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高校生のためのおもしろ歴史教室>世界史の部屋

19.「内乱の一世紀」の終結

 第一次ポエニ戦争で初めて獲得したシチリア島を属州(海外植民地)としたが、第三次ポエニ戦争が終わる頃には、スペイン、アフリカなど属州も増えた。これら属州は、国有地とされたが、元老院議員など有力者が借り受けて大規模農業をおこなった。もともとローマは農業国であったのであるが、属州から安い穀物や果物が流入し、ローマの農民は土地を失い貧困に苦しむことになる。更に、ローマ国軍は農民からなっていたので、ローマ国軍の士気はさがり、さまざまなところで敗北を期することとなる。
 このような状況を打破し、ローマ国軍を復古的に解決しようとする兄弟が現れる。ティベリウス=グラックスと弟のガイウス=グラッススである。前133年の護民官となったティベリウスは、元老院や騎士階級(大富豪)が独占して使用している国有地の使用制限を行い、土地を失った農民に再配分し、自作農を増やし、もって、この自作農からなるローマ国軍を再建しようとしたのである。ティベリウスは、元老院の反対を受けて、暗殺されてしまう。前123年に護民官となったガイウスは、さらに大胆な土地所有制限を行おうとしたが、元老院派に追い詰められて自殺してしまう。神聖不可侵とされた護民官であったグラックス兄弟が殺されてしまったのである。平民会の議長である護民官に代表される平民派と元老院を基盤にもつ閥族派の二者に分かれて有力者は争い、ローマは「内乱の一世紀」(前133年〜前27年)と呼ばれる危機を迎える。
 制度疲労という言葉がある。日本に於いても、徳川家康によって作られた完璧な自給自足の幕藩体制も、黒船来港という情勢の変化に耐えられなくなり、崩壊してしまう。その前に、支配階級の武士たちは、貨幣経済の発達について行けず、その統治機構も崩壊の寸前であった。
 そして、日本の再生を果たした明治維新体制の行き着く先も第二次世界大戦の敗北で崩壊する。
 アメリカ軍を中心につくられた日本国憲法体制も、成立60年を越えて、さまざまな矛盾と制度疲労を露呈している。子供たちに借金を残すだけであるとわかっていてもやめられない税金投入の公共事業。食糧自給率27%といわれるのに、商工業中心の拝金主義の体制も転換出来ないでいる事を見ても、いったん動き出した体制の転換の難しさがわかる。
 ローマは、その政治的天才で、何度もその危機を乗り切ってきたが、地中海世界の支配者となって、貧富の差が広がり、元老院中心の民主共和制という体制もいよいよ機能しなくなる。
 生き残るか、内部崩壊の後、侵略されて滅びるかの危機に立たされたのが「内乱の一世紀」と呼ばれる時代であった。

 グラックス兄弟の改革の失敗の後、ローマ国軍の再建は、マリウス(前157年〜前87年)という執政官によってなされる。農民兵による再建を諦めて、傭兵制による再建を図るのである。没落した農民や都市の貧民を給料によって雇い、言い換えると志願兵による軍隊をマリウスは編成したのである。
 これにより見事にローマ国軍は、その強さを回復した。しかし、傭兵制をいったん取り始めると、有力者は、私兵をあつめて権力闘争を繰り返すようになる。マリウス失脚後、スラ(前138年〜前78年)が終身の独裁官と成って権力をふるう。
 平民会を基盤(平民派という)とするマリウス派と、元老院を基盤とする(閥族派という)のスラ派は、お互いに宿敵を虐殺しあう。
 スラの引退後、閥族派のポンペイウス(前106年9月29日〜前48年9月29日)が、平民派のユリウス=カエサル(前100年7月12日〜前44年3月15日)と騎士階級(大富豪)のクラッスス(前115年〜前53年)と前60年密かに手を結び、ローマの政治を独裁することに成功する。この第1回三頭政治は、クラッススがパルチア(イラン)遠征で戦死したことにより崩壊し、ポンペイウスとカエサルの全面対決となる。
 元老院を牛耳ったポンペイウスは、ガリア(フランス)遠征をしていたカエサルに対して、武装解除して、ローマに戻るように命ずる。ローマの国境はイタリア半島付け根のルビコン河であった。武装解除して、単身ルビコン河を渡ることは、反逆者として命を失うことを意味していた。
 ルビコン河を軍隊を率いたまま渡ることは、祖国ローマに反逆することであった。ルビコン河を渡った後は、圧倒的な軍事力と権力を持つポンペイウスと戦って勝利するしか活路は残されていないのである。「ルビコン河を渡る」とは、後の引けない決断をすることを意味するようになる。
 カエサルは勝利し、海外に活路を見いだしたポンペイウスがエジプトで殺されてしまうことにより、カエサルの時代を迎える。
 カエサルは名文家でも知られ、「ガリア戦記」は、その文章の簡潔さと力強さで、後世の文章の手本とされている。また、演説にもたけていた。
 また、軍事的才能もずばぬけていた。エジプトを征服し、エジプトの太陽暦をローマにもたらしたのも彼であった。1年を365日と1/4日とした。1582年に現在世界中で用いられているグレゴリオ暦が採用されるまで、ヨーロッパの標準的な暦となった。グレゴリオ暦は、ユリウス暦を微調整したもので、現在用いられている。カエサルの誕生月は、”July”と英語で言うが、これは、ユリウス・カエサルのユリウス(英語でジュリアス・シーザーのジュリアス)にちなむものである。

