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 イタリア半島を統一した前270年の6年後、シチリア島のメッシーナからローマに救援依頼があった。シチリア島第一の都市シラクサからの攻撃を受けて、カルタゴを頼らずにローマを頼ったのである。
 伝説によるとカルタゴは、フェニキアの古代都市ティルスの植民市で、前814年に建国したとされている。ローマではラテン語でカルタゴのことをポエニと呼んでいた。第一次ポエニ戦争の頃のカルタゴは、地中海の制海権を握り強大な海軍力を誇っていた。さらに地中海一帯の商圏を握っている商業大国であった。それに対し、ローマは、海軍を持たず、農民が国民軍を形成する農業国であった。
 ローマは持ち前の勤勉さと実直さで、拿捕したカルタゴの軍艦を解体して、そっくりな軍艦を創設した。苦手な海戦を戦うためにカラスと呼ばれる橋を軍艦の装備し、軍艦をぶつけて橋を架け、海戦を船上の重奏歩兵の戦いに替えた。
 苦悩しながら、前241年、第一次ポエニ戦争に勝利し、シチリア島をローマ初の属州(植民地)として、地中海の制海権を握った。カルタゴは、莫大な賠償金と海外植民地シチリア島を失った。
 カルタゴは、大富豪の寡頭政治であり、和平派のハンノ一門と主戦派のバルカ一門があった。第一次ポエニ戦争を戦ったバルカ一門のハミカルの息子ハンニバルが、復讐を誓い、満を持して興したのが第二次ポエニ戦争である。
 第一次ポエニ戦争に敗北したハミカルは、スペインに新天地を求め、ここにバルカ一門の植民地を建設した。カルタゴ・ノバである。ハミカルの息子ハンニバルは、父の意志を対して、軍隊を養い、ローマへの復讐の機会を願っていた。
 29歳になったハンニバルは、前218年5月、歩兵9万、騎兵1万2千、象37頭と共に、カルタゴ・ノバを立ち、フランスとスペインの境目である、ピレネー山脈を越え、当時ガリアと呼ばれていたフランスを抜け、フランスとイタリアの国境であるアルプス山脈を越えて、ローマに侵入した。
 後世ナポレオンによって再現されることになる冬のアルプス越えをして、イタリア半島に達したハンニバルの軍隊は二万の歩兵と六千の騎兵に減少していたが士気はさかんであった。
 ハンニバルは、前218年から前203年にカルタゴに呼び戻されるまでイタリア半島を蹂躙し、特に前216年のカンネーの戦いでは、ローマ軍を完璧に打ちのめした。制海権をローマに握られていたので、補給もなくハンニバルの才覚でローマを震撼させ続けた16年であった。
 最後は、カルタゴ郊外で、ハンニバルの戦法を完全にマスターしたスキピオ率いるローマ軍に敗北して、ハンニバル戦争とも呼ばれる第二次ポエニ戦争は終結する。
 第二次ポエニ戦争に敗北したカルタゴは、海外の領土は全て失い、海軍を持つことを禁じられ、さらに、ローマの許可なしに対外戦争を禁じられることになる。その上莫大な賠償金を支払うことになる。
 しかし、驚異的な早さで賠償金を支払い復活したカルタゴであったが、隣国ヌミディアの侵略に対して自衛の戦争を始めたところで、約束を破ったとしてローマの叱責を受けることとなる。ローマは、内陸部への移動して、新市を作ることを条件として示したが、それを拒否され、ローマはカルタゴを滅ぼす軍を興すことになる。もはやローマの敵ではないカルタゴは、籠城し女子供まで戦ったが、最後は陥落し、徹底的に破壊されつくし地上からなくなってしまった。また、虐殺のあと残された住民5万人が奴隷となったといわれている。

第一次ポエニ戦争 前264年〜前241年 シチリア島の争乱にローマ、カルタゴの両者が出兵
ローマが海軍を創設し、勝利。シチリア島を属州とする。  
第二次ポエニ戦争 前218年〜前201年 カルタゴの将軍ハンニバルによるローマ侵略。
前216年カンネーの戦いでハンニバルの勝利。
前202年ザマの戦いでローマのスキピオの勝利。 
第三次ポエニ戦争 前149年〜前146年 多額の賠償金と近隣国との戦争を禁じられていた。武装多額の賠償金と近隣国との戦争を禁じられていた。武装解除された。経済的繁栄。隣国ヌミディアの侵略に対する自衛戦争を口実にローマに滅ぼされた。  

