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治承・寿永の乱で諸国の源氏の中で、最終勝者が源頼朝になったのは必然ともいえるものでした。天皇家三つどもえの争いの中で、京都の政治情勢を掌握する環境にあったことがまず挙げられます。

 頼朝は源氏の嫡流である義朝の嫡男でした。母は、草薙の剣を祀る熱田神宮の大宮司藤原希範の娘であり義朝の正室でした。その関係で、13歳の時、平治の乱で敗れて解官されるときには従五位下の右兵衛権佐という官職にありました。五位以上は貴族でしたので、軍事貴族の末端を担っていました。朝廷内にはのちの側近になる大江広元(政所初代別当)、三善康信(問注所初代執事)などの人脈もありました。特に三善康信は、伊豆の蛭が小島に頼朝が配流されている間20年にわたり月3回京都の情勢報告を行っていたとされています。

 次に、軍事貴族として朝廷を守護するという役割の自認に基づく行動規範をもっていました。

 頼朝は、1180年8月17日打倒平氏の挙兵を行いました。そして、10月7日に鎌倉に入り鶴岡八幡宮を遙拝しました。直ちに、鶴岡八幡宮の位置を移し、鶴岡八幡宮を天皇のおられる内裏に模しての都市作りを始めました。この鶴岡八幡宮の祭神は応神天皇でした。応神天皇は、15代天皇で天皇家の先祖神としての崇拝を受けていました。後に、鶴岡八幡宮は、源氏の守護神とされますが、これは後世の考え方です。頼朝はあくまでも、後白河上皇の意を受けて行動しようしていました。後世の考え方のように、武家が天皇政権を圧迫しようとしたのではありません。頼朝の下にあつまった武士達の思惑は別として、頼朝はあくまでも軍事貴族として「治天の君」たる後白河上皇のために朝廷の分裂を回避し、後白河上皇の下の平和を意図して行動していました。

 武士団の棟梁として期待されている役割も果たさねばなりませんでしたので、朝廷の公家政権とは別の幕府をつくるということになりました。
 
 頼朝は、文治の勅許(1185年11月28日)で諸国へ守護・地頭を置くことを認められました。守護は、国ごとにおかれ、その国の警察権・軍事権を司る役職です。地頭は、国衙領や荘園に置かれ、年貢の取り立てや現地の治安維持を任される役職です。摂関政治や院政の時代、押領使・追捕使が国ごとに置かれ軍事権・警察権を行使しました。押領使・追捕使の役割を果たすべく期待されたのが、守護でした。
 1189年1月5日には、正二位に昇叙しました。
 1190年権大納言任じられました。さらに右近衛大将に任じられ律令官制としては軍事貴族として最高官職を獲得しました。
 1192年には征夷大将軍に任じられました。
 1199年1月13日満51歳で事故死します。事故死は、暗殺ともとらえられています。

 鎌倉幕府は、1185年文治の勅許によって諸国へ守護・地頭を置くことを認められたことを持って実質的に成立します。
 そして、1192年征夷大将軍に任じられたことをもって名実ともに鎌倉幕府が成立しました。
 鎌倉幕府成立当初の官制は、鎌倉に頼朝の下に、侍所・政所・問注所が置かれました。
 鎌倉(中央)官制 設置年 初代長官   分掌  
侍所   1180年   和田義盛  頼朝と主従関係を結んだ御家人の統率。 
公文所(政所)  1185年  大江広元  一般政務。財政を司る。  
問注所   1185年  三善康信   訴訟や裁判を司る。
 また、地方には、守護(国ごと)・地頭(荘園・国衙領)が置かれました。頼朝は、武士の棟梁として、自分に従った武士達を御家人として、開発領主として先祖伝来の土地の所有を認め(本領安堵)、さらには、武功によって土地を与えるなどしました(新恩給与)。これを「御恩」と言います。その御恩に対して、奉公をもとめました。奉公は、鎌倉の危機に対してはせ参じて軍事的奉仕をするほか、平和時には、京都大番役として、京都の治安維持にあたる奉仕や、鎌倉にあって幕府を警護する鎌倉番役などのつとめがありました。この土地を介在した主従関係を封建制度といい、武家政権の基本的な権力基盤をなしていました。

 経済的基盤は、関東知行国と関東御領でした。関東知行国は、関東御分国とも呼ばれ、頼朝が国司を任命し、その収入を取得できる国で、多いときには9カ国に及んでいました。また、関東御領は、頼朝が本家・領家として支配した荘園と国衙領であり、平家没官領500カ所の荘園と国衙領や、源氏の本来の本領からなっていました。このことは、後白河院政の朝廷から認められてのもので、平氏政権との継続性が見られます。朝廷を支える警察権・軍事権を行使することを期待されてのことでした。鎌倉幕府は、京都の朝廷を無視しては成り立っていませんでした。京都の朝廷あっての鎌倉幕府でした。