グラックス兄弟の改革    前133年  ティベリウス=グラッススの改革 護民官 国有地の配分による自作農の創設 暗殺  
前123年  ガイウス=グラッススの改革 護民官 国有地の再分配案 自殺 
マリウスの兵制改革  前107年  自作農の没落によるローマ軍の弱体化に対応 傭兵制とする  
スラの独裁政治   前90年   平民派のマリウス派を打倒、元老院派のスラの独裁 
第1回三頭政治 前60年  元老院派のポンペイウス・騎士階級のクラッスス・平民派のカエサル  
カエサルの独裁  前45年〜前43年   インペラトル(軍司令官)・独裁官・執政官・元老員議長などを兼務し文武の大権を一身にもち事実上の独裁者となる。共和制から元首制への大改革を行う
第2回三頭政治  前43年  カエサルが遺言で養子としたオクタビアヌスとカエサルの部下であったアントニウスと部将のレピドゥスの3人による国家再建委員会  
 アクティウムの海戦 前31年   エジプトのクレオパトラと組んだアントニウスをオクタビアヌスは敗北させる。平和の回復。翌前30年プトレマイオス朝エジプトの滅亡。  
オクタビアヌスによる元首制 前27年   「内乱の一世紀」を収拾した、オクタビアヌスに元老院は、アウグストゥス(尊厳者)の称号を与え、元首制が始まる  

 カエサルは、もはや共和制によって祖国は統治出来ないことを認識していた。しかし、共和制の伝統は根強く、この共和制の官職を一身に持つことにより(終身の軍司令官(インペラトル)、終身の独裁官(ディクタトル)、執政官、元老院議長など)、事実上の独裁者となることに成功して、当時抱えていたさまざまなローマの矛盾を解決し国家の再建へのレールを引くこととなる。
 しかし、500年以上つづいた共和制の伝統は、根強く、共和派のブルータス達によって、前43年3月15日カエサル、元老院のポンペイウス像の足下で、暗殺された。しかし、ローマの世論は、カエサルを追悼し、ブルータスなどの共和派は、少数派として失脚し追放され、あるいは殺された。
 結局、カエサル暗殺による国家の混乱を収拾したのは、カエサルが遺言で養子としたオクタビアヌスとカエサルの部下であったアントニウスと部将のレピドゥスの3人による国家再建委員会であった。第2回の三頭政治である。
 結局は、制度疲労を興している元老院と執政官の体制を護っていては、ローマ今日を救うことは出来ないことが明らかになった。
 やがて、レビドゥスが、失脚したあと、アントニウスとオクタビアヌスが対決することとなった。
 オクタビアヌスは、エジプトのクレオパトラと同盟したアントニウスを前31年アクティウムの海戦で勝利し、クレオパトラの死によって前30年プトレマイオス朝エジプト滅ぼしてローマに平和を回復した。「内乱の一世紀」の集結である。ローマ共和国をリニューアルし救ったのは、カエサルとその養子のオクタビアヌスの天才によってであった。
 
 イギリスの歴史家のトインビーは、歴史を動かすのは、創造的個人であると喝破した。やはり、「内乱の一世紀」の歴史を省みるとき、国家を救い歴史を動かすのは、使命をもった創造的個人でないと無理ではないかと思わざるを得ない。もし、ローマにカエサルとオクタビアヌスが存在しなければ、ローマは混迷を極め、結局、外敵によって滅亡していたのではないかと想像する。
 前27年オクタビアヌスは、元老院よりアウグストゥス(尊厳者)の尊称をもらい、元老院名簿の筆頭に記される第一人者(プリンケプス)の称号で、元老院と共同統治という形で、元首制(プリンケプス制)を始めた。カエサルの失敗に学んだオクタビアヌスは、自ら皇帝にならなかったが、事実上の皇帝と等しい権力を手に入れた。ローマ帝国の誕生である。ローマはまたもや生き延びたのである。 

参考図書

○「勝者の混迷」塩野七生著(新潮社 ローマ人の物語T
○「ユリウス・カエサル ルビコン以前」 塩野七生 著(新潮社 ローマ人の物語W 1975年)
○「ユリウス・カエサル ルビコン以後」 塩野七生 著(新潮社 ローマ人の物語X 1976年)
  
平成20年08月26日作成  第054話