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紀元前8世紀成立したポリスは、それぞれ30万と10万ともいわれる人口をもつ、アテネとスパルタといった超大国は例外で、普通の規模は100から1万の人口であった。その数3000ともいわれている。
 アテネは、ミケーネ文明崩壊後も独立を維持した「生え抜き」を誇っていたポリスであった。はじめ王政であったが、前1066年頃最後の王が戦死したあと、貴族による政治がはじまった。前8世紀貴族政治は全盛時代を迎えるが、地中海世界への植民活動による商工業の発達の中で社会は混乱した。
貴族、平民それぞれ裕福になるものと没落するものが現れ、対立が激しくなった。その中からソロン(前638年頃〜前559年頃、プラトンがアトランティス伝説を語ったと伝えているギリシア七賢人の一人)が現れ、激化していた貴族と平民の対立を調停し、財産の多い平民に政治に参加させることとした。財産政治という。しかし、これでも混乱は収まらずペイシストラトス(前600年頃〜前527年)が、前561年独裁権を握り僭主(せんしゅ)となった。社会の矛盾を解決し、アテネの黄金時代を迎える基礎を築いた。彼の死後、あとを継いだヒッピアスは暴君として追放された。この後も貴族と平民の対立がつづいたが、前508年のクレイステネスの改革により、平民の政治参加のシステムが整えられ、民主政治の時代となった。貴族の政治権力独占の時代から平民の政治参加への直接の理由は、誰が国を守る役割を果たしていたかによる。当初は、貴族のみが重装歩兵(高価な鎧と甲、槍などを装備している)として国防の担い手であったが、やがて、裕福な平民も装備が可能となったことによる。さらにアケメネス朝ペルシアの侵略に対してギリシア総力で戦った中で、アテネのもっとも貧しい人たちが船のこぎ手として参加したサラミスノ海戦の勝利がギリシアの勝利を決定づけたなかで、この無産市民の発言力が増し、市民による徹底した民主政治が行われるようになった。この時代の指導者がペリクレス(前495年頃〜前429年)である。一般成人男子全員からなる民会が、国政の最高機関としてすべてを決定していった。
アテネの政治の変遷  年代   指導者 
王政  前1066年頃まで   
貴族政治(最盛期)  前8世紀    
財産政治  前6世紀初  ソロン
僣主政治(独裁政治)  前6世紀中頃  ペイシストラトス  
民主政治  前6世紀末頃  クレイステネス  
 (直接民主政) 前5世紀中頃  ペリクレス 
衆愚政治       
 民主政治は、指導者の質により衆愚政治に堕する。ペリクレスの死後、民衆におもねる指導者がつぎつぎと現れ、民会でその主張を通し、政治は混乱し、アテネは衰退してゆく。民主主義のこわさはそこにある。現代のような代議員制であっても、指導者の質は、それを選ぶ国民の質に依存する。 
 国民がどのような基準で指導者を選ぶかである。
塩野七生によれば、イタリアの普通高校でつかわれる歴史教科書には
 「指導者に求められる資質は次の5つである。知力。説得力。肉体上の耐久力。自己制御の能力。持続する意志。カエサルだけが、このすべてを持っていた。」
とあるという。古代地中海世界でこのすべてをもっていたのは、ローマのカエサルとギリシアのペリクレスぐらいであるという。日本で求められるリーダーの条件は、決断力、実行力、判断力それと、倫理的で清廉潔白であること。決断力、実行力、判断力は、ヨーロッパのリーダーの条件としてはあたりまえのことであり、改めて取り上げることではないのであろう。
 日本の条件の倫理的で 清廉潔白は、不思議な条件である。リーダーと一般の人々と同列にあつかっている。一国の運命を担うリーダーに求めるものは、もっと大切なものがあるように思えるのだがいかがだろうか。一国の将来を担うのに道徳性や清廉潔白は、何の関係もない。清廉潔白であるに越したことはないが、政治に道徳性を求めることをやかましく訴えているマスコミは、経営学の基本からも外れている。リーダーの「強み」を生かすいうのが経営学の基本である。万能の人はいないというのが人間界の常識である。弱点をことさら騒ぎ立ててリーダーの地位から引きずりおろすことがマスコミの仕事なら、マスコミの目的は、清廉潔白だが何もなせない小人物を日本のリーダーにつけるために国民を扇動することにある。つまり、日本の進路を誤らせ、日本を滅ぼすために働いているのではないかと言わざるをえない。いかがなものであろうか。リーダーの資質とは関係ない欠点弱点を暴き立て、マスコミがこぞって日本の国益を考え、日本の将来を担うべき有能な政治家を失脚させていっているのではないだろうか。個人のプライベートなことや欠点はどうあれ、国家百年の計を立て、良い方向に導けるかどうかのみを主たる判断材料とすべきであろう。 その点、イタリアの歴史教育は、政治学者マキャベリを輩出しただけにポイントを押さえていると思うが如何ですか。
 古代アテネの歴史にもどる。徹底した民主主義のはて裁判も民衆に全面開放したなかで、国家に害毒を与える者という理由で、前399年にソクラテスは刑死した。衆愚政治に陥った民主政治に失望した弟子のプラトンは、優れた人物による独裁政治である哲人政治を提唱した。
 民主政治が最高の価値観とされるようになったのは、1789年のフランス革命からであり、約200年余の歴史しかない。唯一絶対神の掟をベースとした神政政治を理念としているイスラム諸国においては、ヨーロッパの民主主義は、デモクラシーの言葉どおり、デーモン(悪魔)の思想そのものかもしれない。民主政治を生かすのは、政治家ではなく、それを支える国民の意識による。政治に道徳を持ち込んだマスコミの近視眼的な主張も問題であろう。現代のような個人主義、拝金主義、規範意識の低下のなかで、そのような国民が支える民主政治は迷信であったという時代が来るかも知れないほどデメリットも多い。 偏狭な民主主義絶対の価値観を排除して、冷静に歴史を視るとき、軍事政権でも王政でも善政を敷いていた時代はある。江戸時代や鎌倉時代の軍事政権はどうであろうか。鎌倉時代、元の侵略を防ぎ、国を護ったのは、鎌倉幕府の執権率いる軍事政権であった。江戸時代、武装解除して平和なエコロジー文化を守ったのも軍事政権である江戸幕府であった。どのような体制であれその時代の制約のなかで、国民に幸福をもたらした政権を積極的に評価する客観的な目を養成してほしい。
(世界史 の部屋) 平成19年09月28日 第38話
  

参考図書

○「痛快!ローマ学」塩野七生著 (集英社 2002年)
○「ギリシアとローマ」村川堅太郎編著(中公文庫「世界の歴史」第2巻 1974年)
  
平成19年09月28日作成  第038話