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 1086年白河天皇(在位1072年〜86年)は、堀川天皇(在位1086年〜1107年)に皇位を譲り、みずから上皇(院)として院庁をひらき、天皇の父として政治の実権を握り、院政を始めました。
 
数字は天皇の即位順を示す。 白河天皇から後鳥羽天皇につづく、垂直の線を貫くのが子孫を後代につなげることのできた権威ある正統天皇とされた。 
 院が絶対的権力をふるった狭義の院政は、白河上皇(1086年〜1129年)・鳥羽上皇(1129年〜56年)後白河上皇(1158年〜79年・81年〜92年)と100年あまり続きました。広義の院政は、後円融上皇が1393年に逝去し、足利義満が「治天の君」としての実権を奪うまで続きます。
 摂関政治は、母方の祖父(外戚)という形で天皇を補佐し政治をおこなったものでしたが、摂関家の弱体化に伴い、天皇の父方にあたる上皇(退位した天皇)として実権を握りました。
 白河上皇は、国司の任免権を持ち、院の近臣として源氏や平家などの軍事貴族を国司に任命するなどして支配下におきました。国司の任免権を持つことにより、国衙領からの収入を確保しました。さらには、膨大な荘園は、摂関家よりも院と院の寵愛する皇女に寄進されるようになり、経済的基盤を固めました。院と皇女たちに寄進された荘園を誰が相続するかによって権力基盤が決まりました。また、北面の武士を組織して武士団を近習させました。
 院政は、直系の子孫を天皇とすることによって、天皇家の家長として権力をふるう体制です。摂関政治の時代は、天皇の下、上級貴族の合意で行われていた政治も、院の恣意的な判断にゆだねられることが多く、そのために院の近臣が独裁的権力をふるいました。
 院の下での天皇とその側近は、当然、親政(自ら政治をすること)を望みますので、院と天皇の権力闘争がつきませんでした。
 さらには、皇位が兄弟や従兄弟に継承されると院政をしき「治天の君」として絶対的な権力を握りことができませんでしたので、天皇や上皇(院)は、摂関家や源氏・平家を巻き込んで闘争を行いました。上皇(院)は、複数存在することがありましたが、天皇の父または、祖父、曾祖父のみが院政をしくことができました。

 院政は、上皇が専制的な権力をもちました。鳥羽上皇(院)は、摂関家をはじめ、上級貴族たちの支持を得ている崇徳天皇の皇子の重仁親王が、正統天皇になるべきであるという流れを止めて、寵妃の美福門院の意見に左右されて、近衛天皇、後白河天皇を即位させました。このことにより、崇徳上皇と後白河天皇の間に対立が生じました。摂関家においても、後白河天皇についた兄の藤原忠通と冷遇されていた弟の藤原頼長・父の藤原忠実の対立がありました。鳥羽上皇の死の直後、崇徳上皇は、次の院政をしくのは、自分であるという強い意思で藤原頼長や近臣として仕えていた武家の平忠正、源為義を招集しました。それに対して後白河天皇側は、摂関家からは藤原忠通、近臣として武家の源義朝、平清盛が参集しました。武装集団があつまれば、武力闘争がおきます。
 結果として少数派であった崇徳上皇側が敗れました。しかし、おもだった武家も戦死しておらず小競り合いでした。不幸にも藤原頼長が流れ矢にあたって死ぬことになった程度の戦闘でした。
 しかし、この1156年におきた保元の乱の処理は、平安時代の太平の世を覆すものでした。
 中央政争において武力が使われるのは、810年の薬子の乱以来、346年ぶりのことでした。この場合、敗者の平城上皇は処罰されていません。しかし、保元の乱では、崇徳上皇は、首謀者として讃岐(香川県)に流されました。天皇(上皇を含む)が流されるのは。764年に起きた藤原仲麻呂の乱に連座した淳仁天皇が淡路(淡路島)に流されて以来392年ぶりのことでした。
 また、武家の源為義、平忠正は、それぞれ勝者の長男源義朝、甥平清盛に斬首されます。
まだ、公式の刑罰ということではなく私的な刑ということでした。