 頼朝は、自分のライバルとなり得る源氏の一族の排除に努め、最後には自分の代官として平氏打倒に派遣した源義経・源範頼を粛正しました。1199年の頼朝の死の後、2代将軍として長男の頼家(在位1199年〜1204年)が後をつぎましたが、独断専行の気風がつよく、人望に欠け、頼朝のもっていた政務の権限は、外祖父(外戚)である北条時政をはじめ、当時の有力者13人の合議制で行われるようになりました。これに反発した頼家は、反乱を起こし、失脚し1204年に謀殺されました。跡をついただのは頼朝の次男の実朝(征夷大将軍在位1203年〜1219年)でした。しかし、実朝は1219年頼家の遺児の公暁によって暗殺され、公暁も殺されました。源氏の将軍は3代27年で断絶してしまいます。頼朝との子である頼家・実朝を護るべき妻の政子は、実家の北条家側についてことも一因でした。秀次一族を滅ぼした豊臣家の末路に重なる結果です。

 さて、3代将軍に実朝が任命されるにあたって、将軍を補佐する執権が置かれました。執権には、実朝の外祖父である北条時政が就任し、以後代々北条氏が就任しました。執権は、政所と侍所の長官をかね、将軍に代わる実権を持つことになりました。北条氏は、その地位を利用して鎌倉幕府成立当初の有力御家人を次々と滅ぼしていき幕府内で独裁的な権限をふるうようになりました。

  源平交代論というのがあります。平清盛政権(平氏)→源頼朝・頼家・実朝3代(鎌倉幕府・源氏)→北条氏14代(鎌倉幕府執権・平氏)→足利尊氏以下15代(室町幕府・源氏)→織田信長(平氏)→徳川家康以下15代(江戸幕府・源氏)と武家政権の担い手が平氏と源氏が交代していくというものです。 

参考図書

○「天皇と中世の武家」河内祥輔・新田一郎著(「天皇の歴史04巻」2011年講談社)

「後白河上皇を守れ
 後白河上皇を護れ―それが頼朝勢力のスローガンである。謀反人清盛を打倒して後白河を救い出し、清盛によって破壊された朝廷を元のように、後白河中心の朝廷に戻すことが彼らの目標である。彼らは自分自身を、朝廷のために、天皇のために起ち上がった「義兵」であるとみなした。 ・・・・・・
 鎌倉の八幡社
 十月七日、頼朝は八幡社を遙拝して鎌倉に入った。鎌倉には八幡社があった。それは海岸に近く、今の元八幡社がその遺地であるといわれる。そして早くもその五日後の十二日、頼朝はこの八幡社を北山の麓に移建した。これが今に続く鶴岡八幡宮である。
 さらに翌年には社殿が新しく造営され、翌々年(一一八三年)には社殿から海岸に至る直線の参詣路、即ち、若宮大路が造られた。このように頼朝は鎌倉入りと同時に、鶴岡八幡宮と若宮大路の、今も我々の見る独特の景観の原型を次々と創り出していった。
 鎌倉の八幡社は、一〇六三年に源頼義が石清水八幡宮から勧請して創祀したと伝えられる。頼義は頼朝の五代前の祖先である。祖先によって創祀された八幡社があるということ、そこに頼朝が鎌倉に引き寄せられた理由があろう。千葉常胤は鎌倉を「要害地」であり、「御曩跡(ごのうせき)」であるとして薦めたという(『吾妻鏡』)。鎌倉には頼朝の父義朝の館もあったとされ、先祖らのいろいろの縁もあるが、「御曩跡」といわれる第一は、やはりこの八幡社であろう。
 頼朝挙兵の時点の板東地方には、上総国・下総国・相模国などの国府に石清水八幡宮の別宮があったとみられるが、西国に比べれば、八幡社は極めて少なかったようてある。そのなかで、奇しくも頼朝の祖先が、鎌倉に八幡社を遺していた。それが頼朝勢力の本拠地は鎌倉でなければならない理由であろうと思われる。

 八幡神は応神天皇がこの世に現れた神と信じられた。つまり、天照大神(伊勢神宮)と並ぶ皇祖神(天皇の祖先神)であり、朝廷の守護神として信仰されていた。八幡神は特に天皇に密着した神である。これがその当時の八幡信仰であった。
 ところで、石清水八幡宮と鶴岡八幡宮を区別し、石清水八幡宮は朝廷守護の神、鶴岡は武神で武門守護の神、とする説をよく目にするが、そのような思想はこの後に生まれたものであり、鎌倉時代初期の思想ではない。また、八幡神を源氏の氏神とする説もよく目にするが、この氏神説は皇祖神としての本質を軽んじており、同じく後世の見方である。

