財童子等大慈悲経を説かれるのを聞いて居られた。」とある。また、善財童子は、「釈尊のことである」と述べている。チベットの首都ラサにあるポタラ宮もこの観世音菩薩が大慈悲経を説かれた観音の住まれる浄土であるサンスクリット語のポタカラ(補陀洛山)にちなむ。
 弥勒菩薩は、釈尊の実在の弟子で、衆生を救済することを願う修行者。サンスクリット語でマイトレーヤという。 現在は、兜率天という霊界で修行していて釈尊入滅後56億7千万後の未来に下生(この世に生まれる)して衆生を救うという。古い経文では釈尊滅後3000年後に下生するとある。
  「大乗仏教、非仏教説」というのがある。仏教とは、仏の教え。つまり、釈尊の説いた教えという意味である。そうであるならば、大乗経典は、4万8千巻あるという。その全てを釈尊が説かれるはずが無いというのは事実であろう。 

 バクトリア地方は、現在のアフガニスタン北部、ウズベキスタン、タジキスタンなどからなる古代地名で、アレキサンダー大王の東方遠征の結果、ギリシア人が住み着き、ギリシアの神々の神像が作られていた。アレキサンダー大王の部下であるセレウコスの王朝の支配下にあったが、前250年頃バクトリア王国として独立し前150年頃大月氏国に滅ぼされている。
 仏教徒は、始め、釈尊の像(仏像)を作るという発想はなく、釈尊の足形の彫刻や、釈尊の遺骨を祀ったストゥーパを通じて釈尊に拝礼していた。ストゥーパを日本的にアレンジしたのが、日本以外何処にもない木造の三重の塔や五重の塔などのお寺の仏塔である。仏教徒は釈尊滅後500年は、仏像をつくることはなかった。

 クシャ−ナ朝の領土内にあるバクトリア地方のギリシアの神像の影響をうけてカイバル峠を越えた隣のガンダーラ地方(現在のペシャワール地方) で初めて仏像が作られたと説明してきた。実際は、クシャ−ナ朝はシルクロードの要衝を押さえ、貿易の利益で潤い、東西の文物が集まる東西文明の融合する所が首都のあるペシャワール地方であった。つまり、仏教徒は、ガンダーラ地方で、ギリシア・ローマ美術の神像などを見ているうちに釈尊の姿を彫刻することに抵抗がなくなり、仏伝図で釈尊の姿を彫像した。仏伝図とは、釈尊の生涯を彫刻であらわしていったものである。そして、礼拝の対象として釈尊の像を彫像したということが真実であろうと推定される。紀元50年頃のことであった。

 大乗仏教のことを北伝仏教ともいい、クシャ−ナ朝の時代に初めて作られた仏像と共に、中国・日本に伝えられた。日本の仏教は、大乗仏教である。

 3世紀に入るとクシャーナ朝の勢力は、インドの支配権を失い衰退し、新興のササン朝ペルシアに320年滅ぼされた。

仏典結集 
年代 内容
第1回 釈尊入滅後すぐ   ラジギールに500名の弟子が集まり、釈尊の説法を確定し、暗唱し、口誦 で伝承される。仏典の編集作業を結集という。 
第2回 仏滅後100年   戒律に異議が生じたので、ヴァイシャーリーに700名の僧侶があつまり、再結集が行われる。第2回仏典結集以前の仏教を原始仏教という。 
第3回 アショカ王の時代[前3世紀半ば]   仏滅後200年 マウリヤ朝の首都パータリプトラで、アショカ王(阿育王)の支援の下、1000名の僧侶を集めて、仏典の結集が行われた。上座部仏教の経典がパーリ語で初めて文字化された。但、現在のパーリ語仏典は、5世紀前半に大乗仏教と共通する内容を意図的に排除したものとされている。
第4回  カニシカ王の時代[紀元2世紀頃]   [北伝仏教伝承]カシミール地方でカニシカ王支援の下、500名の僧侶が集まり、サンスクリット語で仏典の結集が行われ、大乗仏教の基礎が確立した。中国・日本に伝えられた仏教は大乗仏教である。衆生を救うとされる菩薩信仰や、ナーガルジュナ(龍樹)による空の思想など釈尊の説法以後多くの弟子達によって体系化されたものとされ、大乗仏教=非仏教説(「大乗仏教は釈尊の教えではない」)がある。    

参考図書

○「釈迦」ひろさちや著(春秋社 2011年)
 「仏教に大乗仏教と小乗仏教の二つがあることは、多くの人が知っている。しかし、その二つが正確にどう違っているかとなれば、その違いを知っている人は意外に少ない。じつは、大乗仏教は、釈迦の入滅後から四、五百年ののちである。
 この大乗仏教の徒は、自分たちの仏教をサンスクリット語で、"マハーヤーナ"と呼んだ。「大きな乗り物」の意である。なぜかといえば、自分たちの仏教こそあらゆる衆生を乗せて悟りの世界に導くことのできるものだと考えていたからである。
 それに対して、従来の仏教は、出家修行者というごく少数のエリートのみが救われる仏教であって、そこでは大勢の在家信者の救いは問題にされていない。大乗仏教の人たちは従来の伝統的な仏教をそのように批判し、それをサンスクリット語で"ヒーナヤーナ"と呼んだ。」(5〜6頁)
 「紀元前後のころ、インドの地において、その当時存在していた既成の仏教教団を批判して、仏教の革新運動を展開する人々が出てきた。この革新仏教の信者たちは、自分たちの仏教を「大乗」と呼び、既成の仏教教団を「小乗」と軽蔑的に呼んだ。その後、大乗仏教徒は自分たちの独自の経典をつくり、独自の教学をつくり、大勢の信者を獲得して、大きく発展した。その大乗仏教に影響されて、小乗仏教のほうにも変化が起きた。その結果、もはや小乗仏教とは呼べないものになった。その仏教をどのように呼べばよいのか?スリランカやミャンマーの人たちは自分たちの仏教を「上座部仏教」(テーラワーダ)と呼んでいるから、そう呼ぶのがいちばんいいだろう。」(6〜7頁)

○「古代インドの文明と社会」山崎元一著(「世界の歴史」3 所収 中央公論社 1997年)
○「遙かなるガンダーラ」(「ユーラシアシルクロード」C 小谷仲男・加藤久晴著 日本テレビ 昭和58年)
  
平成25年02月11日作成  第086話