  慈円[藤原忠通の子・1155年〜1225年]は、「愚管抄」で保元の乱のことを

「保元元年7月2日鳥羽院うせさせ給て後、日本国の乱逆と云うことはをこりて後、むさの世になりにけるなり」

と表現しました。「むさの世」を漢字に当てはめると「武者の世」となります。武者(武士)の武力によって天皇の継承争いが決着がつく時代とでも云い変えることができる世の到来です。鳥羽上皇が1156年7月2日になくなられ、9日後の11日の暁に保元の乱は勃発しました。
  672年の壬申の乱後に即位した天武天皇によって整えられた日本国の統治は、まずは高市皇子など天皇の皇子達が政権を担当しました。これを皇親政治といいます。高市皇子の子の長屋王が729年、藤原一族の陰謀によって失脚させられてからは、藤原氏による貴族政治の時代となりました。そして、保元の乱をきっかけとして「武者の世」となります。「武者の世」=「武士の世」です。1052年から末法の世が始まるとされていましたから、貴族達にとっては、正に血なまぐさい武士が政治の表舞台を左右する末法の世の象徴的な事件でした。

皇親政治(7世紀末〜729年)→貴族政治(729年〜1156年)→武士の世(1156年〜1867年)

 保元の乱の後、後白河上皇の院政(1158年〜79年、81年〜92年)が始まりますが、1159年平治の乱が勃発します。平治の乱の基本対立もまた、皇位争いにありました。院政をしく後白河上皇と親政をめざす二条天皇との争いです。平治の乱は、保元の乱の黒幕ともいえる後白河上皇の近臣として政権を担っていた藤原通憲(信西)が、同じく近臣である藤原信頼に排除される十二月九日事件に始まります。信頼に同調して、源義朝と嫡男の頼朝が藤原通憲(信西)を襲撃しました。信西は、逃亡しきれないことをさとり自殺しました。 十二月二十五・六日事件では、熊野詣でで十二月九日事件には関係のなかった平清盛が事件のキーマンとして活躍します。二条天皇を掌中にして、平清盛は、官軍として藤原信頼、源義朝、頼朝を破ります。源頼政は平清盛方につきました。平治の乱により後白河上皇は、藤原信西、藤原信頼という近臣を失い、二条天皇が1165年に亡くなるまで二条天皇の風下に立ちます。
 三位の公卿であった藤原信頼は斬首され、源氏の棟梁であった源義朝は謀殺され、六条河原に晒し首となります。刑罰としての死刑の執行です。源頼朝は、平清盛の義母の助命により伊豆に流されました。
 保元・平治の乱により武家の棟梁として並び立っていた源氏は勢力を失い、院の近臣の中で、平清盛が勝ち残って平氏政権へとつながってゆきます。

参考図書

○「院政とはなんだったのか」岡野友彦著(PHP新書 2013年)
 「「王家」とは何か
  ・・・
  もとより「王家」という用語は、けっして「近隣諸国」からの「外圧」や「近隣諸国」への配慮から使い始めたものでもなければ、ましてNHKが「うっかり」間違えたなどというものでもない。(※平成24年の大河ドラマ「平清盛」で「天皇家」のことを「王家」と表現したこと)「王家」という用語、それは「権門体制論」の提唱者である黒田俊雄氏が、昭和五十二年(1977年)、『現実のなかの歴史学』という著書のなかで、「王家― 一つの権門」という項を設けて使いはじめた学術用語であり、「一つの権門」というサブタイトルからも明白なとおり、中世の天皇家を、摂関家や将軍家、さらには大寺社などと並ぶ「一つの権門」として、相対化して捉えなおすための、きわめて戦略的な概念であった。そうした黒田氏の「戦略」について、最近、遠藤基郎氏は次のように指摘している(「院政期『王家』論という構え」『歴史評論』736号)

