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  鳥羽上皇が1086年に近臣政治をはじめ、近臣に源氏と平氏の武家を登用した結果、1156年の保元の乱が起こり、武家が武力で政権を左右するようになりました。源氏も平氏も先祖が天皇であり、軍事貴族として武士をまとめることができたのは、その貴種性
にありました。平清盛は、桓武天皇の11代目の子孫でした。のちに鎌倉幕府を開く源頼朝は、清和天皇の10代目の子孫でした。源家平家両家とも天皇に取り替わるということは、夢にも想定していませんでした。後白河上皇の近臣として政権を担う1165年から武家政権がはじまったといってよいと思いますが、1867年の大政奉還まで、700年武家政権がつづきが、足利義満、織田信長などを除いて天皇の地位に変わろうとしたものは、ほとんどいません。義満、信長は、天皇の地位を奪おうとしましたが、天皇の影の守護者がいるがごとく不思議と地位奪取の直前に急死してしまいました。

 1159年の平治の乱の結果、二条天皇の親政派が勝利を収めました。しかし、二条天皇の親政は、1165年の二条の死で終止符がうたれました。二条天皇の死後、後白河上皇が平清盛と手を組んで二条派を排除して院と天皇の権力闘争の勝者となりました。その結果、平氏一門及び家臣は、院の近臣の地位を独占したが故に、 日本全国66カ国のうち28カ国の受領を占めました。また、院の近臣の節度を越えて、清盛が太政大臣になったのをはじめ、一族が公卿(三位以上の上級貴族)となりました。平氏の政権維持の基盤は、受領(国司)としての収入と天皇一族との婚姻の結果継承した膨大な荘園と、日宋貿易の莫大な富にありました。
 二条天皇の後継であった六条天皇を退位させたあと、後白河上皇は、はじめ後継者と考えていた以仁王ではなく、高倉天皇を即位させました。そして、中宮(皇后と同格)に清盛の娘の徳子を立てて、皇位継承の提携相手として平氏を選びました。藤原摂関家から距離を置くという意味がありました。

 1177年鹿ケ谷事件が起き、後白河上皇の側近である西光と成親を排除殺害することにより、後白河上皇と平清盛の対立が顕著化します。平清盛が高倉天皇を担ぎ、後白河上皇を排除しようとします。
 これに対し、1180年、以仁王は父の後白河上皇を助け、自分が後白河上皇院政のもとで天皇になると称して、平家打倒の令旨(命令書)を出します。以仁王は、鳥羽上皇の皇女として膨大な荘園を継承していた八条院ワ子内親王の支援をうけていました。以仁王の独断ではなく、皇族の中にも、摂関家にも支持勢力がありました。しかし、三位の公卿であった源氏の源頼政などの支援を得ましたが、平清盛によって簡単に、制圧殺害されてしまいました。以仁王側にたった、藤原氏の氏寺である興福寺や奈良の寺社勢力の中心である東大寺を平重衡が焼き討ちしたことは、摂関家や寺社勢力を敵に回すことになり、平氏政権の衰退を早めました。さらに、1181年閏2月4日平清盛が病死し、優柔不断である平宗盛が、平家の総帥となったことは不幸でした。
 以仁王の令旨を受けて、源義仲、源行家、源頼朝など多くの源氏が平家打倒の兵をあげます。源平の争乱の発端も、天皇家の権力闘争にありました。院政か天皇親政かという争いの中で発生したことでありました。

 天皇家分裂による三つどもえの争いになりました。安徳天皇を戴く平氏政権、以仁王(死後は皇子の北陸宮)を戴く源義仲、源行家。以仁王の令旨を受けながら、早くから後白河上皇と繋がっていた源頼朝。頼朝の代官として弟の源範頼と源義経がいました。
 源義仲は寿永3[1183]年5月11日倶利伽羅峠の戦いで平氏を破り、7月25日平氏は都落ちしました。皇位継承の象徴である三種の神器を伴って6歳の安徳天皇を伴っていました。後白河上皇は、比叡山に逃れました。後白河上皇の院政のもと、三種の神器なしに8月20日に後鳥羽天皇が即位したことは、平家にとって打撃となりました。寿永4[1185]年3月24日、壇ノ浦の合戦で平家の滅亡と共に、安徳天皇が入水するまで、2名の天皇が並び立つこととなりました。

 源頼朝は、治承4[1180]年8月23日石橋山の戦いで敗北し、九死に一生をうる奇跡で生き延びました。奇跡的に復活をはたし、東国の武士団をしたがえ、10月6日に鎌倉入りをし、翌日源氏の氏神であり、応神天皇を祭祀している鶴岡八幡宮を遙拝し、鎌倉の地を本拠地として定めました。10月20日富士川の戦いで平家の追討軍を破ります。以後、源頼朝は、自らは鎌倉に籠もり、代官として弟の源範頼・源義経を京都・西国に派遣して戦いを続けました。
 寿永3(1184)年1月20日宇治川の戦いで源義仲は、源範頼・源義経に敗北し、北陸に逃れようとしましたが、翌日粟津の戦いで敗死しました。京都は、後白河上皇の院政のもと、源頼朝が警察権を掌握しました。

 平家政権に対して、1180年[治承4]年4月に以仁王が平氏追討の令旨を出してから、源頼朝の代官の源義経・源範頼によって1185年[寿永4・元暦2]年3月に平氏が滅びるまでの争乱を治承・寿永の乱と言います。1185年は、京都では改元されていて元暦2年にあたりますが、滅亡した平氏は、依然として寿永の元号を使用していました。