 立地条件からの必然かもしれないが、「剣を取るものは剣によって滅ぶ」という聖書の言葉があるが、ハンニバルの復讐心がカルタゴを滅ぼすこととなったしまったと言えないこともない。
 また、第二次ポエニ戦争後のカルタゴとローマの関係は、第二次世界大戦後の日本とアメリカ合衆国の関係に比較されることがある。同盟国といいながら、東京と沖縄などの主要都市に軍隊を駐留されて、いまもアメリカの占領下にあるといえる日本。そのことを日本人の多くが自覚していなくて、経済的繁栄に酔いしれている日本。第三次ポエニ戦争前のカルタゴに日本が似ているのではないかといわざるを得ない。カルタゴを滅ぼしたローマも今はなく、人類は、何を繰り返しているんだろうという思い持たざるを得ない。

 ローマには元老院が健在で多くの政治的な人材を輩出し、的確な政治により、国力を増していった。これに対して、カルタゴは最後まで、大商人の寡頭政治で、国家戦略を持たなかったことも現在の日本にカルタゴが似ているといわれる。
 カルタゴとの戦いに勝利したローマは、同じ年にマケドニアをも滅ぼし、地中海を「われらの海」とした。 

参考図書

○「日本人はいつ日本が好きになったのか」竹田恒泰著(PHP新書 2013年)

「◎教育・外交・軍事を変えれば国家が変わる―――――
 私たちはカルタゴの興亡の歴史に学ぶところが多い。カルタゴが滅んだ最大の原因は、戦後の縛りのなかで経済一辺倒に傾いたところにあると思う。カルタゴ人はとにかく商売には長けていたが、教育と外交と軍事を疎かにした。
 カルタゴでは教育は経済と商業が中心で、道徳や倫理を軽んじたばかりか、自国が歩んできた歴史をしっかりと教えなかった。その結果、カルタゴが大国としての責任を果たそうとせず、また、幾度もローマと戦ってきた歴史に学ぼうとしなかったことが、第三次ポエニ戦争を招いたのではなかろうか。教育を間違うと国が滅びることの典型である。
 そして、国民の興味が金銭に集中して、拝金主義・金銭至上主義に傾いたことで、経済は成長しても、近隣諸国と友好関係を築く努力を怠り、貿易相手国に恩恵を与えることをしなかった。しかも、軍事的には無関心で、いくら講和条約があるとはいえ、国際協力と引き換えに軍備を保持できるような働きかけもしていない。
 ある歴史家が記した言葉を紹介したい。

「カルタゴの歴史は文明の浅薄さと脆弱さをはっきり示している。それは彼らが富の獲得だけに血道をあげて、経済的な力のほかに、政治的な、知的な、倫理的な進歩をめざそう何の努力もしなかった、ということである」(J.Toutain ” The Economic Life of the Ancient World “ 1969 ‘ 前掲『ある通商国家の興亡―カルタゴの遺書』より)

 カルタゴは経済力のみを頼りにして国を切り盛りしようとした。たしかに、経済は力である。しかし、経済だけでつながる関係はかくも脆弱であることを、いまを生きる私たち日本人は学ばなくてはいけない。日本と中韓の貿易量がいかに増えても、信頼関係が築けないことは、この教訓から納得がいく。
 そして、カルタゴが教育と外交と軍事を疎かにしてしまったことは、国を滅亡させる三大要素になった。戦後の日本も、この三つを疎かにしてきたのではあるまいか。経済はカルタゴの強みのはずだったが、最後は弱みに変わってしまった。
 本書では、第三章でGHQによって教育が捩じ曲げられたこと、また第五章で憲法第九条の呪縛が、外交と軍事をおかしなものにしている点を述べてきた。日本は戦後の復興により経済大国の地位を得たが、もし今後も教育・外交・軍事を怠る状況が続けば、日本もいつかカルタゴのように滅びる運命にあると考えなくてはならない。(226頁1行〜228頁2行)

○「ハンニバル戦記」塩野七生著(新潮社 ローマ人の物語U 1973年)
  
平成20年08月22日作成 平成27年02月27日最終更新  第053話