 まさに、「皇室」「天皇家」という用語によって組み上げられた従来の議論を脱構築する、極めてアクチュアルな戦略であった。「天皇家」ではなく「王家」と呼びつけることで、これによって、日本の特殊性に傾きがちな『天皇家』とう用語を否定し、あれやこれやの王家(もちろんそれらの中には断絶した王家も含まれる)のひとつとして論じることができる。天皇家を歴史的存在として認識し直すことで、その克服の方途を見いだす。そのような「風通しの良さ」をもたらしうる契機が、そこにはあった。現在の「王家」論の高まりは、このような黒田の戦略が実った証と言える。」(105頁)
※中世の天皇家を「王家と呼びつけることで、・・天皇家を歴史的存在として認識し直すことで、その克服の方途を見いだす」の意味は、天皇を廃止するための戦略的意図をもった概念であるという意味であり、天皇廃止をめざす黒田俊雄氏のマルクス主義史観に基づく。

○「天皇と中世武家」河内祥輔 新田一郎著(「天皇の歴史」04巻 講談社 2011年)
「院政とは何か
  天皇は譲位すると、太上天皇の称号になる。略して上皇といい、出家すると法皇という。太上天皇は「院」とも呼ばれ、「院政」の「院」とは太上天皇を指す。つまり、「院政」とは太上天皇の執政の意味であり、江戸時代の造語である。
  ほとんどすべての天皇に取って、皇位継承は最大の関心事である。天皇の多くは自分で皇位継承計画を立て、それを達成することに生涯をかけた。その目的に向かって、在位を長く続けることもあれば、譲位する場合もある。前者の例は桓武、醍醐、村上、円融、一条などの天皇であり、それぞれ皇位継承計画との絡みで在位が長期化した。
  一方、後者の例は光仁、平城、宇多、三条、そして後三条などの天皇であり、彼らは譲位を皇位継承計画を実現するための手段に使った。この場合、譲位は決して引退に繋がらない。依然として朝廷の中心に存在し、重要案件の処理に関わりを持ち続けることになる。そして、皇位継承計画をさらに推進する。これが「院政」である。
 天皇は、在位であろうと、譲位をしようと、天皇であることに変わりない。七〜八世紀に譲位が制度化されると、天皇は同時に幾人も存在するようになった。その中で、最も権威ある天皇が執政を担い、それを「治世」という。その権威は何に基づくかといえば、それは「正統(しょうとう)」の理念である。父が太上天皇、子が在位の天皇であれば、「正統」に目されるのは父であり、天皇の権威は父に集中するから、父の太上天皇が執政を担うのは当然のこととなる。
  このように、「院政」の根底にあるのは「正統」の理念である。「院政」は天皇制の本質そのものの現れであり、その意味では、「院政」は朝廷の正常なあり方といえよう。かかる見方からすれば、「院政」の起源は八世紀末の光仁の譲位にあるとみることができる。九世紀には平城や宇多の例があり、特に宇多は代表的である。そして、後三条・白河以降、「院政」は常態化したが、中世後期以降は断続的になり、江戸時代末期の光格天皇が最後の例となった。
 なお、在位の天皇が執政を担う場合は、「親政」と呼ばれる。それは「院政」を行うべき父が不在(死去・引退など)のときである。「院政」と「親政」は天皇の執政(「治世」)の二つの型であり、異質のものではない。」(26頁〜27頁)

○「武士の成長と院政」下向井龍彦著(「日本の歴史07」所収 講談社 2001年)
○「日本人のなかの武士と天皇」渡部昇一著(「『日本の歴史』第2巻 中世篇」所収 ワック 2010年)
○「院政」美川 圭著(中公新書 2006年)
○「保元の乱・平治の乱」河内祥輔著(吉川弘文館 2002年)

平成26年05月07日作成  第095話