頼義や頼朝にとって八幡神は自分の祖先神でもあるが、しかし、八幡神はなによりも天皇と朝廷の守護神であった。これを視点に据えなければならない。

 鎌倉の都市計画と鶴岡八幡宮
 頼朝はこの鎌倉の八幡社をそのまま継承したのではない。全く新しいものにつくり変えた。鶴岡八幡宮は今も鎌倉の中心であり、若宮大路は鎌倉の中軸である。この形は、頼朝の鎌倉入りからわずか五日後の、八幡社の移建によって決まったといえよう。つまり、頼朝は安房国で鎌倉を本拠地にすると決めて以来、進軍の間に鎌倉の街づくりの計画を練り、鎌倉入りと同時にそれを実行していったとみられる。この都市計画の基本方針は、八幡宮を中心に置く街づくりにあった。

 頼朝勢力の本拠地を造るとなれば、常識的には盟主頼朝の邸宅を中心に置く街づくりを考案することになろうか。しかし、鎌倉はそのような政治・軍事都市の形にはならなかった。以後、幕府(将軍御所)はつねに中心から外れた位置に置かれることになる。鎌倉は八幡宮中心の宗教都市という形に造られたのである。

 鎌倉の街は京都を模して造られた、とする説がある。鶴岡八幡宮は内裏(大内)に相当し、若宮大路は朱雀大路に相当する、と見立てるのであるが、これは鎌倉という街の本質を言い当てた見方であろう。

 鶴岡八幡宮が北端にあり、そこから南方にまっすぐ若宮大路がのびるという構図は、どう見ても、平安京がモデルであるというほかない。平安京には朱雀大路が不可欠であるからこそ、それを模して若宮大路が造られたのであろう。即ち、この板東の地に京都を再現することが、鎌倉の都市計画の基本設計であり、頼朝の狙いであった。それはこの武士集団が天皇に仕え、朝廷に仕える者であることの証しなのである。

 かくみれば、鶴岡八幡宮の位置づけと役割は明らかになろう。頼朝や武士は八幡宮に内裏を重ね合わせ、八幡神に天皇を重ね合わせて、八幡宮にはあたかも天皇がいるかのように感じようとしたのではないだろうか。天皇と共にあるという感覚を、彼らは求めたのではないか。

 鎌倉に後白河はいないし、その声は聞こえない。頼朝勢力の声も後白河には届かない。この情況の中で、後白河と頼朝勢力とを繋いでくれるであろうことを期待できるのは、八幡神のみである。八幡神の神意に適えば、後白河の心にも適うはずであるし、八幡神の加護があれば、頼朝勢力は後白河から忠節を尽くす武士として認められるであろう。
頼朝勢力にとって、八幡神は後白河に代わる存在であった。この信仰があれば、彼らは確信をもって行動することができるのである。」(71頁〜75頁)

○頼朝ゆかりの地(2017.2.27〜28訪問)
鶴岡八幡宮 源氏の氏神を源頼義が1063年源氏の氏神石清水八幡宮を 鎌倉の地に勧請、源頼朝が現在地に遷座。  十国峠付近にある日金山東光寺は、伊豆山神社の元宮。本尊の延命地蔵菩薩像は源頼朝の建立。
  伊豆山神社の縁起「走湯山縁起」に「伊豆山の地底に赤白二龍和合して臥す」とあり、赤龍は火、白龍は水を司るということで、十字に結んで熱海の温泉になったと言う。  末社の雷電社。光の宮の別名がある。祭神は雷電童子。火の神・火牟須比命(ホムスビの命)とも。政治を司り導く神として源頼朝を始め歴代の将軍家の崇敬が厚い。  頼朝は伊豆に配流された時、伊豆山神社に源氏の再興を祈願した。頼朝は、伊豆山神社で北条政子と逢瀬を重ねた。写真は頼朝と政子の願いかけ石。政子は婚礼の日に、伊豆山神社に逃げ込んで頼朝と結ばれたという史実がある。
 鎌倉にある源頼朝[1147.4.8~1199.5.13]の墓。島津家初代の忠久が頼朝の庶子であることから、江戸時代に薩摩藩主の島津氏が墓石を再建。  後醍醐天皇が北条執権屋敷跡に北条一族の供養のために1335年建てた宝戒寺。川を挟んだ裏手の山に北条氏の氏寺・東勝寺がある。 城塞を兼ねた北条氏の氏寺・東勝寺跡の奥にある北条高時[1304.12.2~1333.5.22]の腹切りやぐら。

○「武士の成長と院政」下向井龍彦著(「日本の歴史07」所収 講談社 2001年)
○「日本人のなかの武士と天皇」渡部昇一著(「『日本の歴史』第2巻 中世篇」所収 ワック 2010年)
○「院政とは何だったのか」岡野友彦著(PHP新書 2013年)
○「院政」美川 圭著(中公新書 2006年)
○「保元の乱・平治の乱」河内祥輔著(吉川弘文館 2002年)

平成26年06月13日作成  平成29年03月03日最終更新 第097話