 1184年1月に源頼朝の代官源義経・源範頼が源義仲を敗死させたとき、安徳天皇と平氏は、神戸の福原にありました。1184[寿永3]年2月7日源義経・源範頼軍は、平氏の根拠地である摂津国の福原を守る陣の一つであるの一ノ谷の戦いに勝利し、平氏を瀬戸内海追い落としました。翌寿永4年2月19日、またもや平氏は讃岐国の屋島の戦いで敗れ、長門国の彦島に根拠を置くこととなりました。安徳天皇を伴っての困難な闘いでした。この間、後白河上皇は三種の神器の返還を引き替えに源氏との和解を平氏の総帥の平宗盛に呼びかけましたが平氏に拒否されました。そして、彦島を守る壇ノ浦の戦いで1185[寿永4]年3月24日ついに平氏は滅亡し、安徳天皇は祖母である二位の尼に抱かれて三種の神器と共に入水しました。このとき、三種の神器の一つである草薙の剣が海の底に沈み回収されませんでした。源義経は、三種の神器を確保するようにという源頼朝の命令をあまりよく理解していなかったようでした。頼朝と義経の意思疎通に齟齬を来すことになります。

 この治承・寿永の乱の最終勝者は、後白河上皇と連携した源頼朝でした。

『高等学校最新日本史」国書刊行会(平成6年)より。1180年4月の以仁王の令旨後、 1180年6月〜11月には、平清盛が福原遷都。8月源頼朝の挙兵、9月源義仲挙兵。1183年5月倶利伽羅峠の戦いで源義仲が勝利し、7月には源義仲、京都占拠、平氏都落ち。1184年1月粟津の戦いで源義仲が源範頼・義経に敗れ敗死。
 平安時代の東北地方は、蝦夷の地とされ日本海側に出羽国、太平洋側と秋田県地方を陸奥国置かれました。京都の政権に、帰属した蝦夷を俘囚といいますが、11世紀後半には、俘囚をルーツとする安倍氏は出羽国を、清原氏は陸奥国を支配していました。両者の争いを、前九年の役[1051年〜62年]、後三年の役[1083年〜87年]といい、源氏が武士の棟梁として頭角を現すきっかけとなりましたが、争いそのものは、最終的には安倍頼時の娘を妻とする藤原経清の子の藤原清衡が源義家の支援を受けて最終勝者となりました。
 こうして、東北地方一円を統一支配する奥州藤原氏の政権ができました。この政権は、摂関家や院政の任命する国司を受け入れ、自らは陸奥国や出羽国押領使に任じられたり、鎮守府将軍に任じられることにより、政権を維持しました。摂関家や政権を担う院(上皇)に対して、砂金や、駿馬などを献上することによって支配権を認めてもらっていました。 
 藤原経清は、摂関家の藤原氏をルーツを同じくする一族であったことが、藤原氏の氏寺の興福寺の文書によって確認されています。藤原清衡が後三年の役で勝利した1087年から源頼朝に滅ぼされる1189年まで、清衡・基衡・秀衡・泰衡四代100年にわたって繁栄を極めました。清衡が平和を祈願して造営した中尊寺の金色堂は、マルコ=ポーロが日本のことを「黄金の国」と記述した根拠であるとされています。源義家との関係から、義家から4代目にあたる義経を保護していました。義経は、奥州藤原氏の本拠地の平泉から源頼朝の挙兵に駆けつけました。そして、源頼朝に義経が排斥されると秀衡・泰衡がかくまったことでも知られています。このことにより源頼朝の怒りを買い、頼朝に滅ぼされました。この奥州藤原氏の滅亡は、蝦夷の民がようやく鎌倉幕府に組み入れられ、東北地方がようやく日本に組み入れられたことを示しています。奥州藤原氏の滅亡は、大和政権を作った弥生人の支配に抵抗し蝦夷とされた原日本人である縄文人の最後の砦が失われたことをも意味しています。

 日本史では「武者の世」となった保元の乱がおこった1156年を古代と中世の区分としています。

参考図書

○「平家物語 上」吉村 昭著(「21世紀少年少女古典文学館」第十一巻  2010年 小学館)
 「祇園精舎の鐘の音には、諸行無常の響きがある。
  栄えた者も、おごりたかぶれば必ずほろびる。それは、吹く風の前のちりのように吹きとんでしまう。まことにはかなく、それが世の習いなのだ。
  よい例が平清盛である。
  清盛の先祖は、桓武天皇の五男葛原親王で、孫の高望王のときに朝廷から「平」の姓をあたえられて皇族の籍をはなれた。そのため宮中に昇殿できない身分になった。」(7頁)
 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ。
  ・・・・
  まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人の有様、伝へ承るこそ、心も詞も及ばれぬ。
  其先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王、九代の後胤、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣が嫡男なり。・・・・
  国香より正盛にいたるまで六代は、諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をばいまだゆるされず。」(300頁・原文)

○「天皇と中世の武家」河内祥輔・新田一郎著(「天皇の歴史04」所収 講談社 2011年)
○「武士の成長と院政」下向井龍彦著(「日本の歴史07」所収 講談社 2001年)
○「日本人のなかの武士と天皇」渡部昇一著(「『日本の歴史』第2巻 中世篇」所収 ワック 2010年)
○「院政とは何だったのか」岡野友彦著(PHP新書 2013年)
○「院政」美川 圭著(中公新書 2006年)
○「保元の乱・平治の乱」河内祥輔著(吉川弘文館 2002年)
  
平成26年05月28日作成 第096話