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 マルクス=アウレリウス帝の後をついだコンモドゥス帝(在位180年〜192年)は、とんでもない暴君で、政治は腐敗し、側近に政治をまかせ、享楽の生活を送ったが、五賢帝の時代に整備された、統治体制は揺るがなかった。彼の治世に失望した側近達によって三回暗殺計画が進められ、192年末に遂に暗殺された。実に100年ぶりの皇帝暗殺事件であり、3世紀の危機の時代の始まりであった。
 
 この混乱を鎮めたのが、アフリカ属州出身のセプティミウス・セウェルス帝(在位193〜211)であり、以後4代5人の皇帝を輩出したセウェルス朝(193年〜235年)が成立した。
 カラカラ帝(在位211年〜217年)は、212年アントニヌス勅令により属州の全自由民にローマ市民権を与えた。市民権をもつと、ローマ市民として権利、つまり福祉を受ける権利などが付与される。これにより属州の自由民も兵士になることなくローマ市民権をあたえられることになった。兵士の供給がとまることにより高齢化が進み、軍隊の弱体化した。216年には1600人収容できる大規模施設であったカラカラ浴場をつくった。今日でいうスーパー銭湯兼スポーツジムであり、図書館も付属していた。
 また、共同統治の弟であるゲタ帝(211年)を暗殺し、ゲタ派の人びとを虐殺するなど暴虐の限りを尽くし近衛隊長に暗殺された。

 235年にセウェルス朝の最後の皇帝が暗殺されると、各地の軍に擁立された軍人皇帝が林立した。元老院が容認した皇帝だけでも、50年間(235年-284年)に26人が擁立された。特に238年は6皇帝の年と呼ばれ、6人の皇帝が擁立された。皇帝の多くが国境を守る軍司令官であった。結果として皇帝の権威が失墜、また帝位が頻繁に入れ替わるためほとんど内乱と変わらない状態が長期間続き、これによりローマ帝国は弱体化した。

危機の3世紀
カラカラ帝  211年〜217年  212年アントニヌス勅令にり属州の全自由民にローマ市民権を与える216年カラカラ浴場の完成 
軍人皇帝  235年〜284年  26名の皇帝が林立する。 
専制君主制(284年〜)
デオクレティアヌス帝   284年〜305年  304年〜305年にかけて、キリスト教徒に対して迫害をする。 
コンスタンティヌス帝   324年〜337年  副帝時代の313年ミラノ勅令によりキリスト教を公認する。 
テオドシウス帝   379年〜395年  280年アタナシウス派キリスト教を国教とする。292年キリスト教以外を禁止する。395年ローマ帝国が東西に分裂する。 
ロムルス=アウグストゥス帝  475年〜476年 ゲルマンの傭兵隊長のオドアケルにより西ローマ帝国が滅亡する。 

 284年に即位したディオクレティアヌス帝(在位284年〜305年)は、強力な統治体制を構築することにより、軍人皇帝時代を終わらせた。元首制を廃止して、ローマ市民が皇帝に対してペルシャ風の跪拝(ひざまずいて拝礼する)することを求めた。第一の市民(プリンケプス)という立場から、奴隷の主人(ドミヌス)という立場で国民を統治することとした。つまり、弱体化した帝国を束ねる手段として、ローマ皇帝は、現神(あらひとがみ)として神格化され、皇帝崇拝を国民に強要した。この体制を「専制君主制(ドミナトゥス制)」といい、前27年にはじまった元首制(プリンケプス制)と区別している。
 また、ディオクレティアヌス帝は、広大な帝国を4分割して統治するテトラルキアの制度(4分統治制)を導入した。皇帝は軍の最高司令官としての立場もあり、守勢に回ったローマ帝国の国境を守るために四方面にあたらなければならなかったことを示している。
 帝国を四分割し東の正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)、西の正帝と副帝が統治することとし、20年経つと正帝は引退する。副帝が正帝となり、正帝位を継いだ、それぞれの正帝が次の副帝を任命するという制度である。副帝は正帝の子が継承するという制度でないので、ローマの共和制の伝統を引いているいえるが、皇帝が軍の最高司令官という立場であってみれば、世襲に限定はできなかったというのが、真相である。
 ディオクレティアヌス帝は、自らは東の正帝としてトラキア(ブルガリア)・アジア(トルコからパレスティナに至る地中海沿岸)・エジプトを直轄し、さらに全帝国を統治した。305年病気を得て、引退し311年天寿を全うした。
 しかし、この制度は、複数の皇帝を認める制度に留まり、完全に機能することがなかった。以後395年にローマ帝国が完全に東西に分裂するまで、強力な皇帝が現れたときのみローマ帝国は一つに統一されることとなる。

 コンスタンティヌス帝(副帝在位306年〜/正帝324年〜337年)は、324年ローマの再統一を果たす。再統一の過程で、当時浸透していたキリスト教徒を味方につけるために戦陣のミラノで313年に勅令(ミラノ勅令)を発して、ネロ帝(在位64年〜68年)以来の棄教令を廃止して、キリスト教の信仰を公認した。
 コンスタンティヌス帝は、キリスト教を国家統一に役立てようとしたが、肝心のキリスト教自体の教義に分裂があり、激しく対立していた。教義を統一してローマ帝国の精神的支柱とするために、324年〜325年ニケーアに司祭、長老などを集めて公会議を開いた。このニケーア公会議では、キリストは人間であるとするアリウス派を退け、キリストは神の子であり、「父なる神と子なるキリストと聖霊は三つでありながら一体である」という三位一体説を正当な教義として認めた。
 三位一体説は、現在のローマ=カトリック、ギリシア正教、プロテスタント諸派(カルバン派、ルター派)などの根本的な教義の一つとなっている。
 この後も、公会議は開催され、正統と異端をきびしく分け異端を弾圧することにより、教義の統一を行っている。西ヨーロッパ世界のキリスト教であるローマ=カトリックでは、1517年のルターの宗教改革で、異端であるルター派が存在を勝ち取り、生き延びるまでは、異端とされた教義をもつ宗派は、他の世界(アジアなど)に活路を見いだすか、弾圧され虐殺されるかどちらかしかなかった。

 330年には、ローマからビザンティオンに遷都し「ノヴァ・ローマ(新ローマ)」と名付けた。彼の死後、コンスタンティノープル(コンスタンティヌスのポリス(都市))と呼ばれた。現在のイスタンブルであり、1453年に滅亡するまで東ローマ帝国の首都であった。
 332年には、コロヌス(農園で働く農民)の土地緊縛令を出して移動を禁止した。これにより、コロヌスは、土地に縛り付けられた隷属的な農民としての性格を強め、ヨーロッパ中世の農奴制の先駆となっていった。
 
 テオドシウス帝(在位379年〜395年)は、ローマ帝国を一つにまとめた最後の皇帝となった。
 380年ニケーア公会議で正統とされたアタナシウス派のキリスト教を国教とし、当時なお帝国内に力を保持していたアリウス派を弾圧し、アリウス派の司教を解任した。
 392年には、伝統的に信仰されていたローマの神々の祭祀を禁止した。ギリシアで行われていた古代のオリンピアの競技も異教の祭りとして393年を最後に中止された。

 395年テオドシウス帝は、死に臨んで帝国を分割し、2人の息子に分けたが、こののち東西のローマ帝国は、東ローマ帝国のユスティニアヌス帝(527年〜565年)に一時期統合される時期をのぞいて、再び統一されることはなかった。
 ローマを首都とする西ローマ帝国は、375年に始まったゲルマン民族の侵入の中、ゲルマン民族の傭兵隊長オドアケルによって、476年滅亡した。

 滅亡の外的原因としては、対外的な戦争による疲弊が挙げられる。ローマ帝国(西ローマ帝国)は、アジアの諸国特に、アルサケス朝ペルシア(パルチア) (前247年頃 - 228年)、ササン朝ペルシア(226年 - 651年)というイラン民族の国家との西アジアを巡る領土争いとゲルマン民族の侵入に対処する膨大な軍事力を維持するための経費と軍団の権力闘争により疲弊していった。
 外的な要因よりも直接滅亡に導いたのが、内部の疲弊であった。ローマ共和国の時代、質素倹約と堅実で勤勉な国民性により、世界の支配者になった。裕福になり、贅沢を覚え、ローマ帝国の本土であるイタリアの産業は空洞化し、基本的な生産の基盤は、属州となった。帝制の時代、一年の休日は75日にも及び、労働は、奴隷やゲルマン民族の移民に任せて、あれほど勤勉であったローマ市民は勤労を忘れることになる。奢侈に走り、風紀は乱れて、男性が化粧をするようになり、性の関係も乱脈を窮めた。これが更に国力を弱めた。
 更に、軍事費やさまざまな経費と皇帝の贅沢費を捻出するために、都市に重税を科し、都市の金持ちは田舎に引っ込み土地をコロヌス(隷属的な農民)耕作させ、自給自足の生活を初め、さらに、ゲルマン民族の侵入と移動によりすっかり高度に発達していた都市生活と経済活動、商業活動が破壊されてしまったことになった。これらが、ローマ帝国滅亡の原因である。
 
 国家の滅亡は、軍事力の圧倒的な差が無い限りは、内部崩壊によるのが主な原因であることは、古今東西変わらない。ローマ帝国の時代も現在も同じである。
 日本の将来について、カルタゴの滅亡と通じるものもあるが、現代日本の危機の現状を理解するにはローマ帝国の衰亡が参考になる。極端な話、多借金と食糧難による国家崩壊後の、日本民族の生き残りには、田舎に戻り農村で自給自足をすることが、必要ではないかと思えてくる。
 ローマの国民の精神的な荒廃を救ったのは、新興のキリスト教であったが、現在の日本の精神の荒廃を救う理念が求められている。雨後の竹の子のように新宗教が林立する所以である。

 コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国は、1453年イスラム教国であるオスマントルコ帝国の侵略により首都が陥落するまでつづいた。ヨーロッパ世界では、古代と中世の区切りを西ローマ帝国の滅亡した476年、中世と近代の区切りを1453年としていて、ローマ帝国の存在がいかに重要であったかがわかる。 

参考図書

○「ローマ帝国とキリスト教」弓削 達著(「世界の歴史5」河出書房新社 昭和43年)
○「ギリシアとローマ」村川堅太郎著(「世界の歴史2」中公文庫 1974年)
  
平成21年11月15日作成  第059話